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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

問題の構造をぶっ壊す

2013-07-27 13:37:15 | AKB48_軽ネタ
※このエントリは、小泉純一郎を礼賛するためのものでも、政治分析をするものでもなく、政治的手法と組織のダイナミクスについて表現する小話です。





2001年、自民党の小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」と叫び、「小泉旋風」と呼ばれる圧倒的な国民的な支持を背景に自民党総裁戦に勝ち、内閣総理大臣になった。

小泉にとって3度目の総裁選、政治生命を賭けた大勝負だった。

当初の本命は、自民党最大派閥橋本派のドン橋本龍太郎だったが、小泉は主婦層から人気のあった田中真紀子の協力を得ると、マスメディアを巻き込んでド派手な選挙戦を展開した。

小泉が街頭演説をすると数万の聴衆が集まり、街は埋め尽くされた。


当時の日本では、多くの人々が「(今の政治体制の下では)総理大臣なんて誰がやっても同じ」と、政治を諦めていた。

政治的無関心は、利権団体や派閥に利することになるから、国民が政治に対して無関心になればなるほど、よりいっそう無関心に拍車がかかる。

そんな負の循環が、日本全体を覆う閉塞感に繋がっていたのだ。

誰もが「このままではいけない」と感じながら、関心を失っていった。


みな理解していた。

問題は、どのような政策も、今の(政治体制の)構造の範囲内でしか行うことはできないと。

しかも、その長年の労力と知恵により構築された構造は複雑かつ頑強であり、革命でも起こさない限り壊すことはできないと思っていた。

先進国で革命の起きる確率を考えたら、一部の過激派を除けば、ほとんどの国民は諦める他なかった。

しかし、小泉が攻めたのは、まさにその一点であった。

「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力!」と問題の構造を破壊すると主張したのだ。


誰もが政治的無関心になっていた日本で、みなが政治家の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。

有り得ない光景だった。

そして、皆が時代の目撃者になった。

政治的無関心だった国民が目撃者になり、語り部になった。

政治に対して国民的関心が集まることで、利益団体の圧力は相対的に低下し、派閥は瓦解した。

まさに、それは奇跡だった。

いや、奇跡と呼んでしまうこと自体が、政治的無関心の表出なのかもしれない。


小泉の政治手法は、後に「小泉劇場」と揶揄され、知識人からは批判の的であったが、それは拙速な結論だろう。

小泉の支持の源泉は、政治的無関心の問題の本質を突いていたからだ。

小泉純一郎が内閣総理大臣に就任した直後の世論調査の結果は、90%に近い驚愕の支持率となった。

先進国の民主主義国家で、90%という支持率がありえるのだろうか。

その後、支持率低下や紆余差曲がありながらも、小泉の総理在任期間は1980日で戦後歴代第3位、最近の総理大臣の在任期間を考えれば、この1980日という数字が異常だということがわかるだろう。


次善策として、AKB48内に「恋愛禁止条例」について多様な考えが存在することを認めるのはどうだろうか

2013-07-25 00:46:56 | AKB48_軽ネタ
私は指原の考えを支持はしないけれど、AKB48にあっていい考えだとも思っている。


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※上から目線のつもりはないけれど、そう感じられたら申し訳ない。


指原は20歳になって、これまで幅のある経験をしてきたこともあるからだろうけれど、いろんなものの動きや、その裏にある原理が彼女なりに見えるようになってきたのだと思う。

だから、今は自分の理論や哲学を自分で確かめながら構築・表現したい時期なのだ。

人間なら誰しも、前向きさを失わなければそういう時期があるもので、特に彼女の場合は秋元康という今を代表する自分理論の持ち主が近くにいるわけだから、余計にやりがいを感じているのではなかろうか。

また少しして、その理論が通用しない場面に遭遇して理論を再構築して、ということを繰り返していくことによって、人間は成長してくものだと思う。

私は、彼女がスキャンダル発覚時に辞めるべきだったのかどうかについては明確な答えを持っていないけれど、AKB48グループ(少なくてもHKT48)にとって彼女の成長と献身は必要だと思う。

もちろん、その前段で彼女自身がHKT48を必要としているのだけれどもね。


というのもね、これは私の希望的観測かもしれないのだけれども(希望も何もしていないけれど)、たぶん彼女はもう一回りすると、次は恋愛禁止条例を肯定すると思っている。

彼女なりの理解に基づいて。

今は基本的に自分という存在を確立することがメインだけれども、指導者として他の若い子たちの存在を確立していくことがメインになった時、全体性を見るようになった時には、言うことは変化すると思っている。

1人ひとりのメンバーの心を理解するだけでは足りなくて、みんながどこへ向かうべきかを考えるようになった時に、心的転換は起きるのではないかな。

みんなの「先生」から「校長先生」になった時にね。

求められるものが「進路指導」から「運営方針」になる時。

前に書いたことなのだけど、彼女にはモノゴトを俯瞰する能力があるから、きっとそうなる。


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私は以前から「恋愛禁止条例という理念を掲げるべき!」と論じている立場だけれども、指原がそれと反対のことを言うからといって、それ自体を問題視していない。

恋愛禁止条例に様々な解釈があること自体は問題とは思わない。

問題は、それとは違う考えが全く出てこないことだ。

出てくるのはもっぱら外部(少数)からだけで、内部から全然出てこない。

これは多様性の観点から大問題だと思っている。

多様性の観点から指原は必要だとなっているのに、他が出てこないと論点が指原にアンカリングされてしまう。

これは誰にとっても本意ではないはずだ。

詳しくは↓を参照して欲しいのだが、


人はおとりに釣られる。 相対性の前では全てが錯覚。 ~おとり効果~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/7fc79b658340efabf6fb9461cbf8231d


本来は、AKB48には実に多様な考えが内在しているにも関わらず、指原以外の考えが表立って出てこないために、「おとり効果」が働いて自然と指原の考えがAKB48そのものの考えとしてロックされてしまう。

多様性がないために、錯覚が引き起こされやすい状況に陥っているということだ。

これも前から警鐘を鳴らしているつもりなのだが、単一の考え方で「空気」が醸成されてしまうと、それ以外の考えに対して排他的になるので、対立が激しさを増して世論が分裂してしまい、豊かな多様性に基づいた全体性が損なわれてしまう。

多元社会の誕生だ。

コミュニティの力が失われて、物語を生み出し強化する力もなくなれば、付加価値をつけることも難しくなるだろう。


1000円のチケットを1万円で売る方法
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/9ad6285070b6166e97fe1c53e9558a5a


全体性がなければ、ニッチの集合体というだけでは大きな力には成り得ない。

ネットワーク効果と複利効果が働かないからだ。

それゆえ水を差し続け、空気の支配を避けるとともに、旗を掲げるべきだと言っている。


「恋愛禁止条例」を肯定することができないなら、AKB48内に「恋愛禁止条例」について多様な考えが存在することを認めるのはどうだろうか。

「恋愛禁止条例」をテーマに討論会を開いてみるとか。

疑問に思っている若手も多いみたいだから。

ぐぐたす上開催でもいいと思うよ。

若い人たちだけで考えても迷子になるだろうから、多様な考えをいれていく仕組みが必要かもね。

習う機会ではなくて、学ぶ機会をもっとつくったらいいと思う。




ちょっと最後時間なくて端折っちゃった・・

1000円のチケットを1万円で売る方法

2013-07-25 00:30:55 | AKB48_軽ネタ
※ノンアルコール・ビールを飲んで書きたくなった緩いエントリです。(いつも緩いけど)


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少し動いて汗をかいてオールフリーをグビグビと飲む。

ノンアルコールでは物足りないが爽快だ。

いや~、余暇があるというのは素晴らしい。

しかし、酒を飲まない人が言う。

なぜノンアルコールにしてまでビールを飲むのか?

とか

甘さがなくて美味しくないからジュースの方がいい

とか。

まるでわかっていない。

誰も美味しいなんて思って酒を飲んでいない。

イメージなのだ。

アルコールとコーヒーはイメージで飲むって太古の昔から決まってる。(もちろん個人的主観)

仕事終わりでキンキンに冷えたビールを一気に飲んで炭酸で焼けそうな喉の痛みを耐えながら言う

「くぁぁ~!うまい!!」

という一言が言いたいだけだ。

「うまい!」というが、ここでは「物語」の話をしているのであって、「味」の話はしていない。

たとえば誰かと「酒を飲む」というのは「盛り上がる」や「心を通わす」「会話を楽しむ」といったことのメタファーになっている。

「酒を飲む」とは、「酒」そのものを「飲む」行為を意味していない。

基本、この酒の話がわからんやつは話もつまらないと相場が決まっている。

「物語性」について理解のない人だから。


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1本定価100円のコーラを、スーパーマーケットで売れば競合他社が多く価格競争に巻き込まれてしまうが、たとえば高級ホテルのルームサービスを販売場所に選べば1000円で売れる。

旅行先の高級ホテルの快適な部屋に、最適な温度に冷やされ、ライムと氷がついた、この上なく美味しい状態で、シルバーの盆に載ったコーラがグラスで運ばれてきたら、中身の液体はスーパーで売っているものと同じものだとしても、1,000円払うだけの価値があると感じる心地よい体験ができるだろう。

(もちろん全員に共通する話ではなく、そういう付加価値が認められる状況があるということだ。)


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コンサートに何をしにいくか、だと思う。

運営している側は当然わかっているだろうけれど、だが今回のドームツアーは唐突すぎた感は否めない。

(ドームツアーだけについて言いたいわけではない。グッズやビジュアル製品、CDにせよ同じことだ。)

先日も書いたが、必然性がわからない。

共感できる物語を作りこめていないのだ。

そういう土壌をつくる準備をさぼって果実だけをとりにいけば、そのうち果実は痩せ細り、いつしか取れなくなるだろう。

未来の時計職人、宮脇咲良

2013-07-22 11:04:49 | AKB48_軽ネタ
【HKT48】一日一人について真面目に討論 十九人目【宮脇咲良】(AKB48タイムズ)
http://akb48taimuzu.livedoor.biz/archives/30723008.html


ちょっと違うと思う。

「HKT48のセンター(序列)」という論点から宮脇咲良を語るから、宮脇咲良の可能性を低く見がちになるのかな。

「HKT48をプロモーションする」ということと、「宮脇咲良に対する期待」は別の話なのだよ。


「なぜ宮脇&兒玉ではなく田島&朝長がセンターなのか?」という質問に対する回答は簡単だよ。

その方がHKT48が盛り上がり、売れると思うから。

でも、それは「宮脇に期待していない」ということを意味していない。

むしろ逆。

宮脇咲良には、とても大きな期待をしている。

宮脇は「時を告げるのではなく、時計をつくる」ことができる数少ない人財だ。

将来的には、AKB48グループ全体を見て動ける人材になって欲しいと思っているよ。(たぶん)

センターという時を告げる役割に憧れるのはわかるが、

HKT48の序列にこだわるレベルで終わらないという気高い志を持って欲しいね。

今は、単にセンターの背中を見るのではなく、どういう息づかいのもとでHKT48という生き物が生きているのか、ステージの上でメンバーの中にいてじっくり時間をかけて見ることだよ。


時を告げるのではなく、時計をつくる
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/91429274914372eb7fc7865aac457f6d



いやもちろん、今はHKT48のことに一生懸命になって欲しいのだけど。

それと、こういう大人の期待が子供を潰すから、こういうことは直接言わない方がいいよ。


偉そうに言ってるけど、私は何もしりません。

5年後のAKB48についてファンは答えを持たない

2013-07-21 22:46:27 | AKB48_軽ネタ
よしりん先生の登場です!

HKT48宮脇咲良のぐぐたすに感動した。(ゴー宣道場)
https://www.gosen-dojo.com/index.php?action=pages_view_main&active_action=journal_view_main_detail&post_id=2323&comment_flag=1&block_id=13#_13

秋元康は総選挙の順位は
参考に留めるだけで、
誰をどう売り出すかは
自分のカンを信じて決断を下す。
それで良いのだ。



顧客にとって最善の企業であろうとし、その時点で考え得る最高の手を打つことによって、企業は滅ぶ。

愚かさによってではなく、誰よりも合理的であらんとして、その優秀さゆえに滅ぶ。

なぜなら、時が経てばあらゆることが変わるからだ。

時代が変われば顧客は変わる。

今日の顧客と明日の顧客が同じものを求めているとは限らない。

5年前の2008年の7月の時点では、尖閣諸島で漁船は追突していないし、iPadは発売されていないし、3.11東日本大地震は起きていないし、AKB48はキングレコードにまだ移籍していなかったし、オリコン1位をとったことがなかったし、選抜総選挙もまだやっていなかった。

(NHK紅白には出たことがあった。2007年に「アキバ枠」で。)

環境はぐるぐる目まぐるしく変わる。

世の中に意図した通りに進むことなど、ほとんどない。

この世界は、意図せざる結果に溢れている。

しかし、意図せざる世界だからこそ、進歩がある。

企業が利益を上げることができるのは、市場が不完全だからだ。

市場には、新しい商品やサービスがどのくらいの価値があるのか判断をする能力はない。

もちろん、その意思もない。

顧客は、5年後自分が何を求めているのか、という点について答えを持っていないのだ。

だが、この不確実性を利用して企業家は利益を得ることができる。

企業家が新しい商品やサービスによって利益を得るのは、リスクを負う覚悟に対する報酬ではなく、不確実性を利用する能力で「顧客の創造」を行うからだ。

それゆえ、企業家は、今の顧客に最善であろうとしながら、それとは別に明日の顧客を創り出すという、二兎を追わなければならない。

修羅場を乗り越えていくには、阿修羅の三面六臂のように、複数の顔を持たなければならない。



AKB48第1章はAKB48劇場からはじまった。AKB48第2章をどこからはじめる?

2013-07-19 02:09:58 | AKB48_軽ネタ

幾つかの綺麗に咲いた花は収穫された。

今も幾つかの花は綺麗に咲いている。

中には土の下に力強く根を張り巡らし王様のように咲く花もある。

しかし、この後咲くであろう花々たちを眺めていると、どこか心細い。

今年の下半期はどうだろうか、来年はもっと厳しいかもしれない。

さらに具合の悪いことに、少し前に撒いたタネのうち幾つかは芽が出たが、どうもその後の調子が芳しくない。

前から栄養剤は与えているがあまり効果が得られないし、ずっと続けていると副作用もあるかもしれない。

長い時間かけて耕した畑だったが、収穫を焦って手入れを怠ったせいで土地が痩せてしまった。

まず土を育てないといけないのはわかっていたが、余裕がない。

しかし、このままでは先はないし、少し休めるか、新たに土地を耕すべきだろうか。



アイディアを狩る狩猟採集生活から、土壌(組織力)を醸成しタネ(アイディア)を育てる農耕生活へ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0319c34c9503377d8b175908352da252

「育む」という発想で、継続的な努力が活きる生き方をしよう
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/eaf9943d3704e917e3377c127067f036


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ドームツアーの券が余っているらしい。

私はドームツアーが発表された時に「AKB48第2章の迷走を表す象徴的な出来事」と批判していたのだが、その後もずっと迷走しっぱなしだ。

そもそも、なぜAKB48はドームツアーをしたいのか?

私は「グループ全体を統一していくための目標が欲しかったから」が一番の理由だと思う。

発表された時、まず最初にそれを考えたし、ツアータイトルもそのような感じだ。

(「AKB48 2013年真夏のドームツアー~まだまだ、やらなきゃいけないことがある~」)

厳しいことを言えば、これは残念ながら大きな誤りと言われることになるだろう。

前田敦子卒業以降、さまざまなことが起き、状況はどんどん変わってきている。

にも関わらず、東京ドームを目指していたAKB48第一章の延長線上で目標を立ててしまった。

線形的思考の落とし穴にはまっているのだ。

「東京ドーム(1830m)」は、ファンも含めたAKB48にとっての目標だった。

ファンとメンバーやスタッフ全員の方向性がリンクしていた。

だが、今回のドームツアーはどうだろう。

ファンにとって、一体どんな必然性や意味があるのか。

「ドーム」自体に意味はなかったのに、東京ドームの後にドームツアーを目標に据えてしまった。

ファンを置いてきぼりにしたまま、内部的な論理にファンが共感してくれると誤解しているのだ。

たまたま「東京ドーム(1830m)」でみんなの方向性がリンクし、それで大きな成功をおさめることができた。

自分たちのやり方が正しかったのではなく、みんなの方向性が合ったことが成功要因だ。

自分たちが成功を手にしたのは、これまでのやり方が正しかったからだという誤った認識にとらわれ、現実を直視していないからこうなる。

AKB48第1章の主役たちが去り、AKB48第2章をはじまるなら、新しい声、新しい対話、新しい視点、新しい考え、新しいやり方が必要だろう。

AKB48第1章はAKB48劇場からはじまった。

AKB48第2章はどこからはじめるのだ?

今は迷子だ。

まず、それを考えるべきだろう。



AKB48はビジョナリーカンパニーになれるか?!
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/2462f432dbc5e3b5b22c8fa39f7b877f


AKB48第2章はリーン・スタートアップで
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/658a3ded9e7797b628f17c244da952b9


AKB48がチーム活動を重視しなければならない理由をもう一度語ろう
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/cd2369445963c0bba14b08501f1dbb86


SKE48は、次世代エース級メンバーを「SKE48バス」で全国武者修行させたらどうか?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/6522173ea3af32a26b55cbddf8cad599


何度も言うが、研究生でスピンオフ・チーム「チーム8」を創るんだ
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f7c15ce5e0359dc183002ca343faad54

「松村の予算1万円」の意味

2013-07-05 09:29:51 | AKB48_軽ネタ
ここで説明しちゃ興醒めだし、たぶん大丈夫だろうけど、念のため「松村の衣装予算が1万円」の件について。


「予算」をつけるというのは、名目的には「戦略の具体化」などとカッコよく呼ばれることもあるが、予算統制されている近代組織においては、基本的には「命令」を指すのだよ。

「ヒト・モノ・カネ」を動かすためのもの。

だけれども、松村はいろんな人の協力によってここまで来たわけだよね。

誰かが協力するということは、松村が直接的に対価を支払っていなくても、その誰かが負担しているわけだよ。

「持ち寄り」と言われるやつ。

1コメダについても、松村に動画撮影を許すことで、運営はその映像(内のコンテンツ)で少なからず儲けることが出来た可能性を負担しているわけ。

運営が松村を支持する、もしくは黙認するというのは、機会損失を許容する運営の積極的な姿勢を表しているともいえるのよ。

でも、それは、より大きな機会損失を避けるため、新しい可能性を探索するために必要なコストとも言えるから、積極的な「投資」でもあるのだね。

そういう意味で、松村については、予算化されていなくても、みんなが負担している割合が大きいメンバーなわけ。

もともと松村は「非公式の権力」と「非公式の予算」を持ち寄ることでここまで来たメンバーなわけだから。

(もちろん最も重要なのは支持を集める松村の人柄なのだと思うが。)


以上を踏まえた上で「予算1万円」の意味を考えると、この政策目的は明確だと思うよ。


業務命令:

「命令」によってではなく(運営の意図的戦略によってではなく)、

このプロジェクトに関わる(関わりたい)人々の自由闊達で共創的な工夫によって、

皆が楽しめる結果を想像し、創造してください。

責任はプロデューサーの指原・・ではなく総合プロデューサーの私(秋元康)がとります。

以上。


(指原にプロデューサーを依頼したのもこれが理由だよ)

(ということにしておこう、という話ね。)

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり

2013-07-05 01:37:29 | AKB48_軽ネタ
「過剰適応は適応能力を締め出す。」


という言葉は、実に簡潔でありながら洞察に満ちた格言だ。

クレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』が炙り出した盛者必衰の理にも通ずるものがある。


しかし、ここで疑問に思うはずだ。


「では、適切な適応とは何なのか?」


競合より適応能力に劣れば競争に負ける。

競合に勝つためには、誰よりも早く、速く、深く適応する必要がある。

そのような状況の中で、過剰適応となる境界線の寸前で立ち止まることは、可能だろうか?

その境界線がどこにあるのか見定めることができるとは思えないが、仮にできたとしても、それでは競争に負ける可能性が高い。

これでは破滅する前に自滅してしまう。

もし競争の参加者全員が境界線を知ることができたとしたら、全員が横並びになるかもしれない。

その上で競争に「談合」を持ち込むことで皆がWin-Winの関係を構築できる。

参加者全員をコントロール(協調)可能で、誰かの犠牲なしに全員で分かち合うだけの資源的な余裕があるのであれば、それもありだ。

だがそれは、そういったユートピアがこの現実世界に実現できれば・・の話だ。

たいていは「囚人のジレンマ」にはまり、参加者は利己的に動くゆえに競争となる。

いや、「競争」の語源は「互いの良いところを引き出す」という意味であるように、競争はより良いものを引き出す手段として必要だ。

この議論の本質は、「高すぎる適応能力」と「低すぎる適応能力」との境界線を探ることに意味はない、ということなのだ。

繰り返しになるが、競争に勝つには誰よりも早く、速く、深く適応する必要があり、それゆえ適応に「高すぎる」などという概念はない。

「適切な適応能力」などというものは存在しないのだ。


すると、我々には、滅ぶか、負けるかの選択肢しかないのか?

実は、そうだ。


「長期的にはわれわれはすべて死んでいる(In the long run, we are all dead.)」



であるならば、なぜ我々の生活は今こうして成立しているのか?

なぜ100年を超えて存続する組織があるのか?

どうして多くの国は滅んだのに、いまだに多くの国は存在するのか?


この問題に対して、多くの識者はこう答える。


「これは適応の"高低"が問題ではなく、"柔軟性"の問題だ。」


つまりこういうことだ。

誰よりも早く、速く、深く適応し、環境変化の兆しに気づいたら誰よりも早く変わればいい。


しかし、適応するということと柔軟性があるということは両立するのか?

一見、両立するようにも思える。

たとえば、水は容器の形に合わせて姿を変えることができるだろう。

孫子の兵法にもこうある。

兵を形すの極みは無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺うこと能わず、智者も謀ること能わず。形に因りて勝を衆に錯くも、衆は知ること能わず。人は皆、我が勝の形を知るも、勝つ所以の者は知る可からず。故に其の戦い勝つや復さずして、形に無窮に応ず。

夫れ兵の形は水に象る。水の行は高きを避けて下きに走る。兵の勝は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて行を制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に、兵に常勢無く、常形無し。能く敵に因りて変化して勝を取る者、之を神と謂う。五行に常勝無く、四時に常位無く、日に短長有り、月に死生有り。

水に決まった形がないように、柔軟に形を変えることは有用だ。

が、しかし、そんなことが可能であろうか?

可能なのであれば、どのようにして可能となるのだろうか?

我々はそれほど柔軟な存在なのだろうか?


我々が柔軟に変化できるとする説は、その理由は我々が「学習」するからだと教える。

そうだ。

我々は学習するから過去に起きた過ちを繰り返さぬようにすることができるし、昨日できなかったことが今日できるようになる。

ただ、「学習」と一言でいってもその言葉が捉えているスケールは幅広い。

我々は科学技術の力で巨大な物体を宇宙まで飛ばすことができるようになったが、いくら学習しても自分の力だけで空を飛ぶことはできない。

火傷をすることでロウソクの炎に触ることが危険なことだと学習することはできるが、ロウソクの炎を触っても大丈夫な皮膚を手にすることはできない。

(一部の人が修行によって炎にまけない身体を手にした話を幾つも知っているが・・)

流行のファッションを学んで雰囲気イケメンになることはできるが、身長を伸ばすことはできない。

何事も外形的なもの(格好)を変化させることは容易いが、内部構造を変えることはすぐにはできない。

遺伝的な変化であればなおさらだ。

「突然変異」のような「特異」な出来事は変化万能主義者にはとても良いことのように捉えられているが、基本的に変異は淘汰されて蓄積しないようになっている。

既存の生態系の中では、特異であることは生存していく上で不利だからである。

しかし、平時には不利なのであるが、有事であれば事情は変わる。

環境変化が大きい時は、これまでとは異なるということが武器になる。

ただ、6500万年前に起きた隕石の衝突ほど大きい(地球上の75%の種が絶滅されたとされる)変化になると変異どころでは適応しきれず、この場合はK-T境界を乗り越えられる条件を持つ種が地球上にどれだけ存在しているか、といったところが重要となる。

この自然の総当り戦略でさえも、巨視的に観れば、絶え間ないフィードバックを得るための学習なのだというなら、「進化」ほどのスケールの話も学習の成果だと言えてしまうのかもしれない。


自然は命をムダにする
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e98d828c318cbd4d9677b82f653b26c8


少し戻って、「適応するということと柔軟性があるということは両立するのか?」という問いに対する答えはこうだ。

両立する。

それは学習によって両立する。

ただし、学習というのは思い直しのようなミクロなものから、生物学的な進化や種の生存といったマクロなスケールを範疇に含めた幅広い概念で、環境変化のレベルに応じた学習能力が必要である。

そして、学習のために必要なものが「多様性」である。

多様である可能性が存在すること、と言った方がわかりやすいかもしれない。


つまり、環境変化のレベルに応じた多様性が存在しているかどうかが、過剰適応の罠を乗り越えられるかどうかにおいて重要である。



この日本という国は政権が変わっても存続しているし、
(一つのやり方がダメでも、クーデターや革命なしに他のやり方を選べる。)

10年もすれば企業が扱うカタログの中身は変化するし、
(扱う商品やサービスが変わっても企業は存続できる)

私の身体を構成している何十兆もある細胞は日々生まれ変わっているのに私は今ここに昨日と変わらず存在するのは
(構成要素が変わっても自己同一性を維持できる)

それらが多様性を使って日々生まれ変わる(学習する)ということをしているからだ。


養老孟司『バカの壁』の中に出てくる「論語」の一説に対する意訳が、「知る」という不可逆の変化をよく表現していると思う。


君たちだってガンになることがある。

ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。

そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう。

ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。

その桜が違ってみえた段階で去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。

多分思い出せない。

では桜が変わったのか。

そうではない。

それは自分が変わったということに過ぎない。

知るというのはそういうことなのです。

知るということは、自分がガラッと変わることです。

したがって、世界が全く変わってしまう。

見え方が変わってしまう。

それが昨日までと殆ど同じ世界でも。


これに一番ふさわしい言葉が『論語』の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」

道を聞くというのは、学問をして何かを知るということです。

朝、学問をして知ったら、夜、死んでもいいなんて、無茶苦茶な話だ、と思われるでしょう。

私も若い時には何のことだかまったくわからなかった。

しかし、「知る」ということについて考えるうちに気がついた。

要するに、ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。

去年まで自分が桜を見てどう思っていたか。

それが思い出せない。

つまり、死んで生まれ変わっている。
(知ってしまったらもう過去の自分はそこにはいない)

そういうことを常に繰り返していれば、ある朝、もう一度、自分ががらっと変わって、世界が違って見えて、夕方に突然死んだとしても、何を今さら驚くことがあるか。

絶えず過去の自分というのは消されて、新しいものが生まれてきている。



実は「覚悟を決める」や「死んだつもりになって」「捨て身になる」という言葉には、そんな含意があるのかもしれない。

アントレプレナーシップの極意ではないか。

「八福神」改め「四天王」にしてみるとか

2013-07-04 16:53:29 | AKB48_軽ネタ

最近、私のまわりの一部でスティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』が流行っているので、のろうと思って話し始めたら出てこない・・「7つ」の習慣が orz

認知心理学者のジョージ・ミラーが人間の一時記憶容量(マジカルナンバー)は「7±2 (5~9)」だと言ったが、私自身の実感は限りなく「5」に近いと感じていて、あぁ私の一時記憶領域は乏しいのか・・と思っていた。

が、なんと!

最近知ったところによると近頃のマジカルナンバーは「4±1 (3~5)」らしい。

(詳細は知らない。調べようともしていない・・)

たしかに携帯電話やリモコン類のボタン配列は3か4ずつのチャンクになっているではないか!

ということで、今度から情報は「4±1」のチャンクで表現するのが吉だと知る。

2ちゃんの「3行で説明しろ」にはそういう意味があったのかと感慨深い気持ちになる。

3段活用、3段論法、起承転結とか、「そうだよね」的に気楽にしっくりくる感じになるのは構成要素が3か4くらいな気がする。

「7つの大罪」「世界7大不思議」「7つの習慣」・・・「神7」とかはもう古くて、

これからは「四天王」だとオモタ。(四皇だといろいろ問題ありそうじゃないかw)


乃木坂46は日本語と親和性がよいだろうから、「八福神」→「乃木坂四天王」にしたらどうかね。

その方が覚えやすいかも。

(グーグル先生にきくと、非公式な乃木坂四天王は既に存在するらしいが、これらを駆逐してしまってだな。)

(ラッパッパ四天王とか前にあったなそういえば。)

そういう意味で(どういう意味だ?)、「アメ女八賢伝」は「アメ女四天王」の方がよかった。

パロる中にも一粒のダイヤをだな~

・・残念だよ。




三銃士はいいよなぁ。

AKB48論争の光と影 ~エネルギー保存則~

2013-06-27 01:03:20 | AKB48_軽ネタ
部屋を掃除する。

まずはちらかってる雑誌やらリモコンやら干したままになっている服や下着を片付ける。

次に紙クズやコンビニ弁当のカラ、ペットボトルなどを部屋の片隅にあるゴミ箱に入れる。

最後は掃除機の出番だ。

最新のサイクロン式の掃除機がカーペットの上のホコリや細かいゴミを勢いよく吸い込む。


部屋はキレイになった。

しかし、この部屋のカオスの量は部屋を掃除する前と後で何も変わっていない。

カオスは、本棚やゴミ箱、掃除機の中に場所を移しただけで、量は変化していないのだ。



一般的に、これは熱力学第一法則「エネルギー保存則」と呼ばれる。

クローズドなシステム内ではエネルギーの総量は変化しない。

姿や形を変えるかもしれないが、エネルギー量は不変である。

エネルギーにはプラスとマイナスの側面があるから、エネルギーの総量が大きくなってプラスが増えればその分だけマイナスも増える。



これは人間によって構成されるコミュニティでも基本的には同じだ。

たいてい都合よくコミュニティをオープン・システム化してプラスだけを取り込もうとする(マイナスを他に追いやる)が、その場合エネルギーが発散するのでプラスもマイナスも増えないことの方が多い。

プラス・マイナスに関わらずエネルギーを集めて囲い込む(クローズドにする)ことで莫大な力を自分のモノにする代わりに、莫大なマイナスを引き受けなければならない。

コミュニティ全体一様に満遍なくマイナスをばら撒く器用なことができればよいが、パレートの法則が示すように、自然状態では2割の要素に8割のエネルギーが集中するのが常で、通常はプラスとマイナスともに偏ることになる。

これを人為的に計画的に管理することは歴史上なんども見られたことで、第2次世界大戦中のナチスによるアウシュビッツが有名だろう。

AKB48でいえば「アンチ」というUZAい存在がつきまとうが、これを秋元康や運営、前田や指原、島崎といった主要メンバーが大量に引き受けてきた。

アンチは必要悪ではないが、プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーの関係は崩せない。

目的論的に捉えれば、アンチは必要ではないが必然ではある。



また人間の感情における陰と陽の関係も崩せない。

「喜び」があるということは「悲しみ」もあるということだ。

そういう意味で「悲しみのない世界」というのは理想としては理解できるが実現し得ないだろう。

だが、しかし、「悲しみのない世界」は実現し得ないが「みなが喜べる世界」は創造できる。

それは発想を転換すれば可能になる。

喜びや悲しみは分解可能なものではない。

「悲しみを公平に分け合う」というのは政治的には正しいかもしれないが、あまり賢い選択肢とはいえない。

重要なことは、喜びも悲しみも繋がっていることを理解することだ。

相互依存によるWin-Winの関係を構築するとき、我々は悲しんでもいるが喜んでいもいるだろう。

Win-Winというのは「お互いが得をする」という意味ではなく、眼前の問題を1つ上の次元で止揚するという意味である。

プラスとマイナスを別個のモノとして扱う限りにおいて、マイナスの呪縛から逃れることはできないであろう。

「シンデレラ選抜」を発表します。センターは「島崎遥香」。

2013-06-26 11:00:05 | AKB48_軽ネタ

【AKB48】 第5回選抜総選挙 結果の図解
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e3011ccf025cb71283209e90091105d1

の結果を基に、当Blogオリジナル選抜「シンデレラ選抜」を発表します。

「シンデレラ選抜」とは、第4回選抜総選挙から第5回選抜総選挙までの間に最も成長したと当Blogの独断と偏見で推定されるメンバーに贈られる選抜です。

平たくいうと、「今、最も伸びてるメンバーに贈られる選抜」です。


■シンデレラ選抜

01位:島崎遥香
02位:渡辺麻友
03位:横山由依
04位:大島優子
05位:柏木由紀
06位:篠田麻里子
07位:指原莉乃
08位:川栄李奈
09位:入山杏奈
10位:柴田阿弥
11位:須田亜香里
12位:松井珠理奈
13位:松井玲奈
14位:藤江れいな
15位:板野友美
16位:山本彩


藤江さんが選抜入りというサプライズが起きてしまいました。
今後は篠田さんと板野さんが卒業で抜けることになりますので、繰り上げとなると峯岸さん、小嶋さんの2人ということで、既存の選抜に近い形になります。
(個人的には、永尾、武藤の姉妹コンビを入れたいのですが、ゴリ推し批判されるんだろうなぁ・・)



■シンデレラ選抜(アンダーガールズ)

17位:峯岸みなみ
18位:小嶋陽菜
19位:片山陽加
20位:宮澤佐江
21位:梅田彩佳
22位:田野優花
23位:渡辺美優紀
24位:永尾まりや
25位:武藤十夢
26位:木崎ゆりあ
27位:石田晴香
28位:大場美奈
29位:松村香織
30位:佐藤すみれ
31位:山田菜々
32位:菊地あやか


なんと恋愛スキャンダルを起こした峯岸さんがアンダーのセンターとは!
小嶋さんの選抜落ちも印象的ですが、片山、石田の中堅の意地を感じるとともに、
田野、永尾、武藤あたりの9期以降のメンバーも健闘しています。






ちなみに、第4回時(第3回から第4回の時)のグラフが↓





当時のっていた上位16人は彼女らだ。

01位:指原莉乃
02位:渡辺麻友
03位:高橋みなみ
04位:梅田彩佳
05位:島崎遥香
06位:横山由依
07位:松井珠理奈
08位:宮澤佐江
09位:篠田麻里子
10位:岩佐美咲
11位:河西智美
12位:渡辺美優紀
13位:仲谷明香
14位:山本彩
15位:中田ちさと
16位:永尾まりや


第5回と第4回の結果を足し合わせると次の結果が得られる。

彼女らがここ2年にわたって持続した成長力を見せている13名ということになりそう。

TOP3:指原、渡辺麻、島崎 (この3人がダントツ)

Sクラス:横山、篠田、松井J、宮澤 (年齢とキャリアから考えて篠田と宮澤が大健闘)

Aクラス:山本、渡辺美、藤江、須田、永尾、松井R


なんのために名誉研究生にしたのか

2013-06-22 02:30:50 | AKB48_軽ネタ

SKE48 高須先生「松村香織さんが元通りになるまで2~3年はかかる(高須・ω・幹弥) 」(SKEまとめエンクラ)
http://ske48encra.doorblog.jp/archives/28674214.html


遊びに仕事の論理を持ち出す愚。

今後どういう形で遊びやビジネスに展開できるかマネジメントも一緒になって考えればいいのに。

利用されればいいじゃん。

相互依存でWin-Winを狙おうよ。

何を守ろうとしてるのか。

松村を泳がせればいいのに。

何のために名誉研究生にしたのかわからん。


なんでマイナスにならないように行動してるのか。

加点をねらおうよ。

先行き不安になってくる。

叩かれまくって敏感になってしまったか。

コンプラで窒息させられる姿が目に浮かぶ。

運営がこんな感じだから前から言うようにクラウドファンディング的な仕組みを導入して、運営の権限を収奪する方法を考えた方がいいと思うよ。


「劇場型アイドル」と「マスメディア型アイドル」との中庸「キャラ型アイドル」

2013-06-18 19:11:11 | AKB48_軽ネタ
■劇場というパラダイム


「劇場(theater)」と「理論(theory)」の語源は同じ「見ること(theoria)」だという。

劇場や理論は、「現実」そのものを表しているわけではなく、我々が見たい現実の一つの側面を「事実」として表すものであるが、私はこの部分を理解することで「劇場型政治」や「劇場型アイドル」、「キャラ化」といったものが、とりわけ日本で発達した要因がわかると考えている。

アメリカのエンターテイメントが圧倒的なパフォーマンスで観客を魅了するのに対し、日本のエンターテイメントは演者と観客との共創関係においてその場限りの独自性を発生させ観客を、そして演者をも魅了する。

これは、日本の方が「我々が見たいと思うもの」を現実から都合よく切り出す術に長けているとも言えるが、一方では明確な評価基準を持たず、場当たり的にモノゴトに対応する「おっちょこちょい(一貫性がない)」だからとも言える。

上記については「一神教的合理主義」と「汎神論的経験主義」との対立構造で説明されることが多いように思うが、この件について考えるにあたって山本七平「『空気』の研究」を持ち出そうと思う。

(引用部分については筆者が都合よく改変、省略、強調しています。ご注意ください。)


■「空気」という妖怪


山本七平は、太平洋戦争末期に行われた特攻的な戦艦大和出撃について、こう述べている。
(大和だけで2,740名が戦死)

注意すべきことは、そこに登場する者がみな、海も船も空も知り尽くした専門家だけであって、素人の意見は介入していないことである。

米軍という相手は、昭和16年以来戦い続けており、相手の実力についても完全に知っている、いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知や
不見識、情報不足による錯誤は考えられないことである。

戦艦大和出撃については、まずサイパン陥落時にこの案が出されるが、軍令部は到達までの困難と、到達しても機関、水圧、電力などが無傷でなくては主砲の射撃が行えないこと等を理由にこれを退けた。

したがって、理屈から言えば、沖縄の場合、サイパンの場合と違って「無傷で到達できる」という判断、その判断の基礎となり得る客観情勢の変化、
それを裏付けるデータがない限り、大和出撃は論理的には有り得ない。

だが、そういう変化があったわけではない。

このことを明確に表しているのが、三上参謀と伊藤長官の会話である。

伊藤長官は、当然この作戦には納得できないとした。

第一、説明している三上参謀自身が

「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機機動部隊が跳梁する外界に突入させるということは作戦として形を為さない。それは明白な事実である。」

と思っているのであるから、その人間の説明を、伊藤長官が納得するはずがない。

ともにベテランで、論理の詐術などで誤魔化しうるはずはない。

だが、

「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切り込み、ノシ上げて陸兵になるところまでお考えいただきたい。」

と言われれば、ベテランであるだけ余計に、この一言の意味するところがわかり、それがもう議論の対象にならぬ空気の決定だとわかる。

そこで彼は反論も不審の究明もやめ

「それならば何をかいわんや。よく了解した。」

と答えた。

この「了解」の意味は、もちろん相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。

それが不可能なことは、サイパンで論証済みのはずであるからだ。

したがって、彼は「空気の決定であることを了解した。」のであり、そうならば、もう何を言っても無駄、「それならば何をかいわんや」とならざるを得ない。

これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか?

「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答えうる以上に弁疏しようとは思わない。」

であって、いかなるデータに基づいてこの判断を下したかは明らかにしていない。

それは当然であろう、彼を「ああせざるを得なかった」状況に追いやったのは「空気」であったからだ。

「空気」というのはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。


■「空気の支配」とは何か?

それは「虚構の世界」であり「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体制となった「虚構の支配機構」である。

しかし、「虚構」の存在しない社会は存在しないし、虚構は人間を動かす大きな力である。

この「虚構の支配機構」をわかりやすくいえば、「劇場」であろう。

劇場は、周囲を遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定のもとに人々は演技し、それが演技であることを演出者と観客の間で隠すことによって、「1つの真実」が表現されている。

※情況論理:内面的な状況によって決まる論理

たとえば、歌舞伎における「女形」は男性であるという「事実」を大声で指摘しつづける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界である。

「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理が設定されている「劇場」という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で「空気」を醸成し、全体空気拘束主義的に人々を別世界に移し、その世界が人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になるのだ。

※臨在感的把握:物質やモノゴトの背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態。偶像崇拝がこれに当る。

問題は、人がこういう状態になり得るということではなく、こういう状態が社会のどの部門をどのように支配しているかということと、この秩序を維持しようとするなら、全ての集団は「劇場の如き閉鎖性」を持たねばならず、したがって集団は閉鎖集団となり、そして全日本をこの秩序で覆うつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ないという点である。

鎖国の最大の眼目は「情報統制」であり、この点では現在の日本と基本的に差はない。

(幕藩体制、当時のクニである藩を跨ぐ移動を禁じたのも「情報統制」に主眼がある。)

この閉鎖性を野放しにすると、外部の情報を自動的に排除する形になり、その集団内の「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になっていく。

それは一種の超国家主義にならざるを得ない。

超国家主義とは元来「鎖国」を志向するもので、戦争はこれと対極的なす国際的な行為である。

太平洋戦争時、アメリカが相手を知る為に軍が日本語学校をつくり、全国から秀才を集めて日本語の特訓的教育をやるという発想が当然とされるのだが、日本は逆に英語を敵性言語と規定しその教育を廃止した。

現代の世界に外交なくして一国は存立し得ないから、虚構に立って先方との関係を樹立せざるを得なくなれば、一種の断絶状態に落ち込み、戦争になるか、もしくは外交的破たんから破滅する公算の方が多い。


■臨在感的把握とは何か?


イスラエルである遺跡を発掘していた時、古代の墓地が出てきた。

人骨や髑髏(しゃれこうべ)がざらざらと出てくる。

こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄しては墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶようになった。
それが一週間ほど続くと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人2名の方はおかしくなり、病人同様の状態になってしまった。

ところが、この人骨投棄が終わると2人ともケロリと治ってしまった。

この2人に必要だったことは、どうやら「お祓い」だったらしい。

骨は元来は物質である。

この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。

したがって、この影響は非物質的なもので、人骨や髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表れるほど強かったが、一方、ユダヤ人には、何ら心理的影響も与えなかった、と見るべきであり、これが「空気の基本型」である。

臨在感的把握とは、物質から何らかの心理的・宗教的影響を受ける、言い換えれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態である。

明治の啓蒙家たちは、

「石ころは物質に過ぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのために啓蒙的科学的教育をすべきだ。」

と考えはしたが、

「日本人が、なぜ物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。それを解明すべきだ。」

とは考えなかった。

啓蒙家たちは臨在感的把握を野蛮として見たが、その姿勢は啓蒙的とはいえるが科学的とは言い難い。


■「空気」は日本特有の現象か?


「”空気”を英語で何と訳すべきか?」という問いに対し、山本七平はこう答える。
 
空気の存在しない国はないのであって、問題は、その”空気”の支配を許すか許さないか、許さないとすればそれにどう対処するか、にあるだけである。

”KUKI”は、プネウマ、ルーア、またはアニマに相当するものと言えば、ほぼ理解されるのではないかと思う。

これらの言葉は古代の文献には至る所に顔を出す。

もちろん旧新約聖書にも出てきており、意味はほぼ同じ、ルーア(ヘブライ語)の訳語がプネウマ(ギリシャ語)でそのまた訳語がアニマ(ラテン語)という関係にもなっており、このアニマから出た言葉が「アニミズム(物神論)」で、日本では通常これらの言葉を「霊」と訳している。

しかし原意は、wind(風)、air(空気)である。「霊」というと日本語訳聖書の訳語は明治の初めの中国語訳聖書からの流用だと思われるが、中国語の「霊」には、日本語の幽霊の「霊」のような意味合いはないそうで、その場合には「鬼」を使うそうである。

訳語というのは難しいものだと思う。聖書の様々な試訳には、この語を「風(れい)」とか「霊(かぜ)」とかのルビ付きで訳しているものもあるが、このことが、この言葉の翻訳の難しさを示しているであろう。

原意は「風・空気」だが、古代人はこれを息・呼吸・気・精・人のたましい・精神・非物質的存在・精神的対象などの意味にも使った。

また言霊の”たま”に似た使い方もある。

そしてそれらの意味を全部含めて原文を読むと、ちょうどわれわれが「あの場の空気では・・・」という場合の”空気”のように人々を拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」ないしは「呪縛」、いわば「人格的な能力を持って人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」の意味にも使われている。

人が、宗教的狂乱状態いわばエクスタシーに陥る、またブームによって集団的な異常状態を現出するのは、この空気(プネウマ)の沸騰状態によるとされている。

古代の文脈の中に空気(プネウマ)の意味を当てはめていくと、それはもはや古代の記述とは思えぬほどの現実味を帯びてくる。

彼らも、この非常に奇妙な「空気の支配」なるものが、現に存在することを知っていた。

彼らは霊(プネウマ)といった奇妙なものが自分たちを拘束して、一切の自由を奪い、そのため判断の自由も言論の自由も行動の自由も失って、何かに呪縛されたようになり、時には自分たちを破滅させる決定をも行わせてしまうという奇妙な事実を、そのまま事実として認め、「霊(プネウマ)の支配」というものがあるという前提に立って、これをいかに考えるべきか、またいかに対処すべきかを考えているのである。

一方福沢諭吉などの明治的啓蒙主義は「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。

ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯止めがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振るい出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。

戦艦大和の出撃などは”空気”決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて”空気”決定なのである。


撮像禁止とか偶像禁止とかいうイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の一部にある考え方の基本は

「物質はあくまで物質であって、その物質の背後に何かが臨在すると感じてこれから影響をうけたり、それに対応したり、拝礼したりすることは、被造物に支配されてこれに従属することであるから、創造主を冒涜する涜神罪だ」

という考え方が基本になっている。

したがってそういう涜神を誘発しそうなものは「悪」であるから、これを排除する。

いわば臨在感的把握の絶対化に基づく”空気の支配”は「悪」なのである。

一体これはどういうことなのか。一言で言えばこれが一神教の世界である。「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。

この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。

こういった徹底的に相当化されてしまう世界では、空気が発生することは難しい。

この相対化が残すものは、最終的には契約だけということになる。

一方われわれの世界は、アニミズムの世界である。

この言葉は物神論と訳されていると思うが、前に記したようにアニマの意味は”空気”に近い。

従ってアニミズムとは”空気”主義といえる。

この世界には原則的に言えば相対化はない。

ただ絶対化の対象が無数にあり、従って、あの対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる。

それが絶えず対象から対象へと目移りがして、しかも、映った一時期はこれに呪縛されたようになり、次に別の対象に移れば前の対象はケロリと忘れるという形になるから、確かに「おっちょこちょい」に見える。


■余談:日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について


 戦後のフィリピンの収容所で盛んに使われた言葉に「アタマの切り替え」という面白い言葉があった。これは簡単にいえば、情況が変化したのだから、その変化に即応し、その情況に適合するように思考・行動・所作などの一切合財を改めよということ、情況に対応し、新しい対象を臨在感で把握して回心をせよということである。

 将官は収容所が別だったから不明の点が多いが、左官クラスともなると、大佐も少佐も同一収容所である。幹候少尉などは、はじめから軍人を演じさせられていた学生が多いから問題ないにしても、その生涯が軍人そのもので他の生活を知らない左官クラスともなると、簡単には「頭の切り替え」はできないと思うのが常識である。だが不思議なほどこれが簡単にできた。昨日までの連隊長は、役目が終わって舞台から降りた役者のように物分かりのよい好々爺となり、にこにこと人々に対応してくれるのである。従って尉官クラスや幹部候補生は、当然のように、すぐさま普通の市民に戻ってしまうわけである。時には例外的にそうなれない人間もいたが、そういう人が受けたのは「頭の切り替えのできてないヤツ」といった嘲笑と蔑視で、その人はその中で孤立していくのが普通であった。そして面白いことに、内地帰還が近づくと、また別の「頭の切り替え」が行われた。

 これらの変化は実に変化自在で目を見張るようであったが、ある日私は、ホートンという米軍の一中尉から、全く予期せぬ質問を受け、ある種のショックを感じたのである。彼はハーバードかどこか相当有名な大学の出で、捕虜の将校などを集めて民主主義教育をやりたがる”悪癖”があり、その点でも他の点でも、あのころのアメリカの若いインテリを画に書いたような人物であった。当時私は収容所付属の木工場の通訳をしていたが、何かの用事でその事務所に来た彼は、例の”悪癖”を出し、私をつかまえて長々と進化論の講義をし始めたわけである。

 私は少々ムッとした。彼は明らかに私が進化論を全く知らず、はじめて聞く「人間の先祖はサルである説」に驚愕するだろうと思い込んでいるのである。最初のうちは「仕方がない、PW(捕虜)としてのお付き合いだ」と思っておとなしく聞いていたが、相手の教え諭すような態度が少々アタマに来て「進化論ぐらいは日本では小学校で教えてくれる。日本は進化論裁判(モンキー・トライアル)が行われたアメリカほど未開ではない」といった意味のことを言ってしまった。ところが相手は私の言葉を信用しないのである。「全くアメリカ人ってヤツは・・・」とわつぃは内心で憤然とし、ダーウィンのこと、ビーグル号のこと、ガラパゴス島の調査がその端緒であったこと等をのべ、そんなことは「子供の科学」という少年雑誌で小学生のころに読んだと言った。

 相手は驚いたらしい。しかしこれに対する相手の反応に、今度は私が驚く番であった。「では日本人は、サルの子孫が神だと信じ得るのか。おまえもそう信じているのか?」彼が、考えられないという顔付でそういったからである。この思いがけない質問に今度は私が絶句した。彼は、日本人はその「国定の国史教科書」によって、天皇は現人神であり、天照大神という神の直系の子孫と信じている、と思い込んでいる。確かにそう思い込ます資料が日本側にあったことは否定できない。そしてこういう教科書が存在する限り、進化論が存在するはずがない。これが彼の前提なのである。人がサルの子孫であると教えたということで裁判沙汰にまでなった国から見れば、天皇が人間宣言を出さねばならぬ国に進化論があるはずはないのである。確かにそう考えれば、進化論を教えるということは「現人神はサルの子孫」と教えることである。「人はサルの子孫」が裁判沙汰になる精神構造の国から来た者にとって、「現人神はサルの子孫」が何の抵抗もなく通用している国が有り得るはずがなくて当然であろう。結局彼は、日本では進化論は禁じられていたはずだと思い込み、天皇もサルの子孫だから神ではないと論証して私を啓蒙するつもりだったらしい。ところが相手が平然とそんなことは小学生でも知っていると言ったため、何とも理解しかねる状態に落ち込んだわけであった。

 彼の講義癖の被害者はずいぶんいたが、そういう場合、当時の収容所の日本人はほとんど抗議も反論もしなかった。もっとも進化論の講義をされたって、これに反論する日本人などいるはずがない。至極ごもっともなこと、たいていは小学校か中学校で教えられた常識であって、「あいつ、日本をよっぽど未開で野蛮だと思ってやがる。あんな若造に偉そうなツラされて講義されるとは、まったく、戦にゃ負けたくないもんだ」が内心の反応であり、従って「またはじまったか」とニヤニヤしながら聞くだけ、それ以上に反応の仕様がないのである。従って相手がいかなる理由で、われわれにわかり切っていることを一心不乱に講義しているのか、その前提がつかめない。一方彼にしてみれば、当然あるべき反応も反発もないのが不思議であり、一体全体、日本人はニヤニヤしながら何を考えているのかさっぱりわからないわけである。というのはその当然の前提が「現人神の要る世界には進化論は有り得ない」であり、彼にはこの二つが「平和共存」しうる精神状態が理解できないからである。

 そこで当然に相手の質問は「現人神と進化論がなぜ併存できるのか。進化論を解くことはなぜ不敬罪にならないのか。なぜ、もっと激しい進化論裁判(モンキー・トライアル)が起こらないのか」と言うことになって来た。そうなるとこちらには何とも返事が出来ない。「しまった、こんな反撃を食うなら進化論裁判のことなど言い出すんでなかった」と思ったがもう遅い。そして相手はさらに、私がこの裁判を知っているということにも興味をもち、日本人はそれをどう受け取っているかも聞きたがった。
 
[中略]

 進化論裁判を、われわれは今でも、一種の嘲笑的態度か理解できないという怪訝な面持ちで聞く。だが彼らにしてみれば、現人神時代にこういった裁判がなく、平然と進化論が通用していたという状態を、理解できぬ状態とする。なぜであろうか?いわゆる先進国は一応みな脱宗教体制に入ったと言える点では共通しているが、この体制以前の状態を対比すると、そこに存在するのは全く異質の世界であることに気づくのである。簡単にいえば、日本には一神教的な神政制(セオクラシー)は存在しなかった。そしてわれわれは、先祖伝来ほぼ一貫して汎神論的世界に住んでいた。この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は存在しなかった。神学まで組織神学(システマティック・セオロジー)として組織的合理的思考体系にしないとおさまらない世界ではなかったわけである。こういう世界では、たとえば「進化論」を、その組織的思考体系のどこにどう組み込むべきかは大きな問題であり、その人がその人の組織的思考体系の中に合理的に進化論を組み込めればよいが、そうでないと、否応なく、聖書的世界を否定して進化論的世界を取るか、進化論的世界を否定して聖書的世界を取るかという二者択一にならざるを得ない。そしてその世界から日本を見れば「現人神をとるか進化論をとるか」が日本で問題にならねばならず、進化論をとれば天皇制は崩壊するはずなのである。崩壊しないのはこれを禁じていたはずだと言うことになり、従って日本を民主化して神がかり的超国家主義を消すには、進化論を講義すればよいという発想になるわけであろう。ところが日本には、そういった一神論的組織神学的発想がはじめからなく、日本人の回心は一に情況への対応で決まるから、そういう講義はニヤニヤして聞いている以外に方法がなくなるわけである。われわれは情況を提示され、それを臨在感的に把握すればその情況に対応して「頭を切り替えてしまう」から、進化論の講義など必要ない。そして彼らにはそれが理解できないわけである。


■「劇場型アイドル」と「マスメディア型アイドル」との中庸「キャラ型アイドル」


「劇場型アイドル」を説明したくて「空気」の説明をしはじめたら途中で力尽きてしまった・・orz

最後はまんまコピペ

gooブログの文字数制限いっぱいです。

これは3部構成くらいで語るべき内容かもしれないが、無理だ。

要はキャラ化していく道しかないんじゃないか、という平凡な話に帰着するのだが、主眼を「劇場の空気」をより機動的にして、持ち運び可能な劇場「キャラ」化していくことになるだろう、というところに置きたい。

「人」としては理解できるが、「企業」としては全く理解できない

2013-06-13 11:30:36 | AKB48_軽ネタ
なぜ飲ませたのか、わからない。

壮行会、元気づける会、慰労会、打ち上げ、食事会となんでもいいが、

メンバー・スタッフ関係なく自分たちで飲む分には別に構わないと思うし、メンバーも成人しているのだから自己管理は自分でするべきとも思うし、飲んで遊ぶこと自体、悪いこととは思わない。

しかし、会社(経営者個人なのかは知らないが)として時期もタイミングも考えずに飲み歩くというのは、コンプライアンス以前の問題として、企業としての姿勢を疑う。

「人」としては理解できるが、「企業」としては全く理解できない。

全然ビジョナリーじゃない。

封建社会の領主から代わるものとして、企業という器が社会的責任を負わなかったら現代社会の社会的問題は解決できないというのはドラッカーの慧眼であったが、上場しない非公開企業に社会的プレッシャーをかけることが難しいのは資本主義の欠陥か、それとも私の頭が社会主義的なのか、いや、顧客からのプレッシャーをかけることができると考えるのが適切な資本主義観か。

やるにも違うやり方があったろうし、いい加減やり方を考えればいいのに、だ。

空気読めない「私的企業」だからAKB48はここまで空気読めない発展を遂げたのだと言われれば反論するべくもないが、どうかと思うよ。

こんなことやってると何を言っても説得力なくなるぞ。

善意というだけで通ったら命が幾つあっても足りない

2013-06-12 17:43:09 | AKB48_軽ネタ



山本七平『「空気」の研究』より

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 こうなる「空気」とは、一つの宗教的絶対性を持ち、われわれがそれに抵抗できない”何か”だということになる。もちろん宗教的絶対性は、大いに活用もできるし悪用もできる。これを利用して「免罪符」を売りつけて財政破たんを救うこともできる。

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 免罪符の発売は抗議者(プロテスタント)を決起さすから、実質的には、それを行った法皇の権威失墜になり、従って宗教性は消え、「空気」は雲散霧散しやすい。

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 臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。感情移入は全ての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言で言えば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。

 聖書学者の塚本虎二先生は、「日本人の親切」という、非常に面白い随想を書いておられる。氏が若い頃下宿しておられた家の老人は、大変に親切な人で、寒中に、あまりに寒かろうと思って、ヒヨコにお湯をのませた、そしてヒヨコを全部殺してしまった。そして塚本先生は「君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ」と記されている。私はこれを読んで、だいぶ前の新聞記事を思い出した。それは、若い母親が、保育器の中の自分の赤ん坊に、寒かろうと思って懐炉を入れて、これを殺してしまい、過失致死罪で法廷に立ったという記事である。これはヒヨコにお湯をのますのと同じ行き方であり、両方とも、全くの善意に基づく親切なのである。

 よく「善意が通らない」「善意が通らない社会は悪い」といった発言が新聞の投書などにあるが、こういう善意が通ったら、それこそ命がいくつあっても足りない。従って、「こんな善意は通らない方がよい」といえば、おそらくその反論は「善意で懐炉を入れても赤ん坊が死なない保育器を作らない社会が悪い」ということになるであろう。だが、この場合、善意・悪意は実は関係のないこと、悪意でも同じ関係は成立つのだから。また、ヒヨコをお湯をのませたり、保育器に懐炉を入れたりするのは”科学的啓蒙”が足りないという主張も愚論、問題の焦点は、なぜ感情移入を絶対化するのかにある。

 というのは、ヒヨコにお湯をのまし、保育器に懐炉を入れるのは完全な感情移入であり、対者と自己との、または第三者との区別がなくなった状態だからである。そしてそういう状態になることを絶対化し、そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする心理的状態が、感情移入の絶対化であり、これが対象の臨在感的把握いわば「物神化とその支配」の基礎になっているわけである。

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