goo blog サービス終了のお知らせ 

進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

我々が手にしたのは「政権交代」ではなく「民主主義」である

2009-12-12 16:29:05 | 政治

小沢一郎に対する個人的な見方を披露する前にもう1つ2つほど前置きをおきたい。
前回は「民主主義」について述べたが、今回は「民主党」について私見を述べる。


まず、リンク先のブログを読んで頂きたい。
一部引用しながら感想を述べ、最後に持論を述べたい。

自民党麻生政権のゾンビと化した民主党鳩山政権(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/12/post-2252.html


鳩山氏の志は今年の総選挙時も変化がなく、「国債というものをどんどん発行して、最後に国民の皆さんに負担を求める。こんなバカな政治をやめたいんです。みなさん」(参照)と熱弁していた。しかしもうお馴染みの鳩山ブーメランのとおり、その「バカな政治」とやらを彼自身が推進することになった。悪口ではない。鳩山首相は素直に反省している。


私は、鳩山政権の方針転換は"既定路線"だと考えているので、自民党系の人々や一部知識人の方々が怒っているのはノリツッコミにも思える。
初めからダメなのわかっていて、結果ダメだったからツッコミいれてるのと同じような姿に見える。
古典的なコントと同じではないか。
ここは極東ブログの主張に賛同する。


しかも、政権交代にあたり経済対策が無策であったことも、ようやくきちんと反省された。この素直な低姿勢が、いくら脱税をしても国民から愛想を尽かされない秘訣もあるのだろう。


これは違う。
初めから民主党への期待は低かった。
(しかし根拠のない楽観的期待は高かったが、これは宝くじの当選を夢見るのと同じ)
当Blogでは政権交代の当初から主張しているのだが、私は民主党の支持率が高いのは自民党政治への嫌悪感だと捉えている。
国民は民主党が不甲斐無いのは百も承知だが、もしここで民主党政権が瓦解してしまったら自民党に戻らざるを得ないが、それは選択したくないのである。
一部メディアも主張するように、民主党の高支持率は、積極的支持ではなく消極的支持によるものだ。


先日のアフガン小切手外交でも民主党は米国に言われたままの金額をエイと50億ドルに決めてしまった。密室でエイやと何兆何億というカネの使途を決まってしまうのは、さすがのリーダーシップと評価する向きもあるだろう。が、事業仕分けであれだけ連日多数で大騒ぎをして、埋蔵金を除けば0.6兆円しか出て来ず、しかもこれから削りすぎを修正することになる金額の10倍近い額が、エイと密室で決まる様は感動的でもある。


これも既定路線で、国民はよく理解している。
そもそも、事業仕分けを全面的に支持しているのはほんの一部の人達だけで、多くの人は全体設計の無さに対して不満を持っている
それでも事業仕分けが支持されるのは、少なくても談合予算に一部風穴を開けることに民主党が成功したからだ。
それが意図したものか、意図せざるものだったかは別にして、数あるうちの一つの改革が実施されたから、その一つを評価しているだけである。
民主党が全体最適の観点から予算というものを把握できていないのは誰もが知っている。


当然その意味は、97兆円まで積み上げたマニフェストのバラの夢を16兆円分刈り込むということだし、民主党の掲げたマニフェストで予算のかかるものは消えてしまうということだ。この点ではなんとなく民主党内で合意が取れつつあるようだ。


民主党のマニフェストが完全実施されるなどということを、国民の誰が予測した、いや望んだのであろうか。
民主党のマニフェストが程度の低い各政策の寄せ集めでしかないことは、誰もが知っていることだ。
にも関わらず国民が民主党を選んだのは「政権交代」を望んだからであり、民主党そのものを政権与党として高く評価したからではない
総選挙後、惨敗した自民党議員が発した「民主党に負けたのではなく、政権交代というフレーズに負けた。」というのは正しい解釈だ。
国民は民主党を選んだのではなく「政権交代」を選んだのだ。
それでも私は政権交代当初より「民主党がマニフェスト堅持の旗を上げ続けることには大きな意味がある」と主張するものであった。
それは、マニフェストを守らなくてもよいということが周知されてしまったら、政権与党としてはあまりにも防御力が低い民主党が数多の利権集団に飲み込まれてしまうと考えたからだ。
ゆえに民主党は防御陣形が整うまでマニフェストの旗を降ろすわけにはいかないのだ。
防御陣形を整える役目はひたすら小沢一郎が担っている
彼が近代日本政界における稀代の戦略家だということの証でもある。


もちろん外国人参政権や夫婦別姓などの改革にはそれほどの予算はかからないから、そうしたことに今後民主党は注力していくことでマニフェスト達成ということになるのかもしれない。が、実質的には民主党のマニフェストは終了した。これで普天間飛行場の沖縄県外移設が達成できなければ、政権交代の意味もなかったということに終わるだろう。

民主党鳩山政権は自民党麻生政権のゾンビと化したのである。


これは表現上の誇張なので、いちいち取上げるのもfinalvent氏に失礼だが、政権交代の意味はあった。
先ほどから述べているように、民主党がマニフェストで公約した内容を完全実施できることなど国民の誰も考えていなかったし、誰も望んでいなかった
民主党による政権交代の意味は、民主党による政策にあるのではなく、既存の政治制度に終止符を打つことである。
いや、終止符を打とうと民意が動いたことである。

これまでの日本の政治は民主主義の形式をとっていたものの、その効果をほとんど出せずにいた
(民主主義の効果を引き出すことについては前回のエントリを参照)
政治に関わるのはひたすら一部のパワープレーヤーのみであり、そして政治は一部のパワープレーヤの意図するように動いた。
それが可能であったのは、日本経済が成長していたため富は自然と拡大し、国民が広く政治に参加する必要性を感じていなかったからだ。
だが、冷戦の終結やIT革命などによる経済のグローバル化が、この右肩上がりの日本経済を無力化し、大打撃を与えてしまった。
日本経済は成長できなくなるどころか、激しいグローバル競争にさらされ、現状維持すらままならぬようになった。
世界は1990年代より、海上戦から航空戦の時代へと移り変わっていったのだ。
だが、日本は過去の成功体験により合理的な現状認識ができないまま、艦隊戦力の増強に熱心になるばかりであり、根本的な解決の道をとらず、逐次的な処方箋ばかり施して経済構造を継接ぎされた温泉旅館のように複雑化していった
この結果、日本は資源を無駄にするばかりか、誰にも崩せないような補完性の強い巨大なシステムとなってしまった。

経済が成長しているうちは、拡大するパイから配分することが可能なので配分量は増加する。
しかし、経済の成長が止まると配分は既にあるパイから行わなければならなくなる。
ただでさえパイの拡大が止まると配分量が減るのに、少子高齢化などの要因によって配分量を増やす必要性に迫られる状況に至った
つまり、持てる者から持たざる者への富の異動がこれまで以上に起きることを意味する
これは、持てる者には受け入れがたい要求である。
なぜなら、パイが拡大しない以上、市場は既にあるパイの奪い合いとなる。
持てる者は、いつ自分が持たざる者になるのか、その潜在的リスクに怯える状況に置かれてしまう。
このような状況下でパイを維持するためには相当の努力を要するが、国家によって富を収奪されてしまうということは、この努力を無に帰すごとき処遇なのである。
これでは誰が努力をするようになるのだろうか。
結局、今の日本ではパイの奪い合いが起きぬように規制を強化し、持てる者をそのまま持てる者に固定する声が大きくなり、政治がこれに迎合した。
このような談合体制がもたらす弊害は格差の固定化である。
近代における唯一の例外は小泉政権であったが、この政権を継承した安倍政権がわずか1年で終わると、日本の政治は逆戻りした。
談合体制、一部のパワープレーヤ重視の政治に戻った。

この後、「持てる者からとらずして持たざる者へ与える」と主張する集団が現れた。
民主党」である。
その論理は単純であった。
「霞ヶ関という最大の持てる者に最大の無駄がある。その無駄を省けば持たざる者へ与えることが可能だ。」というものだった。
この論理が正しくあるための条件は「霞ヶ関に無駄があること」であったが、「無駄」という曖昧な価値基準を確からしめる裏づけはなかった
民主党の主張は「無駄」という条件が崩れると、主張の全てが崩れるという非常に危険な論理であり、しかも論理崩壊に備えたバックアップ・プランらしいものすら持っていないようだった。
実際その危険性は再三にわたって指摘されたが、国民はそれを承知で民主党を選んだ。

国民は全てを承知で、明日の日本のために「政権交代」というリスクを取ったのだ
これまでリスク回避ばかりしてきた国民が、リスクテイクしたのだ。
これを日本政治史における革命と呼ばずに何と呼ぶ。


与党・民主党に自浄作用が働いていない(中川秀直)
http://ameblo.jp/nakagawahidenao/entry-10407878615.html


今日の日経新聞社説は「政権交代のコストとしても程度を超えている。沖縄の米軍普天間基地の移設をめぐる鳩山由紀夫首相の迷走である」ではじまる。社説は指摘する。

[中略]
問題は、民主党内で自由な言論が抑えられているように思われることだ。与党・民主党に自浄作用が働いていない。政権長期化・次期選挙勝利の呪縛にとらわれている中で、日本国の対外的信頼が失われ、国家的危機が顕在化している。

次の選挙に勝つために国家的危機を放置するのでは、何のための国会議員か。


野党議員としては当然の見方であるが、中川氏ほどの人物ならもう少し大局的な見方ができてもよいのではないか。
(中川氏がその程度だとやっぱりもう自民党もだめかもしれない。)
確かに、日経新聞が指摘するように「政権交代のコストとしても程度を超えている。」という部分に反論する気はない。
しかし、「小沢一郎が政権長期化・次期選挙勝利に固執している」と考えるようでは、いつまで経っても小沢一郎には勝てまい
中川さん、それは手段であって目的ではないのだよ。
小沢は民主党が素晴らしいなんてこれっぽっちも思っていないよ。
ただただ、彼は日本に本当の民主主義を実現しようとしている、唯一無二の政治家なのだ

つづく。。

民主主義は最低かもしれないが、他のどれよりもマシである

2009-12-11 00:24:42 | 政治
本エントリにおいて述べられている民主主義に関する説明は、全て筆者個人の考えであり、その妥当性については一切責任を負わない。
題名に"他のどれよりも"と書いてあるが民主主義以外のものは何ら明示的に述べていないことに後から気づく。しかしこれは内容が足りないのではなく題名が後付けだからなのである。


前代未聞のボーナス課税 (ウォールストリート日記)
http://wallstny.exblog.jp/11749444/


イギリスのDarling財務大臣は、英国内で経営される銀行が来年4月までに2万5千ポンド(約360万円)以上のボーナス支払いを行う場合には、「銀行が」その50%の税金を納めることを定めて、即日導入したそうです。従業員は通常の40%の所得税を課税され、その税率も4月から50%に上がることが予定されているそうです。

Bloombergの記事の中で会計事務所大手のKPMGが算定したところによると、銀行が従業員に100万ポンド(約1.4億円)のボーナスを支払った場合、英財務省は、銀行から50万ポンド、従業員から40万ポンド、社会保険13ポンドと、合計でボーナス支払額以上を受け取ることが出来るようになるそうです。


銀行が従業員に高いボーナス払うと、イギリス政府は銀行からその50%の税金を取ると。
そうすると、従業員から所得税も取るのでイギリス政府は合計でボーナス支払額を税金として取ることになると。

国も国民も弱いのは、金融機関が高額ボーナス出すことには反対するが、金融機関を潰すことにはGoサインを出せないことだ。
それは、金融が他の産業においてボトルネックであるからで、言わば国も国民も金融機関に弱みを握られているといえる。
要は「あいつら高い給料もらいやがって」と思う反面「でもあいつらいないと自分達の仕事が成り立たない」というジレンマがあるのだ。
そもそも「あいつらが高い給料をもらう」ことが可能なのは、彼らがボトルネックを握っているからなので「あいつらに高い給料払いたくない」と思うなら、彼らの仕事を必要としないようにしなければならない
例えば、OPECが石油価格について強い影響力を持てるのは、彼らが石油生産を握っているからなので、中東の石油王に嫉妬するなら、我々は石油に依存しない経済構造を構築する必要がある。

このような政策は、イギリス全体の経済を考えるとイギリスのためにはならないと思うが、国民感情を背景にした政治家の心理を考えるとよく理解できる。
経済学者や財界の人達は、こういう政治家のあり方を批判する人も多いだろう。
「どうして政治は衆愚政治に陥るのか」と。
そこで、今回は民主主義というものについて考えてみたい。
(これまで当Blogで述べてきたところと重複する部分が多いがご容赦いただきたい)


民主主義という制度において、民衆の投票によって選ばれる側の政治家の心理が、民衆の反応に対して冷徹でいられるはずがない。
真なる意味で何が正しいかを知るのが神のみであるならば、我々人間が考える正しさは常に間違える可能性をはらんでいるわけで、だから我々はその間違いに備えて代替手段というオプションを持つべきで、これを政治制度に組込むことが不可欠である。
でなければ、ナチスや旧帝国陸・海軍のような独走を許してしまい、取り返しのつかない結果を招くことになる。
そして、我々が辿り着いた制度が「民主主義」である。
(未来において何主義が待っているのかは不明だ)

しかし、「デモクラシーのコスト」でも述べたように、民主主義は代替手段というオプションを持つ代わりに、一貫性と合理性を欠く

人間にとって己の言動を否定するのは容易ではない
一度決めた「正しさ」を、その後に改めるのは簡単ではないのだ。
むしろ「君子豹変」する勇気を、我々は卑怯として受け取ることの方が多い。
それは、我々人間が他との関係性の中で「正しさ」という共有経験を持って自分自身のアイデンティティを確立しているからである
自分自身の「正しさ」を否定することが容易ではないのは、「正しさの否定」が「アイデンティティの喪失」、つまり「自分自身の否定」を意味するからだ。

結局、我々人間は、自分自身の「正しさ」を自分自身で制御することができない
だから、我々はよく利益集団や権威者の無謬性や反省のなさに怒るが、組織や人間に対して自浄作用を期待してはいけない
それは、もともと難しいことなのだ。
しかし、人類はここ1万年ほどの時間の中で、気づくのには時間がかかったが、それを学んだ。

「正しさ」が人に付いて回るものなのだとしたら、人を変えることのできる仕組みが必要であることを。
そして、それは君主制や貴族性、世襲性、一部の利権コミュニティのみから選出される選挙制度では効果が不十分であることを学んだ。
利害関係者のみでは「正しさ」を変えることはできない。
あらゆる価値観が入り混じってこそ、あらゆる視点での「正しさ」が見出される
それゆえ、民主主義制度は、奴隷制も人種、性別、文化も少しずつだが乗越えてきているのだ。
あらゆるプレーヤーがそろってこそ効果を発揮しうる制度が民主主義だからだ。

人類が民主主義制度の名の下に、あらゆる人に1票を与えてきたのは、それが「神の下の平等」という自然権に基づくものだからではなく、それが民主主義制度の目的に適うからなのである

その意味で、民主主義制度の下では、皆が声を上げて己の利益を主張することが重要なのだ
我々が恐怖や諦めにより、声を上げることを止めたら、その時、民主主義はその効果を発揮できず終わる
我々は一部の「正しさ」の独走を許す事になるのだ。

民主主義の欠点は、個々の声を尊重することで、全体最適視点での合理的判断が難しいところである。
そこで考え出されたのが「三権分立」制度である。
立法、行政、司法を3つに分けることで、バランスをとろうとするものだ。
個々の意見を反映する国会(立法)、全体最適を指向する政府(行政)、両者を調停する裁判所(司法)である

この考えは議院内閣制ではなく、大統領制の方に近い
よく「全体設計は政治で」と言われることが多いが、地域の代表者である国会議員に全体最適を考えろというのは無茶な要求である
(もちろん、全体最適派もいるが、仕組み上なっていないのに期待するのは如何なものかと思う。)

全体最適を考えるのは国家の代表である大統領(内閣)が成すべきことである
「政府と議会が対立すると何もできないから政府与党一体がよい」というのは現実的な妥協案として認めるが、私には日本人が何故そこまで議院内閣制にこだわるのか理解できない。

-<>-<>-<>-<>-<>-
唯一、説得的な説明は"イギリス系の保守"を標榜するグループのもので「連続性の確保」というものである。
(大陸系の保守とは違う)
人間の知性には限界があることを前提として、非連続的な変化をよしとしない思想だ。
人類がその歴史の中で積み重ねてきたノウハウや暗黙知に込められた意味を重要視し、革命や改革のような非連続的な変化の背景にあるであろう安直な願望を否定する。
物事が、革命や改革などの何らかの手法によって一挙解決するというようなうまい話は、必ず信仰のような思考停止を含むものであるはずで、危険であるというものだ。
簡単に表現しすぎて怒られるかもしれないが、「進化は常に漸進的であるという前提で温故知新の精神で物事に取り組むべし」というような考え方だ。
このような考え方に立つと、劇的な政権交代や改革などはまやかしであるから、民意が右に左に振れるような事態は好ましくなく、柔軟性よりも堅実性をとる保守の姿は理解できなくもない。
しかし、「現在」とは常に「進化の過程」なのだから、革命でも改革でも政権交代でも、これもまた漸進的な進化の一部なのであって、結局のところ、民意の成熟度によってしか、つまりノウハウや暗黙知のさらなる積み重ねでしか保守たりえないわけである。
また「温故知新」といっても程度は相対的にならざるを得ないわけで、この言語では表現できない絶妙なバランス(暗黙知)を如何に民衆が習得するかは、いろんなことを経験するしかないのである。
それが歴史の繰返しだとしても、何度も繰り返して学ぶしかないのである。
-<>-<>-<>-<>-<>-

地域の代表者が政党という超地域組織においてグルーピングされ党議拘束がかかるなんということの方が不自然だ。
政策集団としての政党を正当化したいなら、地域ではなくコミュニティ型選挙にするか、全国で一選挙区にするべきだ。
また、政治家は党として責任を負うのではなく、政治家本人として責任を負うべきであると考える。
そういう意味で、政治家の国会(委員会含む)における投票行動は記録しオープンにされ、後で追跡できることが重要だ。
政府と国会との程よい緊張関係があってこそ政策もよくレビューされるはずであるし、そうすれば「脱官僚」などというくだらないテーゼに構う必要はない。


・・長くて疲れた。
途中だが、ここまで述べれば十分だと思う。
今回の内容を踏まえて、次回は小沢一郎の真意を語ろうと思います。(今度こそ!)
(もちろん勝手な私見でしかないけれど)
なぜかというと、民主主義というものをよく理解しないと、小沢の真意が汲み取れないのです。


民主党には猛獣(亀井大臣)使いが必要だ

2009-12-09 07:12:00 | 政治
当Blogの想定通り菅直人氏が亀井静香氏とやりあっている。
菅氏くらいしか闘える大臣がいないというのは情けないことだが・・

ふと思った。

亀井静香大臣の的外れな暴走を批判する意見が多いが、彼の話を聞いていると、彼の信念だけは認めたくなる。
彼が一生懸命だからだ。
方法論を横に置くと、彼は彼なりの政治的背景を背負っていて、中小企業や地方をなんとかしようとする心意気だけは認められていいと思う。

いや、正確にいうと「認めたくなる」というより「もったいない」という表現が私の印象により近い。
彼は社会主義者かもしれないし、小泉・竹中両氏を心底憎んでいるようだが、それは結局、彼が方法論を知らないからで、彼が狂っているからではない。
彼は彼なりの正義に向かって残り少ない人生をかけて突き進んでいる。

私は、こういうのを見ると「もったいない」と思う。

「正義」に向かっているということは、イコール「なんとでも操作できる」ということを意味している。
なぜなら、「正義」というのは相対的な価値基準で実態がなく、時代や環境とともに変わっていくものだからだ。
そんなアヤフヤな価値基準を妄信するのは人間として最も危険な行為であるが、それと同時に最も有用である。
「正義」をちょちょんと変えてあげればいいのだ。

逆に最も組しがたいのは、正義を信じないタイプの人間だ。
こういうタイプとは、正しさを共有するのに骨が折れる。
時としてこういう人間を「冷徹な」というのだろう。
その代わり、最も合理的な戦略をとれるのはそういう人間だ。

民主党に亀井大臣を使える若手政治家がいないということが、民主党の弱さだと思う。
亀井氏に合理的で説得的なレクチャーができれば、状況がうまく動かせるはずだ。
こういう武闘派や大物権威者をうまく使うというのは、どの分野でも行われている。
嫌らしいと言われるかもしれないが、これは個人の処世術ではなく、自分達のためのチームプレーだ。
個人プレーで行うと、亀井氏が失脚すると共倒れのリスクがあるが、あくまでも党としてやれば戻り先もあり安泰だ。

民主党の次世代エースの大塚耕平氏(金融副大臣)がそれを見込んで当てられているのかわからないが、若手政治家の教育としても間違いなく使える。

小沢一郎が、新人議員を選挙と研修付けにすることについて「新人でもベテランでも同じ給料もらっているのだから」と言って批判する人達が多いが、こういう権威主義というか妬みで人を批判するのはやめた方がいい。
そっちの方がよりよい結果をもたらす可能性についての考慮が抜け落ちてしまっている。

そういうことなど考えると、亀井静香につけて修行させた方が得るものがあるのかもしれない。
小沢一郎が田中角栄から学んだように。

余計な心配はいらない。
弟子は師匠を超えられないかといえば、そんなことはないだろう。
小沢一郎と田中角栄とはまるで違う政治家であるように。

事業仕分けに思う日本政治の民主化:もっと多くの利権者が声を張り上げろ!

2009-11-26 23:34:13 | 政治
「事業仕分け」に対する逆襲が始まっているようだ。
言いたいことは山ほどあるがとりあえず自分のスタンスだけ明確にしておく。

科学技術関係予算を巡る攻防だが、私の感想は下記2名の意見に近い。

ノーベル賞受賞者等の緊急声明もお門違い(能澤 徹 )
http://japan.cnet.com/blog/petaflops/2009/11/26/entry_27035531/


2009年11月25日、日本のノーベル賞受賞者4人と数学のフィールズ賞受賞者1名による「事業仕分けに対する緊急声明」なるものが発表された。

 この声明も、基本的に、前回述べた例のコンソーシアムの声明と同種のもので、事業仕分けの実態とはかけ離れた観念論で、毎年予算編成時期恒例の「金よこせ運動」の一変種に過ぎないものである。農業団体、漁業団体、林業団体、あるいは、経団連、日本医師会、等々各種団体が、補助金を求め、あるいは診療報酬の引き上げを求め、省庁に日参した陳情騒動の変形に過ぎない。

 声明文の骨子は、我が国は「科学技術創造立国」「知的存在感ある国」を目指さねばならず、財政難であっても、将来に禍根を残さないためには、学術、科学技術には優先的に予算を配分しろ、という強要であり、長期的視点で考えねばならない学術や科学技術に対し事業仕分けなどで評価するのは「けしからん」といった内容である。

 端的に言うと、この声明も、前回同様、各個別事業の実態を無視した観念的「総論」で、抽象的で一方的な「金よこせ」運動で、ある意味では、「江戸の敵を長崎で」式の超論理の「後出しじゃんけん」のようなものである。

 つまり、ある特定の政策の実施評価で落第点を突き付けられると、突然切れて、横丁のご隠居連などの助っ人を集めてきて、日本国の進むべき道はこれこれだ、だから長期的視点で、個別で無く総体として考えるべきで、仕分けには馴染まない、などと事業仕分けを逃げ回る超論理を展開し、マスメディアを扇動しているのである。実に巧妙な政治的駆け引きで、裏で元法学部教授が仕組んでいたわけで、受賞者達は、バラエティ番組に出演したタレントということである。


まだ、次世代スパコンなるものの、仕分けとやらで揉めているのか。あほらしい。(堀江貴文)
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10396418644.html


政治家はスパコンの歴史とか世界の趨勢を良くわかっていない割りに、ノーベル賞科学者が言ったことを無批判に信じてしまっている様子である。彼はいまや理化学研究所の理事長職であり、科学技術利権を代表する側であり、予算を取ることが彼の至上命題なのだ。カネを貰いたい側は当然自分達に都合の良い主張をするに決まっている。問題はそれを批判する側の政治家に知識が乏しく、塚田一郎氏のように妄信してしまっていることである。


私は、大学の学長だとか、お偉い学者のみなさんが出てきて「科学技術予算の重要性」について熱弁を奮うことは、利益団体が自らの利益を主張するのと何ら変わらないものだと考えている。
彼らは利権者なのだ。
今現時点で事業仕分けとは関係のない人達も多いが、今起きている騒ぎは、事業仕分けによる予算削減の波が他の予算に拡大しないようにするために防波堤を築こうとしているのである。
明日は我が身という思いなので、一致団結して難局を乗り切ろうという活動なのである

でも私はそれでいいと思っている。
彼らがノーベル賞受賞者だからといって論理的である必要は必ずしもない。
(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091126/plc0911262253029-n1.htm)
(教育再生会議の時に彼の論理が破綻しているのはよくわかっていた)

(「貧困を巡る攻防」と「民主主義の懐の深さ」民主主義の凄み)などで書いてきたように、自由民主主義の効用というのは、それぞれの利権者がそれぞれの利益を主張することによって得られるものであると考えている。
だから、利権者は思う存分、自分の利権を主張すればよいのである。
むしろ問題は、全ての利権者が声を上げれていない状況にあるのだ。
今まで日本の政治と言うのは一部の強い利権者の声のみが強調されてきた。
日本の政治の問題点は、利権者にあったのではなく、一部がバイアスされてきたところにあったのである。
この不均衡を解きほぐして、自然均衡点を目指すようにすることが日本の政治がまっとうになれる道である。
あらゆる団体、あらゆる国民がもっと声を上げるべきなのである。

そういう意味で、今回の事業仕分けには非常に大きな意味があったと思う。
情報が公開されるキッカケとなり、ゲーム参加者が増えるからだ。
この流れは不可逆的なもので、談合ゲームへの後戻りは許されぬであろう。
一部のパワープレーヤによる都合のよいゲーム展開が許されなくなるのだ。

それと、民間仕分け人が事業仕分けやること批判する人がいるけど(特に未だに与党ボケしている自民党系の人達が)これはかなりの勘違い。
だったら国会議員だったら勝手に決めていいわけ?
国民から選ばれていないのに主計官だったらいいわけ?
違うでしょ。
問題は、最も合理的な選択がなされたかどうかであって、誰が決めるかではない。
こういう権威主義的発想が日本の政治を腐敗させるのだ。


蛇足だが、
科学技術関係予算が無駄に使われまくっている現場を見たことのある人間としては、今回の事業仕分け結果は当然だと思っている。
もっと科学技術者と呼ばれる予算ゲッター達に覚醒を促した方がよい。
機会があったら説明したいが、なぜこのような無駄が生まれるかというと、結局のところ日本の科学技術界の発展性が低いからで、事業に繋がらず、投資効果が出ないので国家に頼るしかないのだ。
こんなレベルじゃいくら政府が金かけたって産業振興にはならない。
そこがアメリカと違うんだろうな。
ほとんどの政策について言えるのだが、出口戦略がないのだ。
それはつまり、「目的がない」ってことと同意なのである。

かなりの駄文でした。

「罪(構造)を憎んで人を憎まず」の精神が日本を変える

2009-11-18 00:40:37 | 政治
民主党の「事業仕分け」第一ラウンドが終了した。

予算には名目上の無駄は存在し得ない。
予算がつくには必ずもっともらしい理由があり、その効果は0では有り得ない。
予算による便益を受けている人達はいて、その人達からすれば無駄ではないのだ。
事業仕分けで投資効果が低いとして廃止された事業も、削減された事業も、必ず誰かの役には立っている。

にも関わらず国民が国家予算に対して疑いの目を向けるのは、過剰な便益が計上されたり、便益が一部に集中していたりといったことが、当たり前のように行われているのではないかと考えられているからだ。
国民は族議員や官僚、利益団体らがこれに加担していると疑っている。

これらについて説明された情報は書籍にもネット上にも数え切れないほどあるので、ここでは詳しくは述べない。

ここでは、いつもと違った視点でこの問題を考えてみようと思う。
しかし時間がないので超短縮版だ。

官僚の仕事を民間企業に置き換えて考えてみる。
官僚が案件を企画して予算化して施行する一連の流れを、民間企業のビジネスとして捉えてみると、官僚にとっての予算とはビジネスモデルに相当する。
ある問題があって、その問題を解決するための仕組みを企画し、その企画を具体化するための予算化を行い、そして施行し問題を解決する。

ここでよく考えて欲しい。
よいビジネスモデルとはなんだろうか。
いや、「成功するビジネスモデルとは何か」と言った方がより正しいかもしれない。

(かなり省略していきなり結論へ・・)

成功するビジネスモデルの条件は、利害関係者とWin-Winの関係を構築できるかどうかにある。
では、官僚にとってのWin-Winの関係とは何か。

それは問題を解決するための仕組みの中に自分達の利益を潜り込ませることだ。
これがいわゆる「天下り」や「渡り」のための手段として使われたのだ。

私には、この仕組みを否定するつもりはない。
なぜなら、彼らにとってそれがWin-Winだからだ。

このことが提起している問題は、官僚にとってのWinを誰がどのように定義すべきなのかということだ。

それは官僚の責任なのか、それとも政治の責任なのか、はたまた国民の責任なのか。

我々は「罪(構造)を憎んで人を憎まず」の本意を理解し、根本的な解決策を探る姿勢をもつべきなのだ。

投資効果の低いものが国家を頼るのは当たり前だ

2009-11-15 01:33:56 | 政治
本エントリは駄文ですが「国家の役割」を再定義しようという問題提起です。

前回に引き続き、民主党の「事業仕分け」について、もう一つ重要なことを書くことにしよう。
というのもホリエモンのブログを見て一つ語りたくなった。
個人的に「政府に頼るのをやめよう」というのには以前から賛同するのであるが、でもそうも言ってられない人も一方に存在しているのも事実である。
(突き詰めると国会の意義がどこにあるのかというお話だ)

政府に頼るのをそろそろやめないか。(六本木で働いていた元社長のアメブロ)
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10388307626.html

事業仕分けについての解説は池田信夫氏のブログで読んでいただくとして。

事業仕分けという人民裁判(池田信夫blog)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51310943.html


仕分けの対象になったのは概算要求に出ている約3000の国の事業のうち15%足らずの447事業にすぎないということだ。残りの85%は仕分けの対象にならないので、勝負はこの段階でついている。これを選んだのは、実質的には財務省の主計局である


多くの識者が指摘するように、今回の事業仕分けの対象となった事業は、財務省がもともと削れると踏んでる事業なので、初めから削減ありきで勝負がついているのである。
言わば「出来レース」なのだが、事業仕分けという名のセレモニーの体裁を整えることは必要だ。
初めから結果はほとんど決まっているのだが、その場で決定されるているという演出がなければ、このセレモニーは完成しない。
そこで、その場で決定するための物差しとして使われるのが「投資効果」である。

説明するまでもないが投資効果というのは、「投資した金額に対してどの程度のリターンが期待できるか」ということである。
(本来「投資効果」と「対投資効果」は別のモノだが、ここでは「対投資効果」の意味で用いる)

一般的な国民のみなさんは、この「投資効果」という極当たり前のように受け止めていると思うが、これが今回の事業仕分けを語る上でのキーワードである。

なぜか?

「投資効果」があるなら国がやらずとも民間で行われるはずだからだ
逆の言い方をすると「投資効果がないから国がやっている」のだから、国のやっている事業の投資効果が低いのは当たり前なのだ

例えば、社会インフラが行き渡った先進国における公共事業等の財政政策の乗数効果は1を切る(つまり投資効果が小さい)といわれている。
日本ではいまだに財政政策の有効性が信じられているが、それは「均衡ある国土の発展」という結果の平等を指向した思想であり、必ずしも投資効果があるわけではない。

投資効果があるなら、そこにビジネスチャンスがあるわけなので、グローバル金融ビジネスが進化した昨今、閉鎖的経済をとっていない限り世界中のどこの国でも民間資本が入り込む
そういうチャンスを狙って世界に根を張る金融ネットワークの進化は絶え間なく進化している。

JR東海もがんばってリニア作ろうとしているし、鳩山首相の演説ではないが昔は橋だって民間で作ったわけだ。

投資効果があっても民間で行うにはあまりにも大きな投資が必要な場合や、民間で背負うには高すぎるリスクがある場合、超長期的には投資効果が得られるが短期的には得られない場合などには、国家財政の出番もあるだろう。

しかしながら、実際には民間では相手にされない投資効果が低いものが国家を頼ってくる。

だから、私は、むしろそれに自覚的になって頼ったらいいと思う
我々の行おうとしていることは投資効果が低い、だけれども我々にとって非常に重要な意味を持つと。
やり方によっては投資効果を高めることができるものは「官から民へ」で進めればよく、やり方を工夫しても高い投資効果が期待できないものは「官」でやりましょうと

国民の代表ではなく地域の代表者が国会を構成する意味というのも、そこにあるように思う。
全体最適は政府がやって、個別最適を国会がやる。その調整が司法。
というのがその性質上妥当な理解なのではないかという気がする。
もちろん原理原則を振りかざすつもりは全くない。
あくまでも、現状の三権分立のあり方を突き詰めるとそうなるよという話だ。

民主党の事業仕分けは「リストラ」だけれども、小泉内閣の構造改革は「Re-Structure」で、まさにその意であった

単純に、投資効果の高いものを官がやり、投資効果の低いものを切る、というのではなく、やりようによっては投資効果を高められるものは民へ、やりようがないが必要な投資効果の低いものは官へ。
という発想も必要なのではないか。
(それが全てというつもりはない)

-<>-<>-<>-<>-<>-
[雑談]

投資効果を否定する彼らの言い分はこうだ。
「世の中には投資効果がはかれないけれど、重要なものがある。」というものだ。
例えば教育がそうだという。
(ヨーロッパでは積極的社会政策の投資効果を計算していたりするが)
確かに、教育の影響範囲はあまりに広いため、厳密に投資効果を計算することはできないと思われる。
(そもそもパラメータが多すぎる問題の投資効果を求めようとすること自体、傲慢さなのかもしれない)
また、彼らは投資効果を金額で表そうとすること自体が「金の全能イデオロギー」であり、教育の目的と相反すると。
それもまたそうなのかもしれない。

でも何か勘違いしてやいないか。
投資効果を金額で表すのは便宜上の理由であって本質的なところではない。
我々の目の前には数多の問題があるが、全てを解決するだけの能力を我々は持ち合わせてはいない。
我々はトレードオフの前に無力だ。
だから優先順位をつけて、やることと、やらないことを判断しなければならない。
だが、我々はその判断を何をもって正当化できるのだろうか。
万人が認める合理的判断であるとする論拠を、我々はどうやって示すべきなのだろうか。
一つの方法が経済的合理性、つまり金(カネであって貨幣ではない)という人工的かつメタ的ツールである。
我々は、我々のために金を作り出した。
それはコミュニケーション・ツールに過ぎないが、だが我々人類にとっての偉大な発明品だ。
金の優れた機能は、価値を固定していないことだ。
何により価値があるのかを決めるのは常に人間である。
そこから導き出されることは、モノの価値を決めているのは金ではなく人間であるということだ。
彼らの非難すべきは「金の全能イデオロギー」ではなく「人間の全能イデオロギー」であろう。

民主党は自分自身の矛盾にどう向き合うのか

2009-11-13 01:38:03 | 政治
事業仕分けという人民裁判(池田信夫blog)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51310943.html

大方の見方はそうなんだと思う。

さらにいえば、個人的には事業仕分けメンバーの編成について興味深くみている。

民主党の言う「事業仕分け」は、構造改革(Re-Structure)ではなく、いわゆる経費削減という意味での「リストラ」なので、これについて成果を出したければ、情とか配慮とか関係なく投資効果の低い事業を容赦なく切れる人が評価者にならなきゃいけない。
実施者(構想日本の加藤氏)は成果を求められるから、民間の仕分けメンバーに民主党・国民新党・社民党とは相容れない「新自由主義者」や「市場原理主義者」と呼ばれる人達を入れることになる。
(その分類の仕方はおかしいけれど)

事業仕分け人選任に国民新が抗議 24日から副幹事長が参加(NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091112AT3S1201F12112009.html

これは鳩山民主党の「大きな政府」と「無駄撲滅」の二律背反の問題が如実に表れている。
今回の事業仕分けは、かなり限られた事業(ステークホルダーの少ない予算)だけが対象なのだが、今後はもっと大きな事業についての判断が求められる。
民主党が二律背反の問題にどのように向き合っていくのか、民主党の動向から目が離せない。

鳩山首相の頭にあるイメージははたして・・

首相、「事業仕分け」今年限りを示唆 (NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091112AT3S1203O12112009.html

NHKスペシャル「秘録 日朝交渉~知られざる"核"の攻防~」 雑感

2009-11-10 00:19:43 | 政治
NHKスペシャル「秘録 日朝交渉~知られざる"核"の攻防~」を見た。

非常に興味深い内容だった・・。
しかし、小泉純一郎氏(当時首相)とキム・ジョンイル総書記の本気の緊迫したやりとりは、これまでに聞いてきたどの情報とも違っていた。
国交のない国家のトップ同士の突っ込んだやりとりはそれだけで十分に面白いものだ。
この番組から読み取れる金正日の北朝鮮の国家元首としての姿、そして人間・金正日の姿からして、彼は決してならずものなんかではない。

もう一つ驚いたのは、ブッシュ-小泉-金正日ラインが確固としてそこに存在していたことがテレビ局の一番組みで明らかになったことだ。
(ここはさすがNHKというべきなのか?)
小泉首相が6カ国協議を可能にした(もちろんお膳立てはあるだろうけども)し、金正日が小泉首相に仲介を頼んだこともわかった。
あくまでも一面的な情報に過ぎないけれど、北朝鮮の核問題について日本が主導的役割を担うチャンスがあったということだ。
それは小泉-ブッシュラインがあったからこそ可能であったということは、世界の外交関係者には皮肉なことだろう。
歴史に「たられば」はないけれど日本政府が拉致問題に対してもう少しソフトランディングな対応を行えていたら、ひょっとしたら北朝鮮の非核化はかなり進んでいたかもしれない。
小泉外交の対米追従については批判が多いけれど、ゆえに解決できる問題もまたあるということだ。
全てはトレードオフか・・。

そう考えると、(いきなり飛躍するが)北朝鮮に関わる問題は金正日が生きている間に解決することが望ましく、またアメリカとの関係に溝が出来つつある鳩山政権による外交では心もとない可能性がある。

いや、まだわからない。
問題はステークホルダーが多くなるほど複雑化する。
私なんかが分かる問題ではあるまい。
ただ、何か惜しい気持ちになった。

国民的議論で「役割の再定義」を

2009-11-07 15:10:39 | 政治
時間があったので昨日のエントリについて補足しておきます。
(「貧困を巡る攻防」と「民主主義の懐の深さ」)

昨日は「マクロvs.ミクロ」という単純な二項対立で語りましたが、実際には「どこからがマクロで、どこからがミクロか」というのは非常に難しい問題です。
(「どこからリビングでどこからダイニングか」みたいな・・)
いや、実は「マクロ」か「ミクロ」かというのは、マクロかミクロというのも結局は相対基準でありますので、物事を考える際の指針(バランス)としては重要でも、区別すること自体は重要ではありません
「あなたはマクロ派」、「あなたはミクロ派」などといって区別するのは何の意味もありません。
(そもそも相対基準である以上、万人に共有可能な形で厳密に区別すること自体不可能です。)

では、もう少し現実的な話をしましょう。
我々の思考や行動をマクロ方面もしくはミクロ方面へシフトするのに大きな影響を及ぼすのが「立場(役割)」という存在です。
何に対して責任を持たねばならないかという認識に差異が生じるからです。
構造」といってもよいと思います。

例えを使うと理解が容易です。
ある企業における「社長」「事業部長」「社員」の3者を考えてみましょう。
(あくまでも一般的な話です)

「社長」の役割は「会社の存続」や「会社の価値向上」です。
「事業部長」の役割は「事業の成功」です。
「社員」の役割は「担当業務の遂行」です。

社員は居酒屋で経営者に対する愚痴をこぼし、社長は自分の思うとおりいかない組織に対して苛立ちを覚えることでしょう。

社員にとっては事業の成功よりも担当業務の遂行に重点が置かれますが、事業部長にとっては会社全体の経営よりも事業の成功に重点が置かれます。
社長は特定の事業だけでなく会社全体の経営に重点が置かれます。
社員よりも事業部長、事業部長よりも社長の方がよりマクロ的観点が必要になりますが、社員より社長がマクロ派なのは、彼個人がマクロ派だからなのではなく、彼の置かれている立場がそうさせるのです。
何に対して責任を負うのか」、「そのために何について問題意識を持たねばならないか」が異なるからです。

これはあらゆる業界で同じです。
次に、政治に目を向けましょう。

「小泉・竹中改革」への批判がよく聞かれます。
事実を反映しているかどうかは別にして次のような批判をする人たちがいます。
「地方が疲弊した」「格差が拡大した」「日本的ムラ社会が壊れた」
実は、これも立場の違いによる意見の相違です。

「日本の総理大臣として何に責任を持たねばならないかという認識」と「地方自治体の長として何に責任を持たねばならないかという認識」、「地方に住む者として何に責任を持たねばならないかという認識」、これは異なって当たり前です。

-<>-<>-<>-<>-<>-

※注意
実際には「立場」からもたらされる「認識」の違いが思考の違いを生みます。
同じ総理大臣でも認識が異なれば「何に対して責任を持たねばならないか」は変わります。
「なってみてわかったこと」というのは多々あることでしょう。
裏を返せば「立場が人を育てる」という側面もまたあります。

-<>-<>-<>-<>-<>-

以上の意味からすれば、地方の人が日本全体のことを俯瞰して物事を言わないからといってそれを責めたてるのも、ある意味でナンセンスといえるでしょう。
また、逆に政府が地方に対するフォローに重点を置かないとして、それを責めたてるのもまたナンセンスだといえるのです。
(これが「罪(構造)を憎んで人を憎まず」の本意です)

さて、そろそろこの会話の結論を述べることにします。

では、どうすればよいのでしょうか。
答えは先に説明しました。

我々に「マクロvs.ミクロ」対立が生まれるのは、「立場(役割)」の違いが源泉なのです。
ということは、この対立を乗越えるために必要なこと。
それは「立場(役割)の再定義」なのです。


「政治の役割」、「国民の役割」、「国家の役割」、「社会の役割」、「家族の役割」、「企業の役割」、「人間の役割」、etc...
これらを再定義し、我々の認識を新たにすることです。

(結局のところ、政治に理念をというのはこういうことでしょう。)

もちろん、(当Blogのいつもの主張通り)進化はスパイラルにしか進みません。
完全なる定義など不可能だということも肝に命じておく必要もあります。
(かといってニヒリズムに陥る必要もないでしょう。)

さてさて、果たして答えになっているでありましょうか。

「貧困を巡る攻防」と「民主主義の懐の深さ」

2009-11-06 23:52:37 | 政治

つい数年前まで大多数の日本国民にとって「貧困」というワードは縁遠いものであったが、少子高齢化や企業収益悪化、長期経済停滞の予想などといった環境により、各個人の生活安全保障への意識が強まりはじまり、急激に注目度が上がってきている。
要するに「明日はわが身」と感じる人達が増えてきているのだ。
そんな中、政府から相対的貧困率が公表された。
その数字にマスコミが食いついたのだが・・


「貧困率」についての誤解(池田信夫blog)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51305601.html

池田信夫氏のこのエントリに対する批判が多いらしい。(同様に賛同者も多いが)
個人的には、当たり前過ぎる主張だと思うで、賛同するも反対するもないように思うのだが、何ゆえに彼はそれほど的外れな批判にさらされるのか、解説してみよう。
まず彼の問題意識はこうだ。


けさの朝日新聞に「15.7%の衝撃―貧困率が映す日本の危機」という社説が出ていて、朝日新聞の論説委員のレベルの低さに衝撃を受けた。日本の貧困率がOECD諸国で第4位だということは、当ブログでも紹介したとおり5年前から周知の事実で、政府が「それに目を背けてきた」わけではない。大した意味がないから、特に問題にしなかっただけだ。

鳩山首相もこの数字について「大変ひどい数字だ。何でこんな日本にしてしまったとの思いの方も多いだろう」とコメントしたそうだが、彼はその意味がわかっているのだろうか。OECDの発表しているのは相対的貧困率で、これは国内の家計所得の中央値(メディアン)の半分に満たない世帯の比率を示す指標にすぎない。絶対的貧困率でみると、次の図のように、日本の下位20%の人々の所得(紫色の面積)は最大である。

この図の説明にも書かれているように、「日本の貧困層は世界でもっとも豊かである。日本の下位20%の人々の所得は、他の地域の最貧層の7倍以上である」。相対的貧困率が高いのは、高齢化によって無収入の老人が増える一方、若年層で非正社員や独身世帯が増えているからだ。日本は所得保障を企業の長期雇用や福利厚生で行なってきたので、こうした「企業依存型福祉システム」から排除される人々が増えたことが問題を深刻にしている


これに対して批判者の主張はこうだ。


日本の貧困層がソマリアよりマシだとしても、貧困の実態は変わらないのだから、他国とダメ比べして、それよりも日本はマシなのだから問題ないとするような主張はナンセンスだ。


こういう議論を見るにつけ日本の政治的混乱、特に経済的問題に関する混乱の原因が"問題の高度化"にあるのではなく"論理的思考能力の欠如"の方にあるのだなと思わされる。
(社会的教育力、社会的共通資本の弱体化というのだろうか)

まず、読んでわかることだが、池田氏の問題提起は「貧困の定義」にある
基本的な認識として持っておかなければならないのは、相対的貧困率の高低が示すものはある種の「格差」であって「貧困」ではない
日本の中流階級に比して貧しい層がどの程度存在するのかを示しているだけであるが、日本の中流階級がどの程度の裕福さを有する層なのか定義がなければ、中流階級に比して貧しいことが「貧困」なのか答えることはできない
貧困とはどのような状態をいうのか」という定義がない限り、何を解決すればよいのか問題設定を行うことができず、貧困問題の解決には繋がらない。
これは極当たり前のことである。
「貧困」の定義がないのに「貧困」を解決できるわけがない
(将軍様!早く屏風から虎を出してください!ってなもんだ。)
「相対的貧困率」は「貧困」とほとんど関係がないから、「相対的貧困率」を基準にすることは誤りだ
すると、


鳩山首相もこの数字について「大変ひどい数字だ。何でこんな日本にしてしまったとの思いの方も多いだろう」とコメントした


上記の首相の認識が実におかしいのかは明らかであろう。
誤った情報に基づいた判断は誤った結果を招く可能性が高い
泥の上にどのように頑強なビルディングを建ても、残念ながら満足した結果は得られないのだ。

一方、批判者達の問題意識は「貧困撲滅」にある
彼らは、「(彼らの考える)貧困状態に置かれた人々を放置する考え方」、また「格差」を批判しているのだ。
が、残念ながら池田氏は「格差」を肯定しても「貧困を放置してよい」などと一言もいっていない
むしろ池田氏などのリバタリアンが述べるのは、目先の救済ではなく、長期的に最大限の救済だ
(批判者達の本質的な問題意識は格差ではなく貧困にあるわけだから、貧困に対するお互いの立場が明確になると、この問題はわかりやすくなる。)

これがマクロ派vsミクロ派の違いである。

池田氏などのマクロ(全体最適)派は情緒的問題よりも論理的問題を重視するのに対し、ミクロ派は論理的問題よりも情緒的問題を重視する
また、マクロ派はトレードオフを前提に全体最適解の導出を主張するのに対し、ミクロ派は個別的完全解を求め、一つでも例外が存在するとマクロ派の論理が破綻していると主張する
マクロ派はミクロ派をトレードオフを理解できない人々と見なすし、ミクロ派はマクロ派を現場を知らない偏った原理に従う原理主義者と見なす
視点が異なれば、当然そこから見える世界は異なってくるのだ。
私は、どちらがより正しいかを判断するつもりはない
状況によっては、どちらも正しくなるからだ
(目の前の人が苦しんでいればマクロよりもミクロを重視するし、日本経済を俯瞰すればミクロよりもマクロを重視する。人間としてバイアスを持つのは当然のことだ。)

実は、池田氏はこの点に関する問題意識を持っており、彼はよく「フレーム」という概念を用いて「経済的に正しくても政治的に正しくない問題」に対応すべきだと述べている
つまるところ、マクロ派はミクロ派の情緒的問題に対して「物語」を用いて説明せよというのである。
お互いにお互いの無知さを責めるだけでは建設的な議論に至ることはない。
私は、この姿勢を支持したい。

※当Blogの下記エントリを参照

亀井金融相が浮き彫りにする「マクロvsミクロ」の構図
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/67d8a60006790b69fa7762872c8aaf29

マクロ重視派が変われば日本の政治は変わる
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c85e179c4d1799d58790f0c78f295103

このような「マクロvsミクロ」の問題に終止符を打つために、我々は何ができるだろう。
マクロ派は先に述べたように様々な「フレーム」を作り出すことが有用だろう。
ミクロ派はどうだろうか。
私が思うに自分の意見に賛同する人々を募るとともに、その意見を社会的に表現することだ。
実はこれ(議会制)民主政治のあり方そのものである

そう、これは三権分立の基本思想と合致する。(あくまでも個人的解釈)
全体最適を指向するマクロ派である「官僚(行政機関)」と、個別最適を指向するミクロ派である「政治家(立法機関)」、そしてその調整役である「裁判官(司法機関)」の3つの役割分担そのものである

「マクロvsミクロ」の構図を2項対立的に炙り出したが、実はこの両者は矛盾していないのである。
民主政治とは、まさにこの2つが止揚されたものであり、民主政治にとって「マクロvsミクロ」は不可分にして不可欠なのである
よって、どちらかだけを否定することは民主政治の否定であり、民主政治を肯定したいのなら、どちらも必要なのである

-<>-<>-<>-<>-<>-

と、カッコよく言い切ったものの、結局どうすればいいのか曖昧なままなので、最後に貧困論争に対する個人的な意見を述べて締めとしよう。

よく考えて欲しい。
我々は相対的貧困率の割合を減少させることを政策目標にすべきなのだろうか
相対的貧困率の低い社会というのは、一体どのような社会なのだろうか。
例えば、いわゆる一億総中流(平準)社会を目指すということか。
だとしても、そもそも一億層中流社会を目指すことは我々の幸福とどれだけの相関があるのだろうか。
またそれは近い将来において可能なのだろうか。
確かに、一見、全員が今日、明日を生きるのに苦労しないことを目標にするのは理念的には正しいように思えるが、しかし問題設定として正しいかどうかは別問題だ。
というのは、我々は未来に生きているのではなく、現在に生きている存在なので、我々が向き合うべき問題は目の前の現実にならざるを得ない。
もちろん、長期的な視点を持って、将来的な問題について取り組むことも重要だ。
しかし、我々には全てを予見する力もなければ、全てを解決する力も無い。
どうしても「できること」と「できないこと」があり、また「できること」のために他の「できること」を犠牲にしなければならない場面に出くわす。
この宇宙に存在する限り「トレードオフ」から逃れることはできない。
我々は一歩一歩踏みしめながら進むことしかできないのだ。(進化はスパイラルに進む)

だから、自分が総理大臣になった気持ちで考えよう。
何事も責任感を持って考えることは重要だ。
(なぜなら人は自分の問題として責任を感じて初めて問題に真剣に向き合えるから。)

あなたの力は強大だが有限だ。
「できること」も「できないこと」もある。
あなたは、まず何をするだろう。

私なら、第一に「貧困」の定義を明確にし、社会として許容する貧困率を決定する
これには非常に勇気が必要だろう
人を勝手に貧困と位置づけ自尊心を奪う可能性があるし、貧困と決めたからには放置することはできなくなるから、政治的責任が生じる。
「貧困層」という枠組みを社会に導入する重みについて、我々に準備があるのかも疑わしい。
(ある種の社会的自己否定を伴うからである。)
しかし、「貧困」を定義しなければ、何を解決すべきなのか明らかにはならないし、また「貧困」を定義する過程で、我々が目指すべき社会像も明らかにする必要性に迫られるだろう

池田氏の主張である「相対的貧困率にはたいした意味が無い」は正論だ
それよりも、政治は勇気を持って「貧困」を定義し、「貧困撲滅」に向けて政策目標を掲げるべきではないのか

マクロ重視派が変われば日本の政治は変わる

2009-10-31 17:04:47 | 政治
郵政を「ドンブリ」に戻すな - 情報こそが郵政を変える(磯崎 哲也)
http://agora-web.jp/archives/787445.html

私は磯崎氏についてブログを読んだりTVで見ることでしか知らないが、彼の洞察にはいつも頷かされる。
αブロガーと呼ばれる人たちの中でも彼の主張が異彩を放っているのは、彼がより実務に近い視点から問題提起をしているからだと思う。
学者や評論家のみなさんは主張がマクロ的論点に傾向しがちだが、彼はマクロ視点でみたミクロ的動きに関する洞察が鋭い
それは、彼の経験に基づくのだろうけれど、接頭語として「実際には」がつく話がうまいのだ。
私は、こういう視点こそが、日本国内で混乱しているマクロvsミクロ論争を乗越える突破点になりうると考えている。

ここからは、ちょっと極端な議論展開になるのを許してほしい。

基本的に学者として評価されるためには「理論」が重要である。
物事を裏側で支配する「理論」を解明することが最も重要で、実証研究はそれを裏付けるためのものだ。
(もちろん理論を確立するための実証研究の重要性もある)
だから、いつも歴史に名を残すのは、理論を構築した方で、理論の正しさを裏付けた方ではない。
(じゃノーベル賞は?みたいな反論がくることはわかったうえでだ。ここでいう歴史は100年単位ぐらいだと思って欲しい。)
どうしてそうなるのか?」という問いに答えることが学問としての第一義で、「どうしてそれが正しいといえるのか?」という問いに答えることは非常に重要でありながらも、黒子的役割になりがちだ。
(演繹法と帰納法の役割の話だ。)

もちろん、この宇宙を記述している究極理論も解明されていない現在、我々が認識している理論の完全性というのは担保されておらず、演繹法の限界も当然ながらある。
しかし、帰納法的手法による実験結果には必ず誤差や例外がつき物であり、万人を納得させることはできない。
そもそも最近では実験できない理論ばかりだ。
やはり、演繹法と帰納法の両方が必要なのである。
(タレブ著「ブラック・スワン」では我々が立つべき視点は「懐疑的経験主義」であると力説されている。)

以上で述べたことは非常に当たり前の主張なのだが、実はこの当たり前のことが日々の政治からはごっそり抜け落ちている。
マクロ派(全体最適派)は理論が先に立ちがちで、ミクロ派(個別最適派)は結果が先に立ちがちだ

いつもマクロ派はミクロ派の無知さを攻める
(気持ちはすごくわかるが)
だが、マクロ派は理論的な正しさを説明できても、情緒的な正しさを説明ができない
(ここの想像力が足りないのだ)
その説明できない情緒的な正しさがミクロ派の正義である。
一方、ミクロ派は情緒的な正しさを説明するが、理論的な正しさを説明できない
異なる視点の持ち主である両者は意見が一致することがない。
どちらもお互いの正義を振りかざすだけである。

これは私の勝手な意見だが、マクロ派には"帰納法的な正しさ"を積み上げる努力が足りない
自分達の主張の正しさを、帰納法的な視点より、説明する姿勢に欠けているのだ。
相手に勉強しろというのは容易いが、それで相手が勉強するならこんな簡単なことはない。
子供に「勉強しろ」というだけで子供が勉強してくれるなら、日本は成績優秀な子供であふれかえってしまう

人間が不完全である限り、完全な全体最適は有り得ず、政治は個別最適の積み重ねにならざるを得ない。
この個別最適を一つ一つ解いて全体最適に繋げていく作業、これが日本の政治にはない

マクロ派はミクロ派に向けた物語を創ろう。
その努力が日本を変える。
わざわざイギリスに行って学ぶ時代は終わりだ。

国民は政治家を育てるコストを負担すべきである

2009-10-27 23:23:19 | 政治
当ブログでは小泉進次郎氏を今後が期待される政治家として応援しています。

小泉進次郎氏、自民党のヤジに苦言…所信表明演説(スポーチ報知)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091027-00000049-sph-soci


小泉進次郎衆院議員(28)は、鳩山首相の所信表明演説中、ヤジを飛ばし続けた自民党の先輩議員たちに苦言を呈した。「今の自民党がやらなくてはいけないことは民主党を批判することではなくて、民主党を検証すること。そのための臨時国会だと思います」と話した。

鳩山首相の言葉に黙って耳を傾けていた進次郎氏は「言葉遣いは平易で分かりやすかったが、言葉の先にあるビジョンが分からなかった」と厳しく採点。遊説局長代理らしく、あくまでヤジらずに理路整然と指摘した。

 惨敗した参院補選を終えて、この日19日ぶりに再開した自身のブログには「民主党が進めようとしている政策が国益に沿うなら協力すべき」と記した。非難中傷合戦は28歳の新人議員の望むところではないようだ。


率直に見て現時点で彼が他の政治家に比して何らかの能力に秀でているとは思わないが、私は彼の資質に大きな可能性をみている。
保守的な日本人が実績を重んじるのはよくわかる。
(保守については日を改めて議論する)
役割に適した人材が必要なのは確かであろう。
しかし、役割が人を育てるという一面もまたある。
我々は未来への投資として、将来性のある若者に役割を任せるコストを受け入れるべきだと考えている。
(できる人を配するのは容易いが、できるよう人を配するのは難しい。)

このことは、内田樹のいう「教育=贈与論」ともつながってくる。

教育=贈与論(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/22_1155.php


教育の目的はただひとつである。
それは人を成熟に導くことである。
誰も人間を他動的に成熟させることはできない。
人間を成熟させるのは自分自身である。
そのためには主体の側に「成熟しなければならない」という強い決意が必要である。
ひとが「私は成熟しなければならない」と思う理由はひとつしかない、それは「成熟しなければ、理解できないことがある」からである。それが理解したいからである。
教育の「謎」は「どうしてこの人は私にこのようなものを贈与するのか?」という問いのかたちで構造化されている。
もし、その贈与が対価とつりあうものであれば、それはすこしも「謎」ではない。
なるほど、私がこれだけのものを支払ったのだから、これが手渡されたのだなということに納得がいけば、それは「謎」ではない。
それはただの等価交換である。
等価交換をどれほど積み重ねても人は成熟しない。
「私が今使っている価値の度量衡では計測できない価値」について知りたいと思うことはない。
私たちは、「それが何を意味するのかが、今の私には理解できない贈り物」が手渡されたときにのみ、その意味を解明するためには「成熟しなければならない」と思い始める。
教育はだから「教える側がまず贈り物をする」ところからしか始まらない。
教育を市場の言葉で語ることが虚しいのは、凡庸なビジネスマンたちはまず「ニーズ」が存在し、それに対して「サプライ」があるという継時的なかたちでしか需給関係を構想できないからである。
真に優れたビジネスマンは、経済活動においてさえ、その本質は「贈与」にあることを知っている。
「最初の一撃」はつねに「なんだかよくわからないものの贈与」としてしか始まらない。
あるいは、「なんだかよくわからないものを贈与された」という自覚(または勘違い)からしか始まらない。
そこから交換が始まる。
反対給付を動機づけるのは、「贈与された」という事実ではない。「なんだかわからないものを贈与された」という事実なのである。


当ブログのいつも主張の繰り返しなのだが、この宇宙に存在する限りトレードオフから逃れることはできない
当然、教育にもコストがかかる。
そのコストを誰かが負担しなければならない。
政治家を育てるコストは、政治家が社会的存在であるという性質上、社会的な存在として位置づけられた国民が負担すべきものだと私は考える
(本来的な意味で政治家が必要か?みたいな話までいけばまた異なる意見にはなるが)

隣の小泉進次郎(山本一太)
http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2009-10-27-1


隣の席には小泉進次郎衆院議員。 少し会話を交わしただけで、スグに分かる。 この若手政治家はただものではない、と! ブランドも、能力(中身)も、容姿も、若さも、オーラも持っている。 14年間も政治家をやっているが、ちょっと見たことない、な。 こんな20代の政治家!!(ワクワク)


小泉純一郎氏を嫌いな人たちは進次郎氏のことをよく見ていないだろうが、山本一太氏の表現は彼について誰もが思う率直な意見だと思う。
(山本一太氏の表現はいつも大げさだけど)
確かに今は物足りないかもしれないが、可能性を感じるのだ。

亀井入閣サプライズと郵政人事を結ぶ点と線

2009-10-27 04:51:54 | 政治
本エントリはSF(スコシ・フシギ)な物語である。

日本郵政の社長人事が暗示する財政の「Xデー」(池田信夫, Newsweek)
http://newsweekjapan.jp/column/ikeda/2009/10/post-73.php

元大蔵事務次官斎藤次郎・日本郵政社長(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/10/post-eb12.html

これらのエントリに触発されてなんらかの意見を述べたくなりました。

郵政の社長に元大蔵次官が天下ったということで大騒ぎが起こっている。
理由は大きく2つ。
一つは民主党が掲げた「脱官僚」「天下り・渡りの完全撤廃」に明らかに反すること。
もう一つは民主党が大増発するであろう国債の引き受けてとして郵貯を復活(財投復活)する懸念があること。
ここに少し補足すると、今回の人事に小沢一郎氏の関与が疑われること。
であるが、私は今回の人事についての騒ぎ方を間違っているように思う。

なぜか?

「人事」と言うのは世間が騒いでいるほど簡単なものではない
「人事」は組織の内部統制だけでなく組織の外部への意見表明としても大きな意味を持つため、簡単に決めれるほど単純なものではなく、特に大組織の社長人事のようなものは幾重にも要因が絡んで決定される。
「今回の人事は○○によって決めました。」というような一つの軸を期待して質問するのはナンセンスだ。
なぜなら回答は人によって異なることが想定されるからだ。
(取締役会の指名委員会がみな同じ考えであると想定すること自体がナンセンス)
思惑まで含めて全会一致で決まる人事なんていう事例がどれだけあるか知らないが、郵政のようにステークホルダーが多種多様な場合、まず無理だろう。
誰かは妥協し、誰かは意のままのつもりで、誰かは爆弾を仕込み、誰かは裏の人事を操るものだ
完全な解が欲しいならステークホルダー全員分のことを考えなければならない。

亀井氏的に今回の人事を見れば「(民間に)他になり手がいなかったから」だ。
財投うんぬんは副次的要因であって主要因ではない。
だが、他のステークホルダーにも理由がないわけではない。

-<>-<>-<>-<>-<>-

どのような組織においても(立場の違いが権限の違いである組織において)、「人事」というのは内部統制上最大の影響力を持つ武器である。
どのように経営システムを構築しようとも、経営の内部的表現は「人事」において示される。
どれだけ立派なスローガンだけ掲げても、人事を変えないで組織を変えようというのは無駄である。
なぜなら、組織は「人」によって構築されるものであり、「人」なくして成り立たないものだからである。
「バーチャル組織」「メタ組織」なるものが存在するとしても、構成員なくして存在せぬのである。
人が変わらねば組織は変われぬのである。
しかし、人を変えるために必要なものは、人に対する役割(枠組み)を変えることである。
わかりやすくいえば「あなたの仕事はこういう役割ですよ」と与える必要がある。
人に与える役割を変えずして、行う仕事を変えるのは無理である。
(日本では役割変えずに仕事を変えるよう求めることを「精神論」という。)
人は自由だというのは自由だが、その一方で人は与えられた枠組みの中で振舞おうとする習性がある。
(ここの説明は大変なのでかなり簡略するが)
役割が与えられなければ人は何者にもなれず、役割が与えられて人は初めて何者かになれる。
(結婚せねば夫になれないし、付き合わねば恋人にもなれない。学校に通わねば生徒にもなれない。etc...)
そして人は何者かになることで、何者かであることから学ぶ。
(G.H.ミードの社会的自我とユングのペルソナとをミラー・ニューロンで結びつけるのだ)
つまり、リーダーによって組織が変わるのは、与える役割の定義が上手/下手があるからだ。
もちろん、リーダーを変えずしてリーダーの役割を変えることも可能だろう。
しかし、その場合、長期的に維持されてきた長期的関係の破棄が同じ構成員で行えるのかという問題がある。
裏切り的要素のある行為を同じ構成員で正当化できる局面もあるだろうが、多くの場合かなり難しい。

-<>-<>-<>-<>-<>-

年功序列組織において次の課長を決めるのは簡単だが、そうでない組織において社長人事のような重大な人事を決めるのは容易ではない。
通常、一つの項目だけで社長を決定するようなことはせず、多くの項目において評価されて総合的に一人が選ばれる
(例えば、実績あるか、将来性あるか、専門性が生かせるか、部下との信頼関係築けるか、その他リスク、etc...)

日銀総裁人事の時の民主党のあり方をみれば、退官後何年経とうとも元官僚による天下りが許容できぬことぐらい誰でもわかる。
「財源」項目に最高点がついても、「民主党に対する信頼」項目に最低点がつくのである。
そのことが頭にあれば、民主党が立てた「脱官僚」の旗印を無視して「財投復活」的な選択をするのはリスクが高すぎて容易ではないことがすぐわかるはずだ。
そんなことをしてしまったら内閣が倒れてしまう可能性すらある。
相当頭がいかれていない限り、"民主党"にそんなリスクをとることはできない。
(世間は民主党の頭がおかしいと思っているようだが、そんな単純な話ではない。)
いや、正確にいえば"民主党"には無理だ.(ここ強調)

なぜか(トンデモと取られるのを恐れてか)誰も言わないが、亀井静香氏が重宝されている理由は実は簡単だ。
連立に対する世間の批判がわかっていながら亀井氏を重宝し続ける理由だが、「参院の議席が足りないから」だけではない。(理由は幾重にも絡んでいる)
汚い仕事は亀井の頑固じいちゃんにやってもらいたいからだ。
亀井氏が社会主義者であろうと革命家であろうとどうでもいいのだ
(これはむしろなめているのではなく、かっているのである)
いや、むしろその方がよいのである。
民主党にできないことを国民新党の亀井さんにやってもらって、次の参院選で責任をとらせておさらばするだけだ。
つまり、亀井氏が内閣の統制から逸脱しているように見えるのも、見せているだけである。
民主党の枠内で仕事してもらったら民主党の責任が追求されてしまうから、国民新党の唯我独尊で仕事してもらう必要があるのである。

だから民主とにしてみれば、今回の人事も鳩山首相や平野官房長官、原口総務相が直前まで知らず、亀井氏が独断先行で決めたところが重要なのである。
事前に民主党としての協議があって決められた人事では困るのだ。
(気づかないところでお膳立てがなされているはずだ。)
これは「公約破り」を民主党の「内部統制(ガバナンス)の問題」に振り向けるためには重要なシナリオなのである。
正直にいって一般的な日本人は内部統制の問題には疎いから、何が本質的な問題かを理解できないまま問題を理解してしまう。
(構造的な問題よりも表面的な事象に目がいってしまう。)

このシナリオの出来のよいところは、それだけではない。
何か問題があれば亀井氏を切ればいいだけの話である。
任命責任は問われるが、「連立のため仕方がなかった」という言い訳があるので痛みはやわらげられる。
少なくても自民党の低迷が続いているので、民主党にとって壊滅的な一撃になる可能性は低い。
民主党の「代わり」がいないから、国民は仕方なしに民主党を許容せざるを得ないだろう。
どちらに転んでも民主党のプラスになる可能性が高い。

現に経営者側に立たない労働者の味方であるマスコミは人事問題の表層をなでるだけで、本質を掴もうとしてない。
シナリオの物証はないから証明のしようもないから、トンデモ報道はできない。
実によく考えられているが、最も重要な最後のワンピースまでシナリオができているのか、私の興味はそこだ。
このシナリオが傑作か凡作かは、その時に評価されるであろう。

さて、話を最初に戻そう。
今回の郵政人事の理由。
それは、亀井氏と首相、民主党では違うのだ
単一の理由を求めても本質的なところには辿り着けない。
どれもが間違いであり、どれもが正しいのである。
こういうのをわかりきった上で企画する優れ者がいるのであるから、油断ならない。

彼らとて私利私欲のために動いているのではないだろうが。
いつの時代も「正義」と「正義」の戦いが一方を「正義」にし一方を「悪」にするのだ。
そのどちらも正しく、そのどちらも正しくないのだから。

直接民主制について

2009-10-25 00:10:51 | 政治
久しぶりに大作を作成中だったのですが、途中手違いで内容を消してしまいました。
非常にショックでエントリするのをやめようと思ったのですが、かけた時間(サンクコスト)を諦められず、中途半端な内容ではありますがエントリすることにしました。
文章を校正する気力もないので読みにくいと思いますがお許しください。

「ネットがあれば政治家いらない」東浩紀「SNS直接民主制」提案(J-CAST)
http://www.j-cast.com/2009/10/24052476.html

朝まで生テレビでの東氏の発言が面白いというので取り上げられている。
私なんかは以前から(といっても世間一般に発表しているわけではないが・・)ITを利用して「全法案国民投票制度」の創設を訴えっている人間なので特に新しい提案には思えないが、こういう意見が世間一般に認知されることはいいことだと思う。

ただ私は「「政治家なんていらない」とは思わない
というのも政治家の役割は「意見代行」と「意見委任」だと考えるからだ。

政治家が存在するのは、有権者全員の意見を集約する管理コストが高すぎるためだから、IT技術が進歩すればこの管理コストが低下して国民投票が簡単になるというのは理屈的にわかりやすい。
また立法能力についても、コミュニティ内に自然発生的に出てくるアイディアを基にコーディングすればよいというのもまぁまぁ納得できる。(もともと議員立法って少ないしね)

だが、しかし、有権者は天才でもなければ暇でもないという最大の障壁が存在する。
専門的な法案を理解できるかどうかという問題もあれば、全ての法案の詳細に目を通すことも現実的ではない。

わからない問題について、我々は一票をどのように行使すべきなのだろうか。
自分にも適用される可能性のある法案だとすれば簡単に放棄する選択はできないだろう。
裁判員制度のように、一部の法案についてのみ国民投票にするというのも一つの手だが、国民投票にするしないの判断をどうやて民主的に行うのかという問題もある。

おそらく、問題をよく理解する人に委任することになるのではないだろうか。
この問題はあの人、あの問題はこの人、この問題については自分で、といった具合に選択肢がある方がよい。
さらにいえば、選挙区ではなく他の基準で選ぶでもよい。
披選択者を政治家と呼ぶのかどうかという問題もあるが、要はエージェントである。
有権者は問題に応じてエージェントを選ぶ。(自分でも可)
だからより信任を集めるエージェントは優れた政治家として認知される。
政治家の特徴も出てくるだろう。
(タレント・エージェントなんかは民度の成熟度に応じて信任を集めるかもだが)
派閥とか党なんかのしがらみのない形で政治家が出世できるのだから、本当に有用な政治家が育まれてよいだろう。
4年とか6年とかでなくて、毎回の投票毎に委任するエージェントを選べるとなると、政治にダイナミクスが出てくるはずだ。

でもエージェント・プリンシパル問題は委任する以上残るのだけれども。
ダイナミクスがこの問題を補えるかどうかなのだが・・

民主党は「事業仕分け」ではなく「構造改革」を断行すべきだ

2009-10-20 22:38:39 | 政治
昨日のエントリ(ソニーは普通の会社になったのか ~前編~)に大変な反響を頂いたので、続編を書かねばならないと思ってはいるのだが、その前に自らのエントリ(試される国家戦略局 ~がんばれ菅直人~)について補足が必要になったのでそちらを先にUpする。

当Blogでも述べた内容について元主計官で前衆議院議員の片山さつき氏がブログで述べている。
(かなりのアクセスを集めたらしい。知名度の差というのも激しいな)

無駄を削ることと、その政策や事業自体を止めることの差(片山さつき)
http://skatayama.hamazo.tv/e2061155.html

当Blogのエントリを書いた後に気づいたのだが、どうも民主党は概算要求の精査を菅直人担当相の国家戦略局を中心として進めるのではなく、仙石由人担当相の行政刷新会議を中心に「事業仕分け」として行うようだ。
(先週のサンプロが仙石氏に密着してその件について報道していたのを見て気づいた・・。)

私は目の前で報道されている事実をなかなか解釈できずにいた。
ここでいう「事業仕分け」というのは、あくまでも予算の枠組み変更の中で行うプロセスに過ぎない(つまり予算枠組み変更の政治判断を行うための事業仕分け)と考えていたので、「事業仕分け=歳出削減」のように胡散臭い情報を垂れ流す報道に不快感を持っていた。
みな民主党のこと馬鹿にしすぎだろうと思っていた。
しかし、その後の閣僚の言葉を聞いていると、事業仕分けで歳出を92兆円に押さえ込むあれこれという話らしいことに気づく。

民主党の予算に関する認識というのは国の形を変えるというレベルのものではなく、「事業仕分け」程度のことでしかなかったのか
「事業仕分け」というのは世に言う「リストラ」のことだが、どうリストラするかがなかったら、それは単なる「無駄削減」にしかならない
だが、当Blogのエントリでも述べたように予算に名目としての無駄は存在し得ない。
無駄削減で削減できる量は各名目に余分についている些細なもので、民主党が考えているような数値にはなりようがない
(もちろんやらないよりはやった方がよいが)
民主党に求められているのは予算の枠組みを変える「構造改革」なのであって、Re-Structureである。
それが既得権益にまみれる自民党にはできないので政権交代が必要と訴えていたのだろう
前原国交相よろしく思い切った方針転換をするのではなかったのか。
どこで狂ったのか。

民主党は一度初心に立ち返って再考すべきだ。
少なくても行政刷新会議ではなく、国家戦略局を中心に予算の枠組みを決め直すべきだ。

国に限らず企業でも家計でも同じなのだが、削減というのは容易ならざることなのだ。

歳出を92兆円まで削ることは可能か(岩本康志)
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/31015484.html