3月15日に福島第一原子力発電所から大量の放射性物質が放出された当初は放射性ヨウ素と高い放射線量に注目が集まっていましたが、事故から5ヶ月が経ち、半減期の短いヨウ素による放射線量が落ち着くと、今度は半減期の長いセシウムさんに注目が集まってまいりました。
当Blogでも、事故当初から、事故後はあらゆる箇所で放射線量の測定が行われ混乱を招く状況は予想しておりましたが、事故から半年経っても収束する兆しがなかなか見えません。
混乱が収束しない主な理由としては、政府のもぐら叩き的な遅い対応もありますが、個人的には拡声器たるマスコミの影響も大きいと思います。
というより、日本のマスコミはその性質上、事態を収束させようという意思すら持っていないと感じられます。
本来、マスコミの社会貢献を考えると、マスコミは良識によって不見識やデマを駆逐することが重要な役割と私などは考えるのですが、マスコミは「今起きていることを如何に伝えるか」に執心しており、現状を伝えることが結果としての不見識を拡散することになっているとしか思えません。
「悪貨は良貨を駆逐する」ではないですが、人間社会を全体としてみると良識もまた不見識に駆逐されやすい性質を持っていると思います。
実に残念なことです。
★★★★★★
さて、マスコミ論は横に置くとして、そのマスコミによる報道(特にTV)を見ていて非常に気になる点があります。
以前からある問題なのですが、震災後また目立ってきていることです。
「送り火」で陸前高田市の松を使う使わない議論の中で、評論家や論説委員、大学教授に至るまでもが安易に口にする、あの言葉です。
(松に関わらず食品その他でも同様ですが)
(放射線量について)
「国が早く基準値を定めるべきです。」
こういう発言をする人々を信用することはできません。
なぜか?
科学的結論が得られていない中で、公的な基準値を定めることがどれだけ難しいことか、ある程度の知識がある人なら誰もが知っていることにも関わらず、あたかも答えがあることを前提に「国が決めるべき」と安易に発言するということは、何も考えていないということを明らかにする無責任発言だからです。
「国が決めるべき」という言葉は、自分には全く関係がないことだと思っているから出る言葉です。
結論の出ることではないからです。
結論がないのに「国が決めるべき」という発言をする意味は、「諸説が入り乱れており早急には結論は出ないので国にはコンセンサスを得る旗振り役を果たして欲しい。」という発想においてのみ説得力を持つと考えます。
答えがないのに決めろというのです。
単純に国家への丸投げ以外の何者でもありません。
自分には何も言えないので問題そのものを投げているだけです。
であれば、評論家なりコメンテーターなりの立場で「自分にはわかりません」と宣言した上で、どう考えるべきかをその場で議論して欲しいと思います。
そうすれば視聴者にも考える機会を提供できるでしょう。
成田山新勝寺の付近のある店主がこう言っていました。
(放射性物質が検出されたとしても送り火を断行すべきとする意見として)
「被災地の松からセシウムが多少出るとかの問題ではなく、これは自分たちの心の問題としてやるべき。」
この方はよくわかっていらっしゃる。
問題あるとか無いとかではなく、自分たちの責任においてやるべきだと言っているのです。
多少被害があっても自分たちの責任においてやるべきだと。
(被害があってもタバコや酒の被害以下だというのは周知の事実なのですが)
これぞ民主主義国家の国民の発言です。
民主主義国家にいは信仰の自由があるのです。
(参考:『科学と宗教と迷信が織り成すタペストリー 綺麗に織ったもの勝ち』)
そもそも基準値を決めるのが国であるべき必要性もありません。
民間企業の認定機関があってもよいと思います。
(それすら出てこないくらい基準を定めるのが難しいということですね)
当事者が専門家に依頼して独自基準を定めてもいい。
独自基準の乱立で国が標準化を行うという流れは自然ですが、日本国民は問題を先回りして国に標準化を依頼しているのでしょうか。
嘘ですねそれは。
単純に誰も信じていないからです。
でも国も信じてはいないのです。
誰も信じていないから実態のない「国」に投げるのです。
そもそも「誰も信じられない」という発想が間違いです。
「信頼」というのは自然発生的に生まれるものではなく、創るものだからです。
「信頼」を構築するというのは、「責任」をどう定義して、どう実現するかという話と同意なのです。
「責任」から逃げるから「信頼」も生まれず、誰も信じることができず最終的に国に投げるのです。
「お上」意識云々の前に無責任なだけです。
90年代のバブル崩壊による不況時も「国が」発言はよく見られました。
2000年代に入ってからの格差社会論の中でも「国が」発言はよく見られました。
2011年の今、震災後も相変わらず「国が」発言がよく見られます。
日本国民の無責任体質は少しも変わっていないようです。
当Blogでも、事故当初から、事故後はあらゆる箇所で放射線量の測定が行われ混乱を招く状況は予想しておりましたが、事故から半年経っても収束する兆しがなかなか見えません。
混乱が収束しない主な理由としては、政府のもぐら叩き的な遅い対応もありますが、個人的には拡声器たるマスコミの影響も大きいと思います。
というより、日本のマスコミはその性質上、事態を収束させようという意思すら持っていないと感じられます。
本来、マスコミの社会貢献を考えると、マスコミは良識によって不見識やデマを駆逐することが重要な役割と私などは考えるのですが、マスコミは「今起きていることを如何に伝えるか」に執心しており、現状を伝えることが結果としての不見識を拡散することになっているとしか思えません。
「悪貨は良貨を駆逐する」ではないですが、人間社会を全体としてみると良識もまた不見識に駆逐されやすい性質を持っていると思います。
実に残念なことです。
★★★★★★
さて、マスコミ論は横に置くとして、そのマスコミによる報道(特にTV)を見ていて非常に気になる点があります。
以前からある問題なのですが、震災後また目立ってきていることです。
「送り火」で陸前高田市の松を使う使わない議論の中で、評論家や論説委員、大学教授に至るまでもが安易に口にする、あの言葉です。
(松に関わらず食品その他でも同様ですが)
(放射線量について)
「国が早く基準値を定めるべきです。」
こういう発言をする人々を信用することはできません。
なぜか?
科学的結論が得られていない中で、公的な基準値を定めることがどれだけ難しいことか、ある程度の知識がある人なら誰もが知っていることにも関わらず、あたかも答えがあることを前提に「国が決めるべき」と安易に発言するということは、何も考えていないということを明らかにする無責任発言だからです。
「国が決めるべき」という言葉は、自分には全く関係がないことだと思っているから出る言葉です。
結論の出ることではないからです。
結論がないのに「国が決めるべき」という発言をする意味は、「諸説が入り乱れており早急には結論は出ないので国にはコンセンサスを得る旗振り役を果たして欲しい。」という発想においてのみ説得力を持つと考えます。
答えがないのに決めろというのです。
単純に国家への丸投げ以外の何者でもありません。
自分には何も言えないので問題そのものを投げているだけです。
であれば、評論家なりコメンテーターなりの立場で「自分にはわかりません」と宣言した上で、どう考えるべきかをその場で議論して欲しいと思います。
そうすれば視聴者にも考える機会を提供できるでしょう。
成田山新勝寺の付近のある店主がこう言っていました。
(放射性物質が検出されたとしても送り火を断行すべきとする意見として)
「被災地の松からセシウムが多少出るとかの問題ではなく、これは自分たちの心の問題としてやるべき。」
この方はよくわかっていらっしゃる。
問題あるとか無いとかではなく、自分たちの責任においてやるべきだと言っているのです。
多少被害があっても自分たちの責任においてやるべきだと。
(被害があってもタバコや酒の被害以下だというのは周知の事実なのですが)
これぞ民主主義国家の国民の発言です。
民主主義国家にいは信仰の自由があるのです。
(参考:『科学と宗教と迷信が織り成すタペストリー 綺麗に織ったもの勝ち』)
そもそも基準値を決めるのが国であるべき必要性もありません。
民間企業の認定機関があってもよいと思います。
(それすら出てこないくらい基準を定めるのが難しいということですね)
当事者が専門家に依頼して独自基準を定めてもいい。
独自基準の乱立で国が標準化を行うという流れは自然ですが、日本国民は問題を先回りして国に標準化を依頼しているのでしょうか。
嘘ですねそれは。
単純に誰も信じていないからです。
でも国も信じてはいないのです。
誰も信じていないから実態のない「国」に投げるのです。
そもそも「誰も信じられない」という発想が間違いです。
「信頼」というのは自然発生的に生まれるものではなく、創るものだからです。
「信頼」を構築するというのは、「責任」をどう定義して、どう実現するかという話と同意なのです。
「責任」から逃げるから「信頼」も生まれず、誰も信じることができず最終的に国に投げるのです。
「お上」意識云々の前に無責任なだけです。
90年代のバブル崩壊による不況時も「国が」発言はよく見られました。
2000年代に入ってからの格差社会論の中でも「国が」発言はよく見られました。
2011年の今、震災後も相変わらず「国が」発言がよく見られます。
日本国民の無責任体質は少しも変わっていないようです。