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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

「数(量)」と「率」は使い分けよう

2010-03-09 11:42:08 | 社会
就職氷河期 サイコー!(Chikirin)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/comment?date=20100309

↑内容には同意するが、ちょっと違う視点を。

まず、新卒採用率は減っているが、新卒採用数がそれほど減っているわけではない。
「数」はさほど変わっていないが、受ける大学生が増えているもんだから「率」は下がる。
だから採用「率」を使って時系列的なトレンドを説明するのはミス・リーディングになりやすい。

また、学生の質が落ちたというが、これも基本的に間違い。
少子化で子供の「数」が減っているのだから、優秀層の「率」は変わらなくても「数」は減る。
前にも述べたが「最近の若者は~」議論は5000年前から繰り返されている大人の嘘。
いかに社会が情報化しても世代間学習の難しさが見て取れる。

(これは違う話題だが)
「インド工科大学に入れるのは東大工学部に入れるうちのの10人に1人。」って、人口が10倍なんだから当り前。
インド人が日本人より優秀なわけではない。
これは「数」ばかりに着目して「率」を忘れているからこうなる。

インド式教育法が話題らしい。
2桁の掛け算を暗記するか計算に強い?
(そればかりじゃないけど、そこばかりクローズアップされるから)
馬鹿もほどほどにしろといいたい。
たぶん、こんな教育法を話題にするのは計算の出来ない連中の親なのだろう。

日本には最強の暗算技術「そろばん」があるだろう。
これで4桁5桁の掛け算も割り算も余裕。
(子供の頃、先生にそろばんで頭叩かれながら覚えたものだ・・今じゃ有り得ないな)
私が高校生だった時、仲の良かった友人は、暗算のかなり高い段を持っていて、高等式を一瞬で解いてしまう荒業を見せていた。
私が答えを求めて数通りの方法で計算している時に、彼は圧倒的なスピードで総当り計算をして一瞬で問題を解いてしまうのである。
(そんな彼が人間的に私より優れていたかというと、単に数学が他の人よりできるだけのただの人だった)
だが、そんな彼も、安いPCにも勝てない。
この時代、暗算能力がそれほど重要とも思えない。
論理的思考能力としての数学力はいくらでも役に立つが。

って話になる。

休日における国家の役割

2010-03-05 13:53:55 | 社会
連休を地域別に分けて、渋滞を緩和するとともに、観光需要の有効活用を促そうとする提案がされている。

連休が地域別に分けられると「異なる地域に住んでいる人と会えなくなるじゃないか」という批判が多い。

私はこの問題を中途半端なものだと見ている。
それがなぜかということについて述べたいと思う。

最初に明確にしておくが、私は渋滞に辟易しているし(高速道路が低速道路になるんだもの)、連休中に観光地に行くと明らかに許容量を超えている様(東京なんて毎日許容量オーバーしているけど・・)を見て実感しているだけに、休みが分散化されることには大賛成である。
もうずっと何年も望んでいることである。

首都圏で生活している人ならわかると思うが、毎日渋滞、毎日ラッシュ、毎日お祭り騒ぎみたいな中にいたら、「休みくらい静かにしたい」と思うのは自然なことだろう。

で、遠方の親族や友人と会えなくなるという問題設定だが、そもそも論に立ち返って考えればいいのではないかと思う。

我々は、「休みをいつとるか」ということまで国家に介入を許すのか、ということについて考えなければならない。
私の立場から思うのは、国家は「休み権利」のみを保証してくれればよく、「いつ休むか」なんてことは「個人の自由」に任せるべきだ。

そもそも休日を国家が規定しているのは、規定しなければ「労働者の休む権利」が保証されないからであって、労働者が自由に休みがとれるのであれば、休日日数だけ決まっていれば、いつでもいいわけである。

もう一度繰り返すと、「いつ休むべきか」ということを国家が決めなければ労働者が休めない状況が現実的にはあるから、国家が大号令を下すわけだ。
だから、労働者が自由に定められた休日数分だけ休めるなら、国家が休日を決める必要がない。
こういう意見に対して反論はあるだろう。
例えば、国民の休日には、それぞれ意味があると。
春分や秋分の日には自然を敬い、敬老の日には高齢者を敬う、といった形で節の変わり目で、普段の生活を見つめ直す機会を設けていると。
そういう機会を国家レベルでもうけることは社会的に有意義であると。
一部には、天皇誕生日や建国記念日に特殊な思いを持つ人々もいる。

私は、こういった意見を否定しない。
何にせよ、考える機会があるというのはいいことだと思う。
だが、それを国家が強制する理由がどこにある。

国家主義者には一蹴されるであろう。
彼らにとって国家とはホームベースであり、守るべきものであるからだ。
だが、私は国家というシステムは、国家のためにあるわけではなく、一個人のためにあると考えるので(一個人が集まって国家システムを構成する時、一個人は国民になる。)、国家は一個人の自由(利益)を侵害するような場合には注意深くならなければならない。
国家を守ることが最終的に一個人を守ることになるのだという発想はあるだろう。
だが、その発想は一個人の犠牲を容易に許容する。
つまり、一個人を守るために国家を守るのだが、国家を守るために一個人を犠牲にすることがある。という矛盾を抱え込む。
もちろん、たとえ国家が一個人の利益を重視しようとしたとしても、全ての一個人の利益を尊重できる保証はない。
一個人のために国家が危ぶまれるような状況に置かれるのだとしたら、それはそれで問題であろう。
全体最適視点と、個別最適視点との対立がここにある。

しかし、私は国家システムの捉え方次第で、この矛盾対立はいくらでも変わると考えている。
つまり、全体最適視点でいうところの「全体」を定義する国家というシステムを定義しなおせば、「全体」の意味が変わるのである。

一個人を守るために国家を守る、
その国家を守るために一個人を犠牲にする必要がある、

という場合に、国家の定義を変えればいいだろうという意味である。
「国家システムを考え直せ」という問題意識である。
だいたい「国体(簡略文字使用)」などと叫ぶ人々は、国体の意味など理解しておらぬであろう。
「国体」など実態なき概念である。

そういうと、またこういう反論が出るであろう。
「そんな柔な理想主義では政治はできない。」
「敵はこちらに戦う意志がなくても襲い掛かってくる。」
などというだろう。

そうなのだ、頭は柔にしておかなければならない。
「敵が襲い掛かってきたらどうするか」という問題設定は有意であるが、そればかりを強調するのはナンセンスである。
なぜなら「敵が襲い掛かってこないようにすること」も国家の選択肢の一つだからである。

そういうと、こう反論が出るだろう。
「時が戦国時代ではそうも言っていられないだろう」と。
なるほど、それは一理ある。
問題無用で征服してくるやつらもいるからだ。
確かに、そういった瞬間風速を止めることはできないかもしれない。
だが、これまで暴力的征服によって支配力を拡大できた勢力はあったであろうか。
史上最大の国家となったモンゴル帝国ですら統治においては寛容こそがポイントとなった。
ローマ帝国してもしかりである。
圧力による支配は持続性がないのである。
だから、力による支配は長続きしない。
(歴史的に短くてもといっても人の一生からすると長いかもしれない)

そういったことは、これだけ情報化された世界では共有される事実となる。

しかしながら、北朝鮮が核ミサイルのボタンを押さない保証はない。
可能性として0にはならない。限りなく0に小さくてもだ。
だから、そういう人と相互理解を得ることは難しいかもしれない。

話がそれたので元に戻そう。

私は、国家が最低休日日数を規定することには賛成だ。
そして、労働者の権利を保障するために、その日数を保証するための法的措置をとることにも賛成だ。
だが、国家が休日を取る日を強制するのには反対だ。
まして地域別などというのは全く意味をなさない。
経済は休日と関係なく動くからだ。
それぞれの分野で、それぞれの都合でもって休みを取るのが最善だと私は思う。
遠方の人と会うのには、休みを会わせればいい。
休みをとる権利を保障することを国家の役割としたい。

私はそう考える。

スポーツ人口

2010-03-01 20:32:20 | 社会
先週のBSフジ プライムニュースで、スポーツジャーナリストの玉木正之氏、東大の松原隆一郎氏、河野太郎がスポーツについて語り合っていたのだが、その言葉に納得してしまった。

この話の前提:
まず、国策としてメダルを取る必要があるのかないのか、という話があて、参加者はみな「そりゃ、それはみんなの考え方次第」で一致。
メダルとることを国家スポーツの目的とするのは、共産主義国などのやることで、そういう国はメダルはとれるが競技人口が少なかったりする。
代表例は北朝鮮だ。
一部のエリート・スポーツ選手を英才教育で育てるわけだ。
「何を目的にスポーツ振興すべきなのか?」はよく議論されたしで、そんでもって国家がどれだけ介入すべきかには議論が少し盛り上がっていた。
基本的にもっと金かけろ派はいない。
とりあえずいろんな組織が介入していて、選手に金かかっていないのは問題視していることはみな共通。

そんな話をしていると、時間があれば、まぁ自然な流れとして、日本人ってオリンピックやワールドカップで結果に期待しがちなのはなぜなのかという話になるわけです。

司会者:
「なぜ日本人はメダルにこだわってしまうのですか?(そのときだけナショナリズムに目覚めるのは?)」

玉木氏:
「そりゃスポーツに興味ないからでしょう。」
「だからメダルとかに関心がいくし、その方が話として面白いから。」

妙に納得した。
「スポーツに興味ないから。」その通り。
人間ってやつは、あまりに当り前のことをズバリと言われると、すごい納得したりするものだ。

そこから先について考える気にもならなかった。
「なぜスポーツに興味ないのか。」とか「他の国はどうなんだ?」とか。
たぶん、自分の経験的にも納得するものがあったのだろう・・。

スポーツと国家 Part2

2010-02-26 15:25:35 | 社会
なんだか今日は数を稼ぐために質を無視しているような感じだ・・
前回のエントリ(スポーツと国家)で、私が「スポーツを擁護している」と誤解されている方がいるようなので補足する。
どうやら「税金によるスポーツに対する投資」に批判的な人が結構いるようだ。
費用対効果の観点からみて、ナンセンスかもしれないと。
そう考える人は「投資」について視野を広げると、私の言うことも理解できるだろう。

私にはエンターテイメントを楽しみたい欲求はあるが、「子供達に夢を。」なんて文化論を振りかざすつもりは毛頭ないし、「国威発揚」なんてものを考えるのも馬鹿げていると思っている。
ただ、単純にスポーツを「投資」として見たときの社会的価値を考えれば「スポーツにもっと投資すべきだ。ただし額は要検討。」ということを言っている。

スポーツにどのような投資効果があるか考える。
他に思いつくものあったらどんどん教えてください。

スポーツ用品ビジネス
スポーツ観戦ビジネス
スポーツ施設ビジネス
スポーツ育成ビジネス
スポーツ観光ビジネス
広告キャラクター効果による他ビジネス支援効果
体力の健全的消費による犯罪率の低下
社会性の教育効果
職の多様性の宣伝効果
家族親交効果
地域コミュニティ親交効果
組織親交効果
健康促進効果による医療費削減効果と消費活発化効果
通信・映像機器への消費活発化効果
etc...

1人スーパースターが生まれれば、その周りに大きな経済圏ができるし、スポーツ振興による経済の活発化もあるだろう。
全部合わせれば、投入している税金を遥かに超える効果が得られるのではないか。

日本には「投資」という発想が根本的に欠けているし、「投資対効果」の「効果」の部分が狭すぎる。
なぜかといえば、武士道が「合理」を嫌うからである。
日本の美徳は利益を嫌う。
「投資」は「効果」を期待する野暮なものなのだ。
だが、その「効果」をどう定義するかによって、日本人はこの壁を乗越えることができるだろう。
「効果」=「利益」が金銭的なものだけとは限らない。
(結果的に金銭的なものになるかもしれないが)

若い世代のコミュニケーションの変化

2010-02-25 13:01:15 | 社会
昨日「宗教的大変革の時代」というエントリを書いたが、これまた社会学者による素晴らしいエントリを見つけた。
社会学というと知的教養にしかならなかったけど、今後は制度設計に関して積極的に関わるようになるのかもしれない。
「経済」からの要請で「社会」を規定するのか、「社会」からの要請で「経済」を規定するのか、この攻防は面白いのではなかろうか。
オープン・サイエンスの時代、学際的に考えれば「社会経済」なるジャンルが出来ようものだが、統合されるのはまだまだ先なのかもしれない。

ブログのエントリとしては少し長いですが、若年世代の変化について網羅的に述べられており、勉強になるので一読することをおススメする。
(本を買って読んだ方が早いのかな・・まぁ無料だから)
単純にまとめてみよう。(途中息切れ・・)
基本認識として当Blogのものとほとんど違いがないと思われる。
(もちろん程度はLink先がいくつも上)

若い世代のコミュニケーション ―その変化の背景そして処方箋― (宮台真司 )
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=844


社会学の問題設定は、心理学との違いで言うと分かりやすいでしょう。心理学のようにミクロな問題をミクロな要因ので説明するのではなく、社会学はミクロな要因をマクロな要因から説き起こして説明する

1 動機不可解な少年犯罪の激増


まず現実として、少年犯罪はピークの1/3~1/5に減少している。
ただ、動機としてよく理解できない事件が増加していると認知されている。
しかし、「精神障害」と「人格障害」とは分けて考える必要がある。
前者は「心の病気」で、後者は「病気ではないけれど、感情の働きが普通でない人たち」。
つまり、「病気が悪いのか、性格が悪いのか」という区別があって、性格が悪い場合には、普通に罰せられ、「感情の働きが普通でない」「感情プログラムのインストールに失敗した」と表現される。
しかし、最近は何が標準的な「感情プログラム」なのか分からなくなっている。
社会成員が互いの感情を見通しにくくなり、勢い犯罪の多くは動機不可解になり、社会成員に不安が広がっている。

感情の働きは習得的で、何が標準的な感情プログラムなのかを先験的には言えない。
感情の働きの正しさや適切さを判断する基準は社会的なものだからである。
感情プログラムはどういうふうにインストールされるのか。
普通の人は教育だと考える。
親や教員が何を教えるかが、子どもにインストールされる感情プログラムを決めるのだと考えがち。
その証拠に、道徳教育や、感情教育などの必要性が、声高に叫ばれている。
しかし、社会学者の大半は、そうした考えかたについて懐疑的。
なぜなら、「教育意図の失敗による社会化の成功」があるから。

社会学では、教育意図の失敗は、社会化つまり「社会がまともな感情をインストールする働き」の障害にならないと考える。
むしろ「教育意図の成功を以て教育の成功だと見做す」ような甘えを警めるのが、社会学的思考。
家庭も学校も通過点で、学校や家庭で「いい子」であることが、社会をちゃんと生きられることを保障するわけがない。

社会が複雑になると、いろんな人がいるので、共通の前提を当てにしにくくなる。
すると、社会成員たちは、共通の価値観を内蔵していることよりも、監視と処罰をちゃんと施すことを、頼りにするようになる。
社会学では「価値コミットメントからアーキテクチャ(しくみ)へ」といい、そういう方向に社会が進むほど、「ちゃんとした価値観を持った人から社会を構成しなければならない」という考え方が廃れる。

背景には、社会的流動性の増大がある。
グローバル化すなわち資本移動自由化が進み、金も人も国境を越えて移動するのが当たり前になれば、かつてのように共通前提をベースにして社会を回すのは難しくなる。
だから、放っておけば、この流れは不可避的である。

動機不可解な犯罪が増えてきたのは、単に性格異常や人格障害が増えたという話でなく、社会的流動性の増大で、何が標準的な感情プログラムなのかが自明でなくなって、互いの動機が見通しがたくなった結果だ。


2 解離化・鬱化する若者の激増


解離化とは、一人の人間の中に複数の人格が存在して、記憶の共有がない状態で、「キレる」はこれに近い。
 「キレる」とは、感情の継続性の中で喜怒哀楽の起伏があるというより、ばちっとキレた瞬間の前と後でリアリティーが違ってしまうので、キレた状態から回復すると「何で俺はあんなことをやってしまったのか」となるケースである。
解離化は過剰流動的な社会への適応で、この社会は解離を奨励する社会である。

かつては「自己実現する」がキーワードだったが、最近は「KYを回避する」つまり「場に応じて適切な振る舞いをする」ことが推奨される。
過剰流動的環境は、人格システムに巨大な情報処理負荷をかけます。この負荷を、単一のCPUで処理するより、複数のCPUに処理を分散して緩やかに結合するほうが、情報処理能力があがる。

「古典的な鬱」は自罰傾向が強いのに対し、「軽症鬱病」は他罰傾向が強かったり、他罰傾向と自罰傾向を頻繁に交替します。自分を責めたと思うと他人を攻撃する人たちが増えている。
「古典的な鬱」の場合、従来「自分について理想が高いから、理想の自分から自分が離れるのが怖くて、人とコミュニケーションできなくなったり表に出られくなるのだ」というふうに言われてきたが、「軽症鬱病」にそうした傾向はなく、非社交的どころか、むしろ社交的な若い人たちが「軽症鬱病」にかかりやすい。
非常に社交的な人間が、ある時点を境に突然人前に出てこられなくなる。

一般的に過剰流動的社会では、関係性の正当性を弁証し難くなります。「私でなければいけない理由」がどんどん希薄化する。
それゆえに、社交的な人ほど、逆説的な状況に引き裂かれて、退却傾向に陥りやすくなると考えられる。
過剰流動的な社会は、関係性をつまみ食いするようになるので、人格の「まともさ」を要求しなくなる。
むしろ、場面に応じて最も合理的な振る舞いをすればそれでOK。
自分や相手が何者なのかは問われない。
「まともに生きよう」よりも「うまく生きよう」に傾くのが合理的。


3 関係性が脱落した若者
 (1)「ケータイ小説的なもの」の拡がり


自己同一的な主体として完成されるという「自己形成」の観念は廃れた。
「それってある」「気持ちはわかる」みたいなものだけで、モザイク的に世界が構成されていく方向。


 (2)「彼女がいても非モテ」の拡がり


疑心暗鬼が生じて自分も二股三股の保険をかけることになりがちで、「たこ足化の悪循環」が回る。
悪循環の中で、些細なトラブルがあるたびにホッピングし、交際した相手の数が増えても、関係の履歴が積み重ならない。


 (3)「援交第一世代」から「第二・第三世代」へ


携帯代を稼ぐ必要で援助交際をするケースが増えた。
それまで常習援交が多かったのが、臨時援交が増えた。
昔のように貧乏な家の子がやっているのとは、全くイメージが違う。
彼氏や親に迷惑をかけたくないというコミュニケーション的な理由。


 (4)「プロフサイト」がもたらす疑心暗鬼


ブログやSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)やプロフサイトを含めて、日記を不特定多数に公開するような「疑似プライベート空間」が拡がったことが、昔は親しくあり得た人間関係に、疑心暗鬼を持ち込んでいる。
オンラインでダダ漏れになることが恐くて、オフラインで喋りたいことが喋れなくなってしまう。
これが「プロフサイトがもたらす疑心暗鬼」の典型面。

全体が示すのは、関係性を築くための前提が空洞化している現実。
日本人は、相手と前提を共有していると思えないとコミュニケーションを始められない。
関係性の空洞化の背後にあるのは、共通前提の消滅です。共通前提が消滅したので、関係性を深められない。
代わりに表層的なプロトコル、つまりコミュニケーション手順の形式ばかりが発達。


背景
1 理論編:〈システム〉全域化による〈生活世界〉空洞化


マックス・ウェーバーの言葉を使えば、物事を計算可能にする手続が一般化した領域が〈システム〉で、例えば役割&マニュアルが支配的になった領域。
それに対し、残余の領域が〈生活世界〉で、役割&マニュアルではなく、善意&自発性が支配的であるような行動領域。
〈システム〉と〈生活世界〉の決定的違いは、簡単に言えば、〈システム〉は匿名的で、入替可能で、過剰流動的であるのに対し、〈生活世界〉は記名的で、入替不可能で、流動性が低い。
役割をマニュアルどおり演じられれば誰でもかまわないのが〈システム〉で、グローバル化に適しているので一挙に全世界化した。

ウェーバーは〈生活世界〉が〈システム〉に置き換えられていく動きのことを「近代化」ないし「合理化」と呼んだ。。
この意味での「近代化」が進むと、いずれは必ず「モダンからポストモダンへの変化」という逆説が起こる。

どんな逆説か。
〈生活世界〉が〈システム〉に置き換わっていくプロセスの当初においては、〈生活世界〉を生きる「我々」がより便利で豊かになるための適宜(手段)として〈システム〉を使うのだと、自己理解できる。
ところが、〈システム〉がある程度以上に広がって〈生活世界〉が空洞化すると、もはや「我々」が〈システム〉を使っているとは言えなくなり、「我々」や〈生活世界〉というイメージすら〈システム〉の構築物だと理解する他なくなります。
そこでは「主/従」「目的/手段」の図式が壊れる。

従来、共同体の自立的な相互扶助によってまかなわれていた便益が、市場サービスや行政サービスから調達されるようになる。
公共性の観念が一変してしまうことがポイント。
「自分たちでできることは自分たちでやる(社会でできることは社会でやる)、それができない場合に国家を呼び出す」という図式が消える。

プライベート(私的・個人的)な領域がガチンコで国家に向き合うようになる。
心細くなった個人は、相互扶助を頼らず、直ちに国家の呼出線を使うようになる。

従来は「知らない人でも信頼できる」という前提だったのが、「知らない人は信頼できない」という前提に変わる。
その結果、市場ではセキュリティ産業が隆盛になり、行政は監視カメラ化や警察官増員の方向に動くようになる。
「不安のマーケティング」と「不安のポリティクス」が社会を覆い、社会のどこのかしこも、不安をベースにしたポピュリズム(人気主義)が支配するようになる。

また、〈生活世界〉が空洞化して〈システム〉が全域化することは、従来の人間関係の距離空間が変わることを意味する。
ひとつ屋根の下の家族よりも、出会い系でやりとりしている知らないおじさんの方が、よほど親しいという現象が起きる。

理論的には〈生活世界〉が空洞化して、それを〈システム〉が置き換える動きが生じ、それゆえに社会イメージが変わり、結果として、社会の中で我々がなすべきことのイメージや、国家がなすべきことについてのイメージが変わった。


2 歴史編:二段階の郊外化による〈生活世界〉空洞化


第一次郊外化=団地化=[地域空洞化×家族内閉化]と、第二次郊外化=ニュータウン化=[家族空洞化×市場化&行政化(第四空間化)]の、二段階のステップで、1985年に、それまであり得なかった振舞いが可能になる空間が突如出現した。

社会がそういう変化をしてきたことを主題的に議論したことがあったか。
そういう変化がどういう良いことと悪いことをもたらしたのか。
利害得失表をきちんと議論していない。
それが処方箋に絡む重要な問題。


処方箋


日本は欧州的方向と米国的方向のどちらを選ぶのか。実際のところ、米国的な処方箋に思考停止的に追随した結果、米国社会とは文脈が全く違うがゆえに、米国では起こらなかったような混乱が日本で起こるようになった。


1 欧州的処方箋
2 アメリカ的処方箋

スポーツと国家

2010-02-24 17:11:49 | 社会
題名のわりにテキトーです。

浅田真央はよかったが、キムヨナがもっとよかった。
オンタイムで見ていたが、素人目にもはキムヨナの方が完成度が高い気がした。
解説者によれば出来栄えの差が出たということだそうだ。(本当のところは知らないが)
両者ともこれまでない選手なのだと思うが、Jr.の後に浅田の方が上手だったことを考えると、その後逆転されたことになる。
コーチやスタッフの差が指摘されている。

よく、諸外国が国策として選手強化に乗り出しているのに、日本は取り組みが足りないと言われるが、これは結論を急ぎすぎなのではないか。
金メダルを取ることにこだわって国家の介入を無批判に求めるのは危険ではないだろうか。
スポーツ予算は事業仕分けで削減対象になりやすそうなものだが、政治家は陳情されれば受けざるを得ない雰囲気がある。
スポーツで国威発揚を促すのはなんとも全体主義的な気がする。
国民のエンターテイメントとしてスポーツ予算つけるのも・・という気もする。

ただ、職の多様性があった方が日本社会の多様性も出ていいと思う。
個性を開花する場面も増えて、そこから派生的に生まれる経済も文化も元気もあり、日本を活性化させるためにはいいだろう。
そのためのコストとベネフィットのバランスがどうなのか、というのはさっぱりわからない。
どの程度の多様性があればいいのかもわからないし、どの程度のコストが適切なのかもわからない。

とにかくフリーが楽しみだ。

話が急激に変わるが、浅田真央選手の姉の浅田舞さんってあんなにキレイだったっけ?
(フジテレビ見てた人じゃないとわからないだろうけど)

[追記]
「スポーツ後進国」の元ネタは↓のようです。
私も流行に乗ろうと噂話に飛びつくのはマスコミ体質と変わらぬようです(笑)

スポーツ後進国 日本(清水宏保)
http://www.asahi.com/olympics/columns/from_vancouver/TKY201002230298.html

宗教的大変革の時代

2010-02-24 12:14:54 | 社会
これは素晴らしい内容だ。
当Blogで繰り返している日本に輸入された「個人」と「社会」についての話がもっと賢くまとめられている。
是非リンクを辿って原文をお読み頂きたい。

システム間移行と宗教戦争(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51381858.html
(強調は私によるもの)


いま日本の直面している変化は、人々が自覚している以上に大きなものである。それは伝統的な共同体から日本人が継承した長期的関係によるガバナンスから、近代西欧に特有の契約社会への移行だ。

...11世紀にカトリック教会によって西欧文化圏が統合されて普遍的な教会法の支配が成立したことが、近代社会の決定的な要因だった...

...宗教改革によって自律的な個人の契約(covenant)による組織としての株式会社ができたことが、西欧の成功の原因だったと結論している。他方、ファーガソンもいうように、株式によってリスクを分散する契約としての株式会社も重要なイノベーションだった。

近世の欧州で続いた宗教戦争の原因は、経済システムが契約ベースに変わったのに対して、カトリック圏の伝統的文化が適応できず、それが宗派間の争いとして表面化したことにあった。著者が強調するのは、経済的な土台が法的な上部構造を規定するというマルクス以来の図式を逆転し、宗教的文化が法的な規範の基礎となり、それが経済システムの構造を決めるということだ。

ゲーム理論的に見ると、商圏が拡大するにつれてグライフの描いたマグレブ商人(長期的関係)からジェノヴァ商人(契約)への覇権の移行が起こったわけだが、「下部構造」としての宗教が変わらないまま「上部構造」としての経済だけが変化すると社会全体にひずみが生じ、それがイデオロギー対立を生み出す

契約ベースの社会は、生まれたときから快適なものではなかった。それは人々を不断の競争にさらし、貧富の格差を広げ、伝統的な社会を破壊する。それを神の秩序に反するものとして攻撃したカトリック教会のイデオロギーは、今日「市場原理主義」を攻撃して貧しい人々に施しを与えようとする民主党に似ている

しかし経済圏がグローバルに広がるときは、両者の効率の圧倒的な差によって、このシステム間移行は避けられない。それはかつては100年以上にわたる宗教戦争を引き起こしたぐらい大きな変化であり、平和裡に進むとは限らない。おそらく日本でも、もっとも大きな変化はこれから来るだろう。


勝手に当Blog流に翻訳する。

法的な規範の基礎は、「それが正しいのか、悪いのか」という道徳や倫理といった宗教的な文化によって決まる。
(何を取り締まるべきか、何を禁止すべきか、何を推奨すべきかといったことは宗教的な要素によって決まる。)

経済は、その基本的にその法体系の枠組みの中で行われるため、「宗教的文化が法的な規範の基礎となり、それが経済システムの構造を決める」といっていい。

しかし、知性というのは飽くことを許さないし、知的向上を目指さずにはいられない。
「こうすればよりうまくいく。」という改善努力が積み重なると、ある時、既存の枠組みをはみ出るイノベーションが生まれる。
上部構造である経済が、その下部構造である法体系をはみ出る現象が起きるが、しかし実利として経済が勝れば、経済は下部構造である法体系にのみ規定されない道を歩む。

こうなると「下部構造の宗教的文化が変わらないまま、上部構造の経済だけが変化すると社会全体にひずみが生じ、それがイデオロギー対立を生み出す」という状況が生まれる。
これまで「正しい」とされてきた枠組みを守ろうとする人々と、枠組みをはみ出して実利を得ようとする人々の間で思想闘争が起きるのである。
それは、既存の「正しさ」と新しい「正しさ」との闘いなのであるから、最終的に下部構造の法体系の基となっている宗教的文化に対する攻防なのである。
これは宗教的戦争の基礎となる。

当Blogで繰返し述べてきたように、明治維新後、特に戦後に日本に入ってきた「個人」と「社会」をベースとした経済は、今まさに日本の宗教的文化に対して闘いを挑んでいる状態ともいえる。
「契約(個人)ベースの社会は快適なものではない。人々を不断の競争にさらし、貧富の差を広げ、伝統的なコミュニティを破壊する」

この闘いの行く末は自明ではないが「しかし、契約(個人)ベースの効率性が圧倒的に高いために、この流れは避けられない。」のだけは確かである。
鎖国でもしない限り、否応なしに、変革を迫られるのだけは間違いない。

当Blog流にいえば、混血による融合は現在進行形の構造変化なのである。

「これは、過去に西欧においては宗教戦争を引き起こしたぐらいの大きな変化であり、日本でも同様の変化が起きるであろう」ということだ。

「国母問題」の本質 私的日本論の側からの考察

2010-02-18 16:38:48 | 社会
ttosiさんはじめ、皆様からのコメントに期待しています。

スノーボードの国母選手の問題で書きたいことは山ほどあったのだが、既に見識ある(?)人々のブログで取上げられていたので、あえて静観していた。
ところが、当Blogのベテラン・コメンテーターことttosiさんに意見を求められたので黙っているわけにはいかない。
できるだけ他のブログで取上げられた内容には触れずに、違った視点から個人的見解を述べることにする。

基本的に下記Blogsの内容に同意しているので、参考にしてほしい。

国母選手批判が日本のイメージを悪化させている(国母選手頑張れ!)
(Nothing Ventured, Nothing Gained.)
http://esquire.air-nifty.com/blog/2010/02/post-c213.html

一億総ヤクザ(深町秋生)
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20100215

「品格」は他人叩き大好き無能者の最後のよりどころ(NC-15)
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20100216/1266252634

ルールと価値観(河野太郎)
http://www.taro.org/2010/02/post-716.php

さて、個人的見解を述べることにしよう。

私は、今回の問題を、最近の当Blogの流行でもある「日本論ネタ」として語りたいと思う。
(ということで、相変わらず抽象論に終始します。)

まず、「なぜ国母選手は批判されるのか?」という疑問にお答えしたい。

それは、「和を乱す人物」と判断されたからである。
「品格」というのは方便で、実際は和を乱すやつが嫌いなのである。
なぜ和を乱すやつが嫌いなのか?
それは日本人が長らく「和を尊ぶことで生きてこれた」という厳然たる現実を経験的に理解しているからである。

(いつもの繰返しで申し訳ないが)
日本人は、古来より生き残るために和を尊んできた。
しかし、和を尊ぶということは、「個人」よりも「場」を重要視するということである。
「個人」と「個人」との境界線を曖昧にし、「場」に溶け込ませるのだ。
そこに「個人」は独立して存在するわけではなく、「場」との関係性の中でのみ存在できる。
それは、時として「個人」としての人間性を否定することにも繋がる。
西欧諸国にみられる「神の前で平等で自由な個人」という発想が日本にはない。
「個人」が存在しないのだ。
だから「個人」を前提とした仕組みや風習が日本にはなかった。
あるのは、「場」を存続させるためのものだけであった。

しかし、日本人が「和を尊ぶ」のは、それが最善と信じたからではない。
そうしなければ生き残れなかったという、限られた選択肢の中での苦渋の決断の積み重ねであった。
それが人間性を開花させるわけでも、生まれながらの幸福を意味するわけでもなかった。
だから、日本には「はかなさの美学」や「死の美学」、「滅びの美学」が存在する。
長い間、そういった環境に耐え忍ばなければならなかった日本人が生み出した知恵だ。
この意識は、「御恩と奉公」、「エコノミック・アニマル」、「村八分」、「一億層中流」、「出る杭は打たれる」などの日本的文化の底辺にある。
「場」の親密性を共有することが最大の喜びである必要があったから、それが素晴らしいと礼賛する伝統と、そうではないものを排斥する生活習慣が生まれたのである。

日本人が和を尊び、そこから逸脱するのを許さない理由は以上である。
その概念を共有することを求めるのは、品格原理主義者だからではない。
それが日本人であるという彼らなりの信念が埋め込まれているからだ。
彼らは、日本人に対してどこまでいっても「日本人的であれ」と主張しているのである。
バンクーバー・オリンピックに行っても「日本人であれ」、モンゴル人が相撲をやるにも「日本人であれ」、ビジネスやるにも「日本人であれ」だ。

オリンピックでのメダルや結果や、競技が選手に与える影響うんぬんよりも、まず「日本人であれ」だ。
税金やら礼儀やら品格なんてものは建前に過ぎない。


今後説明するのが面倒なので「聖徳太子の呪い」とでも言おうかな。
別に聖徳太子のせいじゃないけれど。。

では、次に「なぜ国母問題で意見が対立しているのか?」について説明しよう。
(当Blogを長らくご覧頂いている読者様には、結論が見えているだろうが・・)

国母選手が批判される理由は「日本人的ではなかったから」だということがわかったが、主にネット上(有名ブログ等)では、国母擁護論(というより国母批判派への批判)が多い。
これはおかしい。
国母選手は「日本人的ではない」から批判されているのに、同じ日本人が「そういう批判はおかしい。」と主張し意見対立が起きているのだ。

「そりゃ、あなたの「日本論」が日本人を一般化していることに無理があるってだけの話しだろ?現代では、あなたのいう「日本人的」の例外は腐るほどあるってだけさ。」などといって、この問題を単純化してはいけない。
違うのだ、そんな簡単な話ではない。

私が説明した「日本人的なるもの」は現代でも変わってはいない。
大きく変わったのは「個人」と「社会」なる概念が日本に輸入された点である。
つまり、「個人」と「社会」とが存在しなかった世界に、その2つがしれっと入り込んできたのだ。
西欧的仕組みが「個人」と「社会」を前提としているため、西欧化するということは、自然と「個人」と「社会」を受け入れるということに他ならない。

しかしだ。
ここからが当Blogの問題意識だ。
「個人」と「社会」が存在しないことを前提とした「日本人的なるもの」に、「個人」と「社会」が入り込んだのだ、衝突しないわけがない。
ボタンの掛け違い程度ならよいが、これは仕様の異なる歯車を組込んだようなものだ。
ギシギシと音をたてて、日本のあちらこちらで不協和音が上がっている。

よく考えて欲しい。
「場」を当り前だと思っている人と、「個人」を当り前だと思っている人とが話し合うのである。
社会観どころか、人生観からいってすれ違うこと間違いなしである。

国母問題でいえば、「個人」の自由を尊重する側からみれば、「個人の自由を侵害するようで申し訳ありませんが、制服を支給するので要所で着用いただいてよいでしょうか。」くらいの発想だってできるのだ。
「なに?服装を強要?しかも服装の乱れは許さんだと?!ここは北朝鮮か!?」と、かなり極端な例だが言われても仕方がない。

だらだらと話が長くなる前に、結論を出しておこう。
「では、我々はどう考えるべきなのか?」についてだ。

まず絶対的な答えはない。
これは理解していただく必要はある。

それを前提とした上だが、この場合「両論並立」しかない。
なぜなら、どちらが正しいのか答えはないからである。
例えば、「個人」を尊重するのが近代的な考えのように思えるが、しかし「個人」を尊重した結果の「孤独」に現代人は苦しめられているし、「個人」の利益追求による経済的損失も被る可能性もある。
「個人」を尊重することで100年うまくいったが101年目にとんでもない事態を招く必要だってある(ブラック・スワン)。
たいして利益を上げられないが、生き残れるのは「個人」を認めない方かもしれないのだ。

しかし、両者が相互理解をしながら、より優れた落しどころを模索していく作業は必要だ。
私は「何が正しいかわからないから、何もしない。」というニヒリズムは採用しない。
「何が正しいかわからないから、何が正しいかよりも、何がより自分達にとって有用か。を考えていこう。」これが私の立ち位置だ。
だから、当Blogでいつも主張するように、日本は「個人」と「社会」についての議論を深める必要があると主張している。

答えになったであろうか。

アスリートを育てるには安心という環境が必要

2010-02-17 10:15:30 | 社会
やばい、最近の金融日記が面白すぎる。

中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51654318.html

天才小学生たちはどこに消えた?
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51655722.html

なぜ理系の秀才はみな医学部に行くのか? ―標準的ファイナンス理論からの考察―
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51657517.html


なぜそれほど秀才は医学部に進学するのだろうか?
受験勉強に熱心に取り組んでいる間に、受験勉強自体が自己目的化してしまい、少しでも偏差値の高い学部に入学することにより自己顕示欲を満たそうとする圧力が働き、その結果、偏差値の高い医学部が、偏差値の高さゆえに偏差値の高い学生を集めてしまうという、偏差値の自己増幅作用が働く可能性がある。
これは自分がいかに激烈な競争を勝ち残ったかを証明しようとするシグナリングの一種

医学部卒業生は平均年収の高さもさることながら、そのバラツキの少なさは注目に値する。
悪くても1000万円ぐらいは稼げるのである。
つまり、医学部の方がリスクも少ないのである。
ファイナンスの標準理論に従えば、リスクが小さくリターンも大きいなら、それを選ばない人はいないことになる。
このようの考えれば「なぜ田舎の国公立医学部は東大より難しいのか?」という問いは馬鹿げているように思える。
むしろ「なぜ東大理1程度が、田舎の国公立医学部と同じぐらい難しいのか?」と問うことの方がより自然だ。
おそらくその答えは、18才から24歳という人生の青春時代をど田舎ですごさなければいけないというディスカウントがかなり効いているということであろう。
もし他の条件が同じなら、田舎の国公立医学部の偏差値は東大よりはるかに高くなるはずだが、この青春ディスカウントの分だけ割り引かれ、結果としてそれほど差がつかずにいるのである。


私の知っている例からすると、医者の子供は小さい頃から医者になるように仕込まれてるね。
開業医の息子は後を継ぐために医者になる。
ならねばならぬという洗脳に小さい頃からかかっている。
彼らの人生の選択肢はとても狭まっているから、何浪してもがんばる。
医者になるという選択肢しかないから、ある意味かわいそうでもある。

あとは受験アスリートの諸君。
彼らは競争に勝つということが目的だな。
受験勉強の自己目的化。


もちろん高尚な目的をお持ちの方々もいらっしゃると思いますよ。

リターンの話は安心材料なんだと思う。
たぶん、それを大目的にする人は少数なんじゃないのかな~。
2次的要因で1次的要因ではないと個人的には思う。
あなたがアスリートで、プロになっても生活に困るんじゃ目指さないよね。
プロになれれば豊かといえなくても、最低限の生活が保証されていれば、安心して目指せる。

実は、億万長者を目指してアスリート目指す人はあまりいない。
ブラジルのスラム街でサッカー選手を目指す人も、貧しい生活から脱却したいという思いはあるだろうけど、億万長者になることが目的とする人なんかほとんどいないのではないかと推察する。
両親や兄弟に豊かな暮らしをさせてあげたいとか、そういう気持ちはあるだろうけれど。

なぜかっていうと、アスリートとして存在するための決定要因ではないものを目的とすると、結果がついてこないからだ。
他のいろんなものを心配しながらアスリートの道を目指したんでは効率が悪い。
その道の先を不安視したんでは、やることに集中できない。
重要なことは、決定要因以外のものに注意をとられることなく、アスリートの道を邁進できること。
そのための条件として、リターンの話が出てくる。

受験アスリート達も同じで、受験勉強を自己目的化するためには、受験勉強だけに集中できる環境が必要だ。
がんばったって何も得られないんじゃやり続けることはできない。
この闘いに買ったところで、、と思うだけ。
それでは相手に先に行かれてしまう。
本当は考えなきゃいけないことがいろいろあるかもしれないけれど、この道をゆけば、とにかく食いっぱぐれることはないという安心感、これが大事。

そんな生き方や社会の在り方が良いとか悪いとかという話をしているのではなくて、効率性を求めるとそうなるという話をしているだけだ。

「政治とカネ」問題の本質

2010-02-15 16:31:05 | 社会
思いつきエントリです。見直してもいないので後で修正します。

検察は「暴走」したのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51374818.html


64. advanced_future 2010年02月15日 12:28
論点をずらすわけではないですが、発言させてください。
日本の議論で面白いなと思うのは、入力部分のお話だけに終始して、出力部分についぞ議論が至らない点ではないかと思うのです。(日本的組織の考えは基本的に出口戦略がないような気が。入力こそ日本の美学でしょうか。)
政治資金規正法を武器にするのも捜査機関の限界をよく表していて、本来、贈収賄を根本的に防ぐためには出力部分(政策決定)を規制すべきなんですが、そこは捜査機関の仕事ではないので片手落ちしている状態です。贈収賄のインセンティブを働かせない仕組みを導入するということですね。
政治家に限らず一部のパワープレーヤが政策に裁量を持つ限り、贈収賄のリスクをはらむことになる。もちろん、そのリスクは柔軟性とのトレードオフであり、ルールを設ければ柔軟性が失われます。日本人は頑なルールより柔軟性を重視しているのではないですか。結局、裁量的な介入(支援)を国民自身が望んでいるからであって、その意識を変えずして贈収賄が無くせるわけがありません。
私は小沢に期待しています。彼の政策にではなく、国民の合意形成を変えるという意味での「日本の民主化」において。


コメントで書いた通り、日本では「入力」のことばかり議論される。
「出力」についての話は少しだけだ。

どう入力を揃えるかが、どう出力されるかよりも重要なのである。
例えば、どういう振る舞いをするかということは、どういう結果を導くかよりも優先される。
結果よりも礼儀を重んじる。
最近流行りの品格問題も同じ。
形式的な体裁を整えることは、実際に起きる現実よりも重い。

「政治とカネ」の問題も、実に入力偏重のお話である。
政治資金規正法が形式犯か実質犯かという話に答えを出してどうするつもりなのか。
幾人かの政治家は、「政治活動にはカネがかかるから、贈収賄を減らすためにには税金からの政治資金を増やしてもらうしかない。」というし、また他の政治家は「企業献金を禁止すべき。」という。

政治家が追い求めるのは「選挙に勝つ」ことであるから、結局は「票」である。
票に繋がるものがカネならカネを欲しがるし、名声や地位なら名声や地位を欲しがるだろう。
投票者から票を買うために、カネが必要ならカネを追い求めるし、他のものなら他のものを追い求める。
投票者は政治家に何を求めるのか。
それは政治家の裁量を生かした政策への介入に他ならない。
(政治家は税金をどう使うか、許認権ということに裁量を持っている。)
逆にいえば、政治家には投票者から票を買うために、政策へ介入することにインセンティブが働く。

だから、政治家が政策に介入できる余地を減らすことが、贈収賄を減らすポイントである。
政策決定のルールを第3者が納得できる形で明確にし、決定過程と結果を後からトレースできるように公開し、そして後日政策効果をフィードバックする仕組みを構築することである。
結果として政治家の裁量を減らすことでもある。

ただ、政治家の裁量を小さくして、困るのは誰かを考えると、それは国民かもしれない。

使い古された議論だが、やはり日本を支配している「空気」の問題がある。
日本人は「本音と建前」という言葉があるように、「本音」と「建前」とにギャップがあることを許容できる。
逆から見ると、事実関係が言語をもって明らかにされなくても、その場の雰囲気で物事を理解しようとしてしまう。
ルールの明文化を意図的に避けて、全体設計を先送りして、問題に迅速に取り掛かることを優先する。
物事が多くの領域を跨がない、ある特定の領域におさまるものであれば、取り組む者の処理能力が高い限り、効率性が高く、スピードをもって対応できる。
全体設計のための調査や調整といってコストを省くことができるからだ。
(ルールは上流設計がなくして作れない、またルール化しにくいものもあり、全体設計を先送りするということは、ルールを設けるコストを負担しないということ。)

この考え方は現代においてこそ批判されるが、過去においては非常に有用であった。
(今でも十分に有用な領域は多々ある。職人の世界がまさにそれ。)
この有用性は、「本音と建前」の存在する日本社会において顕在化する。
参加者の思惑が異なる場合、いちいち本音を探って合意形成を行うには膨大な調整コストを要する。
全体設計を行おうにも、方々に気を使っていたら時間がかかって仕方がないのである。
このような環境では、合意形成を先送りするのが一番楽である。
そのようなことに時間を割くのは無駄なので、とにかく取り掛かる。
しかし、ただ合意形成を先送りするでは、反感を買うのは必至であり、その道程に障害を生み出してしまう可能性がある。
で、どうするかだが、結論を玉虫色にすることである。
「標準化」という考え方が日本的文化に馴染まないのも、結論が明確になってしまうと困るからである。
(「標準化」は、これまで設計なしに行えたことに対して「設計を強要する」からである。)

これは結局、既得権益者との調整をスムーズにするという意味での知恵である。
無駄な争いを避け、知恵を組織内に内面化するのに非常に長けている仕組みともいえる。
連続的な発展には強い面を持つが、非連続な変化には弱い。
だから日本はキャッチアップする場面では驚異的な強さを見せるが、世界をリードする立場にはなれない。
キャッチアップするのに必要な能力と、リーディングするのに必要な能力が異なるからで、日本は前者に特化しているからである。

これはトレードオフである。
世界をリードする国になりたいのなら、キャッチアップする強さを諦めるべきである。
両方を目指すのは難しい。
だからアメリカという国は、勝てない勝負では土俵を変える(創る)。
自分達の有利な土俵を作り出して勝負するため、ゲームメーカーになろうとする。
彼らはキャッチアップする強さに欠けるが、新しい土俵を作るのに長けている。

長らく、入力を揃えることが、良い出力結果を導くために最善だと考えられてきたが、出力を規定することで入力を制約するという発想も必要だろう。
先述したとおり、トレードオフがあるから、うまい落としどころ(ハイブリッド)を見つけられるかどうかなのだが、続きはまた今度。

-------------メモ-----------
自動車産業と供に日本の世界最強と呼ばれた輸出産業の一角を占めていた電機産業が、デジタル革命とともに訪れた商品のコモディティ化の波に飲み込まれようとしている。
一般に「コモディティ化」というと「競争商品間の差異化特性を見出せない状態になる」という意味で使用されるが、つまるところ「入力がそのまま出力には結びつかないこと」でもある。
簡単に言えば、「どれだけ金と技術と人を投入してもたいした違いが出せない領域になる。」ことだ。

このコモディティ化の中で悩まされる日本の姿を見ていると、「入力と出力」に関する日本の特性をズバリ表しているように見えて興味深い。

※日本を擬人化していることからわかるように、この話は抽象的なもので、なんら有用ではないかもしれない。

並外れた属人的能力に依拠した技術、尋常ならざる反復の結果得られる以心伝心のチームワーク、総当り的試行実験で垣間見る粘り強さ。
日本人が胸を打つ感動ストーリーには、ある意味で「結果を超越した非合理的な人間」の姿が登場する。
彼らにとって、重要なのは入力であって、出力ではない。
しかし、彼らが入力に信念や意味深さを発見するのは、そのことが彼らが生きる上で重要であったことの裏返しでもある。

(ここは後述)

日本が得意とするのは「入力を揃えること」なのである。
だから技術でも商品でも興隆期には抜群の力を発揮するが、「いくら入力をいじっても出力に差が出せない状況」が苦手である。
端的に表現すると「接続的イノベーションは得意だが、破壊的イノベーションが苦手」ということになる。

日本を内側から蝕むウィルス:「個人」と「社会」

2010-02-10 11:56:47 | 社会
自分のコメントがあまりにハマッた感があるので自分のブログに掲載。
(なんと人間の小さいことか!)

自分が悪い 助けてといわない若者 (原淳二郎)
http://agora-web.jp/archives/917457.html


[自分のコメント]
この問題の本質は「社会」と「個人」との間に隔絶が起きはじめているということです。
近代国家というのは「個人」が「社会」の構成物であるという刷り込みに成功したものなのですが、なんと日本では逆転現象が置き始めている(そもそも「個人」が存在しなかったという問題設定も有るだろう)。政府が福祉国家的な社会を目指して「個人」の「社会」への取り込もうとしているのに反して、「個人」は「社会」から離れていく。アメリカと違うのは国家に対する積極的不支持ではなく消極的失望的不支持ではあるが。オバマのように「物語」によって「個人」を繋ぎとめることができるのか、否か。経済構造の脱近代化が迫られている今、まさに日本における脱近代社会の夜明け。
これは人類にとって長期変動的な流れである。などと愚考します。


まぁ、いつも書いてることなので当Blogとしては新規性無しですが。
ただ、当Blog内の世界だけで物事を考えると(意味不明)、日本を覆う閉塞感の問題は下記を外しては成り立たないということがわかります。
(そういえば「閉塞感を打破する方法はあるか」シリーズを途中から更新していないことを思い出す・・)

「個人」と「社会」への関わり方

これが時代とともに変化してきているんですね。
日本の場合「個人」は存在しなかったといわれておりますし、これは有名な話ですが、明治時代になるまで「社会」という言葉はありませんでした。
日本という国には、ある時に突然「個人」と「社会」が入り込んできたのです。
日本人の知らぬ間にしれっと。
皆が気づくと「個人」と「社会」はそこにあった。
だから、日本人は「個人」と「社会」への関わり方についてなんら深い洞察も得ていないし、むしろ苦しめられている。


----------------------------------

気づくと彼女(/彼氏)と自分の部屋で同棲していた。
初めは楽しかったから細かいところは気にしなかった。
なかなかかわいいし(/かっこいいし)家事も手伝ってくれる。
1人ではなんでもないことが、2人だととてもいいものに思えてくる。
そんな同棲生活が続いた。

だが、最近は一緒の空間にいることが辛い時もある。
なんだろう。
そういえば、いつ、何を理由に同棲をしたのかよくわからなくなっていた。
この同棲生活の行き着く先についても考えていなかった。
何を目指していたのだろう。
いや、何も目指していなかったのだろうか。
それすらよくわからない。

なんだろう。
楽しいはずなのに、何かが抜け落ちている感じがするんだ。
ふとしたときに。
何かが変わったのだろうか。
お互いにお互いのことを前よりわかってきたというだけで、他に変わったことはないはずだが。
それを相手に悟られないように努力している自分もいたりして。
無駄な徒労感を感じてしまうときがある。

これが恋愛ってものなのだろうか。
別に何も得るものはないが、悟ったようにそう思う。

俺(私)って何がしたいんだったっけ?


物語風にたとえてみました。
ちなみにこれは空想で、個人的経験とは一切関係がありません(笑)

教育は結果であって原因ではない

2010-02-10 11:17:17 | 社会
批判もあるかと思いますが、コメントして頂けると勉強になり助かります。

ほんと日本における教育議論は成熟しないな・・。
(教育だけでなしにあらゆる議論が成熟することないけれど)
しかし、これは日本が国家として社会像を持っていないから当り前である。


以前コメントで「教育問題に関する認識が甘い」のようなご指摘を頂いたが、その時に私は「教育とは教育機関の問題ではなく、社会の問題だ。」という主旨の回答をしたことがある。

まともな教育学者がいないとか、教育関係者のレベルが低下したということが問題なのではない。
目標設定なしに答えが見出せるわけがない。
教育が目指すべきところがないのだから、教育に関する議論も施策も全てがパッチワーク的になる。
中・長期的な目標がないので、目の前で起きる問題について対処する自転車操業的な対応を迫られ、現場の徒労は報われない。
株価の値の上がり下がりに一喜一憂する心理と同じ。
長期トレンドを無視して短期的なノイズに惑わされるのは、人間の特性でもあるのだが。

少し考えればすぐわかるはずだ。
社会として「こうあるべき姿」を定義することなしに「どう人を育てるべきか。」について話ができるわけがない。
「新人割当てたから育てておいて」と言われたらどうするだろう。
たぶん、どう育てたらよいか指針がなかったら、"自分が正しいと思う方向"に育てるだろう。
昔のように皆が似たような価値観を共有している社会ではそれでもいいだろう。
誰が育てても分散は低いし、分散が低いことが求められているから。
でも、価値観が多様化した近代社会では、誰かにとって正しいことが他の誰かにとっても正しいとは限らない。
自分が正しいと思って育てたら、後から他の人がいうのだ。
「なんでそんな育て方をしたのだ?!」と。

今、まさに日本で起きていることがそれ。
「あいつらの思い込みで人を育てている。」
「教育方針が時代遅れなんだ。」
「そんな教育では人間性が・・・。」
「教育とは・・・なものだ。」


そもそも日本における議論って「議論」じゃなくて「討論」だと思う。
議論の目的が、解決策を見出そうとすることではなく、ひたすら「自分が正しい」とか「それは間違っている」と言うためのものだから。
誰も答えを出そうとしていない状況は、いかにも日本的である。
しかし、一方で日常的に答えを求められるビジネス・シーンでご活躍の皆様方が「お前ら答えを出そうとしていない!」と主張をすると、逆に「答えを急ぎすぎている。」「答えがない問題なのである。」という批判がなされる。
方や「答えのない問題を議論している。」という人達がいて、もう一方に「議論で答えを出そうとしていない。」という人達がいる。
どちらが正しいのか。
実は、どちらも正しいか、どちらも正しくない。
というのは、そもそもほとんどの議論は「答えのない問題に答えを出す」ことだからである。
矛盾しているわけではなく、それが相対性というものなのだ。
(この話は過去に腐るほどしたし議論が発散するので繰り返さないことにする。)


さて、なぜ突然教育の話をし始めたかというと、次の記事を見たからである。
本当はこの問題について山ほど話がしたいことがあるのだが、とにかく書くのが面倒なので結論だけ述べることにする。

教育の改革は火急の問題(松本徹三)
http://agora-web.jp/archives/915751.html

中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ (藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51654318.html

様々なところで話を聞くにつれ、人々は「勉強」について特段の思い入れがあるのだと思う。
「勉強」はとても基本的で重要なものだと。
だがしかし、私からすれば「勉強」も「サッカー」も同じ。
世の中には「野球馬鹿」「サッカー馬鹿」「ボクシング馬鹿」「ゴルフ馬鹿」なんて親子は腐るほどいる。
南米にでもいってみなされ。
サッカーは生活の一部でもあるし貧困脱出のための手段でもある。
「勉強馬鹿」がおかしいというなら、「サッカー馬鹿」もおかしいといわねばならない。
勉強における暗記や予習復習は、スポーツにおける筋トレや練習みたいなものだ。
チーム競技とは違うというなら、個人種目スポーツに置き換えればいい。

一流のスポーツ選手は、青春を犠牲にしてその道に全てのリソースに費やした人達だ。
一流の演奏家なんてものはほとんどは幼少からの英才教育だ。
受験生だって同じ。
なんでゴルフ親子が礼賛されて、受験親子が異常な目で見られるのか。

「エリート教育」という言葉にアレルギーがあるなら、これからは「アスリート教育」にしよう。
受験生というのはアスリートなのである。
学校で部活やっている全員が本格的にプロを目指すわけではあるまい。
その一部がプロを目指しておかしなくらいがんばるのだ。
塾に通う受験生であっても、それと同じであろう。
学校に通うということと、塾に通うということは目的が異なるのだ。

スポーツで考えればわかりやすい。
「みんなが受験勉強がんばる」と「塾に行くような教育はおかしい」ということについてだが、
「みんながアスリートに」というのはおかしいし、「アスリートになってはいけない」というものおかしいだろう。
アスリートにならないと生き残れないというなら、アスリートになるしかない。
しかし、アスリートしか生き残れない社会とはどんな社会だろう。

だから、この問題の本質は「社会」の問題なのである。
我々が恣意的に社会に介入しない限り、常に先にあるのは「社会」である。
教育は常に社会に対応する形でしか行われることがない。
社会を変えずして教育が変わるわけがない。

「社会を変えるために教育を変えるのだ。」という意見はあるだろう。
その場合、初めに述べたように「どう社会を変えるのだ?」という問いに答えなければならない。
それは結局、社会を変えるということに他ならないのである。

語弊を恐れずいえば、教育は結果であって原因ではない。
「教育は国の根幹」という意見も聞くが、だからこそ国の根幹を形作る「社会」が先なのである。
教育に責任を転嫁するのは、社会という存在を軽視している証拠であり、本当のところ状況を変えようとする意思がないということなのである。

だって状況を変えるというのは社会を変えるということだから

効率化の悪魔

2010-02-08 12:55:55 | 社会
テーマからするとトヨタの問題かと思ったあなた、残念ながら全く違います。

ヨーロッパ人が忙しくない3つの理由(藤井敏彦)
http://wiredvision.jp/blog/fujii/200802/200802251000.html


ブラッセルに赴任して欧州委員会の官僚を相手に仕事するようになった時、いや驚いたのなんのって。彼らの優雅なこと!昼は2時間かけてランチ。6時にはオフィスは無人状態。夏は一ヶ月間バカンス。おまけに給料ははるかに多い。ワタシ心に誓いました。来世も役人やるとしたらヨーロッパ人に生まれて欧州委員会に勤めようって。


私も以前、ヨーロッパのそこそこ大きい企業と仕事をしたことがあるのですが、働き振りがまったくちがっていた。
まず朝はエコを理由に自転車通勤、会社からヘルメットが支給されたりする。
自転車通勤がいいという話ではなくて、自転車通勤が様になる土地柄と通勤のし易さがいい。
昼休みは2時間で、雰囲気は大学のゆったりした雰囲気に似ている。
のんびりしていて、昼食後にカフェテリアでお茶しながら団欒なんてのが当り前。
そして6時を過ぎると帰宅して家族団らん、あちらは陽が長いのでそこから一日が始まるという感覚すらある。
日本でも「アフター5」のような言葉があるが、なんだろうか、あちらにいると「アフター5から違う一日が始まる」気がしてくる。
たぶん、日本での生活はかなり効率化されているがために、その効率性に劣る、つまり「無駄」を皆が嫌うから
、「効率的にできた」喜びよりも、「無駄をしてしまった」徒労感の方が優先するのであろう。
そのせかせか感が「時間の流れる感覚」を急なものにするのだと思う。
時間の流れは主観的なものだから、人生に対する向き合い方で時間の流れは変わる。

それでもって、あちらでは1~2ヶ月もバカンスで仕事を離れ海外旅行などを楽しむ。
プロジェクトの進行が思わしくなく計画の前倒しを求めた時があったのだが、バカンスを理由に断られた。
「バカンスのために仕事してるようなものだから、バカンスないなんて馬鹿らしくてやってられない。」くらいに言われたのを覚えている。

さらにいえば、彼らは日本人のようにがんばったりしない。
例えば、あるものを商品化しようとした時、その商品が商品として成り立つための基準と言うものが存在するが、とある部品がその基準に満たなかったとする。
その時、日本人ならなんとか期日までに基準を満たすように改善努力を行うだろう。
徹夜や休日出勤など当り前のように。
だが、彼らにその意識は希薄だった。
「いやいや、それがその部品の実力であり限界である。」と。
日本企業であれば、相手の要求を先回りして、相手の期待を上回るサービスやモノを提供したがるのだが、彼らは違う。
日本の企業と協業する時には、感じることのできない「あっさり感」であり、ある意味すがすがしい。
できるかできないかわからないようなものに、計画を無視してまで一生懸命になるのは無駄である。
自分達の実力をよく把握し、その範囲を超えることは求めない。
確かに、その生き方の方が生き易いと思う。

日本人の場合、少しでも改善できる余地があればやってしまう。
トヨタ・ウェイの「カイゼン」は世界語にもなったその代表である。
そこに組織的にも個人的にも成長があると盲目的に信じているかのように、無駄でも何でもチャレンジする。
向うは、そんなちまちましたところにこだわらない。
このあたりは「私的日本人論」で語ろうとは思っているが、これが国として成熟するということの意味なのかと思ったものだ。

最近、タイム誌かどこかで世界で最も魅力的な街に東京が選ばれたが、確かにハードとして東京は突出しているように思う。
ありとあらゆる機能が東京と言う街に集中し、そして極限まで効率化されている。
犯罪率も低い。
これほど機能的な街はなく、近代日本人の都市観を見事なまでに表し、日本人の傑作が東京という街なのだ、そう思う。

都市はどこまでも効率化できると思う。
いや、効率化できるということより、効率化されることを許容するのが都市というものだ。
しかし、人間は効率化できるところばかりではない。
知識は一瞬にして形を変え、そして適応することができるが、体はそういうわけにはいかない。
効率化するものと、効率化しないもの、その住み分けをもう少し考えた方がいい。

最近の経済成長路線や生産性向上重視に対する拒否感というのも、効率化が人間の全てに及ぶ可能性についての直感的洞察なのではないか、ふとそのように思うからである。
両者の誤解を解くには、このような見方を差し挟む余地があるのではないだろうか。

本当は、近代化の過程で議論されなければならなかったテーマなのだが、日本では十分にはなされなかった。
そこには、日本人としての根深い思考停止の原因があるからだが、それは「私的日本人論」で語る予定だ。

「新しい国 日本」

2010-02-05 12:12:11 | 社会
昨日は4つもエントリをUpしてしまった。
Twitterで済むような話をブログでエントリ化してしまうのが多くなってしまう要因であろう。
エントリ乱発は質の劣化も招くので気をつけたいが、もとから高品質をうたってもいないので、それでもいいかなと開き直ろうとも思っている。

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昨日、朝青龍が引退した。
報道の加熱ぶりから思うのだが、マスコミは「小沢一郎の不起訴」よりも「朝青龍の引退」の方が国民的関心は高いと考えているのだろう。
それもそのはず。
どちらも実は重大な問題ではないので、面白い方がよいのである。
どちらも遺恨試合みたいなもので、これがどっちであったて我々の生活に関係してくる話ではない。
(また「右脳の働きが弱ってるんじゃないのか。」とか「想像力がないな。」とか批判されるかもしれないが。)
不起訴じゃ話の展開としてつまらないだけだ。

だから小沢に関する報道を見ていると「不起訴だが検察審査会で・・」とか「不起訴だが黒に近いグレーだ・・」とか、せっかくの面白ネタを使い回そうと「不起訴だが○○」というロジックを無理にはめようとしているように私には見える。

当Blogでは小沢一郎の政治理念をかなり持ち上げてきたが、今回の「政治とカネ」問題では発言をしてこなかった。
その理由は簡単で、どっちでもいいからだ。
「どっちでもいい」とかいうと、誤解して読んだ人から罵詈雑言を浴びそうなので、説明しておく。

今回の小沢ネタも朝青龍ネタも、どちらもいかにも日本人的ネタである。(後述する)
日本人ゆえにこの日本人ネタを思う存分に楽しめるわけだが、だが同時に日本人ゆえに出口を見失っている。
(日本人というくくりで一般化できるほど物事は単純ではないということを認識した上でだ。)
日本人は出来事を楽しむことができるのだが、幕引き方を知らない。
いや、これは「楽しむこと」と「気持ちよく終わること」がトレードオフされているからで、楽しむために終わり方を犠牲にしているのだ。
「はかなさの文化」などもこの認識に立つと理解できるだろう。
要するに、日本人の考える幕引き方はいつも中途半端で、送り手側ではなく、受け手側に幕引きを求めるのである。
「空気を読んで解釈する」ことは受け手責任であり、送り手の責任は空気を醸し出すことだけである。


ちょっと解説しておこう。
日本人は「なんともいえない感じ」を感受する能力に長けていると思う。
いわゆる「空気」といわれるやつだ。
だから、西欧的に「言葉にできない想い」を言葉にしたらダメだし、目に見える形で表現しちゃったらダメなのである。
言語が相対的なもので、観念よりずっと具体的なものだからなのであるから、よってトレードオフになる。
「なんだかさっぱりしないけど、なんか納得できないこと、こういうことだよね。」というのが得意である。

少し話がそれたが、今回の騒動は日本人ネタなのである。
「で、結局、なんだったの?」という問いに答えずに「空気読め」で幕引きされるのである。
これは朝青龍にしても小沢にしても同じである。
日本社会では「心からの謝罪」が「反省」に優先するのである。
だから、いつになっても社会構造が進化しない。
出来事から問題点を抽出し、どう対応すればよいか、という反省がないからである。
日本で言う「反省」とは「自分が悪いと自認し謝罪すること」なのである。


だから日本はダメだというつもりは全くない。
そうではなく、日本社会は「進化しない仕組み」を仕組みとして持っているのである。
そうすることが合理的であった環境が歴史的にあるからである。
これについては、当Blogで何度も繰り返してきたのでここでは説明しない。(後日まとめる)
簡単に述べれば、日本人にとって過去が現実であり、未来は現実でないのである。
徹底的に過去指向現実主義なのである。

小沢の問題も朝青龍の問題も「結局なんだったのか?」「で、今後はどうすればよいのか?」の話が徹底的に欠けている。
例えば小沢の問題にしても「黒か白か」を決めようとする議論は生産的ではない。
「黒に限りなく近いグレー」はどの世界にも至るところにあるだろう。
取り締まる側からしてみれば、コストパフォーマンスの観点から怪しいものを全て調査することはできない。
取り締まる側が「一罰百戒」を狙うのは合理的であるし、そのために「強い者を狙う」のは当り前である。

だから、「捜査の透明性の確立」や「グレーゾーンを限りなく小さくするための法整備」、「政策決定に利権が入り込むことを防ぐための科学的政策決定手法の導入」など、やるべきことは多々ある。
法律に不備があるなら、法律を立法するなり改正するなり、ガイドラインを作るなり、やるべきことがあるだろう。
いつも、そういう議論に終に入らないことこそ、日本人的なのである。

安部首相は「美しい国」とスローガンを掲げたが、「新しい国」なんかどうだろう。
「新しい公共」よりいいんでは。
多分保守な人達にぶったたかれるのだろうけど・・

Just Idea で責任もちませんが

日本には「新しい公共」より「個人の定義」が必要だ

2010-02-03 15:22:22 | 社会
鳩山首相の唱える「新しい公共」が十字砲火を浴びている。
私も「実際に出てくる社会主義色の濃い政策」に辟易している1人だが、ただ私は「彼の問題意識」は間違っていないと思う。
広義に「問題意識」を捉えられると困るが、ここでいうのは「問題として着眼する"点"」は決して間違っていないということだ。
彼に足りないのは、その点(問題)を深堀りし、他の問題との相互関係(線)を明らかにし、さらにその根底で眠っている根本的な構造的問題(面)を解き明かす姿勢であり、また「その姿勢の必要性への気づき」だ。


念のため予防線を張っておくが、私は鳩山首相の問題意識を認めているのではなく、鳩山首相の問題意識を想起させている源にある点(問題)を、問題として設定することは間違っていないと述べているのである。

先日のエントリ(鳩山首相の施政方針演説「いのち」と「卵と壁」)でも述べたように、"政治の在り方"として「政治は正しいと間違いとに関わらず弱者の側に立たねばならない。」という命題について、私は否定しない。
「弱者」というものは、間違う故に弱者なのであり、それと同時に弱者である故に間違うのだ。
それは「人そのものという弱者」のことでもある。

人間を人間として見た時、そこに「弱さ」があるわけではない。
しかし、人間を人そのものとして見た時、そこに確かな「弱さ」がある。
言い換えよう。
人間という「存在」そのものに「弱さ」があるわけではない。
人という個人が生きるということそのものが、人間が本態的に持つ真なる意味での「弱さ」なのである。

人類は、その歴史の中で、「弱さ」を克服せんとする努力を重ねてきた。
その代表的なものが「宗教」である。
(宗教とは一言で語れぬものであるが・・)
誤解を恐れず言えば、「宗教」とは、「強さである神」と「弱さである己」を対置することで「弱さを正当化」する処方箋である。
自分が弱いということを認め、そしてその弱さを克服する名目(克服可能であること)を高らかに宣言することを可能とするのだ。
人間が持つ「生きるという弱さ」を克服できると考えるところに宗教の存在意義がある。


内田樹が日本辺境論で述べたのは、この宗教観を日本人とユダヤ人は共有していないという分析であった。
日本では宗教教育がないにも関わらず、道徳教育が間接的に成立している理由について彼は説明する。

だから、西欧では「平等で自由な個人」を定義する。
宗教が個人を正当化することを許すからだ。

一方、日本ではどうか。
日本は長らく「個人」よりも「和」が尊ばれた。
(もちろん理由はある。なぜそうなのかは後日。)
一般にいう「和の精神」などという浅い概念をここで述べているのではない。
理解し難いところなので、逆に言えばわかりやすいので言い換える。
「平等で自由な個人」の概念そのものが日本社会から欠落しているといってもいい。
だから、太古から日本という国の政策はことごとく「個人を想定していないもの」ばかりであった。
日本に「個人」はいないのだ。
(「個人」が何を指すかということを理解するためには、宗教や民主主義に関する知識が必要だ)

少し乱暴な意見だが、「平等で自由な個人」を「自己アイデンティティ」とするなら、日本人にとって「自己アイデンティティ」とは「関係」であった。
個人というものは存在せず、関係の中で自己アイデンティティが定義されるのである。
他との関係の中で自己アイデンティティが規定されるという意味ではなく、和、環境として自己が存在するという意味で、つまりは個人が存在しないということだ。
ゆえに日本の歴史の中で重要視されるのは個人ではなく、和、組織、環境というものであった。

下記の番組は多くの人に衝撃を与えただろう。
(これは文章で見るより、映像で見たほうが衝撃的だ)

NHKスペシャル「無縁社会 -無縁死3万2千人の衝撃」 -壊れる家族・地域・仕事(すくらむ)
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10449424956.html

「会社」というものが自己アイデンティティであるなら、定年すれば自己を喪失することを意味する。
「家族」というものが自己アイデンティティであるなら、離婚、生涯未婚もまた自己の喪失を意味する。
これが「共同体」を失うということの意味である。

日本人は気づけば「共同体」という自己アイデンティティの映し鏡を失った。
自立しない剥き出しの「個人」が顕になったのだ。
しかし、日本に平等で自由な個人を看取ってくれる神はいない。
もはや日本人は、思い出の中にしかアイデンティティを見出す場所がない。
これが社会的ノスタルジーの潮流の原因だ。

高齢者の増加、剥き出しの個人の増加、不安に駆られる国民、

鳩山首相が、この状況を問題視し「新しい公共」によって剥き出しになった「個人」を守ろうと考えているのであれば、私はその考えに強く賛同する。
だが、問題は「個人の守り方」の方だ。

"新しい"公共というのだから、これまでの既存の考え方を脱却して頂きたい。
「セーフティネット」という言葉で思考停止せず、ハードではなくソフトの問題に目を向けるべきだ。
もちろんトレードオフもある。
「できること」と「できないこと」の判断を迫られることも多々あるであろう。
しかし、今求められているのは発想の転換である。

本エントリでここまで述べたことを理解できたら、次に何を考えればいいかわかるだろう。

「新しい公共」のヒントがここにある。
今のセーフティネット議論に致命的に欠けているのは「個人」の定義そのものである。


めんどうになったので続きは後日・・。
「個人」があるのとないのと何が違うのか。
それは問題設定の仕方が違う。
現実に先立って現実を創造するのが「個人」、現実に後追いで現実を認識するのが「非個人」
日本には「個人」がいないが、「個人」がいると想定されている。