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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

先輩に賞を譲った時の話

2011-06-27 15:35:57 | 社会
この話は私の記憶を再構成したフィクションです。
決して学会の権威を貶めたいのではなく、人間社会を考察するためのケーススタディです。
小さい話だし、かっこつけた話なので、小話程度に思って頂けるとこれ幸いです。

◆◆◆◆◆◆

もうずっと前、私が修士1年だった時のこと。
私の学部時の卒業研究を元にした論文が、ある学会の査読付き論文誌に掲載されることになった。
私としてはどうでもよいことだったのだが、研究室には企業から共同研究の名の下に多額の資金が入ってきており、指導教官達にとっては査読付き論文を何本とれるかは重大な関心事であり、学部研究で1本稼いだ私は高い評価を得た。

しかし、私は非常に複雑な心境であった。
むしろ嬉しくなかったのである。
なぜなら、その論文のFirst Author(第一著者)は私になってはいたが、実際に論文を書いたのは2nd Authorの先輩院生だったからだ。

なぜ、先輩が私の名前で論文を書いたのか。
それにはわけがある。

まず第一に、論文の元になった研究成果の大部分が私の業績であること。
次に、指導教員は先輩よりも私の将来に期待しており、論文掲載を私の業績としたかったこと。
(研究者にとって論文数は非常に重要だからだ。)
そして何より、私が指導教員からの論文執筆要請を右から左へ流し続けたことがある。
(単純に忙しかったから。恋愛に・・。)

その先輩は、真面目かつ勤勉で、技術的なことは私よりずっと詳しかった。
しかし彼は少し不器用だった。
真面目すぎたのだ。
だから実質的な指導教員である助教からは評価されていたが、大御所の教授には認められなかった。
逆に、私はいい加減な性格で物事をきっちりこなすのが苦手な上、技術的なバックグラウンドは持ち合わせていなかった。
しかし、私はその適当な性格ゆえに細かいことを気にせずに大きな画を描くことが得意だった。
だから先輩とは逆に大御所の教授に認められていた。
私は自覚していた。
私が適当を通せるのは、技術を持った先輩や同期の友人達がいるからで、私に対する評価は、私をサポートしてくれる人々を含めた全員に対する評価なのだと。
私は全員を代表しているに過ぎない。
そう、つまり先輩は一人で勝負しているのに、私は周りを自分のところに引き込んで組み合わせて付加価値を生み出して自分の業績にしていたのだ。
もちろん意識的にである。

しかし、その後に起きたことが私を陰鬱とさせた。
なんとその論文の功績で学会から賞をもらうことが内定したのだ。
もちろん受賞者は私一人だ。
そして、2nd Author の先輩もその事実を知ることになった。

とても私事なことだが、当時、その先輩の母親は余命いくばくもない状態であった。
何かを意図してということはないが、ある時、先輩はぽつりと「母親に最期に賞を取ったことを報告したかった・・。」と漏らした。

先輩自身は何かを期待してということではなく、単純に自分の不甲斐なさを悔いて言った言葉であったと私は確信している。
今から死に行く母親にとって、息子のそのような後悔が何でもないことはわかっていた。
だが、先輩の気持ちを思うとやりきれなかった。
私の中で何かが動いた瞬間だった。

何も考えずに学部主任の教授の部屋へ行って、こう伝えた。

「賞を辞退したい。」
「私には資格がない。実際に論文を書いた先輩が賞を受け取るべき。」
「先輩を代わりに推薦して欲しい。」

もちろん、大説教をくらった。

「賞は私事都合で決まるものではない。」
「なんと身勝手かつ不謹慎な理由だ。」

その教授は私の直接の指導教員ではなかったが、人の良さでは知られていたので、少し期待していたのだが、やはり現実は甘くなかった。
しょぼくれた私は意を決して、自分の指導教員の教授のもとへと行くことにした。
指導教員は皆から恐れられる大御所で、下手をすると研究室にいられなくなる可能性があったが、自信はあった。
私自身が教授に特別に好かれていたこともあるが、教授の癖をうまく利用する手はあると考えたからだ。

「賞を辞退したい。」
「私には資格がない。実際に論文を書いた先輩が賞を受け取るべき。」
「先輩を代わりに推薦して欲しい。」
「こんな賞はいらない。他人の論文で賞をもらうなど自分が許せない。」
「私はこの論文に全く満足できていない。」
「次の論文でもっと大きな業績を得るつもりだ。」
「私ならそれが出来ると思う。」

いろいろあって、その教授は、次のように答えてくれた。

「君らしいな。」
「わかった。あれは所詮名誉賞みたいなものだから、本当に素晴らしい研究と認められたことを意味するわけではない。」
「私の方から言っておくよ。」

むしろ最後は笑顔で私の印象がさらにアップしたくらいである。
教授に気に入られることが、どれだけ研究生活にメリットがあるかは言うまでもない。

で、この話の中で、何が言いたいか。

日本の学会なんて適当だというところではない。
(これフィクションだから)

この話を聞いて、いい話と思うか、駄目な話と思うか。
その違いだ。
「先輩も受け取っちゃだめだろ」という突っ込みを聞きたいのではない。

要するに、この話の中で誰が損をして、誰が得をしたかという話なのである。
良いとか悪いとかではないところで、人間って何ができるだろうかって話だ。
そもそも「賞」がなかったら悩みもしなかったところに、「賞」が出てくることで問題が発生したわけだ。
賞なんて食べれないものに一生懸命になってしまう。
人は善意ゆえに傷つくのだが、そこの技術は何かなのです。
これも「人間の問題」。

電車の中で45くらいのサラリーマンの男性が「はぁ?キモッ」といわれて
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e1c768d6bd9f572604a0c5de99262323

私がAKB48批判を批判する理由  究極の理論を教えてほしい
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/5d817115b717b669bb72f14467ecbeb7

このエントリを関係者が見ないことを祈ります。

◆◆◆◆◆◆

ちなみに、その後、私が賞をとることができなかったのは言うまでもない(笑)
より正確に言うと、本気で狙いにいった研究で見事に滑った。
はっはっは。

あくまでフィクションだ。

「命をもってあがなう」日本文化論の嘘八百

2011-06-27 13:32:52 | 社会
この記事はいいところを指摘していて面白い。

「命をもって購う」日本文化論の嘘八百
この国は本当に先進の法治国家なのか (伊東 乾)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/12591

[...]

民衆支配の構図の中では、当然のようにして「死をもって購う文化」が恐怖を裏打ちとする見せしめとして、延々続いていた、いやむしろ激化していた可能性すらあるでしょう。

 問題は、それらが文書に必ずしも残されず、多くが識字能力のなかった民衆層を恐怖心に基づく統治=「(フランス革命期の命名の正しい意味における)テロリズム」による支配を、法を超えて支え続けてきた、という草の根だと考えられるわけです。

[...]

悪党の特徴は、刀を持っているということです。これは何か? 殺人の道具です。

 後々まで「切捨て御免」と言われるように、悪党すなわち初期の武士は「裁判」の手続きなど踏まず、何か揉め事があれば「彼自身が法」となって「切捨て御免」で物事を解決していった・・・現代で言えばこれ、ヤクザの問題解決法と変わりありません。

 一方で、都から来たエリートはきれいごとで「平安なまつりごと」を司る。他方で地元の実力者は、法もへったくれもない暴力で有無を言わせず政治を動かす・・・こう言い切ってしまうなら、史学であれば誤りになります。

 しかし現実には、中央政権の力と地元の力、この「二重支配」が8世紀から15世紀まで、ほぼ700年にわたって二重のパワーで日本全国を支配し続けます。

[...]

秀吉の行った「太閤検地」と「刀狩り」などの武装解除が、「非公認の悪党」を全国から駆逐するのに、最終的な力を持ちました。

 しかし、幕藩体制下にあっても、武家は各地の惣村の中にまで手を突っ込もうとはしませんでした。時代劇で見るような「お奉行様」の裁きなどはごく一部のことであって、農村内部の掟や裁きは、各々村の中での合議、あるいはむき出しの暴力で内々に処理されることもあったようです。

 ここで重要なことは、そのような各地の「ホンネの裁き」が、成文法に基づくものではない、直接的な暴力と感情的判断が支配する世界であった、という事実です。

 鳩山邦夫さんが「日本文化」と言ったものは、一面極めて正確だと言えます。それは、決して表の記録で文書に残るようなものではない、「受領」が律令という文字で明確に記された「罪刑法定主義」でとりつくろうのとは別の、暴力を背景とするパワーの調停、親分仕事です。

 これは、フランス革命期、恐怖を背景として民衆動乱を抑え、支配を確立しようとした元来の「テロリズム」そのものであるところの一切無関係の「ホンネの力の政治」です。

[...]

「命をもって購う」と称する人たちの主張が、文章に書かれた「法治主義」をホンネでは軽んじ、力と感情に支配された「人治主義」を、フラストレーションのたまった21世紀初頭の民心を背景に「日本文化」の如く称しているだけであることが明確になりました。

[...]

そのような浅い理解の、正体不明ながら選挙向けの「日本文化」という強弁で、現行法の本質と一切矛盾する「人知主義」的ホンネを「根拠」としながら、民主主義的な政府で法務を司るはずの職務にあたるとしている部分が、根本的に間違っている、ということです。


よく見かける風景であるが、何の根拠も示さずに「日本文化が」という理由で物事の善し悪しを判断する人は、基本的に危険だ。
私も私的な日本文化論を披露することが多いが、あくまでも説明を短縮するためであって、根拠にしているわけではない。
全ての物事を完全に追求することは能力と時間の問題で不可能ではあるので、どのレベルまで論理性を求めるのかは、物事によって変わる。
人は、人間のことも宇宙のことも完全にはわかっていないから、最後は信念だ。
これまで幾度となく経験してきたが、どんな世界も最後は信念対決のフェーズに入る。

ただ、完全はないからといって、決め付けてはならないし、諦めてもならん。
重要なことは、出来得る限りお互いの理解を得ようとして、論理の正当性を議論しようとする姿勢である。
なぜコンセンサスや相互理解を得ようとすることが重要なのかといえば、人の理性が完全ではないからだ。
完全ではないから、人はその論理の正当性を保証することはできない。
だから、論理の正当性を徹底的に叩いて、上の次元へ昇華させるプロセスが必要であり、それがコンセンサスや相互理解を得ることの意味なのである。

誤解して欲しくないのは、だから全ての物事についてコンセンサスを得る必要があると言っているのではない。
内容や詳細よりもまずは動くことが求められる状況では、コンセンサスを得ている暇はない。
内容如何に関わらず、やる必要があるからだ。
内容にこだわるのであれば、コンセンサスを得ようとすることが"有用"である。

さらに重要なこと。

「コンセンサスを得ようとすると何も決まらない。」というのは、元の目的を失っている。
コンセンサスを得るのは、その内容をより高い次元に昇華させるためである。
内容をより高い次元に昇華させる必要がなければコンセンサスを得る必要がない。
逆に、内容が低レベルなものであれば、徹底的にコンセンサスを得る努力をすることで、内容を鍛え上げるのだ。
目的を履き違えてはいかん。

ドラッカーは、日本企業のコンセンサス重視型経営を見て「事前の情報共有を徹底的に行うことで、いざ作戦を実施する段階になった時に情報共有コストを大幅に低減させることができる。未来型の経営スタイル。」と評したが、これも結局は作戦の内容を磨き上げるということなのだ。

釜石の奇跡 信頼が生み出す希望

2011-04-26 20:07:44 | 社会
震災被害が大きかった岩手県釜石市。
その釜石市で震災当日にある奇跡が起きていた。


■釜石市の情報

(2010年時)
人口:39,578人
世帯数:16,095人

(震災被害:4/25現在)
死者数:714人
行方不明者数:978人
合計:1,692人

建物被害(全壊数+半壊数):3,723件

■小中学生の死者・行方不明者数
合計:5人


病気で学校を休んでいた子を含めて、5人を除いてほとんどの小中学生が生き残ったのだ。
小学生1927人、中学生999人、生存率は99.8%。
釜石市街の港近くにある釜石小学校では、地震発生の瞬間はほとんどの児童が学校外にいたが、ここでも児童全員が津波から生き残った。

一体、釜石で何が起こったのか。


小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない
「想定外」を生き抜く力 (片田敏孝)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1312

今回の津波はそれをも乗り越え、自治体が作成したハザードマップでは津波が到達しないと考えられていた避難所や高台地域も被害に遭った。まさに想定外の津波が来てしまったわけだ。今まで造ったものが無駄だったわけではないが、津波の浸入を食い止めることはできなかった。とはいえ、これまで以上の堤防を造ることは財政的に難しいし、海との関わりの深い生活を送ってきた住民は、海から隔絶される生活を望まないだろう。

 だからこそ、ハードを進化させるのではなく、災害という不測の事態に住民がいかに対処するかというソフト、「社会対応力」の強化が必要になる。これが、私のやってきた防災教育だ。


日本最大、世界一の堤防を作るといったハードの力によってではなく、不測の事態にどう対応するかというソフト「社会対応力」の強化によって生存率99.8%という奇跡を起こしたのだ。

想定される全てに対応することはできないし、全てを想定し切る事もできない。
しかし、非常時には不測の事態は起こる。
どう対応するべきか。

答えはない。
強いて言うなら、健全な「多様性」と臨機応変な「柔軟性」だろう。
1つの答えに固執したり過信したりしないことだ。

それを担保するために、基礎的な部分についてはハードの力を存分に使い対応し、それ以上のところはソフトの力で対応する。
そういった姿勢が重要だ。


科学技術の発展は、便利とともに過信を生み出した。
それを、知恵(ソフト)の力でどう克服するか、そういったことを次の部分で述べている。


[中略]

2003年に、私は三陸地方の住民の防災意識を調査した。全国的に見ればこのエリアの住民の津波に対する防災意識は高いとはいえ、私は危うさを感じた。それは、行政による災害対策や堤防などの社会資本が充実してくるほど、人間の意識が減退するという矛盾をはらんでいたからだった。

 住民はいつの間にか、津波警報が発令されても、結果として「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、「本当に津波が来たときには、指示された避難所に行けばよい」と思う人が多くなり、さらには「それでも、堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていた。

[中略]

こうして津波防災教育が始まったのは06年。最初に行ったのは、子どもへのアンケートだ。

 「家に1人でいるとき大きな地震が発生しました。あなたならどうしますか?」と質問した。ほとんどの回答は、「お母さんに電話する」「親が帰って来るまで家で待つ」というものだった。

 私はそのアンケート用紙に、「子どもの回答をご覧になって、津波が起きた時に、あなたのお子さんの命は助かると思いますか?」という質問文を添付し、子どもたちに、家に帰ってから親に見せるように指示した。

 大人たちは、行政や防災インフラに頼ることで、前述したように油断していた。親の意識が変わらなければ、いくら学校で子どもに教えても効果は半減する。だから、「わが子のためなら」という親心に訴えようと考えた。

 この試みは奏功した。その後、親子で参加する防災マップ作りや、避難訓練の実施に繋がったからだ。完全に集計しきれてはいないが、今回の津波で、釜石市内の小中学生の親で亡くなった人の数は31人(4月5日現在)と、釜石市全体で亡くなった人の割合と比較しても少ない数が報告されている。親の意識改革は、子どもへの教育浸透を助けるだけでなく、親自身への一定の波及効果もあったのではないか。


この話のクライマックスは最終章にある。
これこそが、我々に足りないものではないか。


ハザードマップを信じるな

 知識と実践を組み合わせたのは、災害文化の醸成が目的だったからだ。どれだけ知識を植えつけても、時間がたてば人間はその記憶を失ってしまう。いざというときに無意識に行動できるようになるには、実践によって知識を定着させることが必要だ。釜石市の小中学校では年間5時間から十数時間を、津波防災教育に費やした。

 防災教育の総仕上げとして子どもや親に教えたことは、端的に言うと「ハザードマップを信じるな」ということだ。ハザードマップには、最新の科学の知見を反映させた津波到達地点や、安全な場所が記されているが、これはあくまでシナリオにすぎない。最後は、自分で状況を判断し、行動することの大切さを伝えたかった。そうは言っても、子どもたちには不安が残る。だから、どんな津波が来ても助かる方法があると伝えた。それが逃げることだ。

 もう一つは、自分の命に責任を持つことだ。三陸地方には、「津波てんでんこ」という昔話が伝えられている。地震があったら、家族のことさえ気にせず、てんでばらばらに、自分の命を守るために1人ですぐ避難し、一家全滅・共倒れを防げという教訓である。私はそこから一歩踏み込み、子どもに対しては「これだけ訓練・準備をしたので、自分は絶対に逃げると親に伝えなさい」と話した。親に対しては子どもの心配をするなと言っても無理なので、むしろ、「子どもを信頼して、まずは逃げてほしい」と伝えた。

 どれだけハードを整備しても、その想定を超える災害は起きうる。最後に頼れるのは、一人ひとりが持つ社会対応力であり、それは教育によって高めることができる。
私は、今回の震災で命を落とした少女たちの声に耳を傾け、防災教育の広がりに微力を尽くしていきたいと、あらためて思いを強くしている。


不測の事態において、生死を分けるもの。
それは「信頼」なのかもしれない。
そして、その「信頼」は「個の自律」から生まれる。
1人ひとりが自分の命に責任を持つことによって、非常時にお互いを信頼して逃げることができる。

昔、武士の時代。
家族は、武士である夫や父が戦場で生き残るために自分たちに何ができるかを考えた。
その結論は、武士の家族たるものは、武士が後顧の憂いを持たぬように努めねばならないということだった。
戦場での迷いは一瞬であっても生死を分けるからだ。
家族は、夫や父が戦で思う存分に戦えるよう日ごろから準備をした。

現代においても、何か大業を成すために後顧の憂いをなくすという話がよくあるだろう。
「後顧の憂いをなくす」というのは、日常の話である。

3.11当日、多くの同僚たちが会社に留まらずに帰宅した。
テレビでは「翌日が休日だからみんな帰りたかった。」などと言っていたが、少なくても私の周りの者は、家族の安否を心配して帰宅していった。
一方で私は家が遠いこともあったが、当初家族と連絡が取れないタイミングで会社に留まる決断をした。
震災時に帰宅難民が混乱を大きくすると、以前から警告されていたことを知っていたし、TVもネットも通じる会社に留まった方がより多くの情報が得られ、冷静な対応ができると思ったからだった。
そして、私は普段から家族にいざという時の「覚悟」を求めていたこともある。

痩せ我慢かもしれない。
結果として問題がなかったから言えることかもしれない。
私ひとり痩せ我慢したところで何も変わらないかもしれない。

しかし、私は、当日「家族は必ず無事でいる」と信じていたし、家族も私が無事でいると信じていると考えた。
このことによって、私は気持ちを強く持てたのだ。

非常事態に「信頼」を保ち得るものは、ハードではなくソフトの力なのではないか。
それは一日にして成るものではなく、日ごろの訓練の賜物である。

「新しい空気をつくろう」間違いを正すのが大人の役目

2011-04-15 12:34:18 | 社会
「放射能怖い」福島からの避難児童に偏見(毎日JP)
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110414k0000m040137000c.html

私は、この記事を読んで強い憤りを感じる。
日本を覆う空気が悪くなっているようだ。
震災から1ヶ月が経ち、計画停電も終了したため日本人の心の中から規律が失われつつある。

これは大問題だ。
方々の懸命な努力により問題を抑え込めている(もしくは隠れている)というだけで、まだ何も解決されていない。
日本の国力がためされるのはこれからだというのに、臭いものに蓋をする雰囲気が熟成されつつある。

「君たちの考え方は間違っている」と言わねばならない。

これは「風説」や「風評」ではない。
「誤認」、「誤解」、「間違い」である。

子供の間違いを指導し正すのは大人の役目である。
間違いは正さねばならない。
人々の心の中にある潜在的心性に訴えかけ、良いことと悪いことの区別をはっきりさせるべきだ。
それが独善的と言われようが何と言われようが、規律なくして国の健全性は保てない。

どうやら、この国には子供が多いようだ。
今一度繰り返すが、大人というのは「なる」ものではなく「する」ものだ。
大人でも大人できないやつは子供だ。

「ひとつになろう日本」とか言ってる場合じゃない。
「大人をしよう日本」だ。

空気を作ろう。
新しい空気を作るんだ。


↓これはいい。全く同感だ。

悪いのは東京電力ではなく東京都民(小幡績)
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51704754.html

農産品の被害のほとんどは風評被害だ。福島県のナンバーのトラックを受け入れ拒否したり、福島から来た小学生から千葉の小学生がみんなで逃げ出したり、救援物資を福島まで届けずに東京で置いてかえる運送会社があったり。

お前らが悪い。

風評とは何か。我々が勝手に作っているものだ。

我々に全責任がある。

政府が信用できない?

情報を集めて自分で判断しろ。

この原発被害は、本当に申し訳ないくらいローカルにしか被害は広がらない。福島の事件だ。福島にとっては耐えられない致命的な事件だ。東京なんて何の被害も受けない。

逃げたやつも買いだめしたやつも野菜の産地を確認したやつも全員あほか罪人かどちらかだ。

日本がひとつに?

ふざけるな。

現実はまったく逆だ。

日本は分断されてしまった。以前よりも深く。

「復興」についての考え方

2011-04-14 17:22:46 | 社会

手抜きでつぶやきから転載。そしていつも通り抽象論に終始します。
私が言いたいのは具体的な方策ではなく、「コンセプト」です。

非情な選択迫られる被災地職員 WSJ (http://on.wsj.com/fa0x5M)

失ったものの重さ、あの時の決断の正誤、自分の内にある弱さ、一生続くかもしれない葛藤、そして背負わされた希望。被災者になるということ。


両親死亡・不明の子ども82人に…厚労省集計 (http://bit.ly/fIbjUe)

調査が難航しており、全容把握まで至っていないようだが、私は彼らが明日の日本を背負って立つと信じてやまない。


何らかの政策、戦略、作戦などには、経過や結果を評価する基準が必要だ。経済であればGDPやCPI、鉄鋼生産量などがあるし、ビジネスであれば売上げや利益、ROIなどがある。では、今回の震災における復興が成功したか否かを判断するための基準とは何であろうか?

いきなり結論から述べる。私は今回の復興が成功したか/しているか否かを判断するメルクマールとして、次のものを考える。「親を失った子供たちが、その後どうなっているか。」「20年後の彼らがどうなっているか。」だ。

経済学者に任せれば、雇用や生産量に関するものなど様々な有用な意見が出てくるだろう。しかし、私は経済的復興が非常に重要という認識を持ちながら、一方で第一義的に重要なメルクマールが他にあると考えている。

そもそも「復興」について考える時「復興とは何か?」という問いから始まらなければならない。どのように復興するかではなく、何を復興と呼ぶべきかという問いだ。3.11以前と同じ水準の生活を送れる(生活再建)、または以前よりも高い水準の生活を送れることが復興であろうか。私はそうは思わない

なぜなら、被災者の方々は既に多くの、それも取り戻すことのできないものを失っており、以前と同じ生活など望んでも手に入れることはできないからだ。失ったもの、背負っていくべきものが大き過ぎて、完全なる生活再建など不可能だ。

いや、そのような復興を望んではならない。望ませてもならない。望んだ先に何があるというのか。

これまで当Blogでは、「恋愛」「結婚」「家庭」「児童虐待」を主要なテーマとして捉えてきた(言ってるだけだけど・・)。それは「社会の実態が一番表れてくるものは何か」という問題意識からきたものだ。GDPや雇用情勢、利益、収入などでは決して理解することのできない社会の実態を炙り出すのに、どのようなテーマがより適切かを考えた結果である。

そのような観点で「復興」について考えたとき、私は「親を失った子供たちが、その後どうなっているか。」を見れば、復興がどのような形で行われているか、人々がどのように息づいているのかを見ることができるし、「20年後の彼らがどうなっているか。」を考えることで、復興のあるべき方向性を見出すことができると考えている。

彼・彼女らが人生に何らかの目的意識を持って社会と関わっていけるのであれば、それは、おそらく他の人々も同様に可能であることを示している。

ただひとつ注意を促したいことがある。

私は、弱者を助けるべきだ優先すべきだなどと言っているわけではない。「社会の軋みや歪みといったものの影響は、まずはじめに最も弱いところに表れる。」ということから弱者救済を訴えているわけではなく、であるからして弱者を見ればその社会の構造を理解出来ると言っている。弱者を輩出しない社会がよいと言っているわけではない。病気をしない人間がいないように、弱者の存在しない社会も有り得ない。そうではなく、どのような社会でも弱者は存在するということを前提に、社会について考えなければならないと問うているのだ。そうすることで、ありもしない社会の理想論を振りかざすのではなく、あるべき社会の姿が見えてくる。

続きはまたいつか語る。

原発事故の背景にあった責任の空白化

2011-04-11 15:01:23 | 社会
原発事故の件で、ある工学者の無念に目がとまった。

「今回の事故で本当に悔しいのは、技術的難易度が高くコストがかかる部分では問題を乗り越えたのに、比して低コストで対処できる部分で躓いたことだ。ある些細な要素に気が止まらなかったためにシステム全体の信頼が再起不能なほどに著しく傷ついた。悔しくてならない。」

原子力関係者の本音かもしれない。

原子力工学の専門家が当初から楽観論を支持した背景には、原子力を擁護したかったのではなく"信じたくなかった"ことがある。自分の半生をかけてきた専門的な難問に比して、今回の事故があまりに簡単な要因によって左右されていて、それが自分の過去全てを無にするような状況を認めたくなかった。自己否定から逃げたかったのだ。

しかし、人生や世の中には他の全てがうまくいっていても、たった一つのボタンの掛け違いで崩れていくものが多々ある。クリティカル・ポイントだ。これはどんなシステムでも人間関係でも同じ。そしてクリティカル・ポイントを原因として崩れたものを、他の要素による努力で取り戻すことは難しい。 あがくだけアリ地獄のように深みにはまるだけだ。かくして原発も私も堕ちるところまで堕ちていく。

念のため書いておく。システム論的に捉えれば、今回問題として考えるべきことは「原子炉の安全性」ではなく「原発システムの安全性」である。原発全体に責任を持つ者は後者の観点で安全性を担保すべきであった。そうすればリスク要因の違った姿が見えていたはずだ。だが、実際はそうならなかった。

なぜなら、原発は政治的リスクと深く関わっていたからだ。一担当者が最終的な責任を負うことができる問題ではなかった。この権限と責任とのアンバランスさが最終責任者の不在を招き、結果的に原発システムの安全性への無責任という形で今回の事故と繋がった。

責任と責任との間から零れ落ちる部分で問題は発生する。日本人は、責任の空白化を生み出した原因を考えなければならない。私が思うに、前から述べるようにエネルギー政策に関する問題は安全保障に見られる構図と同じであり、それは大東亜戦争時に見られた構図とも同じである。

人命と犬の命

2011-04-07 14:44:32 | 社会
捨てる勇気(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51695544.html

佐賀県武雄市の「被災犬受け入れ計画」について孫正義氏のつぶやきに私が「行方不明がまだ1万人以上いるのに、犬の心配してる場合じゃないでしょ」とコメントしたら、驚くほど多くの反発がきた。これは市が公共施設に犬を収容するのではなくNPOの支援を斡旋するという話らしいので、私のコメントにも誤解があったが、考えさせられたのは反論の多くが「人命も犬の命も同じだ」と怒っていたことだ。

その通りである。犬の命も猫の命も、牛の命も豚の命も同じだ。ではなぜ「牛を殺すのはかわいそうだ」という話にならないのだろうか。いうまでもなく、牛は殺すために飼われているからだ。デリダも指摘するように、犬をかわいがって牛を殺すのは、西洋の自民族中心主義にすぎない。インドでは許されない。

まだ行方不明が15000人以上いるということは、救援・捜索活動の手が足りていないということだ。被災地でもペットを施設に収容する話が美談として伝えられているが、ペットを救う余裕があるなら一人でも多くの人間を救うのが先であり、野犬化する犬は処分すべきだ。行政がその優先順位を混乱させるような指示を出してはいけない。


ある自治体が被災地のペットを受け入れる(NPOへの斡旋)計画を表明したことを発端とした「人とペット」の議論が混乱しているようなので、交通整理をしておきましょう。この問題は人とペットの命を天秤にかける話ではなく「人の命」の問題なのです。

私は、総論として「犬よりも人命が大事」「優先順位が間違っている」という批判は正しいと思います。しかし、総論として正しくても各論として正しいとは限りません。どういうことか説明します。

まず、今回の震災対応に関する全体方針として「人命救助を最優先にする」これはブレていません。時期によっても変わってきますが、短期的には「救助」→「支援」→「復興」でしょう。これと同時並行して中長期の戦略を練ることも重要です。

では、短期的に「人命救助を最優先」したとして、我々のやるべき行動とは何でしょうか?これは人によって変わります。たとえば、自衛隊、警察、消防、中央官庁、東電、自治体(被災地)、自治体(非被災地)、被災地の人々、etc...いろいろあるでしょうが、皆やれることが異なります。

つまり、人命救助が最優先だったとしても、皆が救助作業に携わるわけではありません。それぞれの分野でやれることを最大限やるべきなのです。その観点からして、被災地ではない地方自治体にできることは何かを考えましょう。

「物資・経済的支援」や「被災者の受け入れ」がそれに相当するでしょう。しかし、被災者の受け入れ1つ取ってみても、1地方自治体が受け入れ可能な数は限られています。ただ、人を受け入れること意外にも可能なことがあるかもしれません。たとえば移住環境の向上、仕事の斡旋、ペットの受け入れなどです。

「ペットを受け入れる余力があればその資源を人に回せ」という意見もわかります。日本全体でも全ての被災者の受け入れ先を確保することができていないのであれば、全くもってその通りです。ですが、おそらくそうはならず、受け入れ先の確保は可能と思います。

であれば、衣食住の確保とともに、精神的苦痛を和らげる対策を練るのが必然的な流れでしょう。もちろんその原資が税金ということになれば税負担者の理解が必要です。

そして、私が考える最大のメリットを説明します。それは、被災者の精神的ケアにかかるコストを削減できるというメリットもあります。精神的衰弱を防ぎ、医療的資源や医療費を削減するとともに、行政と被災者の信頼の構築に役立ちます。非常事態には規律が何よりも重要です。

今生きている命を救うことも人命救助のひとつ。

生きているかもしれない可能性の低い命よりも、今生きている命は救える可能性が高いし、これからの命も救える可能性があります。どちらが全体最適なのかはよく考えてみる必要があります。

「この問題は人とペットの命を天秤にかける話ではなく「人の命」の問題なのです。」 冷徹なほど合理的に考えた結果がペット保護なら私は支持したいと思います。

どうも、ペット保護を訴える側は感情論が多いような印象がありますが。


参考:
改めて思ったが、この国には「命」についての議論が致命的に欠けている。

やっぱり、首都圏のみんな、疎開"させる"べきだ

2011-03-31 13:36:46 | 社会
会社の先輩から連絡があった。
彼とは前に一緒に仕事をして以来、話が合うので今でも仲良くして頂いている。


先輩:地震の影響も落ち着いたし、飲みに行こう!


実は私は、その先輩と3月11日(金)、そう東日本大震災のあの日に飲みに行く約束をしていた。
ところが突然の地震でキャンセルとなっていたのであった。


私:いいですね~、行きましょう!
私:3.11を乗り越えていきましょう!



先輩:というのもね、最近暇でね。



私:どうしたんですか?



先輩:家族(妻と子供)を妻の実家がある四国に疎開させたんだよ。



私:えっ?! 先輩(実際は名前で呼びます)が疎開ですか?!


この先輩は私にとっては数少ない政治・経済・哲学などで深い議論のできる人なのだ。
しかも、物理学にめっぽう強く、彼は私が気を許すと量子力学などについて熱く語ってくれる。
仕事中も暇を見つけてはネットで数式やグラフを楽しそうに眺め「これはいい」などと連呼する人物だ。
その物理にめっぽう強い先輩が疎開?
信じられない想いがした。

しかし・・・


先輩:そうそう、1週間前に疎開"させた"んだよ。(キリッ
先輩:だから飲みに行きたくてね。


私:なっ、なるほど!!


震災以来、首都圏の外食産業は壊滅的な状況である。
原因として計画停電の影響が無視できないほど大きいが、その他にも消費者のマインドの問題もあると思われる。

詳細な計算をすると成り立たないかもしれないが、下記の理屈で少し外食産業の立て直しができないか?
浅はか過ぎるだろうか?

・家族が家にいると帰らなければという気持ちになるが、疎開していれば気持ちが楽になる。
・家族が疎開すれば外食する人が増える。
・疎開した人は高齢者の財布で買い物をする。
・家族が昼間ファミレスで使う金額より、お父さんが飲みに行った方が金額が大きい。
・スーパーは買占め騒ぎでちょっと儲けたから、今度は外食産業を救わなければならない。
・もちろん、疎開ではなく、消費活動が元に戻ることが最善ではあるが、ただでさえ消費活動が落ちているので疎開したところで影響は少ない。

先輩は日本経済のことを考えて家族を疎開させたのだ
さすがである。

(笑)

多くの悲劇を無駄にしないために 今、明日の日本のためを考えよう

2011-03-29 18:43:15 | 社会
大学は東電に「汚染」されている (純丘曜彰)
http://agora-web.jp/archives/1291655.html

総額およそ5億円。これほどの大金が、東京電力から東京大学大学院の工学研究科に寄付口座としてだけでも流れ込んでいる。これは、東大の全86寄付口座の中でも、単独企業としてあまりに突出した金額だ。その内訳は、以下のとおり。

建築環境エネルギー計画学  ・・・  単独で1億4000万円
都市持続再生学  ・・・  14社で1億5600万円
ユビキタスパワーネットワーク寄付口座  ・・・  3社で1億5000万円
核燃料サイクル社会工学  ・・・  単独で1億5000円
低炭素社会実現のためのエネルギー工学寄付研究ユニット  ・・  単独で1億5000万円


気持ちはわかる。
こういう事実認識は必要だ。
だが、こういう話で世論をリードするのは間違い。

これだと「政治とカネ」の政局話と同じレベルだからだ。
金、愛人、利権などを巡る話で主要メンバーがパージされれば、真っ当な議論ができなくなる。
それはこれまでも幾度と無く繰り返されてきた日本の政治の悲劇だ。

原子力利権構造があるのは確かだろうし、その利権を欲しいままに貪ってきた既得権益者も大勢いるのだろう。
幾人かの識者は、日本の原子力政策が決してクリーンではなく、明らかな誤りが存在し、そのことが日本にとって負の要素を持つと指摘する。
そのことについて憤りを感じるのは、決して間違っていない。


だが、その話と、今後のエネルギー政策を議論することとは"別"の話だ。
我々には、もうそういう政局話に付き合うほどの余力はないのだ。
誰の言葉であっても、その言葉が有意なものであれば真剣に耳を傾け、どんな洞察にも敏感に反応し、皆で議論を深め、最も有用な答えを導き出す。
そういう誠実さ、真なる意味での前向きさが、今の日本に最も求められるものではないのか。

これまでのことを水に流してとは言わない。
ただ、それが、亡くなった多くの人たち、今も厳しい状況の中で必死に耐え忍ぶ多くの人たち、国や国民のため命を賭す覚悟で努力をする人たちの気持ちに応えるということではないか。
新しき日本、悲しみをただの悲しみで終わらせない日本、叶えられなかった夢を叶えられる日本、笑顔に溢れ前向きに生きていける日本、皆で喜びを分け合える日本。
彼らの死や努力や想いを無駄にしないために、今我々は眼を見開いて、自分という殻を脱しよう。
明日の夜明けを、新しい日本の夜明けにするのだ。

今回の地震は日本にエネルギー政策が国の根本に関わることだということを広く知らしめてくれた。
今後のエネルギー政策を議論するにあたって、このような政局化は絶対に回避しなければならない。

市民社会の到来?:「被災者」か「リーダー」か

2011-03-28 15:52:31 | 社会
今はまだ気にならないが、皆が「復興」のビジョンを語りはじめるとき、我々は国家と市民社会との間を行き来することになるだろう。
こういう時、被災地の指導者には、「被災者」としてではなく「リーダー」として振舞ってほしい。
国家から施しを受けるのではなく、自分達のために助けを引き出し、投資を呼び込むのだ。

順風満帆な時なら誰でも輝ける、逆境の時に輝ける者こそが英雄だ。

下記は市民社会を念頭においた名演説だが、人間の心情として、これは被災した立場の者にしか言えない。
今回であれば誰が言えるのか・・県知事達にこれが言えるか?
「市民社会」という文脈では民主党の十八番のはずだが果たして・・。

東京市長永田秀次郎、関東大震災後の名演説「市民諸君に告ぐ」
http://kousyoublog.jp/?eid=2572

大正十二年(一九二三)九月一日に帝都東京を襲った関東大震災の半年後、新たな東京を作るための区画整理の認可が降り、大正十三年三月二七日、整理地区が告示された。その発表とともに、東京市長(現在の東京都知事東京府知事が現在の東京都知事にあたり、その下で東京十五区を統括する立場にあたる)永田秀次郎は「市民諸君に告ぐ」と題した演説を行った。


「市民諸君に告ぐ」

市民諸君
我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。

第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ。


[中略]

昭和五年(一九三〇)十月一日、再び東京市長となっていた永田秀次郎は東京市の自治記念日の式典で演説を行った。帝都復興事業の完成を祝い、市民を労い、しかしまだまだ解決すべき困難な課題が山積していることを喚起する「帝都市民諸君に告ぐ」と題されたその演説の最後はこう結ばれている。


東京市を救うものは東京市民である。東京市政の利害得失を真ともに受けるものもまた二百三十万市民である。



しかし、皮肉なことに。


永田は東京市長から鉄道大臣などを歴任したのち政界から引退、故郷淡路島に帰り、青嵐と号して俳人として余生を送る。昭和十八年(一九四三)九月十七日逝去、享年六七歳。東京が空襲に見舞われるのは翌昭和十九年からである。彼が復興に心血を注いだ東京が焦土と化すのを目にすることは無かった。

なぜ、オカンはデマを真に受けるのだろう

2011-03-25 20:30:32 | 社会
すばらしい考察。
これを読んで、私は誰に向かってブログを書いているのだろう・・?と思わざるを得なくなった。
う~む。。

なぜ、オカンはデマを真に受けるのだろう(kobeniの日記)
http://d.hatena.ne.jp/kobeni_08/20110324/1300982184


[前略]

うちの親世代は、学生運動だってやった世代のはず。むしろ私たちよりも、社会の動きに対して敏感で、意識も高いのかと思ってました。そんな人たちが、あわててトイレットペーパーやら、とろろ昆布を買い占めるなんて、なんだかエキセントリックすぎませんか。よくわからないので、とりあえずオカンに質問してみました。


それで一応たどりついた、ひとつの解が、これです。


「オカン達の世代は、国や政治家を信用していない。
(それに対して不正を暴くマスコミや、異論を呈するスピーカーには、一定の信頼を置いている)」

「私達の世代は、誰も信用していない。
(しいて言えば、専門家とか、「自分が信頼できる人が信頼してる人」を信頼する)」


オカン曰く、彼女たちの世代(といっても、全員がそうではないと思いますが)は、基本的に主要な情報は、国や政治家は隠しているはずだ と思っている。なので、公式ルートから来る情報?つまり、枝野さんが言う「物は安定供給されているので買い占めするな」等?は、基本的に信頼してない。なので、別ルートから入ってきた情報(別ルートならなんでもいい、というところが謎なのですが、それは近所のオバサンの憶測かもしれないし、週刊誌の煽り記事かもしれない)の方を信用する。

で、私たちの世代(もちろん、これも人によりますが)がどうかと言うと、別に国や政治家に全幅の信頼を置いているわけではないが、「主要な情報をひた隠しにするのは不可能だろJK」と思っている。誰が発信元であろうと、間違った情報が流れた場合、webを見ていればリアルタイムで「デマでは?」→「デマでした」と訂正されていくことを知っているため、最終的には正しい情報だけが残るだろうと思っている。

[中略]

国や政府の言うことを鵜呑みにしない、というリテラシーまではあるのに、その次に「みのもんたの言うことは鵜呑みにする」みたいなところが、ちょっと(いやかなり)不思議ではあります。

[中略]

仮に「ほうれん草食べない」などと言っているのがオカン世代であるとしたら、webで「買い占めないで!」とたくさんRTするだけでは、あまり本質的な解決にはならないだろうな。と思ったりします。

[中略]

マジメな話、今後、風評被害や差別を防ぐといった点では、みのもんたとか綾小路きみまろとか、イ・ビョンホンとかにも頑張ってもらいたいところです。


科学技術というのはどうしようもなく現実で、決して夢物語ではない

2011-03-25 17:15:14 | 社会
急いで書いたのでまた後で修正する可能性があります。

批難覚悟で・・・・(藤波心)
http://ameblo.jp/cocoro2008/entry-10839026826.html

藤波心さんというアイドルのブログが注目を集めているそうです。
読んでみると「原発」に関する内容で、とても中学2年生とは思えない知性的なものです。

彼女は「反原発」のポジションをとっているため、私とは意見が逆なのですが、ただ主張はよくわかります。
昨日取り上げた内田先生と基本的には同じスタンスです。
いわゆるブラックスワン的な観点で原発を考えているわけですね。
原発というのは、(確率は低いが遭遇すると大損害を被る意味での)テイル・リスクを軽視してベネフィットを得ようとする行為だと。
しかし、その結果として稀ではあるが、長年のベネフィットを一気に吹き飛ばす大損害を被ることがあり、まさに今がそれであると。

そうした認識に立って、内田先生や藤波さんが提唱するのが「原発停止」。

首都圏にお住まいのみなさんであれば、「原発停止」したら経済活動が停滞するのは、今回の計画停電で嫌というほど理解したと思いますが、内田先生や藤波さんは「それでいいんだ。」「ライフスタイルを変革するんだ。」「新次元の生活様式を手に入れるのだ。」と主張しています。

私は、その考え自体を否定するつもりは全くありません。
なぜなら、私自身も「現状の生活が最高」などと考えているわけでは全くないからです。
より幸せな人生を歩めるのであれば、そうしたいと日々考えています。
そして、それが「原発停止」によって得られるのであれば、賛成です。
しかし、私にはどうしても"今"「原発停止」することによって、より幸せな人生が歩めるとは思えないのです。

少なくても、今「原発停止」すれば東北地方にて被災された方々への復興支援は大きく後退すると思います。
「原発停止」を実施してしまえば、電力供給が低下しエネルギーコストは跳ね上がり、結果として生産活動が停滞し、物資の供給も停滞します。
藤波さんが援助した物資の調達も、これまでの経済活動があればこそ可能なのです。
単に貧しくなるというだけではなく、日本国内の産業は空洞化し、雇用は失われ、失業者が街に溢れ、社会情勢は不安定化し、治安も悪化していくでしょう。
私には、それが認められません。

内田先生や藤波さんは「そうはならない」というのかもしれませんが、「そうはならない」保証はどこにもありません。
「そうあって欲しい」というだけでは、「想定外」を言い訳にする専門家と同じレベルの議論でしょう。
どうして日本人は貧しく賢く生きれるとお思いになられるでしょうか。
そんな保証がどこにありますか。
「想定外」に結果が異なったらどうしますか。
「想定を超える変化が・・」とか言い訳をするつもりですか。
原発の即時停止など絵空事にしか聞こえない提案です。

将来、原発のない世界を作ることができるかもしれませんが、そこまでの道のりは決して短くはならないはずです。
真っ当に考えれば自然と物事には段階というものがあることに気づくはずです。
この現実の世界は、即座に結果が得られるような簡単な仮想世界ではないのです。
小さな出来事がやがて大きな変化を生み出す力になることもありますが、それにも時間が必要です。
宇宙の法則からはみ出して飛躍することは誰にもできない。
「時間」が何かという点について物理学者も哲学者も完全な答えを持っているわけではないですが、でもすくなくても我々が現実だと思っている世界には「時間」というものが関係しています。
残念ながら文学者や理想主義者たちには、「時間」という概念が少し欠けているように思えます。

ついつい人間という生き物は、問題が一気に解決する方策を好みます。
しかし、現実の問題というのは様々な要因が複雑に絡んでいるため、簡単にはいかないことの方が多いのです。

「原発の即時停止」などの意見を聞くたびに、まるで、日米安保に対する平和主義者の主張のようだと思います。
「軍隊はいらない」「戦争反対」「米軍は出て行け」
言うのは簡単ですが、どうやって実現するかは簡単ではありません。
「平和」を叫ぶだけで争いことが止まるなら、どうして世界中で戦争がなくならないのか。
誰だって戦争を望んでいるわけではないのにも関わらずです。
私には「原発の即時停止」と「米軍の即時撤退」は同じ構図に思えてなりません。

この議論に答えが出た験しがありません。
地に足をつけた議論が展開されない限り「安保」と同じく「原発」も永久に続く議論となるでしょう。


★★★★★★★★★★★★

(この話はある本の内容を独自に脚色したものです)

少し前の話です。
米TIME誌が「20世紀の人物」を選びました。
その人物は「アルバート・アインシュタイン」でした。
それを見た人々は「?」と思いました。
確かにアインシュタインの業績は大きいが、しかし相対性理論は彼が発見しなくても5年以内に発見されたであろうといわれているものです。
20世紀を代表する人物としてアインシュタインが選ばれるのはよことなのだろうか?
皆が、他にも選ばれるべき政治家や活動家がいたのではないか?と思いました。

TIME誌の真意を確かめたところ、あることがわかりました。
TIME誌は20世紀の重要人物をピックアップして、その中からアインシュタインを選んだのではなく、20世紀を代表する産業として「科学技術」を選んで、その中から代表的人物としてアインシュタインを選んだのです。

20世紀は科学技術が飛躍的に革新しました。
しかし、20世紀は本当に科学技術の世紀だと言ってよいのでしょうか?

実は、これは人々の心理を如実に表していると言えるでしょう。
人々は生まれながらにして科学技術への罪悪感や不安、恐れといったものを抱いているのです。
原始的な生物だった時からつい1世紀ほど前まで、長らく人類が使用可能だったエネルギーは些細なものでした。
コントロール可能なレベルのエネルギーしか使ってこなかったのです。
それが20世紀に入って人類は莫大なエネルギーを手にしました。
人類は、先天的なものとして、このエネルギーの使い方を知りません。
人類が科学技術とエネルギーをコントロールできるのだとすれば、それは生まれた後、科学技術に関する教育によってのみ可能なのです。
科学技術をコントロールする力は、生まれながらにして備わっている能力ではないのです。

ゆえに、科学技術に関わる者を教育する養成機関(特に大学)では、必ず「科学技術倫理」といったものを必修にし、初めに叩き込むことにしています。
科学技術に関わるということには訓練が必要なのです。
(訓練されていない者が科学技術について語る時に説得力がない理由でもあります。)

人類は科学技術の力を手にしました。
これを即時破棄することは文学や夢物語としては面白いですが、現実ではありません。
我々は現実に直面し、そして現実に向かっていかなければならない。
科学技術者たるものは、こうした認識のもとに、日々現実(過去・現在・未来)に立ち向かっているのです。
たとえ、将来的に破棄する方向へ向かうとしても、今立ち向かっていくべきものがあるのです。

そうした認識に基づくと「原発の即時停止」などというものが実に非現実的な絵空事なのだと思えるのではないかと、私は思います。

あくまでも私の意見です。

社会主義という「夢」は何度でも打ち砕かれる

2011-03-24 19:12:12 | 社会
久しぶりに内田先生ネタ。

兵站と局所合理性について(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2011/03/24_1029.php

当Blogでも被災地の兵站確保について言及していたのだが、内田樹先生に触発されて無駄に持論を展開する。
人手より兵站のプロの手腕に期待

日本帝国陸軍の伝統と言えば、下記3つ。

「奇襲戦法」
→ 劣勢を跳ね返すため確実な方策ではなく、一か八かのギャンブル性の高い方策を選択する。
異常なまでの楽観主義というより、冷静に考えたら勝つ見込みがないのでリスクを無視する。
結果、損害が大きくなる。


「現地調達」
→ 根性論による兵站軽視。
兵站軽視というより、兵站を考えると何もできないから意図的に軽視する。
結果、太平洋戦争では戦闘ではなく餓えや病気によって多くの兵士が死んだ。

「戦力の逐次投入」
→ 達成すべき目標が曖昧もしくは誤っているため、作戦計画がその場繋ぎの妥協の産物になる。
全体目標が無いから各部が個別最適で動き、戦力の集中ができない。
その穴埋めのため後から戦力を逐次投入するが情勢を挽回できず被害が拡大する。

何ゆえこのようなことが起きるか?
原因は全体「戦略」がないからだ。

なぜ「戦略」がないのか?
実現すべき「政策」が曖昧だからだ。

各自個別に「政策」をこしらえて「戦略」を練るから、全体として統合された動きにならない。
戦力運用の基本は「戦力の集中」(つまるところ選択と集中)であり、これができない。

そもそも目的もなく手段が決まるわけがない。
この場合何が起こるかというと、目の前の問題にどう対処するべきかが主要なテーマに成り下がる。

開戦当初の見通しが甘かったのは言うまでもないが、それでも開戦当初はまだ目標が明確だった。
「短期決戦で相手にダメージを与えて和睦に持ち込む」はまだマシだった。
しかし、ミッドウェー海戦で大敗して以降、劣勢になった時点で政策目標を完全に見失った。
柔軟に政策目標を変更することができずに、ついには原爆が落とされるまで曖昧なままだった。
「どうするべきか」が決めることができないのだ。

「兵士は優秀だが将校が馬鹿」という言葉がよく言い表しているように、現場は孤軍奮闘し、個別で見ればそれなりによく戦ったが、全体としては大敗北だった。
「政策目標」と「全体戦略」を欠くことが、どれだけ致命的なことかは太平洋戦争時の日本を見ればよくわかる。

それでいて、今もこの伝統は様々な場面で引き継がれていると思われる。
日本という国は目標が明確なら強いが、目標が曖昧だとトコトン弱い。


どうして日本は「こんな国」になってしまったのか。
それが司馬遼太郎につきまとった生涯の問いだった。
明治40年代まではそうではなかった。日本人はもっと合理的で、実証的で、クールだった。あるときから、非合理的で、原理主義的で、ファナティックになった。
たぶん、その両方の資質が日本人の国民性格には含まれていて、歴史的状況の変化に応じて、知性的にふるまう人と、狂躁的に浮き足立つ人の多寡の比率が反転するのだろう。
おおづかみに言うと、「貧しい環境」において、日本人は知性的で、合理的になる。「豊かな環境」において、感情的で、幼児的になる。
幕末から明治初年にかけて、日本は欧米列強による植民地化の瀬戸際まで追い詰められていた。そのとき日本人は例外的に賢明にふるまった。東アジアで唯一植民地化を回避し、近代化を成し遂げたという事実がそれを証している。
敗戦から東京オリンピックまでの日本人もかなり賢明にふるまった。マッカーサーから「四等国」という烙印を押され、二度と国際社会で敬意をもって遇されることはないだろうと呪われた日本人は、科学主義と民主主義という新しい国家理念を採用することで、わずかな期間に焦土を世界の経済大国にまで復興させた。
近代150年を振り返ると、「植民地化の瀬戸際」と「敗戦の焦土」という亡国的な危機において、日本人は例外的に、ほとんど奇蹟的と言ってよいほどに適切にふるまったことがわかる。
そして、二度とも、「喉元過ぎれば」で、懐具合がよくなると、みごとなほどあっという間にその賢さを失った。
「中庸」ということがどうも柄に合わない国民性のようである。
今度の震災と原発事故は、私たちが忘れていたこの列島の「本質的な危うさ」を露呈した。
だから、私はこれは近代史で三度目の、「日本人が賢くふるまうようになる機会」ではないかと思っている。


ここまでは内田先生と同じ意見だけど、(いつも通り)ここからが違う。


総人口の10%が国土の0.6%に集住し、そこに政治権力も、財貨も、情報も、文化資本もすべてが集中し、それを維持するためのエネルギーも食糧も水もほとんど外部に依拠しているといういびつな一極集中構造が「火山列島」で国家を営んでゆくというプログラムにおいて、どれほどリスキーなものかは小学生にもわかる。
小学生にもわかる「リスクヘッジ」を誰も実行しようとしないのは、一極集中したほうが「効率的だ」と思っているからである。
もちろん「金儲け」にとっての効率である。
その判断は間違っていない。
けれどもそれはいわゆる「局所合理性」に基づけば、ということである。
短期的・局所的に考えれば合理的なふるまいが長期的・広域的に考えると不合理であるということはよくあることである。


これは立場によって意見が変わる。
逆に一極集中せずにリスクヘッジのために分散したとしよう。
この場合、全体が沈む可能性についての考察が可能ではないだろうか。
つまり、一極集中することによって生存を可能にしている側面もあるということだ。
先に述べた「戦力の集中」が鍵になる場合もある。

もちろん、多様性の観点からして、分散しなくてよいと言っているわけではない。
まずもって日本はまったく分散していないわけではない。
東京・名古屋・大阪と一応の分散はしている。
ただ、都市間競争の結果として東京が抜きん出ているというに過ぎない。
これを各都市均等に分散せよとなれば、それこそ国家資本主義になるが、そういうやり方がうまくいったためしがないこともわかっているだろう。
少なくても、東京特区があるわけではないのだから、東京に一極集中していたとしても、それは競争の結果なのである。
仮に国家が競争の結果を是正した方がよいと考えるとして、我々にはどういう選択肢があるだろうか。
大阪特区などを作って分散化を誘導するというアイディアについて考えてみるのは価値あることだとは思う。
それに、原発が東京から離れた位置に建設されるのは、こういったリスクヘッジのためである。


これからの中長期的な国土復興のプランはかなりわかりやすいものとなるはずである。
思いついたことをランダムに列挙する。
(1) すべての原発の即時停止と廃炉と代替エネルギー開発のための国家的プロジェクトの始動
(2) 「できるだけエネルギーを使わないライフスタイル」への国民的シフト
(3) 首都機能の全国への分散
(4) 首都圏に集中している人口の全国への分散
とりあえず、これからだろう。


(1)は有り得ない。
日本は復興不能になり、沈む。
"中長期的な復興プラン"なのに、なぜ「即時停止」なのか、そこが全くわからない。

(2)は「ライフスタイルの国民的シフト」ではなく、「テクノロジーによるライフスタイルの国民的シフト」を考えるべき。
ネイチャー・テクノロジーなどを参考にすべし。

(3)行政機関の頑健性を保つためには、行政機関のある程度のバックアップ体制は組むべきだろう。

(4)は本末転倒だ。
「均衡ある国土の発展」ドグマを改めるべき。
多様なライフスタイルを認めれば、むしろ首都圏の人口はより集中すると私は思う。
田舎は田舎らしくし、都市は都市らしくすればよい。
それぞれの土地で、それぞれの暮らしがあっていいはず。
むしろ多様なライフスタイルが認められる風土がないから、人々は固定的な人生を歩むことになる。
自分の置かれた状況やお互いへの不平不満を語りながら生きることになる。
田舎から都市に移り住んだり、都市から田舎に移り住んだりといった流動性はもっと高くていいはずだ。
原発建設地にもっと自由度があれば、福島原発のような集中立地も避けられ、問題は軽くすんだはずだし、リアス式海岸の海辺に住むこと自体がなければ津波被害も少なく済んだはずだ。
人々が何を理由にどこに住んでいるのか、それを考えてみなければならない。
そして、人々が自分の意思で、もっと自由に住む場所を決めれるようにしなければならない。
その「人々の意思」をどう導けるか、とうのは国家の役割として十分に有りだろう。

ところで「首都圏に集中している人口の全国への分散」は国家が強制力を持ってやるのかな。

やっぱりどこか社会主義の匂いがする。
私はドラッカーの社会主義観に同意で、こういう話は何か夢物語に見える。

「社会による社会の救済」という人類の夢は打ち砕かれた。

冷静と情熱の間

2011-03-24 00:13:33 | 社会
《東日本大震災》 チェルノブイリで治療したロバート・ゲイル博士会見 [11/03/23](アスパラクラブ)
https://aspara.asahi.com/blog/kochiraapital/entry/sWh2otqZz6


[前略]

まず強調したのは「原子炉が爆発したチェルノブイリや、臨界が起きて至近距離で破壊力の大きい中性子線を浴びたJCO事故と、現時点では放射性物質のほとんどが格納容器内に収まっている福島の状況は全く異なる」ということだった。また、「現場で作業をしている人と、そうではない人のリスクも全く違う」とも。「今の福島のレベルであれば、一般の住民にとっては、喫煙の方がよほど発がんリスクが高い」

会場の記者からは「米国などは原発の周囲80キロ以内から避難するように指示していますが」と質問が出た。ゲイル博士は、「こういうケースでははどうしても安全な側に考える。医学的・科学的な基準というよりも、クレームを避けるための政治的な判断と思う」と答えた。

食品についても、「問題となっている放射性ヨウ素131は半減期(放射線量が半分に減るまでの期間)が8日間と短く、体内に入っても短期間でレベルは下がる。またそもそも基準値は、子どもなど最も影響を受けやすい人が、過剰に摂取した場合で計算しているものだ」として、現時点で過度に心配する必要はない、と述べた。

「食べ物自体に毒性があるわけではない。時間がたてば危険度は下がるのだから、例えば野菜を冷凍保存したり、牛乳をチーズなどに加工したりすれば後で十分食べられる。慌てて捨てる必要はないと思う」

現在、原発周辺で通常より高い放射線量が計測されていることについては「線源(放射性物質)がどこにあるのかが重要だ。大気中や海の中にあるのであれば、時間とともに拡散されていくのでそれほど心配はいらない。しかし、土壌に付着したとすれば、長期間影響が残る可能性はある」と説明した。


原発で作業にあたる方々へ、次のような対応を是非ともしてあげたいですね。


博士が最も重視したのは、原発で作業にあたる方々の安全についてだった。

大量の被曝をすると、「骨髄抑制」と呼ばれる症状が起きる。骨髄は、白血球・赤血球・血小板などの血液中の細胞をつくる重要な機能をもっているが、これが損なわれてしまう。この症状は、ある程度までであれば、骨髄移植をすることで救える。チェルノブイリで、ゲイル博士は骨髄移植を行っている。

移植は他人からでもできるが、遺伝子の違いによるGVHD(慢性移植片対宿主病)と呼ばれる合併症の危険などがあり、場合によっては命にかかわることもある。この危険は、自分のものを使えば避けられる。なので、作業にあたる人は、前もって自分の末梢血幹細胞を採取、保存しておき移植に備えておくべきだ


これまで様々な有識者の見解を紹介してきたが、そのほとんど一致している。
にも関わらず、どうして原発関連のリスクがこれほど注目を集めるのか。

原発のトラブルは何故過剰に恐れられるか(細見ちひろ)
http://agora-web.jp/archives/1286579.html


そして行動経済学の入門書とされる『経済は感情で動く』の中で、著者のマッテオ・モッテリーニは、次の12点を、高く評価されやすいリスクの特徴として挙げている。

1.自分が選んだリスクより、他から強制されたリスク
2.自分でコントロールできない災害などのリスク
3.死者が出るリスク
4.めったに発生しない、マスコミで取り上げられているリスク
5.映像的に悲惨なリスク
6.広い範囲で、すぐ近くで起きたリスク
7.特定の人だけを襲うリスク
8.一度に多くの被害者が出るリスク
9.なじみのない、新しいリスク
10.自然によるものより人工的なもの、先端技術によるリスク(遺伝子組み換えや放射線、原発など)
11.次の世代、子どもたちに影響が及ぶリスク
12.原因不明、謎、何が起きているのかわかないリスク

このような特徴をもつリスクは、合理的に判断される度合いを越えて、高く評価されてしまう可能性がある。解説するまでもなく、12項目のほとんどが今回の原発のトラブルに当てはまるものであることがお分かりいただけるだろう。


タバコは自分でコントロールできるリスクだから過小評価するし、原発は自分でコントロールできず、しかも見えないリスクだから過大評価する。

超ヤバイい経済学』のネタだが、アメリカで9.11テロが起きてから、飛行機テロを防ぐ取り組みが多く行われた。
人々も飛行機を乗るのを避けた。
その結果、何が起こったか。

なんと死者が増えた。
人が死ぬのを避けようとテロを防止する取り組みで、死者が増えたのだ。
なぜかというと、飛行機に乗らなくなった人々が移動のために使ったものが自動車だったからだ。

死亡確率という点では、テロで死ぬ確率が最も低く、その次に飛行機で死ぬ確率、最も死亡確率が高いのが自動車での移動だ。
人々はテロを恐れて、テロを避けるために飛行機を避け、そして車に乗る。
結果、車で死ぬ人が増えて、全体として死者数が増える。

テロによる死を防ごうとして、より多くの人々が死ぬ結果になったのだ。
しかし、テロで人がすれば大騒ぎになるが、自動車事故による死者数が増えてもたいしたニュースにはならない。
実際にはより多くの人々が死んでいるのだが、それを知る由もない。

このようにして、人は不合理に合理的である。

地震後の日本 パンドラの箱に残っていたもの・・「希望」

2011-03-19 23:11:06 | 社会
危機的状況の中の希望(村上龍)
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/2581/

パンドラが箱を開けて様々な邪悪のものが飛び出したあと、たったひとつ箱の中に残ったものがあった。

「希望」だ。

なぜパンドラの箱に「希望」が残っていたのか?

ある哲学者が「希望こそが最大の災いだから」といったが、これは嘘だ。

なぜ嘘か?

希望がなければ何も変わらないからだ。

変わらない世界に意味はない。

この宇宙では全てが変容する、希望は変容を許容する、だからそこに意味が生じる。

希望があって初めて生命に意味が生まれるのだ。

希望がなければ災いもない。


私が10年前に書いた小説には、中学生が国会でスピーチする場面がある。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と。


日本に希望がないのは、災いも意味もなかったからだ。

だが、今回の地震が全てを変えた。
地震前と後では、世界が変わったのだ。


だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。だから私は信じていく。


地震は日本に希望の種を植え付けた。
それは、日本が変容を許容し、意味を求めていくということを意味している。