中国の大連にて、麻薬密輸罪で1人の日本人に対して死刑が執行されてしまいました。
日中国交正常化の1972年以降、初めてのことのようです。
また立て続けに3人の死刑が執行されるようです。
これはとんでもないことです。
日本という国は一体何のために存在しているのでしょうか。
なぜ、日本の政治家やマスコミや国民はもっと怒らないのでしょうか。
日本人がこういう問題について冷淡なのは、私は重々承知しております。
違法なことや人道に外れること、和を乱す行為をはたらいた者について、日本人は残酷なまでに見下します。
思い出してください、日本人達は渡航禁止令を出している国へ行ってテロリストに拉致された人々を徹底的に責めました。
オリンピック出場選手の服装がだらしないとして、制裁を加えるべきだという意見が噴出しました。
「麻薬を密輸しようとした奴なんか助ける必要はない。」
「むしろ日本でも麻薬に関する犯罪は死刑にしてもいい。」
「暴力団員なんか社会的に抹殺された方がいい。」
こんな意見が聞こえてきそうです。
ただ、それとこれとは別次元の問題です。
別次元の問題を混同して考えてはいけません。
ここで思考停止して論理の単純化に甘んじるようでは、この国の行方は危ぶまれます。
「赤野光信氏が死刑に値するかどうか」
という問題と、
「中国で日本人が中国の論理で裁かれた」
という問題は全く別の話です。
いいですか、これは国家間における非常に重要な問題です。
私には、赤野氏が死ぬかどうかなんて興味がありません。
人間はいつく死ぬし、生きていても他人に迷惑ばかりかける人は大勢います。
社会に害をなすマイノリティーは社会的に抹殺された方が、圧倒的多数の人々は生きやすいかもしれません。
しかし、中国の論理で日本人が裁かれて、その上、死刑ですよ。
法律というのは、神から与えられたものでもなんでもなく、自分達が考えた答えのようなものです。
日本の法律は、日本人が考えた社会的規範であり、ルールであり、モラルなわけです。
国によって法律が異なるのは、国によって価値観が異なるからであり、目指す生き方が異なるということです。
例えてみましょう。(これは論理のすり替えではありません。)
あなたは子供を育てています。
あなたの家では、子供はのびのび育つべきだと考え、順番待ちのような教育は緩やかにしています。
あなたは社会的な規範については、徐々に自覚していけばよいものと考えています。
あなたの子供が、お友達のおうちに遊びに行ったときのことです。
あなたの子供は、そのお友達の遊ぶおもちゃを横取りしました。
すると、お友達の親はあなたの子供を平手で打ちました。
子供は泣き、頬を腫らします。
あなたは、どうしますか?
ここでも"郷に入っては郷に従え"を通しますか?
文句をいいませんか、少なくても苦言を呈するでしょう。
「たしかに、お行儀の悪い事をした。しかし、そこまでやる必要はないだろう!!」と。
しかしお友達の親は言うでしょう。
「これは、"しつけ"です。我が家ではいつものことですよ。」と。
さて、あなたはどうしますか?
もしかすると、あなたの教育方針が、友達の親と同様に厳しいしつけを実施していたら、同意するかもしれません。
時代が昭和30年代なら、近所のオジサンにゲンコツを食らうのも許せたかもしれません。
でもそれは、同じ価値観を共有する人々の間だからです。
中国と日本、日本と中国、同じ価値観を共有していますか?
さぁ、あなたならどうしますか?
鳩山首相は所信表明演説で「いのちを守りたい」と声高に叫んでおりましたが、この出来事をどう説明するつもりなのでしょうか。
結局、ムラ社会からはぐれた奴は面倒を見ない。
そういう意味なのでしょうか。
むしろ、上記でした国家を親のように見る話は、パターナリズムの一種だとして、批判されるのでしょうか。
それならそれでいいです。
しかし、だとすれば、彼らの主張する政策は全てが茶番ということになるでしょう。
何はともかく、日本人がこの問題を全く重要視しないことに、この国の病巣は根深いと危惧するばかりであります。
このことについては、後日私的日本論の側から述べたいと思います。
日中国交正常化の1972年以降、初めてのことのようです。
また立て続けに3人の死刑が執行されるようです。
これはとんでもないことです。
日本という国は一体何のために存在しているのでしょうか。
なぜ、日本の政治家やマスコミや国民はもっと怒らないのでしょうか。
日本人がこういう問題について冷淡なのは、私は重々承知しております。
違法なことや人道に外れること、和を乱す行為をはたらいた者について、日本人は残酷なまでに見下します。
思い出してください、日本人達は渡航禁止令を出している国へ行ってテロリストに拉致された人々を徹底的に責めました。
オリンピック出場選手の服装がだらしないとして、制裁を加えるべきだという意見が噴出しました。
「麻薬を密輸しようとした奴なんか助ける必要はない。」
「むしろ日本でも麻薬に関する犯罪は死刑にしてもいい。」
「暴力団員なんか社会的に抹殺された方がいい。」
こんな意見が聞こえてきそうです。
ただ、それとこれとは別次元の問題です。
別次元の問題を混同して考えてはいけません。
ここで思考停止して論理の単純化に甘んじるようでは、この国の行方は危ぶまれます。
「赤野光信氏が死刑に値するかどうか」
という問題と、
「中国で日本人が中国の論理で裁かれた」
という問題は全く別の話です。
いいですか、これは国家間における非常に重要な問題です。
私には、赤野氏が死ぬかどうかなんて興味がありません。
人間はいつく死ぬし、生きていても他人に迷惑ばかりかける人は大勢います。
社会に害をなすマイノリティーは社会的に抹殺された方が、圧倒的多数の人々は生きやすいかもしれません。
しかし、中国の論理で日本人が裁かれて、その上、死刑ですよ。
法律というのは、神から与えられたものでもなんでもなく、自分達が考えた答えのようなものです。
日本の法律は、日本人が考えた社会的規範であり、ルールであり、モラルなわけです。
国によって法律が異なるのは、国によって価値観が異なるからであり、目指す生き方が異なるということです。
例えてみましょう。(これは論理のすり替えではありません。)
あなたは子供を育てています。
あなたの家では、子供はのびのび育つべきだと考え、順番待ちのような教育は緩やかにしています。
あなたは社会的な規範については、徐々に自覚していけばよいものと考えています。
あなたの子供が、お友達のおうちに遊びに行ったときのことです。
あなたの子供は、そのお友達の遊ぶおもちゃを横取りしました。
すると、お友達の親はあなたの子供を平手で打ちました。
子供は泣き、頬を腫らします。
あなたは、どうしますか?
ここでも"郷に入っては郷に従え"を通しますか?
文句をいいませんか、少なくても苦言を呈するでしょう。
「たしかに、お行儀の悪い事をした。しかし、そこまでやる必要はないだろう!!」と。
しかしお友達の親は言うでしょう。
「これは、"しつけ"です。我が家ではいつものことですよ。」と。
さて、あなたはどうしますか?
もしかすると、あなたの教育方針が、友達の親と同様に厳しいしつけを実施していたら、同意するかもしれません。
時代が昭和30年代なら、近所のオジサンにゲンコツを食らうのも許せたかもしれません。
でもそれは、同じ価値観を共有する人々の間だからです。
中国と日本、日本と中国、同じ価値観を共有していますか?
さぁ、あなたならどうしますか?
鳩山首相は所信表明演説で「いのちを守りたい」と声高に叫んでおりましたが、この出来事をどう説明するつもりなのでしょうか。
結局、ムラ社会からはぐれた奴は面倒を見ない。
そういう意味なのでしょうか。
むしろ、上記でした国家を親のように見る話は、パターナリズムの一種だとして、批判されるのでしょうか。
それならそれでいいです。
しかし、だとすれば、彼らの主張する政策は全てが茶番ということになるでしょう。
何はともかく、日本人がこの問題を全く重要視しないことに、この国の病巣は根深いと危惧するばかりであります。
このことについては、後日私的日本論の側から述べたいと思います。
しかしadvanced_futureさんは日本人っぽさを肯定してるのかと思っていたので意外です。病巣ですか?
内田樹リスペクトと記憶しているのですが…
今回の事件で問題なのは中国の倫理であり、advanced_futureさんはそこを指摘されているのだと思います。死刑制度自体の話になるかもしれません。それでも、日本人としては刑が重すぎると主張することしかできないでしょう。相手の考えを変えることは困難でしょう。
コメントありがとうございます。
私はこれまで「日本」についての状況説明をしていただけで、多くの場合あるべき姿を述べていたわけではありませんし、内田樹をリスペクトしておりますが、彼と考えを同じにしているわけでもありません。
以私は日本に「社会」と「個人」が輸入されてしまってから「日本人らしさ」のデメリットが際立ってきていると考えています。
どういう道を歩むべきなのかについては、追々語って行きたいと考えております。
その時にまた議論させていただけると嬉しいです。
>ttosiさん
コメントありがとうございます。
ttosiさんらしいコメントだな~と思いました(笑)
>中国での犯罪が中国の倫理で裁かれること自体は問題ないと考えています。そこは法律的な話です。中国人と日本人に刑の差別がある、ということとは違いますから。そこは平等なわけです。
↑ということは、ttosiさんは「郷に入っては郷に従え」を支持されるということですね。
私は、自分の子供がお友達の親に平手打ちされて黙って見過ごすわけにはいきません。
「なぜ平手打ちする必要があったのか?」「それが教育として本当に有効なのだろうか?」について議論したいと考えています。
お友達の親は、自分の教育方針が本当に正しいのかどうかについて、再考する姿勢が必要だと思います。
私は、自分の子供の親として、お友達の家の中であっても自分の子供の利益を考えたいと思います。
「子供は、親の所有物ではない。」と主張される方もいると思います。
私の考えはパターナリズムだと。
「国家が国民を守る必然性はどこにある?」と聞く人もいるでしょう。
しかし、私ならこう言い返します。
「国家が国民を守らなかったら、国民は国家の必然性を感じないだろう。なんのために国家は存在しているのだ?あなたは無政府主義なのか?」と。
例で言うと、「自分の子を平手打ちした相手の親の“方針”は分かった。でもその“やり方”は間違っていないか?」ということです。なので、中国で犯した犯罪を中国で裁くことには問題は全く無いが、その裁き方には大いに問題があり、問題があることを中国に主張することはできるし、しないといけない、と考えています。特に今回の件では国際感覚からは大きく外れているようですから。
返信ありがとうございます。
ttosiさんのご意見を理解することができました。
中国の国内事情も考慮しろ!みたいな意見も結構あるみたいですが、一体どこを見ているんだという気がしてなりません。
日本という国家は、国民が国家の所有物だと勘違いしてるんじゃないだろうか。という気がしています。
国家と国民の関係についてどうしてこれほど無頓着でいられるのか、国として自覚のない国家なのは間違いないようです。
国民の国家に対する信頼なんかまるで興味がないようです。
それだから見当はずれな政策しか出てこないんでしょう。