進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

科学と宗教と迷信が織り成すタペストリー 綺麗に織ったもの勝ち

2011-08-19 02:37:43 | 社会
五山送り日が「可哀想な結論」に終わった理由(城 武晋)
http://agora-web.jp/archives/1371653.html

同感です。
ことの経緯を詳しく知らなかったし、調べる気にもなれなかったので何も語りませんでしたが、全く同じ考えです。

★★★★★★

似たような話で「結婚式」と「葬式」は文化崩壊の集中砲火の前に総崩れ寸前ですな。

両者とも宗教的というより文化的な背景がビジネスを考える上では重要で、その文化が崩壊してるのだから、単純に考えて既存のビジネスは維持不能と思います。
ブライダルは以前から創意工夫をこらしていますが、やはり中間集団の崩壊でお披露目する対象がよりプライベートに寄って来ているので、流れは止められないなと思います。
日本では学校や家庭、地域での初等教育にかなりのコストを払って文化を熟成してきたわけですが、そのコストを誰も負担しなくなったわけで(負担するだけの価値を見出せないというのが本当のところなのかもしれませんが)、そうなれば必然的に文化を背景としてもつビジネスは崩壊してしまうのは仕方のないことです。
葬式もお経読むだけで何万円も取られることが馬鹿ばかしく思えてくるのは致し方ないですし。

ただね、経験してみればわかるのですが、結婚式(披露宴含む)や葬式、法事なんかもそうなんですが、これらの意味、効用っていうのは社会性なのですよ。
SNSのツールなんかで表現されているソーシャルグラフを一歩外に出る機会のようなもので、要は、社会人になるための通過儀礼みたいなものだったのですね。
仲も良くない親戚を招待しなきゃならないとか、上司にちょっと一言もらうとか、面倒な社会的マナーを覚えるとか、いろいろと頭の下がる想いして気づくこともあるわけです。
見えていなかった関係性とか。
精神的なコストは高いのですが、でもやってから気づく効用も実は結構あるものだったりもします。

面倒なことは避けたい。
でも避けたらその分得るものも減るよと。
そういったものをどう補完していけるか。
補完していく必要はあるのか。
そういったものを考えていく必要はあって、ソーシャル化っていう流れの中で、ソーシャルっていう言葉が人間関係を限定するツールとして使われなければいいなと思う今日この頃です。

私のようにもう深く考えることを放棄してしまった怠け者なんかは、もう科学と宗教の違いなんて気にしていなくて、どちらも素材なのかなと思っています。
(アカデミックな議論はもう・・)
素材をうまく使って人生なり社会なりについて、うまく織ったもの勝ちなのかなって。