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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[妄想シリーズ] 群雄割拠の時代

2010-01-07 10:16:11 | 政治
本エントリは全く本質的ではない無内容なものです。
単なる妄想です。

鳩山首相が民主党による政権交代を「無血の維新」に例えたことで、現状を幕末に例える論者が多いように思います。
今はまだ公武合体の段階だとか、維新前夜だとか。

しかし、私が思うに、現状に近いのは室町幕府が力を失って下克上が置き始める戦国時代前夜であると思います。


多分似たようなことを感じて似たような記事とか書いてる人がいるような気がします。
いたら教えてください。
ググってないですが、予想すると室町幕府の崩壊過程になぞらえている人がいるはずです。

歴史を紐解くと、日本全国規模で中央集権国家が生まれたのは明治政府が確立された時でした。
平安時代以前は中国に似せて作られた貴族による擬似中央集権国家といえるのかもしれませんが、それ以降は幕府を中心とする緩い連合国でありました。
(そもそも大和朝廷の成り立ちからして天皇を中心とした連合国家であります。)
日本において強い中央集権国家が生まれなかったのは、日本が島国かつアジアの端にある小国で外敵の侵略を強く意識する必要がなかったからです。
人間は強い敵に立ち向かうために、強い力を持とうとし結束するのです。
しかし、時代も江戸時代末期くらいになると、世界は帝国主義の時代です。
西欧諸国列強がアジアに植民地化の手をのばしてきました。
例えば、日本にとっては長年強大な国家であったお隣の中国がイギリスなどに簡単に負けてしまったのです。
(これは中国が内政的な問題で実力出し切れずに弱かったという説が有力です。)

こうなると、日本は自分がいつやられるか心配する必要があります。
このような問題意識が維新志士を突き動かし、紆余曲折しながら日本には革命が起き、中央集権国家への道を直走るのでした。
(初めからそんな大そうな問題意識を持っていたわけではないが)


昔大和朝廷は緩やかな連合体であったようですが、朝鮮半島で起きた戦争に加担して負けたことがキッカケでより中央集権的国家になったそうです。防人なんかは学校で習ったのではないでしょうか。

少し簡単に歴史の話をしてしまいましたが、次になぜ私が戦国時代前夜だと考えるか説明します。

日本は明治政府確立後から太平洋戦争に敗北するまで、貴族的な緩い中央集権的国家であったと思います。
しかし、戦後、政治は徐々に武士(政治家)によるものに変わっていきました。
貴族社会が終わって幕藩体制(幕藩というか幕府による政治)に変わったのです。
実際、自民党という幕府は様々な派閥による連合体でした。
(見かけ上野党として戦っていた社会党も派閥の一つみたいなものです。)

時代が流れ自民党幕府の力は弱まりました。
社会秩序は乱れ、社会不安が広まり、世には不平不満が溢れていました。
誰もが新しい秩序を求めていたのです。
そこに生活者という御旗を掲げる反体制勢力が現れました。
その勢力はこれまで何度か立ち上がりましたが、その度に自民党幕府に潰されてきました。
しかし、もはや自民党幕府に対抗するだけの力は残されておりませんでした。
人々は自民党幕府に嫌気がさしていたので、新しい勢力に希望を託しました。
そして民主党幕府ができたのです。


面白い調査研究がある。
人々は「革命」という言葉を好むが、歴史上に「革命」と呼ばれる出来事は思ったよりも少ない。
なぜなら、反体制的活動は、そのほとんどが潰されて「変」や「乱」、「蜂起」といった形になるからだ。
とある著名歴史学者は、反体制活動が「革命」に至る場合とそうでない場合を分ける条件について考えた。
そしてある結論に至った。
反体制活動が成功するかどうかは、反体制側の属性にはほとんど依存せず、体制側の状態に依存する。
反体制側に倒される体制とは、そのまま放って置いてもいつかは滅ぶ体制なのだという。
つまり、「革命」が起きるかどうかの分岐点は反体制側がいかに素晴らしいかではなく、体制側がいかに自滅するかにかかっている。

しかし、民主党幕府は旧幕府が没落することによってできた体制であり、全国をまとめる能力が低かったのです。
思うように人心を掌握することができずに焦っていました。
この状況を利用して旧幕府側の残党が息を吹き返す前に、民主党幕府は徹底的に残存勢力を殲滅する必要がありますが、残存勢力によるレジスタンス活動が活発で抑えることができません。
急ごしらえの民主党幕府は危機的状況にあります。

ただ、民主党幕府によって唯一の救いは、旧幕府の残存勢力は一枚岩にはなれず力が分散してしまっていることです。
残存勢力側は衰退の道にあります。
そのため、中には新しい勢力として独立する動きも出てきています。
民主党幕府の基盤が磐石にならない今、あらゆる勢力にチャンスが回ってくる可能性があるのです。
混沌とした情勢の中、先に民意と言う御旗を手にした勢力が実権を握るチャンスがあるのです。
時代は今、群雄割拠の時代へと突入しようとしているのでした。

歴史をなぞっても無意味ですが、戦国時代に模すると、この群雄割拠の時代を制するのは織田信長的強権者ではないかと愚考します。
意見集約型の政治姿勢では、混沌とした情勢を乗り切ることは難しいからです。
人々は答えを求めているのです。
「この無意味な政治の混迷を終わらせる」と主張する誰かです。
既得権益をバッサバッサと切り崩し、日本の未来のために非情で冷酷な哲学で温かさを主張する人です。
その人は「物語」を多用してマイノリティを集団に組込むでしょう。
人々は坂本竜馬的な人を求めますが、実際には織田信長的な人が時代を制するでしょう。
ゆえに、独裁が生まれる可能性に注意する必要があります。
(既得権を切るためには、誰かに損失を与えることに他ならず、これを実行するためには2つ方法がある。一つは全体最適観点で理解を得ること。もう一つは強権を発動すること。)
聞こえのいい言葉だけに耳をかしてはいけません。

妄想です。

「認識に格差」ではなく「認識に偏り」が正しい表現

2010-01-05 19:09:59 | 政治
1票の格差認識も地域格差(山内康一)
http://yamauchi-koichi.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-b05f.html

太字の部分に注目。
この手の話は地方に行けばいくらでも聞けると思う。
気持ちはわかるが、誰か論理的に説明して欲しい。


年末に「1票の格差が最大2.3倍だったのは憲法違反」
とする判決を大阪高裁が出しました。
私もまったくその通りだと思います。

同じ日本国民なのにたまたま住んでいる地域が異なるだけで
1票の重みがちがうのは理不尽だと思っていました。
ふつうに考えればそうだろうと確信していました。

男と女で1票の重みがちがうのは、今の時代では理不尽です。
(むかしは女性には選挙権がありませんでした。)

納税額で1票の重みがちがうのも、今の時代では理不尽です。
(むかしは納税額で選挙権の制限がありました。)

居住地で1票の重みがちがうのも、これからは理不尽だ、
という時代にしなくてはいけないと思っています。
(今のところ1票の格差是正に本気で取り組む議員は少ないです。)

ところが年末年始に実家の福岡に帰省して驚きました。
実家で購読している西日本新聞社説に次のような記述がありました。


---------------------------------------------------------------
人口が減り続ける地方にとっては「平等の原則」を厳格に追求すれば、
地方選出の国会議員が減っていくことになる。
政治の地域間格差がさらに広がるのではないか。
そんな不安を抱かせる判決でもある。
-------------------(中略)------------------------------------
「投票価値の平等」を追求するだけでは、地方に不平等感が広がる。
---------------------------------------------------------------



私は地方紙がこの手の論説を書くのは反対ではない。
地方の人間が地方の利権を主張するのは当たり前だからだ。
(ちなみに私は都市部に住んでいる)

しかし、次の一文についてはもう少し論理的に考えてもらいたい。


「投票価値の平等」を追求するだけでは、地方に不平等感が広がる。


利権を主張するのは問題ないが、問題の本質を見極めないと自分で自分の首を絞めることになりかねないからである。

「地方における平等」とは何か。
この点についてもう少し地方の方々は考えられた方がよいように思う。
不適切な平等を求めた結果、不平等を手にすることもあるかもしれないからだ。

下記のエントリは参考になりそうだ。

沖縄行政改革(樋口耕太郎)
http://agora-web.jp/archives/865425.html

ちなみに


衆議院選挙は、明らかに「国民の代表」を選ぶ選挙です。
したがって、1票の格差は小さければ小さいほど望ましいと思います。


衆議院選挙がどうして"明らかに「国民の代表」を選ぶ選挙です。"なのか。
みんなの党は応援したいが、国会議員としてその認識はおかしいのではないか。
一票の格差の有無に関わらず小選挙区で選ばれる以上、どう考えても地域選出の議員だろう。
「地域選出の議員」を「国民の代表」と置き換えるロジックは如何なものかと思う。
(「国民に選ばれているから国民の代表」ってそういうロジック?)
(つまり「地域の国民に選ばれた地域別の国民の代表」ってことね)
日本政治の欠陥は「国民の代表」が不在のため、国家戦略に対する責任の所在が不明確なことだ。
現状の議院内閣制では国民は政府の長たる国民の代表を選べない。
衆議院選挙という狭い選択肢の中で間接的に選んでいるに過ぎない。

既成の政治システムにのっかるだけの最近の政治家はシステムそのものへの認識が足りないように思う。
それゆえ民主主義や資本主義についての議論というものが全く聞こえてこない。
その点について唯一プレゼンスを発揮しているのは小沢一郎くらいだ。
もう少ししっかりして欲しい。

「無知」と「狡賢さ」 = 「違法」と「合法」

2009-12-28 10:05:39 | 政治
無税での財産継承法(ある女子大教授のつぶやき)
http://iiaoki.jugem.jp/?eid=3363


自民党の議員の3分の1は世襲議員である。彼等は議席だけを引き継いだわけではなく、当然に何がしかの財産や資産も手にしているはずだ。普通なら、贈与税や相続税の対象となると思うが、実際にはアベ氏やコイズミ氏が、そのような手続きをしたという話を聞かない。何か税金逃れのうまい仕組みがあるみたいだ。

[中略]

いま追求されるべきは、合法的かもしれないが、あざとい方法で財産を承継した世襲議員たちの政治家としての倫理であろう


あぁ・・全くその通りでございます。

(脱税といって断定的に語ると怒られるかもしれませんが)
今回の鳩山首相の贈与税の脱税問題ですが、この問題について自民党は強く突っ込むと自爆する可能性があるので慎重にならざるを得ない。
今回、マスコミや一部識者の間で問題となっているのは「合法かどうか」であるが、このこと自体「公平性の確立」のためには追求されなければならない。
法治国家で違法なことしていいよと暗黙的にも認めてしまえば、これは社会の安定に重大な影響が出てしまう。
(社会における必要悪とは何か)

しかし、一方で「合法なら何やってもいい」という話も通らないと思われる。
なぜなら法律で定義できる公平性には限界があり、「合法=公平」にはならないからだ。
「合法なら脱税テクニック駆使してもいいよ」と世論形成するのは無理だろう。
そういう「狡賢さ」とか「強欲」とかいうワードを人々が非常に嫌うということを、我々は昨今の金融危機で身に染みるほど知った。

無知ゆえに贈与税の支払いを怠った鳩山首相と、狡賢さゆえに政治団体を世襲する自民党政治家、どちらが悪かな。
しかし、公平性を保たんがために稀代の政治家を失うのもまた悪なのかもしれない。
まぁ正義や悪なんて相対的なものに振り回されるシステムが民主主義というものです。
もし「進化」という仕組みがこの宇宙になければ、我々はその相対性に絶望せざるを得ないところであったが、幸いなことに現実はそうでない。
これこそが生命の奇蹟。

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 再々補足

2009-12-24 10:55:30 | 政治
「子ども手当て“所得制限なし”は愚の骨頂。日本の借金は1000兆円を超える!」
~予算編成の迷走を井堀利宏・東大教授に聞く
(ダイヤモンド・オンライン)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10092/


昨年の衆院選は民主党にとって、政権を取るための選挙だった。500万円以下の低所得者層や子どもが2人以上いる家庭の票だけを獲得できるような政策を打ち出すわけにはいかなかった。なるべく多くの人々に支持される公約が必要だった。だから、子ども手当てに上乗せするように、「高校無償化」も打ち出したのだ。

 同時に、財政状況の厳しさへの認識が甘かった。1人2万6000円の子ども手当て支給(現在検討されている制度では、1年目は1人1万3000円、2年目からは2万6000円)には年間約5兆円の財源が必要だが、民主党は選挙で、無駄な予算を削減すれば10兆円くらい捻出できると明言していた。本気でそう信じていたのだろう。だが、「事業仕分け」で浮いた予算は6800億円程度で、それすらも反発されている。現実を知った今、方向を転換すべきだ。

―「無駄削減による10兆円捻出シナリオ」は、なぜ崩れたのか。

 国民の誰にとっても無駄、明らかに必要ないという予算は、非常に少ない。高級官僚が天下った先で、社会的に意味のない仕事を行っているケースがその典型だろうが、そうした過剰な人件費・福利厚生費を全部削っても数千億円程度にしかならない。だから、“無駄を削る”という言い方では大胆な予算の再構築はできない。

 “無駄削減幻想”に囚われていたのは、国民も同じだ。自民党は民主党を批判して、予算の無駄を削ってもまとまった財源など捻出できないと真っ当なことを言っていたのだが、国民は信用しなかった。無駄を削りたくない自民党の自己弁護にしか受け取らなかった。だが、もうわかっただろう。 

 10兆円規模で予算を新たに捻出するには、政策に重要度の優先順位を付け、下から切るしかない。優先順位は相対的比較だから、順位が低くても必要だと欲している人がいないわけではない。だが、痛みを我慢してもらうのだ。


井堀氏は「子供手当て」自体を否定しているのではなく、民主党の財務状況に関する認識を危惧しているのであるから、この題名は編集者による意図的な誇張であり、いささか頂けない。
井堀氏の主張は、厳しい財政状況を踏まえた上で政策はパッケージとして提示されなければならないというもの。
彼は財政状況が厳しくなかったら子供手当てに反対しないだろう
政策の実現にはトレードオフがあるということを財政の観点から述べているのである。
これは当Blogの主張と全く同じである。

たぶん、一般の方は「子供手当て」を勘違いしたままだ。
繰返しになるがまた述べよう。
所得制限を設けるなら"今の"子供手当てはやめて、"新しい"子供手当てを創設したらいい。
途中で政策目的を変えるのは絶対にやってはいけない。
手戻りで遅れが生じるが、原点に戻って政策目的の策定からやり直す。
これがどの分野でも重要。
民主党はこのプロセスを踏み外してはいけない。
いつも政策目的を後付けにし、また無視して自滅した政権を見てきたのなら、多少面倒であっても、原理原則に忠実にあるべし。

「指導力」は「リスク」と同意

2009-12-21 19:48:07 | 政治
各社世論調査の結果によると、民主党の支持率が落ちている。
主な原因は「指導力不足(リーダーシップ不在)」だそうだ。

なるほど。
いつの時代も人はリーダーを求める。
そして日本人が求めるリーダー像というのは、公平で、みなの模範となり、未来を見通すビジョンを持ち、信念を貫き、己の危険をかえりみず決断をする全人格的な人物だ。
そして、皆さんの目には「鳩山首相は決断力がない。」と映っているようだ。
実際、私も鳩山首相には戦略の無さを感じている。

しかし、あえて、ここで皆さんに注意を申し上げる。
私には「決断力がある」という言葉の定義を、皆さんは狭く捉えているように感じる。
これはとても危険なことである。
というのは、「決断」という行為は「可能性を限定する」という意味だからである。
そのことを理解した上で誰かに「決断」を迫るのはいいが、「可能性を限定する」リスクを踏まえずに誰かに「決断」を迫っているとすれば、それは危険な猛獣「リスクの尾」を踏む行為に等しい
その点に注意しなければ「そんなつもりはなかった」などという言い訳を後で聞くことになる。


-<>-<>-<>-<>-<>-
何かを「決める」という行為は何かを「諦める」ということと同義語である。
なぜなら、諦める必要がなければ、決める必要がない。
AとBのどちらも選べる状況で、Aを選ぶということは、Bを捨てるということだ。
例えば、「この景色は綺麗だね」というのと「こんな真っ赤に染まった紅葉ははじめて見た」というのでは意味が違う。
前者は色や形について言及していないのに対して、後者は色や対象をより具体的に限定している。
前者の方が相手側に様々な想像を可能とするが、漠然としていて相手に意図を伝えられない可能性がある。
一方、後者は何がどう綺麗なのかを特定しているため相手の想像を引き立てる効果は低いが、相手とより強い共感を共有できる可能性が高い。
前者ではなく後者を選ぶとすれば、それは意図的に可能性を特定して(つまり他の可能性を捨てて)自分の意志をより具体的に相手に伝えることを選んだということだ。
普段我々は、どこまで決めて、どこまで決めないか、というバランスを意識的にも無意識的にも選択している。
その時々で使い分けているのだ。

これはいつも言うように、この宇宙において相対性から逃れることができないということと同意である。
全ての価値判断が相対的だからである。
相対的ということは、一方の可能性を肯定するために、一方の可能性を否定するということに他ならない。
この相対性がなければ我々は価値判断ができない。
-<>-<>-<>-<>-<>-


この辺りを内田樹が説明してくれている。

及び腰ストラテジー(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2009/12/19_1142.php


普天間基地の移転問題がなかなか解決しない。
問題がなかなか解決しないのは、誰もが満足できるソリューションが存在しないからである。
当たり前のことを言うな、と言われそうだが、「誰もが満足できるソリューションが存在しないとき」に「早く、誰からも文句のでない決定を下せ」と言い立てるのはあまり賢いふるまいとは思えない。
「できるなら、しているよ」
ということである。
「先送り」というのはひとつのアイディアである。

[中略]

国際関係は複雑な要素の絡み合いであり、どのような外交的難問にも「一般解」というものは存在しない。
そのときは罵倒されたが、後から考えたら「すばらしい決断」だったと言われることもあるし、そのときは絶賛されたが、後から見たら「希代の愚行」だと評価されることもある。
アメリカは飛び地のアラスカ州を1867年にロシアから720万ドル(1平方キロあたり5ドル)で購入した。
当時、交渉に当たった国務長官スワードは「巨大な冷蔵庫を買った男」と国民的非難を浴びた。
その後金鉱が見つかったら、たちまち非難の声は止み、さらにその後東西冷戦時代にはいるとアラスカが国防上の要害となった。
いま「アラスカ抜きのアメリカ」を想像できるアメリカ人はいない。
禁酒法は1919年に国民的な支持を得て成立したが、たちまち密造酒がギャングの収入源となり、警官、司法官の汚職がはびこり、1933年に廃止された。
外交的決断もそれと同じである。
リアルタイムの世論の賛否と、ソリューションの決定の適否のあいだにはあまり(というかほとんど)関係がない。


次がこの主張の本質であろう。


それは世論の形成者(ジャーナリストとメディア知識人)が「未来の未知性」を軽んじる傾向にあるからである。
未来はどうなるかわからない。
だから、とりあえず「まあ、このへんで・・・」というように政策選択においては「及び腰」になるのが正しいのである。
だって、未来にどのような意外なファクターが到来するかわからないからである。
外宇宙から致死的なヴィールスが隕石に乗って地上に墜落したが、地球が温暖化していたせいで棲息の温度条件が合わず、繁殖できずに死に絶え、おかげで人類は生き延びた・・・というようなことだってあるかもしれない。
いや、ほんとに。
「人生万事塞翁が馬」である。

[中略]

だから、「これが最適解です」と胸を張って政策を提言するのは止めた方がいい、と申し上げているのである。
それはその政策が間違っているからではなく、「そこそこまとも」な解であったかどうかは「蓋を開けてみないとわからない」からである。
だから、「なるべく蓋を開けるのを遅らせる」というのは、とりあえず政策決定に際しては、「しばしばそれによってこうむる損失の方より、それによって得る利得の方が大きい」ソリューションなのである。
だから、鳩山首相も「のちほど最適の政策を提出します」など未練がましいことを言わず、「何が最適解だかぜんぜんわからないので、とりあえず先送りして、もうちょっと様子を見ることにしました」ときっぱりとした「及び腰」を示せばよろしいかと思う。


我々はいつも強いリーダーを求めるから「決断できない宰相」を嫌う傾向がある。
しかし、我々はいつも自分が求める決断に責任を持とうとはしない。
あくまでも決断するのは相手であり、自分ではないからだ。
クイズ番組を視聴者の立場で見ているときは正解率が高いのに、いざ自分が回答者の立場に立つと何も出てこなくなるのと同じだ。
それは問題を自分の問題として認識したとき、はじめて可能性の取捨選択のプレッシャーを認識し、決断について慎重になるからだ。
相手に指導力を求める前に、我々は指導者に何を求めているのであろうか。

天才か、蛮勇か。

過去に強力な指導力を発揮した有名人にはヒトラーやスターリン、ブッシュなどがいるのではなかろうか。

ちなみに、これは鳩山首相を擁護するエントリではありません。
いちいち世論調査で指導力不足とか期待通りの結論出して世論形成したがるマスコミのみなさんに対抗する術を国民はもたないといかんですよ。
といいたいだけです。


マスコミのモチベーションのほとんどは世論形成だろうから、別にそれが悪いというつもりはない。
マスコミは一つの権力だから、それを抑制する力が必要です。
今のところネットメディアかな。
究極的には国民一人ひとりなんだけれども。

小沢の戦略目的は自民党の兵站破壊

2009-12-21 13:04:04 | 政治

いい加減な内容ですが・・


政策の内閣一元化はどこへ?・・・このままでは政権破たん(江田けんじ)
http://www.eda-k.net/column/week/2009/12/20091221.html

江田憲司は好きな政治家の1人だ。
みんなの党には大きな期待をしている。
しかし、もう少し戦略的な政党になって欲しい。


例えば、戦争において相手の「戦略目的」を読み間違えることは、大損害、最悪は敗北に直結する可能性が高い。(運よく予期せぬ戦果を上げれることもないわけではないが)

非常に単純な例だが考えてみる。
相手がこちらの補給線を機能不全に陥れようと軍事活動を展開している時に、それを単純な戦闘行動と誤解して、相手の裏をかこうと奇襲作戦に出たとする。
奇襲作戦が成功し、相手の前線を破砕したとしよう。
その勢いに乗じて相手の本体を突き、今にも陥落かという時になって、後方で補給基地等がやられたことに気づいても時既に遅しだ。
たいていの場合、苦肉の策としてそのまま相手陣地を落として兵站を現地調達しようなどと考えるに違いないが、相手は補給機能不全を戦略目的として展開しているのだから、現地調達ができないように準備を進めているはずなのである。
かくして、戦闘勝利から一点、この部隊は窮地に陥れられる。

説明不足の上、単純化し過ぎの面もあるが、この戦闘の要点を解析しよう。
(これはあくまでも例えば話だ)

相手の戦略目的はこちらの「補給機能の不全化」であったが、こちらの戦略目的は「相手戦力の破砕もしくは相手陣地の攻略」であった。
もう少しわかりやすく言うと、相手の狙いは「兵站」という軍事作戦を継続するための条件の破壊であったのに対して、こちらは「勝つ」ことに固執したのである。
「(戦闘に)勝つ」ということが至上命題になってよいのは、「勝つ」ということが戦闘終結条件(軍事作戦を継続不可能にするための条件)になり得る、もしくはそれに繋がる時(もう一つ上の戦略遂行上有意であるある時)のみだ

この戦闘の失敗は、こちらの「勝つ」という意味の定義が狭かった(もっと広い視野で勝つということを定義できなかった)からだ。
これが結局、相手の戦略目的を読み間違えることと繋がる。
こちらが相手の戦略目的を読み間違えたのは、「勝つ」ということについて偏見を持っていたからだ。
こちらは、相手は「勝つ」ために軍事作戦を展開しているはずだと考えるが、この「勝つ」という定義が相手とこちらで異なれば、相手の戦略意図を読み間違えるのは必定だ。


さて、なんともつまらぬたとえ話をしてしまったが、なぜこんな話をしたかというと、今話題の小沢一郎を巡る一連の論評が、このような戦略目的を読み間違えていると感じているからだ。
(そもそも彼が権力だけに固執している人間なら自民党を離党する必要がなかった)

小沢が「選挙最優先」で動いているというのは正しい認識だと思うが、ではなぜ「選挙最優先」で動いているのか、という「戦略目的」まで読み切れていないのではないか。
「参議院における民主党の単独過半数」は政権与党として最低限の目標であるのだが、実はもっと大きな戦略目的がある
小沢の戦略目的は「自民党の兵站を破砕すること」である。
これはもう何年も変わっていない。
政権与党で居座るために、つまり過半数を取るために選挙を優先しているのではない
自民党という日本の民主化を妨げてきた社会主義的政党が2度と政権与党にならぬよう、解党的ダメージを与えるために、作戦継続能力を破壊するために選挙を優先しているのである

そのためには「最善ではない政策」も選ぶし「権力構造の転換」も迫る
彼は、そのためにあらゆる手段を講じるだろう

彼の大目的は「日本の民主化」であり、それは民主党とイコールではない
あくまでも彼にとって民主党は手段でしかないのだ

そう考えると、彼の行動の全てが、透けて見えてこないだろうか。

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 再補足

2009-12-18 16:16:21 | 政治
子供手当てに所得制限をかけてはいけない
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/adec27a471fb28d74f21bcb6a9a6bb8d

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 補足
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/c3c4c230b96145bc5926e4de370a6d6b

をさらに補足しよう。

子ども手当の所得制限「目安は1億円」…藤井財務相(痛いニュース)
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1351542.html

コメント欄を読んで思ったが、やはり「子供手当て」は誤解されていると思われる。


1億円の所得制限なんか意味無いじゃん


その通り
藤井財務相はその所得制限に意味無いことわかって言ってるんだから、それを受けて批判する方がおかしいのである

政府は2千万で調整に入ったようだが、藤井財務相の「目安は1億円」は正しい認識に基づくものだ。
藤井財務相は確信犯的に「所得制限は無意味」ということを主張しているのである
当Blogで説明してきたように、子供手当てに所得制限をかけるのは「子供手当ての目的」に合わないのであるから、かけるべきではない
藤井財務相は、党から出された「所得制限」を実質無意味な形で入れ込むことで、「子供手当ての目的」を守ろうとしているのである。

などと思っていたら、当Blogと同様の主張が大和総研の公共政策研究所、斎藤哲史氏が述べているようだ。
全文はリンク先をお読みいただくとして、部分的に抜粋する。

岐路に立つ子ども手当(斎藤哲史)
http://www.dir.co.jp/publicity/column/091218.html


民主党の公約で目玉の1つであった子ども手当が、重大な岐路に立たされている。子ども手当は、日本最大の問題である少子化への初めての抜本的取り組み、という画期的な政策であるにもかかわらず、多くの人がそのことに気付いていないようであり、このままでは単なるばら撒きであると取られかねない。

まず、「出生率の引き上げ効果に乏しい」という批判である。子ども手当が出産促進に焦点を当てているのであれば、この批判は正しい。フランスや北欧のように、事実婚を含めると非婚化があまり進んでいない国では、子ども手当は親の扶養能力を高めることで出産を促進する。だが、我が国の出生率低下の主因は、子ども手当とは無縁の独身者の急増(晩婚化・非婚化)だ。もっとも、直接出産促進を狙っているのでなければ、この批判は的を外していることになろう。

[中略]

社会全体で子育てを支援し、有為な人材を育成することで成長率を高められれば、日本経済にとって明らかにプラスである。これは民間任せでは上手くいかないので、政府が民間から資金を集めて使うことは極めて合理的であり、そのための借金であれば十分な見返りが期待できよう。子ども手当は、人材の量を増やす効果は小さいかもしれない。しかし、子育てをしている家庭の生活安定に貢献し、子育てに投入されるリソースを増やすことで質を高めることができれば、次世代の生産力拡大が見込まれよう。

[中略]

政府与党は、このような論理で国民に説明するのではなく、財源不足や一部の批判を受けて所得制限の導入に傾きつつある。しかし、所得制限が設けられれば、子ども手当の本質が「人口政策の抜本的転換」から、低所得者支援という全く別のモノに変質してしまう(※2) 。これは、子ども手当がこれまでの施策とは一線を画す、長期的ビジョンに基づいた『賢い支出』ではなく、ポピュリズムに基づく従来型のばら撒きだと告白するに等しい。所得制限を主張する政治家は、国民に誤ったメッセージを送り、新政権の画期的な政策を骨抜きにしようとしているのだということを自覚すべきであろう。子ども手当は、今まさに重大な岐路に立っている。



所得制限をかせるかいなかの税制上の技術論とは関係なく、
子供手当ての目的からして、所得制限はかけてはいけないのだ。

所得制限をかけるなら子供手当ては止めるべき!
戦略目的を踏み外した戦略は必ず失敗する。
政策には必ずトレードオフが伴なうが、
目的からはずれたことをすると正当性を維持できないからだ。



「菅vs竹中」論争を支持する

2009-12-18 09:44:42 | 政治
これは「あるべき論」と「するべき論」のすれ違い問題です。
みなさんが「あるべき論」を論じているところ、私は「するべき論」を述べるのですが、これは論理のすり替えではなく、議論の進め方に関する問題提起です。

「需要か供給か」という不毛な論争(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51330123.html

「改革」はどこへ行った?―民主党政権にチャンスはあるか― 竹中平蔵(藤沢和希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51628789.html

わかります。
気持ちは痛いほど理解できます。
反論するところもありません。
しかし、みんなにもう少しだけ、ほんのあと少しだけでいいからリアリストになって欲しいと思います。
(竹中平蔵氏はいつも「政策担当者はリアリストでなければならない。」と言っています。)

「菅直人じゃだめだ」ではだめなのです。

「菅直人じゃないとだめだ」にならなければなりません。

いいですか。
当Blogが当初から主張しているように、民主党の国家戦略担当相に菅直人氏が就任したのは不幸中の幸いです。
(みんながいうように不幸ではありません。)

もし、このポストに他の民主党員が就いた場合のことを考えてください
・・・考えたくないほどの惨劇が待っている可能性があります。

仮に、構造改革路線に近い思想をお持ちの方(政治家でも民間人でも)が就任された場合、あっという間に潰れます
コントロールタワーを特定のパワープレーヤによって牛耳られる可能性が高いです。
民主党を取巻く全方位からのプレッシャーに耐えられません。
このポストをやれるのは、周囲の空気を読まないタイプで、かつ間違っていても(たとえ負けることがわかっていても)持論を通せるタイプの人間だけです
そんな人間は民主党では小沢一郎を除いて菅直人だけです。

よって、「民主党政権下で国家戦略担当相をやれるのは菅直人を置いて他になし。」なのです。

であるならば、我々がやるべきことは唯一つ
菅直人氏に対して、並居る競合相手より増して説得力あるレクチャをできるか否か
これにかかっています。

そういう意味で、竹中平蔵氏のレクチャは評価されるべきであるし、どのような理由であれ竹中平蔵氏を招いた菅直人氏側をより評価するべきです。
いいですか、ここで菅直人氏側を評価してあげることで、より先鋭的な議論ができる土俵を作り上げさせてあげることです。
やることなすこと批判されるんじゃ、やる方もやる気を失ってしまいます。


そもそも、経済素人内閣なのだったら国家戦略相というポストを置かなければいいではないか。
という意見があるとすれば、それは正論だ。
しかし、そうすると、なんで民主党になったんだっけ?
という大命題が覆る可能性があって、国民は自己矛盾に向き合うことになるだろう。
国民は「政権交代のコスト」を選んだのである。

子供手当てに所得制限をかけてはいけない 補足

2009-12-17 22:41:06 | 政治
少し説明不足だったので前回のエントリの補足をしておく。
(子供手当てに所得制限をかけてはいけない)

次のような反論があると思われる。


たとえ「子供手当て」が壮大な国家戦略的社会背策だとしても、緊急性や重大性からして、直近の政策課題としては優先度が低いのではないか。
もっと緊急性を要する問題があるのではないか。


視点によってはこの意見は正しいが、民主党そのものを評価しようという場合においては、必ずしもそうはいえない。
なぜなら、そもそも国家戦略(政策)というのは一つの政策のみを見て評価できるものではないからである。
竹中平蔵氏がよくメディアで発言しているように、通常、国家規模で取組むべき問題については、複数の政策の集合体、パッケージとして示される
いや、示されるべきである。
経済財政政策や国家戦略ともなればなおさらである。
(1つや2つの政策で物事が解決するような考えは旧帝国海軍の「大鑑巨砲主義」的発想である。)

国家戦略の考え方としては、下記の記事で池田信夫氏も主張しているように、長・短期の政策課題と戦略を提示するのが王道である。

「需要か供給か」という不毛な論争(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51330123.html#comments


成長戦略とは長期的な潜在成長率を高めることしかない。これは需要と供給の一致するGDPの自然水準を高めることで、需要側でも供給側でもない。

つまり問題は「需要か供給か」ではなく短期か長期かなのである。短期的な需要不足を埋める政策は、一時的な応急措置としては必要だが、それは景気対策であって成長戦略ではない。政府が需要不足をすべて埋めることはできないし、かりにできるとしても、その上限である潜在成長率は、最近の日銀の調査では0.5%まで低下している。


上記の意味で、仮に民主党が「子供手当て」について、


これは民主党の国家戦略の長期的戦略です。
「子供手当て」は短期的な政策ではなく、短期的な問題については他にパッケージの一つとして政策を用意しています。


と言ってしまえば、それで反論を無効化できる。

現実は、民主党の政策集は統合政策として非常に不十分なもので、長・短期の政策をパッケージとして示せていないので「子供手当て」を批判されても仕方がないのであるが、民主党は「子供手当て」を社会政策(長期戦略)としてしまえば、いくらでも反論に対する反論が可能なのである

(ちょっと強引だが結論にいく)

逆に、民主党が「子供手当て」に所得制限をかけて「社会政策」ではない位置づけにしてしまうと、民主党は子供手当てに対する反論について反論不可能になってしまうのである。
社会政策ではない「子供手当て」などというものは、つまり短期的な政策としての「子供手当て」は対費用効果の低い愚策であって実行すべきではないのだ。



短期的な政策としての子供手当ての意味はないことはない。
各家庭に対する公的資金の注入の意味があって、社会主義政策を実現できるのである。

子供手当てに所得制限をかけてはいけない

2009-12-17 15:51:34 | 政治

これは言葉尻を捉える話ではなく、「民主党政策に対する考え方」についてのお話です。
あくまでも本エントリは、ここで取上げる記事についての批判ではなく、このような形で世論が形成されることへの危惧感よりのものです。


子育て支援に所得制限は当然!(前田拓生)
http://agora-web.jp/archives/849693.html


「子育て支援」を支給すること自体には賛成ではありませんが、「支給する」のであれば、所得制限をするのは当然だと思います。


「当然」という言葉を使うからには、それ相応の判断基準があるはずだ。
「なぜ当たり前なのか」という説明なしに「当然」という言葉を使うことはできない。
ということで理由について見ていこう。


子育て支援のためにおカネを支給した場合、この世帯は子供におカネがかかるので、そこに現金を支給すれば、その多くが消費に回ることになり、政策効果が高いということから、この政策が出てきたのだと思います。確かに子供がいない世帯や子供が成長しきった世帯よりも「子供のために」という支出が増えるのは理解できますが、一方で、この世帯は子供の将来を考える世帯でもあり、余分なおカネがあれば、できるだけ貯蓄に回そうとする世帯でもあります。

ということは、ある程度所得に余裕がある世帯であればあるほど、学資保険などに支給された資金を回すと考えるべきであり、この学資保険も貯蓄なので、当該保険を扱っている生命保険会社等が企業への貸出に回さない限り、政策効果は減退することになります。したがって、余裕があるであろう高所得世帯へ支給することは、経済政策という観点では意味があまりないといえます。また、福祉目的であれば、なおさら、所得の再分配機能が基本ですから、高所得世帯への支給はナンセンスといえるのではないでしょうか。

以上から、政府として「子育て支援」に所得制限をするのは、至極、当然なことであり、むしろ、政府の方から党へ「マニフェストとは異なるが、所得制限をかけさせてほしい」と申し出るのが普通のような気がします。


民主党の政策に詳しい方は、即座にこの主張が事実誤認に基づくものだということに気づくだろう。

まず、根本的に認識が不足しているのは、民主党の「子供手当て」政策は、「経済政策」でも「福祉政策」でもない
何度も民主党政策担当者がメディアで説明しているように、これは「社会政策」である
イギリスや北欧でなされている積極的社会政策の一環で、経済や福祉への効果は社会政策の結果として求めるのであって、原因として求めるのではない
社会政策としての子供手当ては十分に国家戦略的である


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「子供手当て」は「社会で子供を育てる」という考えに基づく政策である。
それは、子供に投資すれば将来的に社会に利益をもたらすと考えられるからで、社会のために、社会が子供の生活に介入するのだ。
家族を助けるために「子供手当て」を出すわけでも、経済を復興させるために出すわけでもない。
幾分かの社会主義的色合いを帯びる政策で、一般に「社会民主主義」と呼ばれる思想に基づく国家にて採用されている。
ゆえに、「所得制限」などという発想そのものが馴染まない。
所得を制限する理由がないのだから。
むしろ「社会政策」にも関わらず「所得制限」をかけるのは、社会による「子供差別」である。
社会が手間をかける子供とそうでない子供がいるのだから。
(この差別が社会的に問題を引き起こすかどうかは民意次第で別問題だ)
また、この政策は「子供の所有権」が、家族に属するのか社会に属するのか、それとも「子供の所有権」などそもそも存在しないという議論を生成する。
子供の責任を親や家族に求める日本社会において、子供に対する責任を国家が持つという概念は理解し難いのかもしれない。
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確かに、社会政策としての「子供手当て」に後付的に経済政策と福祉政策の意味合いを持たせてしまっている民主党の説明能力の不足が混乱を招いている事実は否定できない。
民主党の政策立案能力も説明能力が低いのは事実だ。
政策間の整合性も一貫性も、その前に各政策の合理性も欠けている。

しかし、「社会政策」として主張しているものを「経済」や「福祉」の軸で否定するのは「論理のすり替え」である。
この「論理のすり替え」はディベート技法としては常套手段(有効で強力)であるが、ここで彼がディベートとして民主党を批判する必然性がない。
これは単に「社会政策」としての視点が抜け落ちている主張である

「所得制限」に関して民主党の「子供手当て」を批判するのだとすれば、こうなるだろう。


これまで「子供手当て」は「社会政策」なので「所得制限」かける必要がないと説明してきたのにも関わらず、ここにいたって財源や国民感情の理由で「所得制限」をかけるということは、どういうことだ!
(党から要望したというだけで政府としては決めていないが)
国は子供を差別する気か?!
今更になって「経済政策」や「福祉政策」に目的を変えましたってことなら、こんなコストのかかる効率の悪い政策止めちまえ!


所得制限をかける時点で社会政策としての子供手当ては終わるのだ。


※注意
本エントリでは「子供手当て政策」の是非について評価はしておりません。
「子供手当て」に対する批判についての考え方を述べているだけです。
個人的に、民主党の「子供手当て」は旧帝国海軍の「大鑑巨砲主義」に似たような発想のような印象を持っています。
(要は、問題解決に至る想定が単純すぎる)
さらにいえば、戦略目的が曖昧なため、戦略実現のために迷走することが目に見えています。
戦略目的の策定と同時に統合作戦の重要性に気づくことがまず初めでしょう。

やはり小沢は日本政界において数少ない民主主義者だ。

2009-12-16 01:07:27 | 政治
今回の一件について保守陣営は怒るだろうけれど、やはり小沢氏の民主主義観は当Blogの主張とずれていない
(小沢の主張が自分と同じと言っているのではない)
彼の目的は「特定の政策の実現」ではなく「日本の民主化」なのだから、そもそもその他政治家や一部識者、記者などと同じ土俵に立っていない。
国家観からして違うのだから、議論が噛み合うわけがない

「憲法を読み直しなさい」天皇会見で小沢氏反論(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091214-OYT1T00888.htm?from=main4


【記者】
習副主席が来日したが、天皇陛下との会見が30日(1か月)ルールにのっとらない形で行われることになった。



【小沢】
30日ルールって誰が作ったの。知らないんだろ、君は。



【記者】
2005年に。



【小沢】
法律で決まっているわけでもなんでもないでしょ、そんなもの。
それはそれとして、君は日本国憲法を読んでいるか。
天皇の行為は何て書いてある。
それはどういう風に書いてある、憲法に。
国事行為は、内閣の助言と承認で行われるんだよ。
天皇陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんだよ、すべて
それが日本国憲法の理念であり、本旨なんだ
だから、何とかという宮内庁の役人がどうだこうだ言ったそうだけれども、全く日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない
ちょっと私には信じられない。
しかも内閣の一部局じゃないですか、政府の。
一部局の一役人が内閣の方針、内閣の決定したことについて会見して、方針をどうだこうだと言うのは、日本国憲法の精神、理念を理解していない
民主主義を理解していないと同時に、もしどうしても反対なら、辞表を提出した後に言うべきだ
当たり前でしょう
役人だもん
そうでしょう。
だからマスコミがそういうところを全然理解せずに、役人の言う通りの発言を報道ばっかりしていてはいけません。
ちゃんとよく憲法を読んで。
そして、天皇陛下のお体がすぐれないと、体調がすぐれないというのならば、それよりも優位性の低い行事を、お休みになればいいことじゃないですか。
そうでしょ、わかった?

力はまず己を制するために、次に人を制するために使え。

2009-12-16 00:55:35 | 政治
「吉田ドクトリン」の呪縛 (池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/843371.html#more


吉田ドクトリンについては、これまでもっぱら軍事費を節約する「軽武装」路線として論じられてきましたが、最近になって当時の公文書からいろいろなことがわかってきました。中でも驚くのは、マッカーサーが吉田に対して服部卓四郎を参謀総長として日本軍を本格的に再建するよう求めていたことです。ノモンハン事件やガダルカナルで日本軍を壊滅させた史上最悪の愚将が「新日本軍」のトップになっていたら、今ごろ日本はどうなっていたかわからない。吉田が激怒したのは当然です。

つまり吉田ドクトリンは、日本が軍と完全に手を切るための「冷却期間」を置く政策でもあったわけです。今では想像できないでしょうが、戦後しばらくは軍関係者の力は強く、服部は「旧軍復活案」なるものを書き、吉田を暗殺して鳩山を首相にするクーデタの計画まで立てました。吉田自身は日本が本当に独立したら自前の軍備が必要だと考えていましたが、服部のような陸軍の亡霊が生きているうちは許さない、という彼の判断は正しかったといえるでしょう。


これは鋭い着眼点だ。
偶然、先日NHKドラマの「坂の上の雲」を見てたら「戦争」と「組織」というものについて考えさせられ、日本の安全保障について思索を走らせていたところだったので、思うところをメモ的に述べたい。

池田氏の主張は、吉田茂の安全保障観は「戦争」を前提としなければ理解できないというものだ。
(現代人は戦争を知らない。知ろうともしていない。日本人が避けてきたことだから。)
今から70年ほど前、大日本帝国軍は日本という国家を「戦争」によって窮地に陥れた
戦争が不可避であったかには様々な観点よりの議論が多々あるため、ここでは評価をしない。
私は戦争が良かったのか悪かったのか、また不可避であったのかどうか、意見を表明しない。
ここでの論旨は、政府、軍の政策および戦略がいかにに貧弱で、無責任で、国民に対して傲慢不遜であったか、その一点に絞られる

戦後になされた先の戦争に関する一般的な認知度はこうである。
(おそらく、現代人のほとんどの人がそう答えるだろう。)


「アメリカの生産力・軍事力の質・量ともに日本のそれと比べて圧倒的で優位であるから、日本は勝てるはずもない戦争を行った。負けて当たり前であった。」


確かに、日本はアメリカに戦争で勝利することは、戦局がどう転んでも難しかったかもしれない。
がしかしだ。
「負ける」としても、よりよい「負け方」があった可能性を排除することはできない
少なくても、歴史が示す「日本の負け方」は、大日本帝国軍が国軍としての役割を果たすためではなく、労力のほとんどを自己正当化のためだけに消費して軍人の自尊心を守ろうとした結果、あまりに多くの犠牲を要したという意味で最低であった
そもそも、大日本帝国軍に属する将校が、国家に対する軍の意味をどの程度認識していたかについても甚だ怪しい。
彼らは国家の発展・防衛のためではなく、ただひたすら勝つことに固執して戦った
それも戦略らしきものを全く持たずに。合理ではなく精神論に固執した。
大日本帝国憲法の不備もさることながら、軍に軍の役割を自己認識させることができなかったという点で戦前の日本は野蛮国家であった。

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日本国民が一億玉砕を望んでいたのであれば、戦争の玉砕的終結を導く軍人は英雄かもしれない。
実際、当時の世論はそれを望んでいる「空気」に満ちみちていた。
しかし、結局、事後的にそれは人々が空気に合わせていただけという「病気」であることがわかった。
この「空気」こそが、時として日本的組織を蝕む「病原菌」なのである。
「空気」の問題は非常に根深く奥深い。
「空気」は暗黙知などとも関係するため、これを排除することは日本がハイコンテキスト社会であることを止めるということを意味し、多くの人には受け入れがたく、また受け入れるべきでもないと私は考える。
我々日本人はこの病原菌と共生する道を模索していくべきだ。
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特に帝国陸軍はひどく前時代的な文化を持っていて、近代戦に対応することがついぞ最後までできなかった。
その中でも日本陸軍に致命的なほど大損害を与えて後世に名を残すのは服部卓四郎や辻政信といった戦略参謀だ
(陸軍は軍司令官よりも参謀の方が強かった)
彼らは戦後も生き残り、性懲りもせず戦前の思想を引き摺り、吉田茂暗殺やクーデター計画を企てたりした。
このような服部卓四郎や辻政信という傲慢利己的な軍人の影響力を削ぐことは、戦後日本にとって非常に重要なことであった
(なんと辻正信にいたっては戦後、衆議院議員と参議院議員まで勤めている。最後はなんともフシギな最後を遂げられたが・・)

池田氏が言うように、吉田茂の時代には、日本が自前で軍隊を持つことが如何に危険であったかについて考慮されなければならない
自衛軍を持つか持たないかについて考えるとき、当時の日本の状況として、軍を制御するだけの近代的制御システムが整っていたのか、また情報操作に耐えうるだけの民度があったか、そこが重要項目だ。

「自分達の国は自分達で守る」

これは当たり前の発想だ。
だが、

「自分達の国を守ろうとして、自分達の国を滅ぼすことがある。」

ということもまた事実であり、それは過去において現実だった。
そういうところに日米安全保障条約の必然性はあった。

戦後、我々は「戦争」を直視することを避けてきたため、我々には「軍」の意味、性質、仕組みについての考慮が抜けている。
我々は「国を守る」ということの危険性についてもっと考えなければならない

そこを通って初めて日本独自の安全保障の話へと入っていけるのだ。

民主主義についての補足

2009-12-15 01:25:01 | 政治
民主主義と資本主義についてはいつか語りたいと思っているが、ここ数回のエントリの補足として次の記事あたりは参考になると思う。
(民主主義は最低かもしれないが、他のどれよりもマシである)


資本主義という不平等で有害なシステム - ブローデル『歴史入門』(池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/825869.html


マルクスは、市民社会(市場経済)が必然的に資本家による搾取を生み出すと考えたが、両者の関係はそれほど自明ではない。古来からあるローカルな市場における交換は、現代社会のような大規模な工場による生産を生み出さなかった。それに必要な資本蓄積ができなかったからだ。工場が初めて生まれたのは、18世紀のイギリスである。産業革命の本質は技術的な発明ではなく、植民地から搾取した資本を株式会社によって蓄積する制度的なイノベーションだった。

このように資本主義は、その生い立ちからグローバルなシステムだった。等価交換の均衡状態になったとき資本主義は終わるので、それはつねに変化しながら国境を超えて広がり、中心部が周辺部を搾取し続けなければならない。資本主義は不平等で有害なシステムだが、今のところわれわれはこれよりましなシステムを見出していない。その弊害を国家の介入によって是正しようとするケインズ以来の「修正資本主義」も、市場経済に社会主義を接ぎ木して市場の機能をゆがめてしまった。

著者は資本主義が市場経済と共存できる唯一の経済システムだという経済学者の主張は誤っていると指摘し、別の経済システムが市場経済の上に成立する可能性はあるという。しかしマルクスがそのような搾取なき市民社会として構想したコミュニズムは、現実には逆ユートピアになってしまった。著者も、資本主義に代わるシステムを提案しているわけではない。残念ながら向こう100年ぐらいは、人類はこの出来の悪い経済システムとつきあってゆくしかないのだろう。


言いたいことを全て文章にするのは難しい。
とにかく民主主義や資本主義は決して理想的なシステムではない。
だけど、それ以上によいシステムがあるわけではない。
少なくても私は知らないし、聞いたこともない。
結果、我々は民主主義かつ資本主義と付き合っていくしかない。
じゃ、どうやって付き合っていくべきか。
その前に、これまでどうやって付き合ってきたのかを振り返って、
そして今政治はどちらに向かっているのか、
その後、今後どうしていこうか考えたい。
みたいな話を私はしたいのだ。

政治を直視する勇気が必要(政治とはトレードオフを前提とした調停システムに過ぎない)

2009-12-14 23:50:06 | 政治
ここ2回のエントリで民主主義についての意見を述べたが、頂いたコメントに返信を書いている内に、次に進む前に「政治」についてもう少し補足しておく必要性があると感じたので、ここでちょっと一呼吸置きたいと思う。

民主主義は最低かもしれないが、他のどれよりもマシである
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/31bed38fcbb14bc66063673dc77e0c53

我々が手にしたのは「政権交代」ではなく「民主主義」である
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/dfe970736075ccb96e27ee4328d9528c


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我々が何かに支配されるということは、
我々がその何かを必要とすることである。

必要とするということは、全ての欲求のはじまりである。

しかし、「生きる」ということは「必要とする」ということである。

我々が生きる限り、何かを必要とせずにはいられない。

つまり、我々は生きていく上で何かに支配されざるを得ない。

その性質をよく知り、うまく利用する人は、
人をよく支配するために、人によく求めさせる。

時として、己の不足を大いに主張して、
己のやるべきことを求めさせるだろう。

我々がそれに応えるとき、我々は支配される。

我々が真の民主化を望むなら、
我々は政治に何かを期待することをやめなくてはならない。
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そもそも、「政治」というシステムがなぜ存在するのかについて考える。

祭政一致の時代(例:古代日本)、コミュニティの重要な決定は、神意を伺い誤りの無きよう行われた。
人々を治めるには、先ず神々を祭り、それから政策を決定した。
神に仕えることを「祭り」と言い、天皇に仕え奉ることを「政事」と言った。

つまり、古代より「祭り事(政)」とは「政策決定」のことであった。
古代と現代の違いは、政策決定の判断根拠を「神」に求めるのか、それとも法律や科学に求めるのか、それだけであり、根本は変わらない。

では、なぜ「政」を行う必要があったのか
それは、判断に困ることがあったからである

なぜ困るのか
それは、利害が一致せぬことがあるからである

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皆が同じことを喜び、同じことに悲しみ、同じことに怒れるなら、政を行う必要はない
しかし、人間が一人ひとり異なり、そして自由がある以上、自分と誰かの喜ぶことに違いが生じ、そこに争いが起きる
法律などというものが存在せぬ古代には、争いの調停は神(を祭る神官)や長老によって行われた。
(ちなみに天皇は意味上では神官である。神ではない。)
教育水準が低くノウハウが口伝により伝承されるようなコミュニティでは、知見は限られた個人の属性であり、その特定の個人の裁量によって物事を判断することが最も合理的であった。
また、古代ではその場その場を生き抜くことが何よりも重要であったため、長期的な成長戦略などよりも、その時々に起きる環境変化に対応することが求められたので、生活の知恵や既成のノウハウが何よりも重要な知見であった。
(そんな人類の歴史を鑑みれば、我々に長期的戦略的思考法が先天的に身についていないのは当然)
大自然の脅威に生活を振り回される人類にとって、自然を司る神の重要度が、今よりも遥かに大きかったことは想像に難しくない。
(今では台風ですら一過性のものに過ぎなくなった。が昔は生活が破壊させられた。)
その神の言葉は、何よりも優先されるべきものとして、政という政策決定の決定的な根拠として示された。
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利害が一致せぬことがあるのは、人類としての必然的現実である
そして、その問題の「調停」機能が「政」である

では、神官や長老、政府などの「政」を行う「機関」が必要であった理由は何か
それは、個々人で調停を行うにはコストが高すぎるからである

これは想像するのが簡単だ。
コミュニティの構成人数が2,3人であったなら、調停機関は要らない。
直接個々人で話し合えば(喧嘩になるかもしれないが)事足りるからだ。
しかし、人数が10人、20人、、100人と増えていけばどうなるだろうか。
100人が関係する問題を100人で話し合うのは非常に骨が折れる作業である。
いや、もちろん可能ではあるし、そういう村は今でもあるだろう。
しかし、100人の意見を合わせることは簡単ではないし、難しい問題になれば議論が発散する可能性が高い。
皆が暇であればまだしも、それぞれの仕事に従事せねばならない場合、また教育水準が低い場合には、議論の熟成というものは永遠行われぬであろう。
参加者が1万人ともなると、もはや全員参加による議論は成立せぬものとなる。

このような状況を解決するのに手っ取り早いのが代表者を決め、その人に意思決定を委ねることだ
ここに、「政」という「調停」は、「意思決定者」という「調停機関」のものになるのである
ただし、その際、意思決定の根拠に皆が納得する必要が出てくるので、意思決定者にはそれなりの権威が必要であった。
昔であれば「神」や「軍事力」、今であれば「民意」であろう。

人類が拡大し、人口が増えると調停コストは益々増加し、そして取り扱うべき問題も同様に増加した。
こうなると、「調停機関」には相応の調停能力が求められるようになる。
調停に対する要求量が、数少ない意思決定者の処理能力を超えるのだ。
ここに意思決定者を補佐する「官僚組織」が出来る。
(官僚組織は意思決定者ではないので「権威」をまとう必要がないのもこれが理由)
その資金は調停を必要とする人達(国であれば国民)によって提供された。

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税金というのは一方的に取られるようなイメージがあるが実は違う
もともと自分達のために出資しているのである
でなければ「調停機関」に税をむしり取られてまで、彼らの言うことを聞く必要がない。
支配者と被支配者には、被出資者と出資者という関係が成り立つ。
これは想像しにくいかもしれないが、下記の事例がこの主張の正しさを裏付けている。
出資者たる被支配者が、被出資者たる支配者に愛想を尽かした時、支配者はすげ替えられる
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このようにして「政」を行う「機関」はできた

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軍事的対抗手段としての国家の成り立ちを主張する人がいるかもしれないが、それも利害の調停です。
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つまり、「政治」とは、もともと「利害の調停システム」のことなのである

その意味で、全ての政治的活動から利害関係を無くすことは不可能なのである
政治が利害調停システムとして、社会・市場に対して介入を行うシステムである限り、それは「政治」そのものが利害を伴なうものなのだから
極端にその役割を表現すれば「誰かが損をして誰かが得をするのが政治」である。
(三方一両損という考え方もある)

ゆえに、政治家の評価とは、その損失と利益とのバランスを社会と個人の両側から見てどのように取れるか、にかかっているのだ。
政治は時として、誰かを怒らせ、誰かを喜ばすものだ。
そうやって政治に振り回されるのが嫌だというのなら、我々は「政治に任せてはいけない」のである
我々がやらなければならないことは、政治に政治君主を求め歩くことではなく、利害の調停を誰かに委ねてはいけないのである。
皆がそれに気づいたとき、真なる意味での民主主義が理解されるときだと考える。


さて、ここ数回のエントリについてまとめよう。


現代における調停コストを考えれば「調停システム」としての「政治」は認めざるを得ない。
(無政府主義や夜警国家的な政府は望んでいる人はいるけれど。)
そして、「政治」が「調停システム」であるという性質上、政策によって誰かが得するとき、誰かが損をすることを意味する。
しかし、損得という感覚は相対的概念だから、損得を感じさせない政策は有り得る。
それがマヤカシなのか知恵なのかの評価はここではしないが、出資者としての国民の立場からすれば、政治にはより賢くあって欲しいと思うのが自然。
調停システムがよく機能するためには、参照される情報に不足があってはいけないし、また、一部のパワープレーヤーが調停システムに不平等に大きな影響を持つことを避けるためにも、より多くの声が上がることが重要である。
調停システムには公平で合理的であることが求められるので国家を代表する内閣(政府)が位置づけられ、より多くの声を拾い上げる機関として国会を位置づけ、その調整は裁判所(司法)によって行うのが、これまで人類が積み上げた知恵である。


最後に、我々が政治というものについてどう考えるべきか述べる。
(まとめを読むと自然と導かれるはずだ!)

どれだけの損失を許容するのか。
どれだけの利益を期待するのか。
そしてそのために、どういった調停を行うべきなのか。

つまるところ、当Blogのいつもの主張通り「トレードオフ」である。
このたった3行の問いが、日本の民主主義を変えるだろう。


備考:
古来より日本では「天下を治め人々を治めるには先ず神々を祭り、それから政事を行うべき」とされる。
日本の伝統は「祭政一致」と「神事優先」と言われる。
確かに、日本の政治をみると、政策決定の根拠は情緒論である。

本質の時代

2009-12-12 16:45:11 | 政治
音声Onにしてお楽しみください。

鳩山由紀夫vs.鳩山由紀夫Ⅱ クローンの攻撃
http://www.youtube.com/watch?v=5SYAqroC2S0&feature=youtube_gdata

政治というのは最大の利権だけに、人間の創造性のあらゆるものが利用される。
コントのネタとしても最適だろう。

にしてもセンスのある人は多いな。
100万人に1人でも、IT技術が確率分布を無効化するから、数は問題でなくなる。
あらゆるもののデジタル化とIT技術の進化に伴う参入障壁の低下こそ、権威主義的な日本の経済構造を揺るがすわけだ。
中身のない既得権益と化した権威は時代とともに必ず崩壊していく。
政治も例外にあらず。

「本質の時代」の到来か。