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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

尖閣事件をよそに日本館がダントツ人気らしい

2010-10-06 09:48:14 | 社会
中国の知識層は最初からこんな感じです。
少なくても私の知っている上海人は非常に冷静です。
13億人いるのだから、一枚岩なわけがありません。
日本でだって大規模なデモやってるじゃないですか。
マスコミは報じませんけれど。

むしろ貧しい人たちの支持を集めることの方が政治としては大事と受け取れます。
要は、人数比で見ればまだ知識層は少数派で、
しかも経済格差の問題では、非知識層を取り込む必要性があるわけです。
もともと中国の共産党は、貧しい農民のためにできた政党ですから。

尖閣事件をよそに日本館がダントツ人気の現実
政府が「反日」の笛吹くも踊らない上海市民(JB Press)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4569

それと、仕事で関わった中国の会社員の方が言っていました。
「中国では政治の話はちょっと・・言えないです。」

数として見た時には行動しない。ひとつの例を見た時には行動するのだ

2010-09-18 00:39:10 | 社会
小さいで生きてきた人類からすれば、数で表現される世界や、規模の大きいものを理解でいない方が当たり前なのである。

統計よりも「1人のストーリー」が有効な理由(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201009/2010091722.html


統計データの難点は、われわれの道義的感情に訴えかけないことだという。厳しい現実を数字で見せられても、われわれの心は動かない。

人間の心は、そこまで規模の大きな苦しみを理解することができないのだ。

われわれは、ひとりの子供が井戸に落ちたら心配で目を離せないが、清浄な水が無いことで毎年何百万人もの人が死ぬことには関心を持たない。

雑誌の表紙に載ったひとりの戦争孤児には何千ドルもの寄付が行くが、ルワンダやダルフールで大虐殺が起こっていても無視される。

マザーテレサの言うように、「数として見た時には行動しない。ひとつの例を見た時には行動する」のだ。



しかし、このような違いがなぜ出るのだろうか。

それは、慈善行為というものが、つまるところは人間の同情心に根ざしたものであり、論理的かつ実利的な計算に基づくものではないからだ。



チリの鉱山事故で閉じ込められた労働者たちを、どんな方法を用いても救出しようとするのが間違いだというわけではない。

そのような気持ちに駆られることは、人間の最も気高い衝動のあらわれだ。

しかし、「身元の分かる被害者効果」が存在することは、同情の気持ちが自然に涌いてこないとき、つまり、1人1人を特定できないほど多くの被害者が出ているときにこそ、われわれは余計に思いやりの心を働かせる必要があることを示している。

ブルカ?

2010-09-15 16:54:47 | 社会
フランスでブルカ禁止法が成立 欧州初 イスラム諸国反発も(MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100915/erp1009150831003-n1.htm


フランス上院は14日、「ブルカ」や「ニカブ」などイスラム教徒の女性の全身を覆う衣装を公共の場所で着用することを禁じる法案を賛成多数で可決した。法案は7月に国民議会(下院)を通過しており、同法は成立した。

 欧州ではイタリアなどで地方自治体がブルカ着用を禁止している例はあるが、国家レベルで禁止を法制化したのはフランスが初めて。


これがどういうことなのか極東ブログあたりに解説してもらいたいのだが、
竹下節子さんというパリ在住の評論家の方のBlogで少し述べてくださっている。

ブルカ禁止法(竹下節子)
http://spinou.exblog.jp/13536829/

う~ん、奥が深い。

フランスには、女性のズボンを禁止する法律がまだ残っているのだそうだ。
誰も罰せられないらしいが。

法律の弾力的運用とそうでない部分のバランスって難しいな・・。

「コミュニティ」と「私」

2010-09-15 16:20:13 | 社会
平野綾の恋バナで発狂してる人は『カラフル』を観ると良いよ!(俺の邪悪なメモ)
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100908/p1

死んでしまった主人公<ぼく>の魂が、自殺した少年<マコト>の肉体にホームステイする

という、ちょっと不思議なお話。

この主人公<ぼく>には前世の記憶がなく、自分がなぜ死んだのかも知りません。もちろんホームステイ先である<マコト>のことも知らないので、奇妙な二重の記憶喪失状態で他人の人生を生きることになるのです。


やがて<ぼく>は、この<マコト>が、なぜ自殺したのかを知ることになります。

<マコト>は、元々うだつの上がらない鬱々とした少年だったのですが、

ある日、好きな女の子が援助交際してるのと、母親が不倫してるのを、偶然同時に知ってしまい、

そのことが引き金となり、自殺を図ったのでした。


好きな子の援交と、母親の不倫。

いってしまえば、どちらもセックス・スキャンダルなんですね。

原作では他にも自殺の引き金となったエピソードがあるのですが、映画ではこの2つのセックス・スキャンダルに絞られているのです。



この事実を知った時、<ぼく>は<マコト>と同じように、その汚らわしさ、気持ち悪さ、ままならなさに、さいなまれます。

しかし、そういった受け入れがたい汚らわしさと共にある人や世界の豊かさを知り、乗り越えてゆくのです。



つまり、この映画は思春期の童貞がセックス・スキャンダルを乗り越えてゆく物語なんですよ!



例えば「好きな子の援交と、母親の不倫。」を考える。
実体験として持っていないので、全ては想像の域を出ないが、
しかし思春期に経験するとなれば、その影響は甚大なものがあると思われる。
『カラフル』はあくまで仮想の話だが、
自殺したマコトが生きる意味のほとんどを失ったことは想像に難しくない。

しかし、私は単に「背徳的な行為」が人に与える「裏切り感」だけを言いたいのではない。

「背徳」というのは道徳的規範があって初めて成立する概念で、
確固たる道徳的規範があればこそ「背徳」の影響力は大きい。
思春期の少年少女にそのような確固たる道徳規範があるのであろうか。

あるわけがない。

「いやいや、少年少女は妥協を受け入れる素養が育っていないのではないか?」
という声が聞こえてきそうであるが、それとこれとは全く次元の異なる話である。

そもそも「道徳」というのは「何かを守るため」にある。
何ゆえ「道徳」が何らかの「価値基準」を提供するかといえば、
物事の順序、物事の優劣、物事の正誤に対する基準が曖昧だと困ることがあるからだ。

「守るべきもの」の認識が少ない者に、
確固たる道徳的規範が影響力を行使するなんてことは有り得ないことだ。
自分の「守るべきもの」に抵触しない限り、人は寛容(つまり、どうでもいい)なのだ。

ネット上で匿名者が無責任発言を繰返すのは当り前のことだし、
社会の事象がどのように自分に関係しているか分からない問題意識の無い人が、
いろんなものに関心を持たないのも当り前なのである。

じゃぁ、なぜマコトは自殺したのか?

それはコミュニティへの信頼が失望に変ったからだ。

マコトが自己アイデンティティを確立するために、
マコトは、自分が何者であるかという認識について
マコトが属する同級生や学校というコミュニティ、
家族というコミュニティに依存している。

そのコミュニティの支柱である「好きな子」や「母親」が、
コミュニティに対する背信行為を行ったことが、
マコトのコミュニティに対する信頼を裏切る行為なのである。

マコトにとって学校や家族というコミュニティの存在があまりに大きかったために、
そのコミュニティへの信頼を失ってしまうと、
自己アイデンティティの喪失に繋がってしまうのである。

マコトがもっと活動的かもしくは不真面目で、
学校や家族以外にも依存するコミュニティがあれば、結果は異なったであろう。

ただ、私はリスクヘッジとして複数のコミュニティに属した方がいいたいのではない。
人生をポートフォリオ化するかしないかは個人の自由だ。
もちろんトレードオフはあるのだから。

末法の世?

2010-09-03 13:05:52 | 社会
いいか悪いかは別として、自由恋愛市場は大きくなっていくだろう。

この手の話は世論を二分する。
厄介なのは、「道徳」を持ち出す以外に有効な反論ができないことだろう。
しかし「道徳」には実態がないため、同じ価値観を共有しない間柄で
「道徳」をキーとして分かり合うのは難しい。

単純に想像されるのは、
道徳教育に力を入れるべきだとする保守派が大きくなると思われる。

まぁ、いわゆる末法の世だ。
「宗教(道徳)」の威光は朽ち果て、人々は新しい「教え」を求め彷徨い、
「分化」と「結合」を繰返し、「コミュニティ」が生成され、
それぞれのコミュニティは特定の方向への純度が増していく。
散逸だ。

人々の移動を伴うものではなくて、これは精神的なものだ。
人々は精神的な自治を求める。
これに抗うのが国家。
グローバルな存在になったコミュニティを国家が規制できるのか。
よくわからない。

・・・ついつい、つまらない妄想をしてしまった。

「愛人契約」を考える(投資十八番)
http://stockkabusiki.blog90.fc2.com/blog-entry-1146.html

愛人を作った。
http://anond.hatelabo.jp/20100831230511


今年で43歳。12年前に離婚し子供もいない。結婚する気もなく、家などを買うこともなく安アパートで12年を過ごした。酒もタバコもギャンブルもやらず、車もない恋人も8年いない。年収は650万で人並みなので金が貯まる一方なのだ。

今年の春先「俺の人生これでいっちょ上がり」と思ったら無性に寂しくなり。なぜか「愛人が欲しい」と思った。

 サイトで募集し、35歳の人妻から16歳の高校生まで応募があり何人かと面接した。

 19歳の「ぷちアイドル」(??)の人に決めた。黒髪で見た目AKBっぽくって、おしゃべりでスタイルがイイ!

面接のあと「愛人になってくれますか」というと「まじっすか!やったー!!」と喜んでくれた。アイドルのオーディションに受かったような喜びようだった。

 最初にサイトを通じて提示した条件は月に3-4度会って15万円。愛人の間は彼氏を作らない。彼女の部屋に泊まれる。(俺の部屋は安アパートなので無理。妻がいるという偽設定を使っている。)


中高教育で「これからの『正義』の話をしよう」を使っては如何?

2010-08-26 13:05:39 | 社会
サンデル教授の授業が日本で行われたようです。

サンデル教授、東大で白熱授業 正義について熱く討議(asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0825/TKY201008250419.html

人気の「白熱教室」の日本出前授業が実現した。米ハーバード大で空前の履修者数を誇るマイケル・サンデル教授(57)の来日特別講義が25日、東京大(東京都文京区)で開かれた。身近な題材から問いを投げかける有名な対話型講義に聴衆が積極的に参加し、本家さながらの熱い討議が繰り広げられた。

[中略]

サンデル教授の講義は日本でも今春から「ハーバード白熱教室」と題して連続放映され、大きな反響を呼んだ。講義をまとめた「これからの『正義』の話をしよう」の翻訳本は30万部を超えるベストセラーになっている。今回の特別講義は10月下旬以降にNHK教育テレビで放映予定という。


「これからの『正義』の話をしよう」は30万部を超えるベストセラーだそうです。
そういう私もすぐ買って読みました。

書評もそれなりに出ていて「わかりやすさ」を評価するものが多いようですが、
私の感想としては、普段から政治哲学に関心のある人を除いては、
突然この本を読んで、内容を理解できるほど簡単でもないと思います。
わかった気になることはできますけれど、
言っていることは、それほど簡単でもないと思います。

もちろん、サンデル教授の講義は「哲学」ではなく、あくまで「教養」ですから
哲学書を読むよりもずっと簡単です。
(実際の講義は、事前に多くの哲学書を読む必要があるようですが)
小難しい哲学書を幾つも読むよりは、この本は議論が整理されているので、
時間を短縮して政治哲学の論点をつかむことができる価値は多いにあります。
でも、だからといって内容が簡単ということにはなりません。
サンデル教授の説明がわかりやすいというだけで、言ってる内容は簡単ではないという意味です。

私がそう思うのは、もし30万人の人が、この本の議論に参加できるレベルであれば、
日本の政治的混乱ももっとマシになっているはずだと思うからです。

そういう意味では、ちょっと強引な意見ですが、
この本を学校教育に取り込んではどうでしょうか。
先生に読ませる意味もありますし、先生に説明させて、
そして生徒間で議論してはどうでしょうか。
噛み砕けば、中学生、高校生でも議論できる内容になると思います。

日本で道徳教育というと、なにか強制的な価値観の押し付けのイメージがあり、
多くの反論が生まれるのが必定ではありますが、
サンデル教授の本などを使って道徳議論をすることは可能なのではないでしょうか。

富と幸福の関係性について 再考

2010-08-23 21:46:02 | 社会
先週のエントリが(いつものように・・)わかりにくかったようだ。

富と幸福の関係性について(進化する魂)
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6954933a40239bb011c6f446bce045ba

まず、次のBlogで触れられている内容は前提である。
ある水準までは富が増加することが幸福度と関係している。

「お金は人を幸福にしない」には前提がある(投資十八番)
http://stockkabusiki.blog90.fc2.com/blog-entry-1140.html

お金は人を幸福にはしないが、それは最低水準の富があることが前提だ

幸福は所得で決まらない - 『日本の幸福度』(池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/1071134.html


特に本書でくわしく調べているのは、労働との関係である。労働が「不効用」をもたらすという新古典派経済学の想定は実証的には否定され、同じ所得を得ていても働いている人の幸福度は失業者より高い。したがって失業者に所得を再分配するバラマキ福祉より、新しい職を与えたほうがいいということになる。労働が幸福度に及ぼす影響は日本で特に強く、失業率と自殺率には強い相関がある。

他方、所得格差や地域格差が幸福度に影響するかどうかについては、ほとんど有意な差は見出せない。幸福に最大の影響を与えるのは、実は離婚・就職・死別などの個人的な「ニュース」であり、所得は幸福の要因の中ではマイナーなものだ。したがって成長率を上げることは不幸を減らす役には立つだろうが、幸福度を上げるとは限らない。

日本人の所得は、相対的には下がったといっても、まだ絶対的には高い。その自殺率が主要国で最悪なのは、所得とは別の深刻な問題があると考えざるをえない。それは大ざっぱにいうと「意味の喪失」ではないだろうか。かつては会社のために働き、それが出世や社会的地位という形で報われることが生きがいだったが、そういう価値が失われ、かといって欧米的な個人主義にもうまく順応できない。日本人がこの変化に適応するには、まだまだ長い時間がかかるだろう。


私が述べた「物語」と「相対性」というのは、「意味の喪失」これである。
その意味で前回のエントリを読み進めていただけると理解できるだろう。

また、「物語」と「コミュニティ」は不可分ではなく、別のモノだ。
単に「コミュニティ」が「物語」を提供してくれるだけの話で、
自分で「物語」を紡ぎ出せる者は「コミュニティ」が必須ではない。
ただ、なんらかの「物語」に一切触れることなく、
自分だけの「物語」を奏でられる者が存在することはできないので、
その意味では厳しくか緩くかは別として、
何らかの形で何らかの「コミュニティ」と関わって生きていかなくてはならなない。

「生きていかなくてはならない」と書くと誤解されてしまうのだが、
本来的な意味でいえば、「コミュニティ」に関わらないで生きていくことはできない。
なぜかといえば、あなたが「あなた」なのは、
何らかのコミュニティに属しているからに他ならない。
いつもの「相対性」の議論だ。
他者がいて、あなたがいるのだ。
あなただけなら「あなた」は存在できない。

屁理屈でも何でもなく、これは本当の話だ。
あなたの親の子供として「あなた」がいるのは、あなたの親がいるからだ。
あなたがサラリーマンとして働くのは、あなたを雇う人がいるからだ。
あなたが社会の中で孤独を感じるのは、社会というものがあると思うからだ。
あなたが幸せについて考えるのは、不幸と呼ばれるものがあるからだ。
あなたが生きているのは、死があるからだ。
「あなた」が存在するために、相対的な価値から逃れることはできない。

あなたが社会の中にいて、「あなた」の幸せや不幸について考えるとき、
必ずあなたは社会というものの中に「あなた」を置いている。

では、あなたが社会から距離を置き、孤独に生きる時の「あなた」はどうなるか。

時間切れ。
また明日・・。

結婚制度を規制緩和して自由恋愛市場を拡大せよ

2010-08-23 11:59:00 | 社会
さきほどのエントリの続き。

結婚と恋愛のレート (Chikirinの日記)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100822

これは非常に、その通りなのだけれども。
私が思うに、このChikirinのエントリになんとも言えない煮え切らない感が漂っているのは、
「結婚」を脱構築できていないからなのだな。

Chikirinが問題提起している「結婚と恋愛のレート」って「結婚」と関係ないんだよ。
結局は。
「結婚」だって一過性のものでしかないから、
その恋愛が「結婚」に至るかどうかの部分について分析することにはとても意味があるのだけど、
(少子化とかいろいろ叫ばれているからね)
「結婚」に着目すると本質的な問題意識を失ってしまう。

「結婚」したからといって人間の何かが変るわけではないよね。
生活が変るし、法的や社会的な責任が増すことによって、考え方は変るかもしれない。
けれど、人間そのものに何らかの影響力を行使し得ないわけ。

よく「あいつは結婚して変った。」などというけれど、
それは単に、法的、社会的、そして文化的に「結婚して変ること」を要請されるからであって、
人間そのものが変るからではないよね。

「変らなければならない。」もしくは「仕方がないから変る。」ということがあるためで、
例えば「結婚」が遺伝的に影響を及ぼすなんて聞いたことないよね。
「結婚」って人間が作った制度だから当り前なんだけどね。


で、私が何を言いたいかっていうと、次の問題提起なのだよね。
(これは以前からの私の主張の繰り返しなのだけど)


お姫様になった女性達は「妥協する必要はない。私らしさを諦める必要はないんだ!」と理解する。ドラマに後押しされた女性達は、男性がついてこれなくなっても諦めなくなった。

著者はこれを「女性が恋愛のレートを上げた」と呼び、このため男性は「ゲームに参加できなくなった」と言います。すばらしい洞察と言葉のセンスだよね。


というわけで、経済力のない男性は恋愛市場から閉め出されてしまった。また、「なんでここまで女性に尽くす必要があるのか」と疑問に感じた男性は勝負から降りた。

そして現実の女性についていけなくなった男性は、AVやヘアヌード、二次元に逃げた。堀井氏の分析によると、この頃からAVにめちゃめちゃかわいい子が登場して本番をするようになった。信じられなかった、こんなかわいい子がカメラの前で本番をしているなんて!・・・とのこと。

かくして圧倒的な勝ち組の男女以外は結婚できなくなり、そうでない女性はトレンディドラマの世界に、そうでない男性はヴァーチャルの世界に逃げ込んだ。


そもそも「結婚」というワーディングにこだわるから、上記の問題が出てくるわけだよね。
(問題かどうかわからないけれど)
そうではなくて、「結婚」にこだわらない自由恋愛市場を拡大しようよってことです。

「結婚」制度を失くして、民間に委ねるとかね。
そもそも国家が「結婚」制度を奨励する理由ってどこにあるのかねと。
「結婚」なんてものが公的なものだから、話がおかしくなるのです。
そうではなくて、「結婚」なんか自由にしちゃえばいいのさ。
結婚したい人は、町の教会や神社、祭事場でやればいいじゃないか。

税制や手当てなんて、いくらでも他のやり方あるはずだしね。
子供そのものに手当てすればいいわけだし。

で、こういうこと言うと、必ず出される反論に、
「そんなことしたら、子供を産んでも顧みもしない、無責任な親が増える。」と言われるわけです。
実は、これがさ、日本の少子化の最大の要因であると私は想う。

私なんかはそういう意見を聞くたびに首を傾げたくなる。
「少子化に悩んでるなら、それでもいいじゃないか。子供が欲しいんでしょ?」
「じゃぁ欲しいのは、子供の面倒をしっかり見る親とパッケージになった子供なの?」
「だったらさ、親を保護しないとだよね」
「でも結局さ、子供をしっかり見れる人しか親になれないのだったら、少子化止まらないよね」
「だって面倒見れる人間の数って限られているじゃない。」
「けど、今も昔も大家族って子供の面倒よく見てるっけ?見てないよね」
「つまるところさ、結婚にこだわるのもさ、面倒を起こしたくない、リスク回避したいっていう話なんだよね。」
「子供を育てるなんてリスクの塊みたいなもんだからさ、やっぱりリスクにこだわっちゃ結婚なんかできるかね。」

・・・。

見えてきたでしょ。
少子化の原因が。
結婚や少子化に留まる話じゃないよね。

続きはまた今度。
そんじゃーね。

恋愛も結婚も社会現象の一つ

2010-08-23 11:18:58 | 社会

このChikirinは秀逸ですな。
正確にはChikirinではなく堀井憲一郎氏の方なのだろうけれども。

結婚と恋愛のレート (Chikirinの日記)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100822


“80年代に女の子が恋愛のレートをあげて、結果としてみんな不幸になった”

[中略]

つまり、“80年代に高騰し、90年代に高値安定してしまった女性の結婚レートを、適正レートまで下げましょう”というのが、婚活の本質なんですよね。なんとデフレ時代にぴったりのトレンドでしょう。
[中略]

で、80年代と90年代のプライシングの間違いに気がついて高値修正を始めたのが2000年代・・・と考えてると、今度は、次の10年くらいは婚活時代が続くけど、その後は“婚活世代、大量離婚の時代”になるかもね、と思えてきた。

[中略]

というわけで、

1980年代:暴騰

1990年代:高値安定

2000年代:下落

2010年代:投げ売り

2020年代:大規模な調整局面

次の10年は結婚も就活も、レート投げ売り気味の時代に突入するのかも・・


この解析が面白いのは、流行や社会現象には、流れと時間差があるということです。
人間という物理的実態は、鈍重なのです。

思考は非常に早いスピードで遷移できます。
想いは光の速度で巡ります。
あなたが一緒にいたいと思うあの人と、あなたが理想とするあの世界に、
あなたは一瞬にして辿り着くことができるでしょう。
思考の中で。

言葉というものもあります。
音速は光ほどの速度はでませんし、移動可能距離も短いですし、
また、どんなに文学的才能があったとしても
言葉にできない想いなどというものは存在します。
ただ、言葉は思考よりも具体的なものですから、
言葉を使って相手に想いを伝えることができます。
思考よりも遅いといっても人間が行動するよりも軽くて早いですね。

行動というのもあります。
これはとにかく鈍重です。
まず遅い。
100メートルを10秒で走れれば、かなり速いほうです。
そして移動可能距離が短いです。
行動によって影響力を行使できる距離というのは、
触れることができる距離です。


昔から「考えるだけなら誰にでもできる」などという言葉を聞くこともあります。
そうなのですね。
思考の速度は速いですから、考えることはあっという間に思考の中で実現します。
またこうもいいます。
「あいつは言葉だけ」
考えたことを、言葉にすることも、それなりの能力があれば比較的速い段階で実現できます。
言葉の世界では。
ただ、それを行動によって具現化するのは大変です。
行動というのは鈍重ですから、非常に労力と時間がかかります。
大きな仕事になればなるほど、大きな労力と、長い時間がかかります。

金融取引などではHFTの登場で、相場は電子制御による一瞬の判断で左右されるようになってしまいました。
人間の鈍重な行動の速度に合わせていたのでは、とても相手になりません。

株式市場の構造改革を議論せよ(JB Press, Financial Times)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4255


人間がつくる流行や社会現象もまた、時間がかかるのです。
実際に人間の行動に関わることというのは、
Chikirinさんの言うように10年単位でゆっくりと進行するものなのです。
流行を追う時に、思考と行動の動きは分けて分析したほうがよいでしょう。

敗戦から65年、見過ごされ続ける「失敗の本質」

2010-08-17 16:07:57 | 社会
終戦記念日(人によっては敗戦記念日かもしれないが)の日、8月15日。
夜、戦争を取り扱った番組を見ようと思ったのだが、
戦争ネタは人気がないのか視聴率が振るわないのかテレビ東京の池上彰氏の番組しかなかった。
それで最後の1時間ほど見た。

池上彰の戦争を考えるSP ~戦争はなぜ始まり どう終わるのか~(テレビ東京)
http://www.tv-tokyo.co.jp/ikegami_wars10/

最後しか見ずに批評するのもどうかと言われるかもしれないが、気になる点があるのでコメントしたい。

池上氏はわかりやすい解説に定評があるわけだが、話をわかりやすくするためか、
「戦争」を否定するためのロジックが強引過ぎる気がした。
要は、「戦争がなぜ悪いのか?」を説明するために「戦争とは特別なものだ」といわなければならず、
無理な論理的帰結が必要になる。
「戦争」は何ら特別なことではないのに、「特別なことだから悪い」と言わねばならない。


だからといって、池上氏そのものを否定するものではなく、
単にたまたま見たのが池上氏の番組だったというに過ぎない。

私がこれまで見た太平洋戦争を取り扱う番組には、たいてい次の旨のストーリーの下に組まれている。
「日本は愚かだから戦争をし、また愚かだから負けたのだ。」と。

私はこの考えを否定はしない。
ただ、「どう愚かであったのか」を明らかにすることなしに、戦争について反省したといえるはずはない。
しかし、どうしてもTV番組などは戦後レジームから脱却できてはいないようだ。
戦争は特別で悪いことだから、その戦争をした日本は愚かである。
のような論理展開から得られる反省点は、「戦争をしないことが重要」というような陳腐な答えしか得られない。
「憲法9条絶対死守」などと言って改憲にアレルギー反応を示す無内容な平和主義者のロジックそのものだ。

池上氏の番組ではサンクコストにこだわるが故に「戦争を途中でやめることができない」などと主張していた。
「これまで多くの命が犠牲になったのだから、彼らの死を犬死にさせてはならない。」とか
「多くの犠牲を払ったのだから、少しでも有利な条件で降伏しなければならない。」とかいうのは、
それは戦争でなくても、企業でも、家族でも、そして個人でも同じことが当てはまる。
人間心理に着目すれば「経路依存性」と「ブレークイーブン効果」で説明できる話でしかない。
要は、戦争も企業活動も、個人の生活習慣も本質的に同じだと言っているに過ぎない。
ただ、規模が違うというだけで。

(安直な発言は批判を招くかもしれないが)
池上氏の番組のロジックに従うと、
日本国内の自殺者がイラク戦争における戦死者よりも多いことをどう解釈すべきか不明になる。
人によっては自殺者が多いことを「もはや戦争(内戦)状態だ。」などというが、戦争だと何かが特別なのだろうか。
人がある目的のために、人(自分を含む)を殺す。
という点において違いはないではないか。

「戦争」というのは呼び名に過ぎず、所詮は人工的な事物の分類に過ぎない。
「戦争」そのものを特別視し、他とは違うものと見てしまっては本質を見誤る可能性が高まる。


戦争というのは状態を表す言葉であって、
軍事的行動は、ある政策実現のための一つの戦略的行動、つまり手段に過ぎない。
軍隊はその手段の実行部隊であるが、軍隊にとってはその手段が目的となる。
つまるところ、軍隊は政策実現のための1つのコマでしか過ぎないが
軍隊の力が大きくなると、軍隊内部の話だった手段の目的化が全体に波及する。
戦争をする(継続する)ことが目的と化し、そのために他のあらゆる資源が投入される事態となる。
この軍部の力を抑えるための仕組みが当時の日本に欠けていたとする議論やTV番組は多いが、
ここで議論したいのは、それとは別で、どう戦局を運営するべきであったか、
なぜそれができなかったかという話だ。

また、特によくないと思ったのは、太平洋戦争の転換点となったミッドウェー海戦の説明だ。
「日本が負けるべくして負けた」というようなありがちな誤った説明である。
池上氏が説明したミッドウェー海戦の敗因は、
暗号が解読されていたため事前に情報が漏れていたからだそうだ。
これは本当であろうか?

こういう「そもそも国力で勝るアメリカに日本が勝てるわけなかろう」という悟った感じの説明が、
どれだけ戦後の日本人に悪影響を与えてきたか、想像したことがあるだろうか。

日本がミッドウェー海戦で負けたのは、情報が漏れていたことだけではない。
ミッドウェー海戦時の互いの戦力を分析すると、優勢なのは日本の方である。
(戦闘は不確実性との闘いであるという点は十分に理解した上でだが)
もし日本が戦略的ミスを犯しさえしなければ、日本はミッドウェー海戦で負けなかった可能性が、
少なくても壊滅的に機動戦力を失わなくて済んだ可能性が高い。

日本の暗号が解読されて事前に情報が漏れていた件に関しても、
ニミッツ提督に関する記録によれば、アメリカ軍に圧倒的優位をもたらすものでは決してなかった。
なぜなら、戦力的にアメリカ軍が劣っていたからだ。
アメリカ軍からしてみれば、負けることがわかってしまう情報が事前にもたらされていたのである。
いや、もちろん、この事前情報が戦局を優位に運ぶために非常に大きい意味をもったことは当然として、
ただ、それだけでアメリカ軍が勝利を収めたわけではないということに注目すべきだと考えるのだ。

詳しくは名著『失敗の本質』を参照されたし。
ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦における
日本軍の失敗事例を通して、日本的組織の問題点を見事に焙り出している良書である。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (戸部 良一, 寺本 義也, 鎌田 伸一, 杉之尾 孝生, 村井 友秀, 野中 郁次郎)


結果論的に言ってしまえば、日本軍の戦略判断ミスによる大敗なのである。
そういう本質的な部分を覆い隠してしまって、
「戦争はいけない」だとか「相手が国力に勝る」だとかという安易な方向に流れてしまうと、
「失敗の本質」を見逃してしまう危険性が高い。

負けるにしても、もっとマシな負け方はあったはずだし、もっとマシな戦局の運び方があったはずである。
であるなら、なぜそうできなかったのか。
その点に、学ぶべき「失敗の本質」があるはずなのである。
そういう点を無視して「初めから負けはわかっていた」とか「戦争はダメ」とかという
無内容な議論に終始してしまっていては、
我々は結局、戦争から何も学んでいないと言われてしまっても仕方が無い。


今、多くの日本人が日本の進路に思い悩み、心を痛めている。

敗戦から65年、我々は一体何を学んだのだろうか。

[虐待] なぜ虐待した母親は批判されるのか?

2010-08-03 13:24:00 | 社会

児童虐待が注目を集めている。
虐待と聞いて当Blogが黙っているわけにはいくまい。
当Blogのメインテーマは「恋愛」「結婚」「家族」「虐待」「個人と社会」である。
(宣言だけしてまともに取上げた時はないが・・)

↓まず、この3つのエントリを読むべし。

誰が何をネグレクト?(Chikirinの日記)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100801

児童虐待を減らす為に (俺の邪悪なメモ)
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100802/p1

[虐待] 本当の弱者は誰か?(進化する魂)
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/04245c50cdd520832abb5145000f49fb

見識あるご意見である。
お2人に共通しているのは「個人の資質ではなくて仕組みに着目するべし」ということである。
その根拠は「人間の行動は性格や個性といった個人的な資質よりも、外的要因によって大きく左右される」からである。

これに対し、次のような批判が存在する。
例えば、大阪の児童虐待事件についてはこうだ。


「今回報道では、容疑者の親の支援を容疑者が拒絶している」
「育児ネグレクトをした母親側が、ホストクラブに通うお金があったという点で、貧乏を前提に国家の支援体制の責任にするのに問題がある」


前者については、俺の邪悪なメモから引用する。
この反論で十分だ。
社会に甘えず体で稼ぐ母親の姿を想像してほしい。
それでもあなたは彼女を責めることができるのか。


本書の中に「他人に頼りたくない」といって、生活保護を受けずに売春をしている母親が登場し、俺は軽い衝撃を受けました。よく生活保護を「甘え」だとする意見がありますが、彼女自身そう考え、甘えずに売春という違法行為に手を染めているのです。

これは彼女自身の(愚かな)選択ですが、その背景には「シングルマザーでも福祉の助けなど借りず子育てすべき!」という世間の声があります。

繰り返しますが、シングルマザーの平均年収は214万円です。これでも子育てしていくのは相当厳しいですが「平均」ということは、これ以下の人が大多数いるということです。彼女たちは本当に福祉の助けを借りずに売春すべきなんでしょうか?


後者だが、前後関係を完全に間違えた批判だ。

この母親は、ホストクラブに通いたかったのではない。
苦しい毎日から逃避したくてホストクラブに通ったのである。
ホストクラブに通う金欲しさに風俗で働いていたのではない。
生活苦を乗り切るために風俗で働いた。
だが、風俗で働いたことで、彼女の心は病んだ。
病んだ心を慰めたかったからホストクラブに通っただけだ。
本末転倒だが、それしか彼女に道はなかった。
シングルマザーとして生きるには、彼女には能力が足りなかった。
だが、彼女と同様の環境で、シングルマザーとして生活していける人間は、そう多くいない。


サンデル教授ではないが、ここで講義風に話を進めよう。

この児童虐待のケースにおいて、世論がこの母親を批判する根拠はどこにあるだろうか?

批判の集中するのは、2人の子供を、それも悲惨な形で死に追いやったことだろう。
小さな兄弟が部屋に閉じ込められ、食事さえも与えられずに、それでもひたすら母親を想いながら死んだ。
子供に対する同情的心情が、母親に対する憎悪を増幅させている。
人は、「人殺し」に対してなかなか寛容にはなれない。

母親としての「義務」を怠ったことに対する怒りもあるだろう。
「母親として当然行うべき子育て」をしなかったという批判だ。
これは、日本において子育ての責任を持つべきは親であるという固定観念が、より一層そう思わせる。
「母親として不適格な人間は、人間ではない。」と言わんばかりの罵詈雑言を浴びせられる。

これも「義務」と関係が深いが、
この母親がホストクラブに通うなどして育児を放ったらかして遊んでいたということも批判の対象になっている。
おそらく、母親が遊びに行った先がお花畑や海だったりしたら、世の中の反応も少しは変っていただろうが、
遊びに行った先がホストクラブやパチスロだった場合には、世の中の同情は期待できない。

また、これは厳しい指摘だが、こういう批判もある。
容疑者は誰にも助けを求めなかったし、また助けを拒絶した。
この母親には、最悪の事態を避けるための選択肢があった。
にも関わらず、この母親はその選択肢を選ばなかった。
この母親は助かるための「努力」をしなかった。
母親がどうなろうと、それは自己責任なのであり、彼女が助かろうがどうなろうが知ったことではない。
しかも、この母親は、自らの意志で助かる道を避け、自分だけでなく子供を犠牲にした。
やはりここでも親としての「義務」を負わなかった。


以上の、これらの批判には説得力があるのだろうか。
実は、これらの批判にはあるキーワードが深く関係している。

「人殺し」、「義務」、「努力」だ。

次回は、これらのキーワードについて考えていく。

社会保障という前に、そもそも人類は貧困に勝てるのか

2010-07-28 11:57:29 | 社会
最近、ベーシックインカムとかナショナルミニマムとか、そんな言葉が大流行しているようです。
かなりの知識人たちが口を揃えてそれらに言及しています。

ただ、私はこの議論に少し違和感を感じています。
ベーシックインカムを否定しているわけではありません。
むしろ、国家のリストラのためにもやるべきです。
複雑怪奇に入り組んだ行政の仕組みをベーシックインカムで統合して効率化を図るのは非常に有意なことだと思います。

しかし、私は、そういう議論の前に、するべき議論があるだろうと考えています。

どういう議論かというと、

そもそも我々には、我々全員の生活の質を保証するだけの力があるのか?

ということです。

多くの方が、それこそ高い意識をお持ちの方ほど、生活に困窮している人々や、将来の不安で震えている人々を助けたいと考えています。

「なんとかしなければならない。」
「この国の形を変える!」
「国の仕組みを変えて、新しい国家を構築するのだ!」
と考えている志ある、それこそ坂本龍馬のような人々は大勢いらっしゃいます。

しかし!
しかしですよ。

この国の形を変えたとして、それって本当に実現できるの?

「できるかできないかではない、やるのだ!」

やろうと思えばできるはずだ。ですか。
それはそれで気高き精神だと思います。
傾聴に値する意見です。
しかし、そのロジックは民主党の政権交代すれば何でもできると同じレベルのものです。

まず、我々は、我々の力を知るべきでしょう。
当Blogでいつも使う孫氏の兵法を思い出しましょう。

彼を知り己を知れば百戦危うからず。
彼を知らずして己を知れば一勝一敗。
彼を知らず己を知らざれば戦うごとに必ず危うし。

彼が貧困だとして、己は我々です。
今、我々はようやく貧困について知り始めた程度のレベルです。
己はどうですか。
我々は己について知っているといえますか。

貧困というのは、人類が生まれる前から、生物が生まれた時からずっと解決できずにいる問題です。
人類は、ほんのここ数百年というわずな期間、少し裕福になったということでしか過ぎません。
我々には、地球上から貧困を撲滅するだけの力があるのでしょうか。
これまで成し得なかったことが、どうして今、成し得ると確信できるのですか。

信じるのは自由です。
しかし、信じるだけでは状況は変りません。
我々には、まだ貧困を撲滅できる力はありません。

ないのです。

そういう都合の悪い情報を隠し、その上で砂上の楼閣を組み立てるばかりでは何も前には進みません。
これは、神の存在を無意識に是認している状況と同じです。
人類は(今でも)ある時期において、みな神の存在を前提としてあらゆることを語っていた。
それは時として、様々な時計の針を止めてしまいました。
現実を直視せず、己を知ろうとしなかったからです。

我々は現実を直視せねばなりません。
己についてもっともっと知ろうとしなければなりません。
利益を右から左に流すだけのゼロサムゲームはやめにすることです。

我々が、己から目を反らす限り、貧困という敵には勝てないでしょう。

[虐待] 本当の弱者は誰か?

2010-07-16 00:28:41 | 社会

【西淀川児童虐待死事件】虐待で衰弱死した聖香ちゃん。最期はベランダに放置され 「ここで寝る。おやすみなさい」(アルファモザイク)
http://alfalfalfa.com/archives/410603.html


大阪市西淀川区で昨年4月、松本聖香さん=当時(9)=を虐待し衰弱死させたとして、
保護責任者遺棄致死と死体遺棄の罪に問われた母親の松本美奈被告(35)の裁判員裁判の第3回公判が14日、大阪地裁(樋口裕晃裁判長)であった。
13日の公判で証言を拒否した内縁の夫、小林康浩被告(39)=起訴=の供述調書が証拠として採用され、検察側が朗読。
ベランダに放置された聖香さんの痛ましい最期の様子が語られると、傍聴席からすすり泣きが漏れた。

聖香さんは死亡前夜に小林被告から激しい暴力を受けてベランダにほうり出されたまま、翌日午後3時過ぎに亡くなったとされる。
検察側は、小林被告が見たベランダでの聖香さんの様子について
「横たわったまま右手を動かし『ひまわりを探している』と言っていた」
「(死亡直前の)午後3時前に『まだここで寝んの』と聞くと『ここで寝る。おやすみなさい』と言った。その後、身動き一つしなくなった」とする調書を読み上げた。

また、松本被告について「一番激しくたたいたりけったりしたときも、そばで『何でわからへんの』と聖香をしかっていた」などとする部分を朗読し、松本被告が虐待に同調していたと強調した。

一方、この日は弁護側の情状証人として松本被告の父親(66)が出廷。
事件当時の松本被告について「生活環境が苦しく、鬼の顔になっていた」と振り返った。

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132 まりもっこり(埼玉県) :2010/07/14(水) 21:43:11.82 ID:viTAj/BL

ひまわりのことは昔の母親の思い出なんだろうか・・・?

135 柔道整復師(関西地方) :2010/07/14(水) 21:44:10.48 ID:aBitf4DX

6 名前:名無しさん@十周年 投稿日:2010/07/14(水) 20:51:56 ID:2WPU7SjM0
『ひまわりを探している』とはどういう意味だったのだろう
4月にひまわりとは


105 名前:名無しさん@十周年 投稿日:2010/07/14(水) 21:10:37 ID:jlA03K4F0
>>6
前夫との離婚前、弁当もって家族で遊びに行ったのがひまわり畑だったんだよ。



私は、彼女が最後に見たのは、決して「絶望」などではなく「希望」だったと思うんだ。
最期の最期まで、彼女は信じていたよ。
「ひまわり」は"すぐそこ"にあるはずだって信じてたよ。

胸が痛む話だ。
だが、これを親のせいにしていたのでは問題は何も解決しない。
親もまた追い詰められたウサギのような存在でしかないからだ。

当Blogでは前に説明したが、「罪を憎んで人を憎まず」の本意は、人に罪をきせたり、罰したところで何も解決しないという意味だ。
攻撃者は常に防御者なのだ。
恐れるから攻撃する。
臆病者は人を攻撃するのだ。

もし、我々が本当に虐待を解決したいと思うなら、虐待するものを守らなくてはならない。
彼らこそが本当の弱者だからだ。
これは我々の直感に反するかもしれない。
攻撃者を守るなどということは。

だが、これが真実だ。
虐待によって殺された彼女は強者だ。
このチャレンジの勝者は彼女なのである。

現に、ありったけの不幸を背負う事になったのは、虐待をした側であろう。

若者は節約志向ではない

2010-06-24 16:49:51 | 社会
リンク先のブログの内容よりも、テーマに注目してしまった。

若者が節約志向になった理由(日本経済をボロボロにする人々)
http://blog.livedoor.jp/nnnhhhkkk/archives/65469571.html

「なぜ若者が節約志向になったのか?」

経済に詳しい人々はこういう。
「若者世代の相対的貧困化と世代間不均衡が原因だ」と。

確かに、主要因の一つなのであろう。
しかし、私は違う見方をしている。
そもそも私はこう見ている。

そもそも「なぜ若者が節約志向になったのか?」という問題設定がおかしい。

どういうことか?
説明しよう。

人類的スケールで眺めてみれば、若者は節約志向になんかになっていない。
人類学的に見てみれば、むしろ節約志向が正常であり、いや、それでもまだ日本の若者は異常なほど豊満人生を暮らしており、我々が「正常な消費性向を持つ若者」だと思っている若者こそ異常なのだ。

たったそれだけのことだ。

いいかな。
人類はずっと飢餓に近い状態を生き抜いてきた種だ。
人間の身体的構造も精神的構造も、節約志向に最適化されている。
そうしなければ生きてこれなかったからだ。

そういう視点に立ってみれば、近代の多消費生活は人類にとって不自然なほど不慣れなものだった。
そんな不自然な状態を生きていれば、生きるために必要な様々なシグナリング機能が狂うのは当り前である。
悪い例えかもしれないが、近代の人間達はドラッグ・ハイに浸っている状態で、次から次へと現れる問題を前にして、さらなるハイを求めているようなものだ。
シグナリング機能が狂うから、近代的な人々は、自分達の考え方や暮らし方が、自分達にどの程度破滅的な影響力を持つかわかっていない。

我々がまだ原始的な生活をおくっていた頃は、暮らしの中に発生する異常さや違和感に敏感に気づけただろう。
起きていることが、将来の自分や、自分達の家族、部族に与える影響についてのシグナルを察知して、反応できていたことは多かったかもしれない。
現代科学とは違って、気候変動や自然現象による化学的影響の変化などには気づけなかったかもしれないが。
ある意味で、我々はシグナル察知機能とトレードオフにして多消費生活を手にしていると言えるかもしれない。

上記の文脈で語るとすれば、若者は、今後来るであろう不安定な社会の予兆を察知して、それに向けて対応を始めているということだ。
若者からすれば当り前のことである。
それがわからない若者ではない人達は、シグナル察知機能が狂ってしまったからだろう。

消費することが正しいというイデオロギーは、資本主義のせいでもなければ、自由主義のせいでもない。
物事の本質を見ようとせずにひたすら走ってきた若者ではない人々の虚栄である。
自分達の信じる価値観が絶対だと思う時点で、彼らの環境適応能力は既に瀕死なのであろう。

はてさて