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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[つぶやき] 男の悲哀

2010-06-16 12:37:44 | 社会
統計上は増加中! 強すぎる女房に立ち向かう方法(Reuters)
http://president.jp.reuters.com/article/2010/06/15/AFDF3564-71F2-11DF-93E1-98C13E99CD51.php


夫婦間のドメスティック・バイオレンス(DV)は、統計などを見ると圧倒的に夫から妻への暴力が多い。警察庁の調べ(2004年)では、DV被害の99%は女性で、男性の被害はわずかに1%しかない。


↑よく聞く話だ。しかし!!


しかし、興味深いのは東京都の調査(09年)だ。08年7~9月の3カ月間に、都のDV相談窓口に寄せられた電話相談を分析したところ、39.3%が妻からの暴力を訴えるものであったことが明らかになった。また内閣府の調査(06年)では、夫婦間の暴力があった場合、約53%の妻は専門機関など誰かに相談するのに対して、約84%の夫はまったく相談しないという。つまり、妻から暴力をふるわれる夫は潜在的に多いと考えられるのだ。


↑DV被害の4割が夫!!
驚愕の事実、いや、実際そんなものなんじゃないかという気がする。
うん、時間が経てば経つほど納得してきた。


男性の場合、そもそも夫婦間の問題を第三者に相談するのが恥ずかしい、世間体が悪いという理由から、一人で耐えてしまう場合が多い。ところが、それは妻からの暴力をエスカレートさせてしまいかねない。


なんでも同じだが、統計調査をそのまま信じるとだめだ。
基準は視点によって変るし、潜在的な値まで考えなければならない。
人間は数字に弱いからな・・その本質的な意味を理解できないから、解釈を鵜呑みにしてしまう。


また、妻から暴行を受け、これを避けようと妻の腕をたまたま強く握ったにすぎないのに、逆に妻から暴行や傷害で警察に被害申告された例もある。身を守るためにやった行為が、刑事罰の対象にされてしまったのだから、当人は踏んだり蹴ったりだ。


かわいそうに・・男の人生はそもそも哀愁で舗装されているのかもしれない。

[責任シリーズ][01] これからの「責任」について話をしよう 導入

2010-06-03 10:16:45 | 社会
昨日、『これからの「責任」について話をしよう Part-1』を書いた。
当Blogでは「責任」という言葉を深堀りすることで、今日本を覆っている不信の嵐が何なのかという点について一つの問題提起を行おうとしている。
ハーバード白熱教室みたいに「道徳」や「契約」と行ったことを取り扱った方が議論は深みを帯びるかもしれないが、そういう言葉は一般ウケしないし、しばしば自分とは関係のないことと思われがちだ。

そこで、私は、「責任」という言葉を用いたい。
我々がいつも、例えば政治家とか、夫とか、親とか、商談相手とかに使うあのフレーズだ。

我々は至るところで誰かに向かってこういう。
「責任をとれ」
「あなたには責任があるだろう」
と。

しかし、この「責任」とは何だろうか。
我々は、一体この「責任」という言葉をどういう意味で使っているのだろう。
そして、この「責任」という言葉には、なんらかの有効性のある意味が込められているのだろうか?
また、「責任」という言葉には、どのような拘束力があるのだろうか。

我々は、「責任」について、どう考えるべきで、今後どう使っていくべきなのか。
そういうことをここでは議論したい。

ただ、普通「責任」という言葉を持ち出す場合、必然的に「自由」という言葉や「権利」といった概念にも追求していかざるを得ないが、ここでは極簡単に、誰にでも理解できる形で話を進めたいと思う。
また、ここで述べる「責任」とは、「法的な責任」や「政治的な責任」といった個別の概念や制度のことではない。
我々は「責任」について、どう考えるべきで、どう使っていくべきなのか、という「目的論的」な捉え方をしていく。

これからの「責任」について話をしよう Part-1

2010-06-02 17:00:15 | 社会
がっつり真剣に話がしたいわけではないです(笑)

地球上に人間として生まれると、ほぼ間違いなく何がしかのコミュニティに組み込まれる。
人間はある年齢に到達するまで一人で生きていくことはできない。
誰かに(狼かもしれないが)自立支援をしてもらわねばならない。
また、人間は子供を作るのに、異性と出会わなければならない。
種として生き残っていくためには、絶えず誰かと出会う必要がある。
(生き残っていくためにというより、生き残らないのならこの話をする必要はない)

人間は、人間としてあるために、明らかに誰かに依存していかなければならない。
ロンリーウルフのような生き方も可能だが、それは個として許されるのであって、全体として依存関係を断ち切ることができるわけではない。
断ち切れば人間というものはなくなるからだ。

「人間は社会的な生き物である」というような言葉もある。

人間は総体としてコミュニティに貼り付けられた存在だ。
そして、多くの場合、そのコミュニティには、道徳や規範、規則といったものが存在する。
コミュニティというものが生まれると、コミュニティを維持していく必要性が生じるからだ。
コミュニティには目的があるからだ。
それは自覚的かもしれないし、無自覚的かもしれないが、コミュニティには目的がある。
逆から言った方が正しいだろう。
目的のためにコミュニティはできる。

だが、その目的に基づいて必要性もまた生まれる。


ここで少し説明しておこう。
必要性が生じないところには、価値も規則も道徳も生まれない。
「必要とすること」から全ての価値は生まれてくる。

あなたが経済的に豊かになりたいのは、貨幣で交換できる何かに価値を見出しているからだし、それは、あなたがその何かを欲しているからだ。
もし、あなたがその何かを欲しないのであれば、あなたは経済的に豊かになることを望まないかもしれない。

あなたがオシャレな服装をしたがるのは、その姿を誰かに、自分かもしれないが評価されることを欲するからだ。
もし、誰も服装に関心を示さないなら、あなたはオシャレをすることに価値を見出さない。

あなたが、少し野蛮な考え方かもしれないが、あなたが付き合い始めの彼氏/彼女のために、少し高給なアクセサリーをプレゼントしようとするのは、あなたが彼氏/彼女から何かを引き出したいからだし、それは彼氏/彼女がアクセサリーを必要としている、という前提に立っている。
もし、彼氏/彼女がアクセサリーに興味を示さない人だと事前にわかっているなら、あなたはアクセサリーをプレゼントしたりはしない。

キリがないので、もう一つ例を挙げてこの説明を終えよう。

もし、仮に、あなたが生きていないのだとしたら、あなたは生きていくための努力をする必要がない。
もちろん、世の中には様々な人がいるので、あえて生きていくための努力を断る人もいるだろう。
しかし、多くの人々は、生きていく努力を、一生懸命行う。
こんなに物質的に豊かな日本という国にいても、死ぬまで食べていけるのかを気にしている人は大勢いる。
あなたは、食べないと生きていけないから、食べていけるということに価値を見出す。
あなたは、最低限でも、この食べていけることに努力をする。
それが、生きていくのに必要だからだ。
しかし、もし、あなたが生きていく必要がなければ、食べていけることに価値を見出さないだろう。


ここで、先の話に戻ろう。

ここまでで、必要性のあるところに価値は見出されるという説明をした。
そして、その必要性は目的ができると、それと同時に生まれるということも先に話した。

まとめれば、こういうことだ。
生きるということを目的としなければ、食べる必要性は生まれない。

コミュニティには目的がある。
そして、人間は生まれながらにしてコミュニティに組み込まれている。
つまり、人間は、守らなければならないものを、人間として生まれたがゆえに背負う。

この考えは、我々に非常に重要な示唆を与えてくれる。

次回は、「守らなければならないもの」をどうやって守るのか
という点について述べようと思う。

[虐待] 経済的困窮は理由にならない

2010-05-22 08:27:49 | 社会
生活苦と夫婦の不仲で“鬼父・鬼母”が急増!?
過去最多の児童虐待の裏に潜む悲しすぎる事情(Diamond Online)
http://diamond.jp/articles/-/8193

経済的困窮が虐待の理由なら、昔の日本には虐待しかなかったことになる。

違うのだ。
当Blogで繰り返すように、「個人」と「社会」の断絶が起きているのだ。

しかも、日本の場合「個人」と「社会」がないから、その断絶度が深刻だ。
「個人」と「社会」のないところに、「個人」と「社会」が前提となっている仕組みを前提とする社会システムが普及した。
しかし、「個人」と「社会」が前提となっている仕組みがないから、日本人と社会システムとの間に軋轢ができる。
そんな社会の中で「社会が悪い」と叫ぶ極端な人々が出てきても仕方がない。
彼らは社会の恩恵を感じることができずに生まれ、育ち、生きてきたのだから。
「一部の人々にのみ有利な社会なのではないか?」そう考えるのは自然の成り行きだ。
だから、国家のマクロ政策を語るにあたって、哲学的要素とまではいかないが、社会学的な要素を考慮しなければ、誰が話を聞いてくれようか。

「経済的困窮者を手助けする」みたいな発想では、この問題を解決することはできない。
もぐら叩きになるだけだ。
日本の社会的な構造的問題について深掘りしていかなければならない。

新しい日本への道

2010-05-11 19:00:48 | 社会
「海外ニート」というハンドルネームは以前から様々なところで引用されていたので知ってはいたが、ブログを読んだことはなかった。
ひょんなことから彼のブログを読んだのだが、、面白い!
彼の表現はキツイかもしれないが、内容は鋭く本質的だ。
日本的労働慣習に対して、しっかりと要所を突いている。
私は違和感なく読めるし、多くの場合に同調する主張が多い。
話が合うんじゃないかと思いさえする。

ニートの海外就職日記
http://kusoshigoto.blog121.fc2.com/

確かに、彼の主張は偏っているし、長所短所を明らかにした主張ではないから、一方の側からの一方的な見方という批判は可能だろう。
だが、私は彼の意見が非常に有用だと思う。
それは、勝手ではあるが、彼と私の思考の共通性に理由があると考えている。

その共通性とは、私自身、小さい頃からずっと今日に至るまで向き合ってきたテーマでもある。
それは「正義の押付け」、そして、特に日本人の場合に見られる特殊性である「場の親密性の共有を強要する(空気を読むことを強要される)こと」への疑念であろう。

「正義の押付け」はどこにでも見られる行為であるし、それが無条件で悪いというつもりは毛頭ない。
教育だって正義の押付けだし、極論すれば全てが押付けであるからだ。
しかし、正義の押付けは常に偽善との裏表の関係にあることを忘れてはならない。

前回のエントリ「なぜ天使は堕落せねばならなかったか」で少し述べたが、善悪を定義しようとする行為は、同時に偽善を生み出す。
それは、不完全である人間が完全なる善を生み出せないことに由来する。
(人間が不完全かどうかは、機会を改めて説明しよう。ここれでは不完全ということにして欲しい)
不完全な善は、必ず善ではないものを生み出す。
「これが正しい」と言えば、必ずその正しさから漏れるものもある。
「これ」で全てを表現することができないからだ。


だから、これはよく言うのだが、正義というのは自分の外に向かって振りかざすものではなく、自らのふるまいを律するために、自分に振りかざすものなのだ。
前に書いたエントリ「利他とは自己利益のことなり」を参照して欲しい。

繰返すが、私は正義を悪くいうつもりはない。
しかし、正義という相対価値を使っているのだという認識を持つことは重要である。
でなければ、あなたは正義という怪物に食い殺されるだろう。

さて、海外ニート氏が特に問題視するのは、「正義」というよりも、日本人の姿勢に強く出る特徴である「場の親密性の共有の強要」の方であろう。
当Blogで述べ続けて来たことだが、日本人はその歴史的背景から、場の親密性を重んじる人々である。
いわゆる空気のことで、いい例は聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の文化である。
この文化は、問題の解決というより、調整力に非常に秀でている。
「玉虫色の解決」が大得意なのだ。

考えて欲しい「和をもって尊しとなす」ためにはどうすればよいか。
全ての人の利害を合理的に解決することは難しい。
参加者が多くなればなるほど、変数は多くなり、また高度・複雑化する。
人間が容易に解けるレベルを超えていることはよくあることだ。
その場合、どうするか。
「問題をおさめる」のである。
利害調整というのは、問題を解決することだけがゴールではない。
「三方一両損」のような解決を見出すことは理想ではあるものの、問題を先送りすることや、問題をなかったことにすることも一つの方法論として有りなのだ。
「問題を先送り」できることは、ある意味ですばらしいことである。
問題が解決できなければ、その場に留まるしかない時に、非常に有効である場合もあるのだ。
臭いものに蓋をしたい気持ちは誰もが持ったことがあるだろう。

しかし、この文化は良い面ばかりではない。
もちろん、良い面があればこそ、日本人はこの方法論を採用し続けてきたのだが、グローバル化が否応なしに変化をもたらしており、悪い面が際立ってきている。

そもそも、問題を先送りしたり、問題をなかったことにしたりするために、何が必要であろうか。
それは「個人の犠牲」である。
問題が解決されずに困る人々が黙っていなければ、問題の先送りはできない。
個人が個人の権利など主張し始めたら、玉虫色の解決など見出せなくなってしまう。

だから、古来より日本には「個人」というものが存在していなかった。
「和」があるのみである。
「和」に「個人」は溶け込んでおり、「和」と「個人」の境界は曖昧なのだ。
日本において「個人」を定義するような思想は危険思想だったのだ。

これは、よく考えて欲しい。
面白いことがわかるだろう。
日本では、「私」を捨てることを賞賛するような文化が存在する。
これは、人間が利害を超える姿を賞賛しているのではない。
例えば、前回のエントリでも述べた「悟り」。
「滅私」は最上の喜びである。
他にも「侍魂」。
侍は合理を嫌うのである。
だから不合理な理由で切腹を命じられても応じるのだ。

日本で育まれた文化、宗教も含めて、そのほとんどが「個人」を尊重していない。
もちろん、中には、個人の幸福を指向するものもあったが、本流にはなれなかった。
支配者層がそれを嫌ったからだし、民衆も求めはしなかった。
日本では個人の権利を主張して支配層に上り詰めた歴史上の人物はいない。
(豊臣秀吉が一番近いかもしれない)
大陸の歴史を見て欲しい。
例えばナポレオンだ。
彼がなぜ強かったか。
個人の利益を主張したからだ。
民衆が彼に味方したのだ。

では、なぜ日本ではそれが起きなかったのか。
もちろん民衆の放棄は幾つもあっただろう。
しかし、その放棄が革命にいたった試しはない。
長い間、外敵からの侵略がなく平和だったことと、近くに強大な中華帝国が存在したことが原因だろう。
徹底的に日本全体が飢餓状態になることや貧困状態におかれたことがない上、かつ天皇が国家神道のもとに「現人神」になるまで、自分達が正しいということを過信する必要がなかったことに尽きる。
決して日本人が優れているわけでも精神性が高いわけでもない。
歴史的連続性から熟成度は高いといえるかもしれないが、デメリットよりもメリットが上回っていたから、それが一番の理由だ。

ちょっと話がそれてしまったので戻そう。
海外ニート氏の主張に私が同意するのは、日本に特徴的に見られる文化である「場の親密性の共有の強要」は「個人の犠牲」をもとにしたものであり、そのメリットが薄れてきているのであれば、その文化をもとにした生活や商慣習を見直そうという意味で、問題意識を一にするからである。

いつもいうように、日本には「社会」と「個人」が輸入され、我々は無自覚的にそれらと並存している。
私は、我々日本人が抱く現代社会への違和感の多くは、実はこのことによって説明できると考えている。
日本人が古来より熟成してきた文化と、新しい社会的仕組みとの間に歪みが生じていることに、我々はさほど気づいていない。

我々はどうやったら、この壁を乗越えられるのであろうか。
前回のエントリ「なぜ天使は堕落せねばならなかったか」を参考に今後語っていきたいと思う。

「仕事」も「家族」も価値観として大差ない 補足

2010-04-27 19:10:19 | 社会
前回のエントリがわかりにくかったので、ちょっと補足説明する。

「仕事」も「家族」も価値観として大差ない

私が問題提起したかったのは、「仕事」で多くの人の幸せに関与している場合、それが「仕事優先によって人生を犠牲にしている」かのように言えるのか、また「家族」不和によって苦労している人にとって「家族優先によって人生を豊かに生きている」かのように言えるのか、などなど、考えたらキリがないが、そうは言えないケースも多々あるだろうと言いたかったのだ。

つまりは、人生を豊かにより豊かに生きるために「仕事」か「家族」かなんて問いは何ら有意でないし、(前回のエントリでリンクを張った)池田信夫氏が指摘するように、日本人にとって長らく「会社」が「中間集団」として機能したというだけで、「家族」が正しい「中間集団」というわけではない。

これは極端な例だが、例えばマザーテレサに仕事はほどほどにとか言えるのか?
何ゆえ会社に滅私奉公するのはよくなくて、家族に滅私奉公するのはよいのか。
会社は裏切るからか?
では家族は裏切らないのか?

無理に何らかの価値観にロックインすることはない。
「家族」に多くを求めてはいけない。
日本では「家族」に力がないことが証明されているといってもいい。
「家族」に頼ることはできないのだ。

そんな小さな共同体にロックインしてしまうことはない。

「仕事」も「家族」も価値観として大差ない

2010-04-27 15:31:32 | 社会
このエントリは苦しい・・途中で書く気力を失ったので後半が・・

日本人を苦しめる「仕事は家族より優先」という異常な発想 (Rails で行こう!)
http://d.hatena.ne.jp/elm200/20100426/1272289840

これもまた一側面ということですが、私なんかからするとちょっと違和感を感じます。

日本の経済成長が鈍化し、そして将来的にも向上する見込みがなくなると、日本のビジネス界には閉塞感が蔓延するようになりました。
そんな中、日本人の意識もずいぶんと変わってきているようです。
従来、生活水準の向上が人間に幸福をもたらしてくれるものだと思われていましたが、実はそうではないと今では多くの人が疑問を持ち、そして幸福をもたらしてくれる何かを模索し続けています。
その代表的テーマが「仕事より家族が大切なのか、家族より仕事が大切なのか」です。
しかし、私には、この命題が有意なものになるとは到底思えません。
「家族が自分に幸福をもたらしてくれる」という発想すら疑わしいと思うからです。

※ここでは「家族」を血縁的構造ということにしておきます。

これは実に不思議なのですが(考えれば不思議でもないけれど皮肉として)、なぜか人間が幸せになるための構成単位(あたかも必要十分条件)として「家族」を挙げる方が多いようです。
特に、人間の幸福について自説をお持ちの方に多い気がします。
が、私のような悲観的家族観を持つ人間は、この考えに非常に違和感を感じます。
というのも、私は「家族」というものそれ自体が幸福をもたらしてくれることは、まず有り得ないと考えるからです。
(これは普段から自分の家族と話し合う内容でもあるのですけれどね)

私がそう思うようになったキッカケは、自分の人生経験に由来しています。
私は物心ついてから、自分が自立するまでの間に、家族的幸福を感じたことがほとんどありません。
「幸福」というものは相対価値ですので、当然ながら、比較する生活なしに、その生活が幸せか不幸かを評価できるわけがないからです。
私にとっての家族的幸福とは、いつも後付け的なものでした。
「子を持って知る親の恩」という言葉は、後付けの説明として非常にわかりやすいと思います。
それに私は、親元で生活している間、自分の人生に不満しか持っていませんでした。
親兄弟に満足したこともありませんし、自分の利益になる場合にだけ、家族に対する感謝を感じていました。

思いつきかつ私事で申し訳ありませんが、自分の経験談を踏まえて自説を述べたいと思います。

私は父親の実家に祖父母と生活を供にしていました。
旧来の日本的家族にはよく見られた嫁姑問題もありましたし、私が中学生になると祖母が脳梗塞で倒れた後に痴呆症になったため、介護問題も経験しました。
父の兄弟には勘当された人もおりましたし、また異母兄弟的な問題も親世代にありまして、何かと問題の多い家族であった(旧日本的家族にはよく見られた光景)ではありました。
家計はその地域の平均よりも少し低い程度だったのではないかと思います。
また、私は誕生日やクリスマスにプレゼントをもらった記憶も、お年玉ももらった記憶もほとんどありませんし、服はいつもお下がりでした。
兄弟も多かったので、自分の部屋なんてものもありませんでしたので、家の中にプライベート空間など存在しませんでした。
当時、日本にはそういう家族も多く存在したろうから、私は、それが特別だとは全く思いませんでしたが、自分が幸せだとも思っていませんでした。
「貧しかったけれど心は豊かだったあの時代」的なことを大先輩達はおっしゃるのですが、私は大人になり親になった今でもそんなことは少しも思いません。
私には「心の貧しかった時代」としか思われません。

それにしても、痴呆の介護はかなり家族にとって精神的に苦痛を担うものでした。
毎日、家の中には怒号が響きます。
これがかなりストレスフルなのです。
受験勉強に勤しんでいる時もです。
私は自分がノイローゼになるかと思いました。
人間同士として理解し合えない人が家の中にいるわけですから、頭が固くなってしまった大人達からすれば、一方通行のコミュニケーションしか許されない痴呆老人は怒りを増幅してしまう存在です。
どんどん家族内不和が広がっていきました。
タダでさえ私の両親と祖父母とはうまくいっていなかったのに、それが更に悪化し、その上、私の親にも離婚の危機が訪れます。
もうだめだなと思いました。
ただでさえ、好きでなかった家族が大嫌いになりました。
今の生活ですら破綻しているのに、若い自分には明るい未来を考えることができませんでした。

当時の私には夢も希望もありません。(だから今でも若者に「夢を持て」などという人を疑いの目をもってみてしまう)
そんなものを持つのは贅沢だったのです。
未来なんてどうでもいいのです。
だって、自分にとっての人生とは、生まれてから"そんなもの"なのだから。
人生に価値があるなんて思っていないのです。
子供が自然状態で自分の可能性に覚醒するなんてことは有り得ません。
後天的な社会的教育効果なくして、社会的な将来像など思い浮かべるはずもないのです。
なぜなら、社会が人工のものだからです。
そうです。私にとっては、自分の人生すらどうでもよかったのです。
別に失うものもありませんでしたから、死んでも構わないと思っていましたし、どうせ死ぬならこのくだらない世の中を変えてやろうという危険思想に傾倒していきます。
間違っているのは自分ではなく社会の方だと真剣に考えていました。

当時、新興宗教団体の問題がクローズアップされていました。
社会的に閉塞感が立ち込め始め、多くの人が幸せを求めてさまよっていた時期です。
私は閃きました。
私が人生をかけるべきはまず精神革命だと。(なにやら昔よく聞いた話ですね)
高校生の時に私は家出をしました。
いわゆるグレですね。(私は賢いグレだと考えていますが)
将来的に有望そうな若者をスカウトして、自前で怪しい団体を組織しました。
チームみたいなものです。
代表は私と共同代表のもう1人です。

いつものことですが、ちょっと脱線してしまったので話を少し戻します。
(ついつい語りたくなってくるのは歳のせいでしょうきっと)
私にとって血縁による「家族」なんてものは単なる貧しかった時代の生活を構成する単位でしかなく、そこに思い入れはあれど、自然状態での絶対価値など認められないものです。
血のつながりが人間関係や幸福とに根本的な相関関係があるなら、人間社会で最も殺人事件が起きる現場が家庭であるはずがありません。
私には、「家族」に幸せを求めることは、「会社」に幸せを求めることとなんら大差ないように見えます。
たとえ生物学的に、遺伝子の優位性を支持する学説があったとしても、そんなものが与える影響は社会的影響に比べて誤差みたいなものだと私は考えたいです。
「生みの親より、育ての親」という言葉を支持したいと思います。

絆とは、血によって結ばれるものでは決してありません。
「人間」という言葉が「人と人の間」と書くが如く、人は人との関係性の中に意味を見出す生き物です。
「家族」も「血縁」も一つの関係性に過ぎず、人生の意味を規定できるほど強いものではありません。
現に社会によっては子育てを家族で行う必然性はなく、人生になければならないものではないのです。
「家族」の喪失は「心のふるさと」の喪失を意味しません。
何度もいいますが、家族なんてものは幸福の必須要件ではありません。
我々は「家族」や「血縁」よりももっと強い関係性を見出すことは可能です。
いや、可能でなければなりません。
もし不可能なら人類は絶望する他ありません。
もしそうなら、人類が存在する時点で「家族」という不幸が宿命付けられているからです。
社会の構成単位が家族しかありえないのだとしたら、その時点で社会的不幸が埋め込まれてしまいます。
そんな自ら死地に赴くような馬鹿みたいなことをしてはなりません。

と、何か観念的というか希望的というか、単なる意見的なものになってしまったのですが、きっと今とても体調が悪いことに起因して全く筆が進まないことと関係があると思います。
ただ、ここでの要点は「家族」なるワードや構造にこだわる必要はない。
それは絶対的価値観などではなく、単なる人類の長い歴史の中の一幕に過ぎないと言いたいのです。

などと考えいていたら、池田信夫氏が非常によいエントリを書かれていたので紹介します。

新たな「アゴラ」は見出せるか - 『〈私〉時代のデモクラシー』(池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/991626.html


古代ギリシャでは、ポリスの公的領域であるエクレシアと家庭の私的領域であるオイコスの間に、公的でも私的でもない「広場」としてアゴラがあった。これは現代風にいえば中間集団だが、現在の「後期近代」とよばれる時代の特徴は、こうした中間集団が崩壊し、社会が国家と<私>の二極に分解しつつあることだ。

トクヴィルは、アメリカでは孤独な<私>を結びつける教会や結社などの人工的な中間集団をつくる努力が意識的に行なわれていることを見出した。

[中略]

1980年代に社会主義が崩壊する一方、福祉国家が財政的に破綻し、「小さな政府」に向かう後期近代に入った。これにともなう社会の<私>への分解を批判したのがコミュニタリアニズムである。他方、日本では、伝統的な共同体が会社に横滑りする形で近代化が進行したため、公的な福祉支出は小さく、会社が個人を守り、彼らの人生に意味を与える役割を果たしていた。

この擬似近代化は経済的には成功したが、そこには<私たち>のデモクラシーがないため、90年代以降の長期不況で会社共同体が崩壊すると、人々は所得だけではなく人生の意味を見失い、自殺が激増した。

[中略]

自民党政権の崩壊は、この意味では歴史の必然というより遅すぎたのだが、それに代わって登場した民主党政権は、こうした変化をまったく理解せず、前期近代の遺物にすぎない社民的イデオロギーや労働組合に依拠して所得移転を行なおうとして政策が破綻してしまった。この閉塞状況を脱却するには、会社への幻想を捨て、<私>が新たに集まるアゴラを創造するしかない。

しかし、もともと人工的な中間集団の伝統がない日本では、NPOなどの「新しい公共」はお遊びにしかならない。ネット上の言論が出発点になるかもしれないが、新たなアゴラの形成は、はるかな未来の希望にとどまる。本書もこうした問題を指摘しているだけで、新たなアゴラを示しているわけではないが、それを批判するのは酷だろう。そんな答を見出した人は、まだ世界のどこにもいないのだから。

今の日本に社会的問題を解決できるはずがない

2010-04-22 19:45:42 | 社会
近頃問題視される案件に「世代間格差」がある。
確かに日本の富は高齢者に偏っている。
若者は所得も低く資産もない、その上、将来的に所得が向上する見通しはない。
今、最もマネーを必要としている人々にマネーが回らず、消費性向の低い高齢者がマネーを滞留させている。
このアンバランスを是正するための案として、資産に対する課税、相続・贈与税の低減などが提案されている。

ご指摘ごもっともであるが、しかし、そのような施策で、このアンバランスが解決するとは私には到底思えない。
そもそも、この世代間格差問題をアンバランスとして考えること自体が、少なくても当事者(高齢者)にとっては「椅子取りゲーム」にしか思えず、不信を生み出すだけだからだ。
説明は後述するが、この問題を解決するにあたって最も重要なことは「信頼」である。
マネーが市場を通じて循環するために基本的に必要なものが「信頼」であるからだ。
不信が生まれては、解決から遠のくだけだ。

「世代間格差」問題を「富のアンバランス」の問題として捉えてはならない。
この問題は、国家が真なる意味で市民を国民として統合できるか否かという、国家の基本的問題なのである。
日本で国家間が語られることは少ない(一部の過激系の人達は語っているけれど)が、「国家」が今、その存在意義を問われているのだ。

まず、基本的なところに立ち返ってこの問題を考えてみよう。
高齢者は、なぜ日本の富のほとんどを所有していながら、それを消費しようとしないのか。

答えは簡単である。
今持っている富では、自分が安心して暮らしていくには不十分だと考えているからだ。

日本人が、どの程度の生活水準をどの程度の期間だけ維持していかなければならないか、そのためにどの程度の富を必要とするのか、という問いに明確に答えられるわけではない。
だが、生活水準をさほど落とすことなく人生を全うするためには、相当の富が必要である、という認識だけは共有されている。
その生活水準や額について、明確な指針があるわけではないし、その生活水準を維持したからといって幸福が約束されているわけでもない。
ただ、いざという時に誰かが自分を助けてくれるという保証はないし、誰かに迷惑をかけて生きていくのも自尊心が許さないし、最後まで自立して生きていくことを人間の生き様として善しとするなら、そのためにはやはり先立つものが必要だと思うのは自然のことである。

ここで「あなた達が富を独占しているから若者達は飢えている」と言われても、自分はモノもなかった若い時から、それなりに努力をして、時にはそれこそ社会保障なんてない時代から砂を噛む想いもしながら得た労働の対価として、今の富を手に入れたつもりだから、それを無償で分け与えろというのは都合のいい話だと思うだろう。
自分達は前の世代を世話してきたし、モノも何もない時代からここまで日本が発展できたことの一因として自分達の貢献があるのだから、それなりの境遇は用意されるべきだとも思うだろう。
リバタリアニズムの見地から言っても、労働の対価を搾取するのは奴隷制に等しい。
どうして自分達が、働かない若者の奴隷として搾取されなければならないのかとも思うだろう。
そりゃ、誰かの役には立ちたいし、社会的貢献もしたい。
ある程度の自己犠牲があっても自分がこれまでの人生で得た知識や技術を社会に還元したい気持ちもあるだろう。
だけれども、自分だけが貧乏くじを引くことを恐れているのも確かだ。

高齢者は自分達が社会的に弱者だと考えているし、若者は自分達が社会的弱者だと考えている。
何が問題なのだろうか。

私はこう考えている。

我々、日本人は「社会的弱者が何か」という問題にすら答えられない、いや、答えようとしてこなかったのだ。
絶対的、相対的に関わらず貧困率を調査するしないなどという話のその前に、我々は貧困と社会的弱者の区別ですらわかっていない。
我々は、社会に関する価値観について、何ら共有していない。
社会なんてものを知らなかったからだ。
社会的弱者という場合に、まず社会がわかっていないのだから、弱者もわかるはずがない。

国家が何らかの役割を果たすべきであろうという議論の中で出てくる社会的弱者のイメージも全く共有されていない。
各々が好き勝手にそれぞれのイメージを述べているに終始し、それを主義思想の違いなどといって自ら迷宮に入り込むのだ。

日本人は「国家」というもの自ら作り上げたつもりもないし、それがどういうものかもわかっていない。
いや、わかっていなければならないわけではない。
自生的に発生する国家もある。
しかし、自分達が国家というものについて「わかっていない」ということを、日本人はわかっていない。
社会についても同様だ。


・・・いいところなのだが、時間がないので続きはまた今度。

[家族] 「虐待」から日本を考えるシリーズ 初め

2010-04-15 20:14:28 | 社会
何を観察するとしても、「視点」が非常に重要だ。
我々人間は限られた情報の中で評価をするなり判断をするなりしているが、得られる情報は「視点」によって大きく変るからである。
人間界に見られる「意見の違い」は、「視点の違い」からくることがほとんどかもしれない。
それほどまでに「視点」は重要なのである。

もう一歩話を進めると、その「視点」は「信念」によってつくられる。
「信念」の違いが「視点」に与える影響は大きい。
「信仰」の違いは地球上にある大きな問題の一つだ。

見ているもの、聞いているもの、考えているもの、そして信じているもの、これは宇宙の全てではない。
あくまでも、ある「視点」からみえる限られた情報の下での評価なのである。
人間の五感という入力器官を絶対視している人もいるかもしれないが、人間が五感から得られる情報はあまりに少なく小さい。
この宇宙にある情報の、ほんの、極めてわずかなものしか、我々は入力として認識することしかできない。
この宇宙には、あなたが見ていないもの、聞いていないもの、考えていないもの、信じていないもの、これらの方が圧倒的に多いのだ。

何かをみるときや考えるときには、決して、このことを忘れてはならない。


さて、当Blogでは、様々な物事を考えるにあたって「視点」を重要視している。
当Blogのコアコンピタンスは「スピリチュアル」であろう。(登場回数は少ないが)
それに続くものとして「恋愛」「結婚」などを提案してきた。(これも登場回数が少ない)
人間がつくる社会を語るにあたって、人生を大きく左右する「恋愛」は外せないと考えるからだ。

そして、今日ここにまた新たな「視点」を用意することにする。
「家族」そして「虐待」である。

社会や世相を表す指標は数多く提唱されている。
特に最近の日本では「自殺」や「無縁」などがそれにあたるであろう。
それも重要な視点である。
だが、私は「虐待」というワードに一際注目している。

現在、日本では年間4万件の児童虐待と、50件程度の虐待が理由による死亡が報告されているという。
これまでは表に出てこなかったこともあるだろうが、少子化にも関わらず増加傾向だ。
私が思うに、報告されていない件や準虐待なども含めれるとこの30倍のスケールはあると考えている。
(根拠はないが、自分の経験則とハインリッヒの法則「1つの大事件の裏には30の小事件がある」を参考にしている)
つまり、年間120万件程度の虐待が起きていると考える。
そして、これが社会に与える影響は計り知れないほど大きい。

なぜそう考えるのかを説明する。
虐待が子供に与える影響は、大人が考える以上に、根深くて大きい。
虐待を経た人間の精神はある意味で病む。
劣悪な環境が、幸福への精神構造を複雑化するのだ。
人間は、自分の裁量が極めて限られた環境下で虐げられると、自己アイデンティティを保つために、様々な試行錯誤を行う。
重度な場合には、多重人格や精神分裂症などもこの流れの中で起きるが、そこに至らぬ場合においても、何がしかの重大な影響を精神に受ける。
結果として、短絡的、悲観的、他者への負の連鎖(他者の幸福の拒絶)、これらを生むのである。
人類の歴史的に見ても、虐げられている民族の中には救世主願望が生まれたり、排他主義的な思想が蔓延したりする。
そして、この問題の最も深刻な点は、本人にその自覚がないことである。

精神を病むことの最大の問題は、その症状に本人が気づかないところである。

「信念」の段階で刷り込まれた「視点」と、その視点から見える「世界」を事後的に変更するためには、信念を変えることによってしか変えることはできない。
これは、並大抵の努力では成し遂げることができないことである。

児童虐待は、その人の人格形成に社会的に見て大きな負の影響を与える。
そして、その負は連鎖する。
そして、その影響を取り除くのは至難の業なのである。

「虐待」を新たなテーマに据えるといっても、虐待を無くすことがそのまま社会の構造を変革することに繋がるかというとそうは考えていない。
そうではなくて、社会の軋みは、社会の最も弱いところに表れると考えるからこそ、虐待というテーマに意味がある。
この我々が置かれている社会の軋みが、末端の家族の、さらにその末端の個人の、その子供のところに表れる。
日本社会は、これまで「家族」や「子供」に向き合ってくることをしてこなかった。
それは、日本という社会が、「あるべき個人」を規定せぬまま来たからだ。
宗教原理が働くような社会では「善良なる個人」が定義されている。
「個人」のない世界には「社会」もまた存在しない。
この宇宙では、全ての価値観は相対性によって生まれるからであり、対立するものがない価値観は存在することはできない。
日本にあったのは「和」であり、個人はそこに溶け込んでいた。
境界は曖昧で、自己アイデンティティと組織的アイデンティティの区別もつけることが難しいほどであった。

だが、日本を取巻く環境は変った。
日本には「社会」と「個人」が輸入され、そして極当り前のような顔をして我々とともにある。
我々は、この日本的な異常さに自覚的ではない。

自殺、無縁、少子化、虐待といった社会現象ともいえる問題は、全てこの日本的な異常さから来ているのだ。
資本主義による経済的発展は、これを後押ししたものの、根本的要因ではない。

今、日本人の前には2つの道がある。
「社会」と「個人」を自覚的に受け止め、そして適応することで、新しい日本人として生きる道。
そして、「社会」と「個人」を廃絶し、日本人たる由縁を取り戻す道。
どちらを選ぶかだ。

当Blogでは、答えを用意するつもりはない。
答えなど存在しないからだ。
答えは望む数だけ、無限にある。(無限=ないと同じ)
日本人が何を目的に生きようとするか、それ次第だ。

ただ、ある視点を用いて、日本社会を側面から観察することによって、様々な答えを見出すことの一助となる覚悟はある。
(のかもしれない・・)

秩序は協調することから生まれる

2010-04-13 10:49:41 | 社会
横浜に住む前に、短期間ではあるが東京に住んでいた時期がある。
東京というひと人がごったがえして住み難いイメージがあるかもしれないが、それはない。
当Blogの読者で、地方在住の方がどれ程いるのかわからないが、イメージと違うことを今から書く。

私は、山手線の中で住んでいたのだが、非常に住みやすかった。
(場所によって全く異なるとは思うが)
まず、街がキレイ。
そして住んでいる人が優しく、協調性がある。
むしろ地方に行くと我先人間が多くて辟易する。
秩序がないからだ。
資源の枯渇が喫緊の課題としてないから、秩序立つ必要がない。
むしろ奪い合いで、セコイ人が多く、ゆずり合いの精神など全く感じない。

通勤電車領域では混雑度がひどすぎて(資源の枯渇状態がひどすぎて)協調動作に支障が出る。
ただ、それでも地方で混雑した時よりもかなりマシ。
旅行などで地方に行き、混雑に遭遇するとかなりひどい。
全く協調しておらず、みなが我先に行動するのだ。
周りが協調しないことを先読みして、さらに先手に打とうとするから余計にひどい。

地方からやってきて、都心の通勤ラッシュに遭遇するとかなりまいってしまう人が多いと思うが、あんな壮絶な混雑度でも通勤システムが成立するのは、ひとえにそこにいる人々の成熟度の高さのおかげである。
同じ混雑度が地方で起きれば、即パニックで死傷者が毎日出てしまうだろう。

通勤ラッシュだとみんな敵のように思えてしまうが、それも勘違いである。
混雑度が油断できないレベルに到達すると、人は臨戦態勢になるか、もしくは貝になる。
それを見て、ひどい人達だと思ってはいけない。
環境が彼らをそうしているのであって、彼らの本質がそうだとは限らないのである。
例えば、毎日、通勤していると、たまにホームから線路上に落ちてしまう人とかいたり、ベビーカーが電車とホームの間にはまってしまったりする事件に遭遇する。
その時の都会人達の対応のスピードにはビックリする。
人が変ったように、すかさずヘルプに入り、緊急ボタンを押し、そして大声で駅員を呼ぶのである。
あっという間に解決である。
これが地方だったらどれだけ時間がかかるかわからない。
普段は、人が悪そうにしている人も、実はそういう人達なのである。
人を見るときは、環境要因を忘れてはいけない。

例えば、気になる異性や、知人と話して、相手のノリが悪いからといって、全く気がないとは限らない。
実はトイレに行きたいかもしれないし、虫歯で歯が痛いかもしれない。
また、家の鍵を閉め忘れたかもなどと考えていたら、気が落ち着かないだろう。

と、都会はゴミゴミしていて好きじゃないという人もいるかもしれないが、実はホットな人々も多いということを書きたかったのだ。
その心は、協調せねばならない環境が秩序を作る、といいたかったからだ。
「秩序」といわれて軍隊しか思い浮かばないような人は、秩序は組織的に作るものだと考えるかもしれない。
しかし、実際の秩序は協調関係の結果なのである。
ビジネスの世界も、伝統や文化もしかりであって、秩序のほとんどは強制したものではない。
環境要因が作っているのだ。
以前説明した「熱帯雨林の生態系」を管理しようとしても破綻するという話と同じだ。

一部の人々に足りない認識は、「こう考えるべきだ。」と訴えたところで人々の考えは変わらないということだ。
何度もいうように、人は人に「理解させる」ことはできない。
「理解する」ことしかできないのである。
秩序を作ろうとしてはいけない。
我々は環境要因を作ろうとすべきである。

いつも通りとはいえ、陳腐な結論だなぁ~・・

東京は日本人の心

2010-04-11 00:24:45 | 社会
東京圏はダントツ世界最大で、今後もそうあり続けるだろうということだ。

2025年、世界最大の都市は東京。しかも、ダントツ。(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/04/2025-9698.html

前にも述べたが、東京は日本人の最高傑作。
その効率性は、日本人の心の現われ。
日本人が創り上げれるものとして、東京は創り上げられた。

世界が東京を真似できないのはなぜか?
それは、日本人ではないからだ。
日本人は極度に作りこもうとし、それを日本という単位で成し遂げられる。
1人の天才が創り上げたんじゃない。
日本人が創り上げたのだ。
それは、日本人特有のもの。

守るべきものはコミュニケーションの多様性である

2010-04-09 20:01:00 | 社会
保守とバランス
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/01772273716f867c7f763748d2ad060a

当Blogでも保守に関して書いたのだが、池田信夫氏がいいことを書いていたので、彼のエントリにコメントしてしまった。

何を保守するのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51404577.html

今の日本は、社会主義の崩壊後の東欧圏に似ている。たとえば自殺率の国際比較をみると、図のように日本は世界第8位で、上位は旧社会主義圏ばかりである。市場を導入して生活がよくなるかと思ったら、曲がりなりにも安定していたコミュニティが崩壊し、企業倒産や失業が激増したためだ。

これは日本の90年代と似ているが、もう一つの共通点は社会主義国には資本市場も労働市場も存在しないことだ。社会主義の建て前では倒産も失業もありえないので、破綻処理の制度も職安もない。職を失った人々は、Shleifer-Treismanの表現によれば「地図なし」の廃墟の中で手探りで職をさがさなければならなかったのだ。

だから現在の日本の不安を解消するために必要なのは、平沼=与謝野新党のいうような過去への回帰ではなく、個人が「一所懸命」に同じ所でがんばりつづける日本的伝統から決別し、新しいコミュティに移る(あるいは作り出す)ことを容易にする制度設計ではないか。「アゴラ」のような仮想空間からも多くの出会いが生まれ、会社までできた。それは農村のような強固な共同体ではないが、あれほど息苦しいコミュニティでもない。


私のコメント(コメントしたばかりでまだ承認されていない)
800字制限があるのでかなり削らないといけなかったのが残念だ。


私はこの問題提起は非常に重要だと考えています。
「人と人とが結びつくことができること(コミュニケーション)」は人間にとって根源的に重要なことだと思います。関係性にこそ意味は発生するものだと考えるからです。そして「自由」も「コミューン」もそのための一つの媒体であると考えます。人は時に自由を使って新たな出会いを求めるし、時にコミューンの仲介機能を使って繋がりを求めます。資本主義は自由に力を与え、伝統的コミュニティを壊したように見えるかもしれませんが、それは時代とともにコミューンに対する必要性が変化するからです。コミューンは本来の意味からして環境が変われば新しい内容で更新されるべきです。
平沼氏などが語るのは、言葉で表現できぬ美意識のようなものが日本人にとって重要なのであり、それを守るために、それがビルドインされている伝統的コミュニティを守る必要があるという話だと思います。ここから一歩進むには、その美意識が何なのか?ということを発見せねばなりません。わからぬので連続性を守ろうとします。

もし、伝統的コミュニティが守ってきたものが、私の考える通り、コミュニケーションなら、守るべきものはコミュニティではなくコミュニケーションの方だといえます。しかし、人それぞれに異なる形の欲求があるわけですので、みなで共通の器(コミューン)を発見することは難しく、だから人それぞれが、それぞれに適したコミュニケーション手段を手に入れることが理想で、それは選択肢があるということだと思います。選択肢を失う(絶望する)と、人は歩みを止めてしまうもので、逆に選択肢が有り過ぎても混乱しますが、コミュニケーションに選択肢があることは人生を自分責任で生きるのに非常に重要な要素だと考えています。
これとは逆に選択肢などあると考えるから人生に迷うのだという主張もあります。武士道です。


[追記]

10時過ぎ頃に家についてワイン飲みながらTVをつける。
すると、フジテレビは「我が家の歴史」で日テレは「ALWAYS 3丁目の夕日」を放映していた。
二つの局が同時に昭和の古きよき日本を題材とした番組とはね。
こういう状況を鑑みるに「立ち上がれ日本」も一部には受け入れられるんじゃないかという気もする。

そんなこと考えていたら、多分、こういう質問されるんじゃないかと思った。

「なんで昭和の時代は、貧しくても幸せだったのか?」

それは私のコメントにあるように、新しい発見との出会いがあったからだと思う。
経済の右肩上がりとかそういうことは環境要因で、主要因じゃないと考える。
生きてれば、それだけで新しい出会いが待ち受けていた。
どんどん環境が変化していたからだ。
だから、コミューン(共同体)が幸せの要因だったんじゃない。
コミューンは生活を保障するための役割を果たしただけだ。
つまり、土台になっただけ。
あくまで媒体でしかなかった。

ゆえに、私は保守派の人々が「伝統的コミュニティを守る」とか「古きよき日本の再興」を訴えると非常に違和感を感じるのである。
守るべきものが違うんじゃないか?と思ってしまうのである。

批判、反論なんでもご意見聞かせてください。
よろしくお願い致します。

怨念の国 日本

2010-04-08 12:40:57 | 社会

日本は「日本」を主張せよ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6e598b6caf8c161bc454e4de15c86750?st=0

昨日は、仕事を早くに終えると、帰宅途中に美容院に寄りました。
(どうでもいいことだけど・・)
私は隠れ家的美容院に通っていて、担当のマスターは、社会派マスターで、私とはいつも時事ネタで熱い議論になります。
普通は、客の意見とぶつからないように話を展開するものですが、そのマスターはたいてい自説を持っていて、納得しないと意見が対立することもしばしばです。
といっても、お互いの意見を述べ合うという程度のもので、喧嘩や険悪になるわけではありません。
あくまでも大人の談笑です。
いわゆる「床屋談義(この場合は美容院談義か・・)」ですね。

昨日の議論を少し紹介します。
髪を切りながら話をしていると、何かの拍子に外交ネタになり、そこから中国での死刑問題に及びました。
そこで、私は、昨日のエントリで書いた内容の論理を展開しました。
すると、彼は私の考えに同意しながらこういうのです。

マスター:「でも、やっぱりそいつは生きていてもしょうがないやつだったんじゃ?」

わたしー:「そうだとしても、それとこれとは別ですよ。」

マスター:「むしろ、日本の法律や当局が裁けていなかったところを中国にやってもらったと思っちゃう人もいるんじゃ?」

わたしー:「いや、だからさ、それだったら日本人は日本の法律を帰るべきなんだと思うんですよね。自分達が目指すべき方向性を明らかにしないのが日本っぽさとは言えるんですけどね。それじゃだめだと思いますよ私は。」

マスター:「この間もさ、警察がさ~・・」
(などなど、日本の治安当局の不甲斐無さや不平等感をとうとうと述べる)

わたしー:「確かに、日本人が今回の事件を肯定している背景には、日本人の不平等意識の問題がありますね。」
わたしー:「裁かれるべき人が裁かれていないというような想いが強くあると思いますね。」
わたしー:「日本人って心の中に秘めてる真っ黒な想いを出さず、心の中で人を殺すんですよ。呪いですね。祟りとか、鎮魂とか、そういう文化ありますね。
わたしー:「日本の呪いって黒魔術とは違うんですよ。そこに一種の陰湿性というか、個を認めない和の文化が垣間見えるっていうか・・。」

マスター:「う~ん。」

話はつづく。。

私はマスターとの会話を経て、日本人の怨念に想いを馳せずにはいられなかった。
この国は、怨念の国である。
自らは手を下さず、呪いによって人を裁くのである。
日本人は見た目には人がよさそうであるが、それがスピリチュアルな観点で成熟しているのかといわれると、必ずしもそうではないのである。
と、なんかそんな書籍があったような気もするな。

市場も国も信用していない日本

2010-03-31 10:30:06 | 社会
阪大の大竹文雄氏の最新著作が面白そうだ。
早速買って読んでみたいと思う。
後日、まとめてみたい。

「競争と公平感―市場経済の本当のメリット(大竹文雄)」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121020456?ie=UTF8&linkCode=as2&tag=blogsofdankog-22

競争忌避=協調忌避 - 書評 - 競争と公平感(404 Blog Not Found)
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51423461.html


P. 7
大陸ヨーロッパ諸国とロシアは比較的市場に対する信頼が低い国だ。しかし、日本はその大陸ヨーロッパ諸国や旧社会主義国である中国やロシアよりも市場のメリットを信頼しない国なのである。

第一部のタイトルともなっている「競争嫌いの日本人」の証拠がこれであるが、「社会主義国よりも社会主義的」という揶揄がまた聞こえてきそうであるが、ちょっと待っていただきたい。次の図が、それをあっさり否定してくれる。

日本人は市場も信用していないが、国による再配分も信用していないのである。

P. 8
日本人は自由な市場経済のもとで豊かになったとしても格差がつくことを嫌い、そもそも市場で格差がつかないよいうにすることが大事だと考えているようだ。たしかに市場によって格差が発生しなければ、国が貧困者を助ける必要もない。


繰り返しになるのだが、この指摘は強烈に面白いし、日本の現状の本質をよく表しているので説明する。

日本は社会主義国家の人々よりも市場を信頼していない。
が、同時に国も信用していない。

国を信用していないから、国による再分配(セーフティネット)を信用せず、国の再分配に頼らないようにするために、市場で格差がつくことを嫌う。
市場で格差がつかなければ、貧困者になることはない。
だから、日本ではこれまでコミュニティ内で生きる限り安定を手に入れられるシステムを一生懸命に構築してきた。
そこから外れる者には絶望的な環境が待っているのだが、だからこそ、その恐怖を利用して強力な(長期的)互恵関係を築くことができたのだ。

ただ、市場で格差がつかなくても、市場全体が沈没すれば終わりなのである。
そこで、最近ではコミュニティ内に入れる人数を制限し、減少させ、既得権益者だけは助かる方針を採用しているのだ。
そこから、あぶれるのは常に弱者である。
コミュニティが大多数であるうちはいいが、これが多数派ではなくなった時、大転換が起きざるを得ない。
振り子は、振れ幅が大きいほど、その戻りは大きくなる。
その時に巻き返されて失う損失を考えれば、今、この時から、何らかの手を打つべきなのは誰もが理解できることだ。

部分的劣位を強調して危機感を扇動するのはよくない(韓国)

2010-03-18 10:32:42 | 社会
ろくに検証もしていませんが、部分的強調により危機感を煽るのはやめましょう。リンク先と後半の内容は関係がありません。リンク先の問題提起を否定しているわけでもありません。題名を変えました。


[ゴーログ]日本は韓国に30年遅れている(木村剛)
http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/30-81ca.html

最近多いのですが、スポーツや企業の躍進だけをみて韓国の方が優れているかのごとき論説はミスリーディングだと個人的には思います。
私には外国人だとか日本以外のアジア諸国だとかなどを差別するつもりは毛頭ありませんが、総合的に見れば、明らかに韓国より日本の方が洗練された国だと思います。
両国の違いは、先進国とポスト新興国の違いなのです。

これはあくまでも日本と韓国を相対評価した場合の話ですが、日本の方が文化にずっと多様性がありますし、表現の自由もありますし、野蛮な闘争も少ないですし、総じて社会に様々な価値観が共生できています。
平たくいいますと、様々な人達が様々な価値観を追求する自由が日本の方が担保されております。
何か明確な基準があるわけではないのでイメージとして考えて欲しいのですが、日本は先進国で、韓国は先進国の仲間入りをしていないレベルです。
「ポスト近代」の問題に直面している国を先進国と呼ぶでもいいかもしれません。
そういう意味では日本はポスト近代国家を進む国であり、韓国はまだ近代国家を歩む国です。
(決して韓国を陥れている表現ではなく、韓国の方が政治的要因で近代化が遅かったというに過ぎない)

韓国にスポーツで負けているような印象を受けますが、スポーツ人口や国民全体でのスポーツ幸福度からして、日本が韓国に負けているとは到底思えません。
以前にも当Blogで問題提起を行いましたが、「スポーツの目的を何に置くのか?」という問題意識がないままに、スポーツに関して勝敗などつきようがないのです。
あくまでも国際大会で韓国選手に日本人選手が勝てないということでしかなく、スポーツで負けているかどうかは全く次元の異なる問題です。

(差別発言をしたいのではないのですが)
仮に北朝鮮の選手に日本人選手が負けたとしてください。
「北朝鮮のように少数英才教育を施せ!」って言いますか?
考えないですよねそんなこと。
「勝つ」ことがスポーツの目的に成り得るのは「ポスト近代国家」に到達していない、近代国家と新興国においてだけです。
「ポスト近代国家」における国家の役割は、「勝つことを目的として生きる自由を担保すること」であって「勝つこと」ではないのです。

このあたりの意見を聞く度に、国家観に対する問題意識の違いが如実に表れていて面白いと思います。
多くの日本人が未だに時代の流れを掴めていないことが読み取れるのです。
日本人の多くは日本が未だに「近代国家」だと考えており、バブル以降、失われた20年の間で、日本が構造的変化に飲み込まれていて、その対応が遅れていることを理解していないのです。

「この宇宙にいる限り、常に変化の波にさらされる脅威(つまり相対性)から逃れることはできない」という根本的原理を忘れいてるのです。
日本人は自分達の考えが普遍的な価値観であるかのように勘違いしてしまった。
この辺りは内田樹の「日本辺境論」に詳しいのですが「日本人の強さは世界の中心が自分とは違うほかのところにあると考える辺境意識にあった」のに、日本人はうちにこもって世界の中心を自分達の中に作ったのです。
世界標準を創るということがよくわかっていないのに、自分達が世界標準であるかのように誤解してしまった。
これでは、時代の流れから取り残されて当然です。
この傲慢さこそが、日本の構造変化を阻む根本的問題です。

「世界と対峙していく必要性がどこにある?」
「自分達の幸せを築いていくことこそが大事」
「比べるところから不幸が始まる」
とおっしゃる人もいるでしょう。
私は、その考えを否定しません。
高尚な考え方だとも思います。
しかし、そうおっしゃるなら「韓国に負けて」などと思わぬことです。
私などは、辺境意識を捨て切れぬまま、世界の中心になろうとしている現在の状況は最悪だと思います。


彼を知り己を知れば百戦危うからず
彼を知らずして己を知るは一勝一負す。
彼を知らず己を知らざれば戦う毎に殆うし
(孫氏)


まず、日本人は傲慢にならず、己をよく知ろうとすることです。
己を知り尽くすことはできませんが、それでも知ろうとすることには非常に価値があります。
今の日本は孫氏曰く「彼を知らず己を知らざれば戦う毎に殆うし」な状態かと思います。

日本の問題については経産省が作成した「日本の産業を巡る現状と課題」がよくまとまっておりますので、是非ご一読いただけるとよいかと思います。

ただ、私には次の言葉が似合うようです(笑)


知る者は言わず、言う者は知らず (老子)


老子師匠には勝てません。


おっと、話がそれてしまった。
もともと主張したかったのは↓です。

部分的劣位を強調して、部分的にマッチョになろうとすると、全体のバランスを崩して生態系を破壊されるリスクが高まります。