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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[拡散希望]みんなで空気をつくろう!

2011-03-18 12:55:17 | 社会


空気をつくろう(モンテカルロblog)
http://blog.livedoor.jp/taiki_jp/archives/51804949.html

日本人は空気に支配される民族だ。これをすべてのブログにも、職場にも、薬局の前にも、いっぱい、いっぱい広めて「いっぱい買うのカッコワルイ」みたいな空気ができれば日本人の多くは行動するはず。もういちど日本人のすばらしい行動を世界にしめそう。


その通り!!
これは実に日本のことがよくわかっている本質的な提案。
みんなで空気をつくろう。
何かを感じている人たちからはじめたらいい。
始めは賛同されなくても、いずれは理解が得られる。

みんなの想像力をうまく導けば、問題はもっとずっと簡単に解決できる。

まずこの画像を薬局やスーパーに貼り出そう。
小売店は売上げ倍増しているだろうから、本音では喜ばないかもしれないけれど。
みんなのブログで貼り出そう。
最初はカッコ悪いかもしれないけれど。

政府に指導されなければならない方が、よっぽどかっこ悪いよ!!!!!

★★★★★★

会社の同僚には有名大学で修士や博士以上の高等教育を受けた人々が多いのだけど、彼らですら空気に流されてしまっている現状を鑑みると、日本全体が異常な空気に流されているのも頷けてくる。
大学で物理学を学んだり高度な研究活動をしていたはずの連中が「放射能が・・」などと言って家族を疎開させることを考えている話を聞くとさすがに滅入ってくる。
普段、その論理的思考能力で仕事では高いパフォーマンスを発揮する彼らが、やはり多忙な日常業務の中で全体最適や自己否定などの視点が蝕まれていっているのだ。
海外から日本に赴任していた同僚たちも帰国していく。
ついつい「馬鹿なんじゃないの?」と愚痴が出てしまうが、彼らには酷な言葉に違いない。

そう考えると、今の騒ぎは、今に始まったことではなく、ずっと続いている「空気の病」そのものなのだ。
これは太平洋戦争時と何も変わっていない。
私としては、戦中の「空気」はかくして作られたのかと改めて実感するも、自分の無力を感じずにはいられない。

私がこう書いて、このエントリを読んだ人も、自分のこととは思ってくれないかもしれない。
私が問いかけているのは「あなた」だ。
あなたに問いかけている。

できるところからムーブメントを起こそう。
日本人の素晴らしさを、日本人に向けて示そう!
これは日本人に突きつけられた新たな次元での闘いだ。

★★★★★★

頼れるどころか、もはや「有害」な日本の震災報道

2011-03-18 11:04:34 | 社会
至ってまともな反応。
日本の報道機関にインテリジェンスはない。
足りないというレベルではない。
報道機関としてインテリジェンスが致命的なほど欠けている。

最も罪深いのは、彼らはひたすら情報の劣化コピーを繰り返し、不安を増大・拡散し続ける負の拡声器になっており、報道の有害性が便益を遥かに上回っているように思えることだ。

通常であれば、有害な報道が無視されることで報道機関が淘汰されていくはずなのだが、日本の不幸は全ての報道機関が横並びであるということだ。
異常事態では視聴者は情報を求めるわけだが、視聴者にはほとんど選択肢がない。
横並びであることが淘汰を抑制している。

国民の情報リテラシーを底上げしなければならないが・・今言っても何もはじまらないのが詳しいところだ。
こういう時こそ大学や専門家が正しい情報伝達を目指したグループなどを結成するなどして欲しい。
一部ではやっているが。

頼れるどころか、もはや「有害」な日本の震災報道
信頼に足る情報を探し求めて分かったこと(JB Press)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5668


[前略]

 こうした「生死がかかったクライシス」の中で、日本の新聞やテレビは悲しいほど役に立たない。水泳中、人食いザメが襲来してきたのに、手元には金魚すくいしかないような絶望感だ。この仕事を誇りとする人間の一人として、私は本当に悲しい。この本当のクライシス時に、市民が生死をかけた判断をするのに役立つ情報を供給できない「報道」など、一体何の存在価値があるのだろう。

率直に言おう。私は日本の新聞やテレビ、ネット報道をいくら見ても、東京から退避した方がいいのかどうか、分からない。「検出放射線量は○△シーベルトでした」とか「半径10キロで待避指示が出ました」とか、いつもの調子で発表数字をそのまま電話帳のように書き写して記事にしてもらっても、困るのだ。

[中略]

しかし、何かが矛盾している、何かヘンだという感覚がどこかに引っかかった。というのは、原発の地元・福島県に出した政府の避難指示が「原発から半径20キロメートル以内」(後に30キロメートル以内に拡大)だったからだ

[中略]

そして、思い詰めたあげく、アメリカ海軍に勤務する友人がフェイスブックで連絡が取れることを思い出し、「ロナルド・レーガンに何が起きたのか、情報がないか」と聞いてみた。

 すると、そのスレッドに、別のフレンドが「心配しないでください。状況は大丈夫です。アメリカの報道はどれも誇張しすぎです。ウォールストリート・ジャーナルのこの記事は信用できます」とリンクを教えてくれた。

 この人はフレンドのフレンド、面識はない。かつてフレンドリクエストが来て、よく確かめずに承認したスノーボーダーの兄ちゃんである。だが、よくプロフィールを見たら「アメリカ海軍情報部」とあるではないか!

 続いて同じスレッドに海軍勤務のアメリカ人が続々と投稿し始め、そこからアメリカはじめ、英語のリンクを回った結果「今のところ東京は心配しなくていい」という感触ができてきた。

16日になって、東京にいるアメリカ人の音楽仲間がフェイスブックに投稿したポストに「東京のイギリス大使館が発表した首都圏への放射線の影響」という英語のリンクを偶然見つけた。

 結論は、「チェルノブイリ級の事故になることはまずない。なっても汚染物質が降るのは半径30キロメートル程度」とあるではないか。あまつさえ「首都圏のブリティッシュスクールは休校すべきか」という問いに「地震や津波を別として、被曝の心配なら、その必要はない」とまで言い切っている。「今回の事故をチェルノブイリに例えるのは、完全に間違っている、と強調した」(イギリス政府主席科学顧問のジョン・ベディントン氏)。

[中略]

この生死がかかったクライシスに、何という劣悪な報道だろう。平時なら「ミスリードでしたね」とへらへら笑って許しているかもしれないが、これは戦争並みのクライシスなのだ。生死がかかっているのだ。この愚劣な報道は有害ですらある。

 もう一度言う。クライシスに市民のために役立たない報道など、何の存在価値があるのだ。


日本的組織の強さがよくわかる写真

2011-03-17 10:38:33 | 社会
少し前に静岡で東名が崩落した時の復旧スピードの速さに海外メディアが驚嘆していたが、今回の復旧スピードもギネス級を記録するであろう。
たぶん、彼らは何らかの要請やら命令やらが来るずっと前に、被災状況確認後に即動き出しているに違いない。

これはNEXCOの目標が実に明確だからであって、目的が明確な時の日本人の動きのスピードは海外から見ると驚嘆するばかりである。
最近では、目標がない時の弱さが目立つことが多かったが・・・。
この日本人の自律的な判断による迅速な行動こそが、ドラッカーも絶賛した日本的事前コンセンサス形組織の強さなのである。

(第30報)
東北地方太平洋沖地震に伴う高速道路の状況について(関東支社) (NEXCO東日本)
http://www.e-nexco.co.jp/pressroom/press_release/kanto/h23/0316f/

インテリジェンス無き日本報道機関へのお願い

2011-03-15 13:10:36 | 社会
今回の原発事故は、海外での関心も高いことから、海外の主要メディアでも取り上げられています。
私は全てを把握しているわけではありませんが、それらの情報を読む限り、日本の報道機関よりもたらされる情報よりも、海外の報道機関からもたらされる情報の方が潤沢かつ高品質だと思います。

なぜ海外の報道機関の方が有用な情報を提供できるのでしょうか。

それは、海外の報道機関からもたらされる情報は「インテリジェンス(知識)」ですが、日本の報道機関からもたらされる情報が「単なる情報」でしかないからではないでしょうか。
情報量が多い少ないということではなく、得られた情報からどのように有用な情報を引き出せるかというインテリジェンスの問題なのです。

それは端的に、日本の報道機関が「インテリジェンス」という概念をほとんど理解しておらず、情報の入手先を行政府や東電に依存し、そして入手した情報を精査する力を持っていないということを示しているのです。

日本ではTV報道よりも専門家のBlogやTwitterの方が有力な情報入手先になっています。
インテリジェンスだからです。

今回の原発事故で言えば、状況証拠を用いて専門家の議論を集約すれば、海外の報道機関に対し情報優位を活かせるはずです。
それを行政府や東電からの情報のダダ漏れ、いや劣化コピーを繰り返し続ける醜態を曝している現状を鑑みると、これはもう日本の報道機関に「インテリジェンス」などというものが存在しないことが明らかになったと言わざるを得ません。
普段、マスコミは日本政府に対してインテリジェンスがない等と攻め立てますが、攻めている方にインテリジェンスがないのです。
日本政府が胡坐をかくのも不思議ではありません。

しかも、首都圏ではTV東京を除く全ての主要局が横並びで悲観的な地震報道一色です。

この影響で、街ではガソリン、パン、米、即席食品、保存食、電池、etc... の買占めによって品切れ状態が続いています。
彼らのやっていることはひたすら被害情報を流し続け、不安感を煽っているだけです。

一体彼らの目的意識とは何なのでしょうか。
報道機関として何がしたいのでしょうか。
彼らは言うでしょう。
「事実を伝えるだけだ。」と。

彼らの勘違いを正しておきましょう。

君達の認識している事実だけが事実ではない。
君達は、君達が見たいと思うものを事実と言っているに過ぎず、君達が見ていない事実はひたすらに無視し続けているのではないか。
事実は無限にあるのだ。
その中で、自分達にとって都合のよい事実だけを取り上げ、それが正義だと旨を張るのは外から見ていてあまりに滑稽な姿であり、報道機関として自己否定の機会すら失っていると思えることに、ただただ失望せざるを得ない。
今はただ、君達が日本国内の世論に強い影響力を持つ立場にあることを強く自覚し、今一度報道機関としての原点に戻られんことを、ひたすら願うばかりである。

事故性ばかりに着目した報道をやめよ

2011-03-15 11:06:30 | 社会
TV局は事故性ばかりにバイアスをかけるから、情緒的な言動が加速されて、視聴者から客観的な状況判断と今後のあるべき対応策に関する議論が奪われてしまう。
今後、TV局はあらゆるところの放射線量をガイガーカウンターを使って計測し、値を示して国や東京電力を攻め続けるだろう。
今回の事故では、被害者を持ち出せば相手は反論が封殺されるから、TV局はやりたい放題だ。

正義の仮面を被ったメディア・ヤクザが、今後日本経済を地に落す

TV局は教授や物理学者を出すよりエンジニアを出して説明してもらう方がよい。
今となっては"系"としてのシステムの問題なのだから、理論だけの実際の設計・実装の話を伴わない議論はほとんど無意味だ。
今は、設計・実装上の問題や、不測の事態への対応としての設計・実装の話が何よりも重要。
今回の事故は、理論的な要素技術の問題ではなく、"システムとして"の事故対応処理の問題である。
準備していた各要素が、不測の事態時にシステムとしてうまく繋がるかなのだ。

この点についてMITで原子力工学でPh.Dを取得して、日立でエンジニアをやっていた経歴を持っている大前氏の解説がわかりやすい。



にしても、今度の事故の影響で原子力発電所が今後日本で建設できなくなると、大変問題だ。
実は、私の義兄弟に原子力関係者がいて彼がいつも愚痴っていることだが、今回の事件、原発事故や計画停電などはこれまでの原子力政策上の問題と無関係ではない。
日本の国内で原発を建設するのは非常に難しく、建設地の制約などによって、最適なシステムを構築することができていないのだ。

スリーマイル事故によってアメリカでは原発を建設することができなくなった。
住民の理解を得ることができないからだ。
この後のエネルギー政策の有り方がどう有り得るのか、国民的議論が必要だ。

今回の地震でわかった大本営発表が受け入れられるワケ

2011-03-13 08:40:53 | 社会
福島第一原発の事故に関する情報が錯綜しすぎてよくわかない。
被害がたいしたことないならよいが、場合によっては放射性物質が半径数十キロにわたって飛散する可能性を持った非常に重要な話を適当な情報で覆いつくされている。
まずTVを見ると、専門家なる人々が各局毎に大勢出ているが、彼らが何を言いたいのかよくわからん。
何かを言っていても全く信頼できない。

なぜなら、専門家としての意見を言っていない。
TV局に言わされているだけの無内容な内容を繰り返しているだけ。
何の分野でもある程度専門性を持っている人ならわかることだが、専門的な判断をするためには、その判断となる前提が必要だが、その前提情報が不足しすぎているため、彼ら専門家と名乗る先生たちはTV局からの"意図"を前提情報として受けれいてしまっている。

専門家として推測を公共波で流すことに心理的な抵抗があるのだが、TV局に背中を押されて無意味な推測話を繰り返す。
結果、この事故で大騒ぎしたいTV局の意図を思いっきり反映した内容になってしまう。
彼らが何回説明しても全く意味がない情報だ。

とにかくTV局の報道だけに触れていると、恐ろしいことが起きている印象だけが残る。

最近、NHKスペシャルで放映された「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回 "熱狂”はこうして作られた」と同じ構造だが、今回の地震でよく理解できた。

戦争や地震のような異常事態が発生している時、複雑性と不確実性に晒された人々は情報を求める。
情報が不足し錯綜するから、より確かな情報が欲しくなる。
異常事態の場合、現場情報を入手できるチャネルは限られる。
必然的に人々はマスメディアを頼る。
マスメディアから出される情報は、マスメディアに入る前に既に統制されていること、そしてマスメディア内でワイドショー的に加工されるなどするから、全TV局で大本営発表を繰り返されることになる。

だから、「熱狂を作ったのはマスメディアだ」とするような見方は非常に偏っていて、実際は「異常事態では人々が熱狂する情報を求める」ということだったのだ。

今後考えなければならないことは、異常事態に人々が冷静さを失ってしまうという状況をどのように緩和できるかということだ。
今回の地震でもネットの力、特にTwitterが力を発揮しているが、Twitterの使用率が低い現状としてはまだまだ日本全体の力を持つになり得ない。

これは非常に重要な問いだ。

就職できなくて自殺?そんなもので人が自殺できるわけがない。

2011-03-03 16:24:47 | 社会
2010年の自殺統計によると、自殺者は31,690人で、うち就職失敗が動機と思われる大学生の自殺が46人で倍増だそうです。

こういう情報は世論をミスリードしがちです。
おそらく、この情報を聞いたら「就職できずに自殺した。」と考えますよね。
「今日の雇用情勢が問題だ。」と言い出す人が現れますね。

でも、就職できずに自殺した人は、仮に就職できたとしても、その後の人生の中で自殺した可能性が高いです。
もちろん、その後の人生がその人に与える影響を考えると自殺しない可能性も否定できないですが。

そもそも「自殺」という言葉がミスリードを生み出す元凶です。
「自殺」は「自殺」ではありません。
「殺人」ですよ、自分を殺す殺人です。
それも、他人を殺すよりもずっと条件の厳しい最上級の殺人です。

他人を殺すのは簡単です。
何かを奪いたくて、怨恨で、または特に意味もなく殺すことが可能です。
戦争ひとつ考えて見てもわかりやすいじゃないですか。
命令で人を殺せますよね。
ボタン1つかもしれません。
つまり、何らかの条件が揃えば殺せてしまう。
他人を殺すというのは、そういうものです。

でも、自分を殺すのは非常に難しいものです。
条件揃っても殺せません。
自分のことは。

大切だからですよ。
自分のことが誰よりも。

自分を殺せる動機はただ2つです。

自分より大切な誰かの為に自らの命を賭すこと。
いわゆる「無償の愛」です。
自分を殺すための条件はありません。

もう1つ。
それは「絶望」です。
そもそも人は、傷ついたり辛いからといって自殺することはありません。
そんな容易い条件では殺せないんですよ自分を。
何よりも大切な自分を殺せないんです。
でも「絶望」だけは違う。
「絶望」は人から条件を奪ってしまうから。

人は「希望」のある限り、生きます、生きようとします。
どんなに辛くても、悲しくても、「希望」が人を生かしてくれます。
「希望」は人に、人生に意味を与えてくれるからです。
人が生きれば様々なものとの関係性が生みだされます。
(人は関係性に意味を見出す生き物です。繰り返しなので省略。)
その可能性を信じさせてくれるものが「希望」です。
逆に言えば、人は「希望」を失うと関係性が生み出される可能性を信じられなくなり、人生に意味を見出せなくなります。
ビクトール・E・フランクルばりのことを言わせてもらえば、人は意味のない人生を歩むことはできません。
だから「希望」のある社会であることは、どのような社会であっても重要です。

しかし、人は簡単に「絶望」できるものなのでしょうか。
答えは否です。
簡単に「絶望」できるなら人類はとっくに滅亡していますよ。
人は、思いたいようには思うことはできません。
セルフマインドコントロールが簡単にできればうつ病だってなくなります。
「絶望」するのは大変なのです。


上記をまとめましょう。
人は、他人については条件で殺せますが、自分を条件で殺すことはできません。
自分を殺すことは非常に難しいことです。

にも関わらず自殺するということは、絶望して人生に意味を感じなくなったということです。
しかし絶望するのも簡単ではありません。
就職できずに絶望するということは、おそらくその人は、そもそも絶望しやすい環境に身をいているということです。
他のことでも絶望しやすい状況ということです。
絶望しやすい人なのではありません。
絶望しやすい状況に身を置いている、いや、正確に言えば、絶望という状況にあると思い込んでいる。

いいですか、当Blogでは何度も繰り返すように、意味というのは始めからあるものではなく、関係性があればそこに生み出されるものです。
絶望しないで生きるために必要なこと、それは生きようと思って生きることです。
でも逆に生きようとしないためには絶望するしかありません。
勘の良い人なら理解できるでしょうが、絶望への飛躍がなければなりませんね。

どうすれば人は絶望へ飛躍することができるのでしょうか。

「未来」を奪えばいいのです。

ひたすらにその人の「未来」を奪えばいいのです。
「未来」は人に「希望」を与えてくれます。
「未来」のある限り、人は「絶望」したりしない。

どうすれば「未来」を奪えると思いますか?

実は「未来」を奪うことなど誰にもできない。
その人の「未来」はその人のものでしか有り得ません。
「未来」はその人の中にしか存在しないものだからです。

だから、「未来」を奪うためには、ひたすらに「君には未来がない」と思い込ませることです。
「未来」を奪うことはできません。
だけれども、「未来」がないと思い込ませることはできる。

ひたすらに「未来はない。」と思い込ませるのです。
そうすれば人は「絶望」する。

これでようやく人は自分を殺すことができるのです。


結論です。
就職できずに自殺する人なんていません。
未来を奪われたとその人が思い込み、絶望することによって初めて自殺することができます。

就職できずで自殺した人は、何かに自分の未来を奪われたと思ったのでしょう。
「未来」があれば人生の可能性はほぼ無限大に開いているにも関わらずです。
「未来」を奪うことはできないのにです。
なぜその人は未来が奪われたと思えたのでしょう。

その「何か」が何なのか、国民的コンセンサスを得るまでには長い道のりを経ねばなりますまい。

カンニングで解決できるような問題に努力する虚しさ

2011-03-02 12:30:24 | 社会
いろいろと意見が出揃ってきたので、私も雑感を。

まず、ネット情報検索が日々進化し、日常化してきている今日において、カンニングで解決できるような問題に血眼になって努力するという虚しさを自覚すべきなのである。
先進国、ポスト新興国としてぶち当たる壁は、スタンダードのない世界での競争であり、知識労働社会において求められている資質とは、問題のないところに問題を発見し、そしてその答えの用意されていない問題にどのように答えを見出せるかという能力である。
日本の教育の悲劇は、答えの用意された問題をひたすら解くという新興国に最適化された制度のままになっているということだ。

明治維新後、日本は長らく後進国であったため、先進諸国に追いつくことが最大の懸案であった。
そのため、旧帝大などは優秀な官僚を育てることを目的に設立され、その目的を果たしてきた。
だから東大や京大が未だに優秀な官僚を育てることを目的にしているのであれば、別に今の受験制度でも問題ないが、それが全ての大学において横並びである必要はない。
その大学が育てたい人材、能力に特化した試験を実施すればよいのだ。
(高度研究者を育成するための試験であれば、カンニングでしか問題が解けない者が入学したとて実際には何の役に立たないので、それを事前にわかっている受験生はカンニングしてまで入学したりしない。)

にも関わらず何ゆえ学生は既存の受験路線に乗るかといえば、日本の雇用慣行、特に新卒就職事情によるところが大きく、大学名によるスクリーニングをひたすらに恐れての結果であろう。
いや、大学名によるスクリーニングをかけない企業も多数あるのだから、より正確にいえばリスクを恐れてというよりは、リスクヘッジのためにであろう。

しかし、雇用慣行が変わらない限り、大学側は変われないのであろうか。
否である。
大学が就職率など気にする時代はもうすぐ終わる。
最上位校は就職率などではなく、卒業生がどれだけ世の中に影響を与えたかを競うようになる。

日本の大学入試制度は本当に間違っているのか(My Life After MIT Sloan)
http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/aceefc69a23a6ff72ddcb44e46736afb

大人が逃げ続ける国、日本

2011-02-24 18:07:10 | 社会
心底同意します。

【赤木智弘の眼光紙背】子供と真剣に向いあおう(赤木智弘)
http://news.livedoor.com/article/detail/5366662/
(強調は当Blogによるもの)


そして、人間同士の出会いで産まれるはずの、心や体やお金といった複雑な関係性を否定し、どこにもあるはずのない「清く正しい出会い」があるかのように、人々に思わせてしまっている。そして正しく無い出会いは全部不健全なのだとして、子供を家庭の中に押し込めようとする。

 他者との出会いというのは、常にリスクと隣り合わせである。それは親戚であろうが、学校であろうが、ネットであろうが、会社であろうが、それは変わらない

 重要なのは、あくまでも「出会いはいつでもリスクを含む」ということを子供に伝え、対処法を伝授することであって、「悪いから悪いのだ」というトートロジーで、子供が他者と出会い、成長しようとする欲求を押さえつけることでは無いはずだ。

 非出会い系での子供の被害とやらが増加しているのは、決してフィルタリングが不十分だからではない。

 大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず、フィルタリングや都道府県の青少年育成条例、そして警察に、子供の行動を抑制してもらうことばかりを考えているからだ。

 そうして逃げ続ける限り、被害が増えていくのは避けられないと、私は考えている。


"大人が、人と人が知り合ったり付き合ったりすることの複雑さを、子供に対して真っ正面から真剣に対話して伝えようと考えず"

人と人との関係性というのは、非常に複雑なもので、とても一般化できるようなものではない。
そこに万事に通用する理論も方程式も定石も存在しない。
だが、日本人達はそんな一般化できないものをリスクとして扱い、そして遠ざける。
自分達の理論を拡張せず、自分達の理論に合うものを取り込むだけだ。
だから日本には純粋培養された単純君か、もしくは粗暴に育ったガサツ君ばかりになっていく。
恋愛の「れ」の字も語れないような大人たちが大量生産されて、人生というベルトコンベアに乗ったまま使い古されて死んでいくだけだ。
そうやって、世界の構造が大きく変化していく時に、時代に合わなくなった理論をいつまでも使い続ける。
生産ラインが稼動し続ける限りにおいて、それが必要とされているかどうかに関わらず、使い続ける。

ある研究者が人間をテクノロジの力で拡張可能かどうかなどとカッコいいことを言っていたが、その前に人間そのものの拡張について考えることの方がよっぽど大事だ。
複雑さ、不確実性、こういったものに大人たちが勇気をもって向き合わなければ、明日を担う子供たちは育たない。

こんな時、私はある言葉を思い出す。

西洋では病気をしないことを健康と考える。
しかし、東洋では病気とうまく付き合っていくことを健康と考える。
西洋的な考えでは、一生健康でいることは不可能で、また健康を維持するために常に多大な労力を要する。
東洋的な考えでは、一生健康でいることができるし、また健康を維持していくために適度な労力を要する。

社会には複雑さ、不確実性に溢れている。
それを否定したいと思っても、否定し尽くすことはできない。
大人が自分の論理矛盾に気づく時は、子供が大人になった後だ。

※注
このエントリは、一方に偏った意見であることを自覚して書いています。

伊達直人からの本当の贈り物

2011-01-22 02:29:48 | 社会
「タイガーマスク現象」と呼ばれる社会現象が起きている。
この現象は概ね好感を持って受け入れられ、連日マスコミは大絶賛の嵐である。

マスコミが取り上げれば取り上げるほど現象は拡散すると思われるが、
そろそろ悪ノリする輩が現れたり、
児童養護施設への浅い理解(※)の元での寄付活動に対して批判する輩が現れたりして
どこかで下火になると思われるが、
(マスコミにそういった批判を放映するだけの勇気があるとも思えないが)
これはブームに付き物のアンチと冷や水であるから問題にする必要はない。


全てとは言わないが基本的に経済的に窮乏している施設ではない。

それよりも、私はこの「タイガーマスク現象」を違った視点から見ている。
書くのが面倒だったのでネットで同じことを主張する論客が現れるのを待ち、
そこにリンクを張ろうと思って静観していたのだが誰も書かないので自分で書くことにした。
(気づいていないだけかもしれないが)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


私は、このニュースをTVで見た時に率直に驚いた。
最初に伊達直人を名乗ってランドセルを寄付した人が一体何を考えたかを知る術はないが、
この寄付行動が日本に与える影響(その後のタイガーマスク現象)を即座に理解することができた。
さらに言えば、もし最初に寄付行動に出た人が、
私の考える理由によって「伊達直人」を名乗ったのだとしたら、
その人は非常に頭が切れ、そして日本の本質的な問題を見抜き、
何よりも日本のことを愛情を持って見ている人に違いない、と思った。
(単に私の勘違いかもしれない。)

伊達直人が"日本人"に贈ったもの。

それは「タイガーマスク」である。

タイガーマスクは覆面レスラーである。
タイガーマスクが伊達直人である必要はない。
だが、伊達直人はタイガーマスクになるのだ。
タイガーマスクを付けた時、人はタイガーマスクになれるのである。

マスコミでは下記の言説がたまに流される。
児童養護施設の関係者や、そこで育った子供たちの意見としても。


「悪いことをしているのではないのだから、実名でよいのではないか」
「匿名社会から実名社会へ」


ことの本質を全く理解していない。
タイガーマスクがあるから、伊達直人が現れるのだ。

なぜ日本では2ちゃんねるがアクセス数を集めるのか。
それは匿名(無名ではない)というマスクがあるからだ。

匿名という隠れ蓑に隠れているのではない。
むしろ仮面(ペルソナ)である。
仮面を付けることで、日本人はその人になるのだ。

単に自己アイデンティティがないのではない。
仮面を付け替えることで自己アイデンティティを変化させることができるのだ。
潜在的自己をどのように表出させるかという問題である。
菩薩の顔が幾つもあることが許される国である。
宇宙・自然は多様であり、また人間の有様も多様なのである。

神様とは何で、宇宙とは何で、
人間とはこういう形で、こういう意味を持って、こう生きるべきで、
そんな自己アイデンティティには固執しなかった人々も世界には大勢いるのである。
むしろ我々が近代文明だと思っているものは地球規模で見れば小数派である。


伊達直人が日本人に贈ったもの

それは、タイガーマスクである。

日本人の潜在的な力を引き出すために

日本の壮大なる自己矛盾

2011-01-18 10:13:58 | 社会
役人というもの 政策のあり方との関係(小幡績)
http://agora-web.jp/archives/1174425.html


役人が権限を欲しているというのは大きな誤解だ。役人とはむしろ権限を持つことを嫌がるのであり、役人から権限を奪うことが行政改革ではなく、役人に責任を持って権限を持たせるのがポイントなのだ。

役人とは、世間やメディアのイメージとは違って、権限を振り回したり、権限を獲得することを最優先にして仕事をしていたりする、ということはない。むしろ逆に、責任を負わされるのは嫌だから、なるべく不必要な権限は保持したくないのであり、実施が面倒な法令は嫌で、自由にやってもらいたいのだ。

だから、自由にやられたらほかの住民から苦情がくるようなことは起きてほしくなく、そういう場合に、何でも禁止してしまえ、と言うことになり、実施しやすいルールを作り、それに当てはめて、自分で判断、解釈して責任を追及されないように、ルールどおり運用していますと言えるような制度を望むのだ。

ここにこそ、官僚主導の最大の弊害が生じる。個別に実際に監督、検査して判断するべきことをしなくなり、最適な資源配分を実現するための社会システムデザイン、経済政策が実施されなくなるのだ。

これが役人は責任を取れない、ということの真の問題点である。

きちんと社会として望ましい形に地域や経済を持っていこうとするならば、その姿が実現できるように直接的に誘導する必要がある。その中では、個別に誰かが適不適を判断しないといけない。そこは争いになるから裁判か調停組織が必要となるし、そもそも監督、調査には手間隙と技術が必要だし、何より、責任を持って自分で判断する、というガッツが必要だ。

実は、これは日本の多くの大組織に掛けており、個人では能力もあり、大きなヴィジョンを語っている中間管理職が、実際の判断はすべて上にあげるということになり、ガッツのない上は、すべて下に個別の判断は任せてあると逃げ腰である。

これが日本総無責任体制の根本的な理由である。


激しく同意する。
日本に欠けているのは、この「責任」に対する認識なのだ。

今、日本を閉塞する問題の根本的原因は何か。
それは「責任」が存在しないことに他ならない。
日本的空気の問題とは「国民の総無責任化」にあるのだ。

当Blogで何度も繰り返した内容だが、ここでまた述べよう。

近代に入って日本は何も考えずに「社会」と「個人」を輸入した。
西欧的近代社会観の輸入をしたということだ。
だが、もともと日本では「社会」や「個人」などという発想が希薄であった。
個と個が溶け合った「和」があった。

我々が「社会」や「個人」を語るとき、
あたかも日本に当たり前のように存在しているモノとしているが、
実は「社会」も「個人」も日本には存在していない。
存在していないのに、存在しているという前提で話を進めるから、何もかもおかしくなる。
だから日本人は「権利」の概念も、「責任」の概念も「民主主義」の概念もいまいち理解できない。
それらは「社会」と「個人」を前提とした話だからだ。

しかし、われわれ現代人はこの問題をいつまでたっても直視しようとはしないのだ。
理想を前提として話をする前に、
自分たちの置かれている現実を率直に受け止める覚悟が現代人にはない。

なぜなら、自分を自分たらしめるアイデンティティを
近代的社会観を持ち出さずして語ることができないからだ。

つまり、自己アイデンティティを確立するために近代社会観に依存するが、
その一方で、そうした近代社会観が自分たちの現状と合致していないことも
また無意識的に自覚している。
それが日本人のチキンレース(責任回避衝動)に繋がっているのだ。

ここに、日本の壮大なる自己矛盾が存在する。
日米安保に問題の根本を帰着さえている論者も多いのだが、
そこは派生的問題にしかないと私は思っている。

今時間がないのでつづきはまた。

無縁社会にならないために今こそ「責任」という言葉を再発見せよ

2011-01-07 15:50:00 | 社会
同期への最後の年賀状(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51660321.html

「誰だって自分のこと以外は真剣に考えない」

からこそ、「責任」という概念があるのです。
他との関係性の中でこそ自己を発見できるゆえに、
達成したい目的(存在したい自己)があるのであれば、
責任という関係性を確定するものが必要です。

ドラッカーのいう組織社会の文脈で言えば、
組織における「責任」を通してこそ
人は社会(組織は社会的機関)との繋がりを獲得することができるし、
コミュニタリアニズム的文脈で言えば、
コミュニティにおける「責任」を通してこそ
人はコミュニティとの繋がりを獲得することができます。

国家・社会を考える(肯定する)時は、
我々は国家・社会にどのような目的を託し、
それゆえに国家・社会に対してどのような責任を負わすべきであり、
そして、そのためにどのような権限を持たせるべきか、
責任と権限のバランスは適切かなどを議論すべきなのです。

何度も述べるように、
日本の空気の問題は責任の真空化であり、
過去においては意味があったのです。

責任を用いて関係性の中で自己を明確化する必要がありません、
自己は和に溶け込んでいるのが和の文化であるからです。

これが海外から輸入した近代社会と融合し切れていないと思います。
社会だけ入れたから結果として総無責任化が起きているのだと。

国家・社会を語らないのであれば、責任の話をする必要はありません。
ただし、国家や社会の規模で個人や自己なども語らぬことです。
そういう社会ではない社会を目指すのも、衰退の選択肢としては有り得ると思いますが。

ただ私は、組織社会を否定して残るのは個人主義ではなく全体主義だ
というドラッカーの意見に賛成します。
それは、現代社会(知識産業社会)において何かを成し遂げるためには、
組織の力なくして有り得ないからです。
中間集団から個人に分割された人々は、
結局「公」という権力にすがらざるを得なくなり、
そして責任を超えた権限の暴走を許容せざるを得なくなるのです。

小泉進次郎氏が「自助、共助、公助のバランス」と言っていたが、
人々を無縁にさせないために、今「責任」という言葉を
「自助、共助、公助のバランス」感覚を持って人々に投げかけるのです。
責任を負わせることで、人々は無縁ではいられなくなる。
この先に共生社会も見えてくるものと考えます。

ちょっと最後は適当ですが、以上です。

夫と親の対抗は、平等で公平な社会ゆえ

2011-01-04 00:36:42 | 社会
ちょっと面白い、というかちょっと納得しました。
ロジックにではなく、状況としてね。
日本の構造そのものをよく表している状況だし、
実際にそういう人たちが多くなっていると私自身が感じているからだ。

女の子の欲しいもの(Ohnoblog 2)
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110102/1293978579

最近、高校3年や大学4年で妊娠する女の子が増えているそうだ。その人の近所にも数人そういう娘がいて、他でもそんな話をポツポツ聞くという。

高校や大学の最終学年というと就活まっただ中の人が多い。しかしその女の子たちは、社会に出て僅かな報酬のために苦労しながら働くのはまっぴらだと思っている。そこまでやりがいのある仕事なんかないし。

しゃかりきに働きながら一生独身を通すのも、仕事+家事育児分担という共稼ぎスタイルも、どっちもしんどそう。専業もセレブでない限りつまんなそう。労働も結婚もいや。でも子供はほしい。



そこで、つきあってる男の子供を計画的に妊娠する。親バレし、就活どころではなくなり、男も外堀を埋められ逃げられなくなってでき婚。

しかし娘はその男と結婚したいのではなく子供がほしかっただけだから、数年経つと男もハメられてたことを知り、夫婦仲はうまくいかなくなって離婚。



子供を抱えて生活能力もない若い娘の生活は、当然すべて親がかりとなる。

ブツブツ言っていた父親も孫の顔を見ると娘の言うなりで、母親に至っては娘と同居し思う存分孫の面倒を見られるので大喜び。

甲斐性のなさそうな婿なんか、最初からいなくていいのだ。娘と孫さえ手元にいればいい。



こうして娘の手には、当面の楽チン生活と子供という欲しいものだけが転がり込んでくる。

父親はまだ働いているし(というかこうなったらまだまだ頑張って働かざるを得ないし)、家事は母親がやってくれるし、自分は衣食住の心配をすることなく子育てに専念できる。バツ1子供ありの親元暮らしなんて今時珍しくもないから、後ろ指指されることもない。

仕事と家事育児に追われながらの、低収入の若い男との下流生活に比べたら、天国だ。

親の資産があればもっと安泰。そのために介護を引き受けるくらい覚悟の上。夫の両親まで引き受けなくていい分、気楽。男なんかいらないのだ。使い途がなくなったら、いらない。


今後は世代に関係なく二極化が進むだろうが、
今の日本には「豊かな親」と「貧しい子供」という構図があって、
しかも、その豊かな親は若い頃に清貧に耐えて生き抜いてきた故の節約志向があり、
子供にはその親の資産を食い潰して生きてきた故の贅沢志向がある。
自立して生きる上での「資産」と「志向」のギャップを、
子供が親にパラサイトすることによって埋めている関係とでもいえるかもしれない。
で、その潤滑油の役割をしているのが「孫」なのだ。

今、豊かである親が子育て世代であった頃、
一般的に子育てに配分される力というのは今よりもずっと小さく、
その結果として、関係が良いとはいえない親子が多い。

しかし、その状況が一変するのが「出産」である。
親子ともに「孫」という存在によって一段進歩するチャンスがあるのだ。
正確にいえば、お互いの人生における着眼点が変わる大きな機会になるということだろう。

ここで女性の視点に立って、このチャンスをどう活かすかを考える。
正直に言って、配偶者たる夫と、経済的に豊かな親を比べた場合、
夫に勝てる要素があるとすれば、性的な優位性、将来的な経済的優位性、
もしくは親によって補完することができない信頼性を持つか、しかない。
もちろん男女関係上の恋愛感情が数年で低下することを前提としている。

だが、基本的に親以上の信頼性を夫が獲得することは簡単ではない。
夫と親とはスタート地点が違う。
よほど駄目な親でもない限り、夫が優位性を発揮することは難しいだろう。
そうすると、将来的な経済的優位が望めぬ夫であれば、
もはや性的な優位性でしか対抗し得ないのである。
実際には、逆の性的な優位性が存在しないパターンも多いとは思うが。

いや、「夫と親の対抗」という発想自体がおかしいのではないかという問題提起はその通りだ。
本来、立ち位置の異なるものであるから、対抗するべき存在ではない。
なのに、なぜここであえて「夫と親の対抗」を持ち出したのか。
それは、役割の異なるものとしての線引きが出来ていないからだ。

社会が平等を求める結果として、権威的な役割分担は排斥される。
フラットな社会を推進する一つの指標が経済的価値であろう。
あらゆる場面で人それぞれを平等に扱おうとすれば
当然のことながら、それを代替可能なもので全てが事足りる社会になる。
子供が欲しければ試験管ベイビーでもよいのだ。
資本主義的な言葉で語れば「分業」であろう。

これは論理の飛躍でもなんでもなく、
我々が平等で公平な社会を目指そうする結果として、
夫や親の役割分担といったものが崩壊するのだ。

世の中には、技術的にも代替可能でも、権威的に代替不能であるものは多い。
ただ、それらの権威がいつどのタイミングで崩壊するかという問題は常にある。
技術的に代替可能であれば、いずれ効率性という正義の行進を妨げることができなくなる。


昔、理不尽な子育てや、家族内のしつけ、のしきたりなどがあった時代があった。
その時代に比べれば、現代はずいぶんと平等で公平な社会になった。
だが、平等で公平な社会というのは素晴らしいだけではない。
なぜなら、平等で公平ということは、権威的な役割分担によって楽をすることができない。
ということを意味するのだから。

戦争が起きるのに万人に理解できる合理的理由など必要ない

2010-12-21 22:17:55 | 社会
最近の韓国と北朝鮮の緊張や中国の台頭を目の間にして、
日本でも安全保障や戦争について語られることが多くなったように思う。
しかし、多くの日本人にとって戦争という脅威は現実のものではないのではないか。
日本の近くで韓国と北朝鮮があれだけやり合っていても、
やはりどこか対岸の火事なのであって、
まさか自分たちが武力衝突に巻き込まれることはないだろうと
そう考えているのではないだろうか。

少なくても私の周囲において、戦争を現実のものとして考えている人は皆無である。
戦争を経験したことのない者にとって、
戦争とはどこまでいっても非現実的なものなのかもしれないのだから、
そもそも日常の生活に忙しい現代人に対して、
戦争という夢物語のようなものについて考えを巡らせろという方が無理なのかもしれない。

そんなことを考えていると、
私は第1次世界大戦について想いを馳せずにはいられない。

私は文献でしか第1次世界大戦について知る由もないが、
多くの語り部たちの言葉から、私は第1次世界大戦についてこう考えることにしている。

誰にとっても戦争が非現実的なものだったからこそ、戦争は起きたのだと。

当時、誰もが戦争が起きるだなんて、あれほど拡散するだなんて思っていなかった。
だけど、世界大戦と呼ばれるほど大きな戦争になった。

経緯は↓このページがわかりやすく書いてあるので参照してほしい。

戦争はなぜ起こるか4 時刻表と第一次世界大戦(リアリズムと防衛を学ぶ)
http://d.hatena.ne.jp/zyesuta/20090910/1252570201


[前略]

一次大戦の当事者の一人であるロイド・ジョージは「我々はみな、混乱のうちに戦争に突入した」と述べています。

[中略]

直接のきっかけは暗殺事件です。セルビアを訪問したオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が殺されました。サラエボ事件です。

[中略]

困ったのはロシアです。ロシアは色々な都合があって、セルビアがオーストリアに呑み込まれるのが不満でした。だからセルビア支持の立場でした。

そこでセルビア支持を打ち出し、オーストリアを脅しつけるため、「総動員」をかけることにしました。

[中略]

オーストリアとセルビアの戦争に対してセルビア支持を打ち出すため、ロシアは動員をかけました。訓練を受けた市民たちに対し召集をかけたのです。ですがロシアは戦争をするつもりはありませんでした。

[中略]

ところがロシアの動員をきっかけとして、事態は思わぬ方向に向かいます。

[中略]

ドイツがロシアとフランスに宣戦を布告しました。そしてドイツ軍は中立国ベルギーに侵攻し、フランスになだれ込みました。それに対してイギリスがドイツに宣戦します。

[中略]

「ロシアが動員したので、ドイツはフランスに攻め込む」では、まったく非論理的に見えます。

[中略]

一度「動員する」と決めたら変更がきかない戦争計画。この束縛がドイツを全面戦争に駆り立てます。

[中略]

ロシアが動員を開始したことで、ドイツの戦争計画にスイッチが入ってしまいます。「まずフランスを討ち、取って返してロシアを…」という時間の余裕は、ロシアが動員を終えるまでの隙を突く予定でした。

[中略]

ロシアが動員を開始したからには、その完了までに、何としてもフランスを撃破せねばならない…さもないと全ての計画が台無しです。

[中略]

フランスに恨みがあったから戦争を仕掛けたわけではありません。ただそれが軍事的に必要だ――と、そう計画に書いてあったからです。

[中略]

本来、軍事は政治の道具です。しかしこの場合は逆に、政治が軍事の道具となりました。動員がはじまって以降、軍事の論理がすべてを超越し、国家を振り回してしまったのです。

(続きはリンク先をお読みください。面白いです。)



他にも、第1次世界大戦後、ナチスが政権をとることだって当時の人々は予測していなかった。

未来から今を見たら、なんでそんな当たり前のことがわからないのかと思うようなことが
今を生きる我々にはわからないのだ。
「そんな馬鹿な」なことは起きるのだ。

歴史を振り返って見た時、ついつい我々は過去を今と比べ方を失敗する。
過去を知っている今の人々と、今を知らない過去の人々をそのまま比べても有意なものは出てこない。
今を知っている未来の人々と、未来を知らない今の人々(我々)を比べて見てほしい。
今と未来との断絶に気づくであろう。

リンク先の言葉で締めてしまおう。


多くの錯誤で出来上がった戦争計画は、一度スイッチが押されれば絶対に止まらない、大戦への急行列車と化しました。発車したなら、後は時刻表にそって行けるところまで行くだけです。

列車に乗せられて戦争に向かう兵士たちは「クリスマスまでには戦争が終わり、家に帰れるさ」と思っていました。そしてそれだけは、時刻表通りにはいかなかったのです。

就活問題に関連して電車で聞いたある女子高生の会話

2010-12-20 19:08:00 | 社会
就活問題がいろんなところで議論を呼んでいるようです。

さまざまな立場から賛否両論溢れかえっておりますが、
それに関連して印象的であった話と、その感想を少し述べたいと思います。

少し前、朝の通勤電車内で聞いた女子高生2人の会話が印象的でした。
受験談義に花を咲かせていたのですが、
彼女らは当事者として、しっかりとした問題意識を持っていたのです。

まず、彼女らは「何学部の何学科に入るのか」について議論をしていました。
それぞれの学部の特徴について語らいながらも、その評価軸は「就職」だったのです。
彼女らの興味は、就職先だけでなく、就職後の仕事内容にまで及んでいました。

次は、そんな会話から印象的だったやりとりを拾い上げました。


「結局さ、今の受験ってどこの企業にどの大学から入るってだけの違いじゃね?」

「そうそう、おかしいよね。どこに就職するかで大学を選んでいるだけじゃね?」

「本当は、やりたいこととか夢とか、そういうもので選ぶべきじゃね?」

「何のために大学入るのかおかしくね?」

「でも、現実的に生活していくために就職中心に考えるしかなくね?」

「新卒の就職ひどいしね。」

「もっとさ、日本にもベンチャーとかいっぱいできるようになると変わるんじゃね?」

「っかいってさ、結局レールにのって受験するしかないんだよね~(やってらんないね~)」


カッターのように鋭い言葉たちが、大人たちの作り出した電車内の静寂を切り裂きました。

話の内容からして彼女らは高校2年生らしいのですが、
実にリアリスティックな目で社会を見ています。
大人たちの作り上げた社会に失望しながらも、
その一方でとても冷徹な目で自分たちの無能感を認識しています。

ある人から見れば現実のよく見えた「お利口な高校生」なのかもしれません。
しかし、私は彼女らが社会人になり、親になり、
そして後進を指導する立場になる時のことを考えると背筋の凍る想いがします。

若者から希望を奪い去ることは社会にとっての損失に違いありません。
社会の潜在力を活かせないばかりか、
社会からダイナミズムを奪い、自滅への道を歩ませる要因となるからです。
彼女らが大人になり、新しい世代を再生産する時、
今私が見た現実、これが悪循環に陥る可能性は否定できないのではないか。
いや、既に大人たちの世界にも蔓延している社会病だと考えるべきなのです。

停滞や下流、下り坂の人生論はあるでしょう。
しかし、それらの人生論は、人に誇りを与えるべくして生まれるものです。
決してルサンチマンを癒すためのものではありません。

就職の問題から見えてくるこういった問題についても考えなければならないでしょう。
今、発想の転換が求められているのです。
最大の問題は、産業社会に適した哲学がないことなのかもしれません。

率直に言って、私にはどうすればよいかわかりません。
ただ、なぜか次のドラッカーの言葉たちが私の頭の中で繰り返し響くのです。


ビジネスとは、社会のニーズを事業上の機会に変換することであり、
またマネジメントとは、人の強みを生産的なものとすることである。