チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 西部邁師の論32。死生論:チャンネル桜・瓦版、小池百合子・新知事で、都政はどう変わるのか?

2016-08-01 11:53:37 |  西部邁師の論

  <西部邁師の論(32)。死生論。いずれ骨となるなら、ふしだらに生きるか、真面目に生きるか?>

 『真理』(この世の仕組み)から言えば、『魂の永続性』ということが本義でありますが現代社会の「一般的風潮。」(通論)からすれば、《 自己意識の中で、個的かつ私的な側面でいえば、死とともに、自分の感情も自分の意見もすべて消失する 》とするものが、『通説』であります。

 そして、『個私』の意識によってとらえられた世界が、忽然と姿を消す。

 そうとしか考えられないのが、私というこの、生から骨つまり死)へと変化ということであるとしています…。

 そこで、どうせ骨と化すしかないのなら、それまでを「ふしだら。」に生きようとするか、精一杯に「真面目。」に生きようとするか、という選択問題が、生じるように思われます。

 しかし、死の瞬間を想定して、そこから自分の生涯を眺め返してみたとすると、それまでの生に対する社会的な避難や称賛は、自分にとって、どうでもよいということになる。

 何といっても、次の瞬間には、「自分世界。」は、もう存在しないのであるから…。

 そういう考え方もあるが、それは、自分の『個私』の側面における話にすぎない。

 『集』(団)的で、『公』的な側面からいえば、「自らの分限。」は、公的な価値や規律の歴史の流れにおける「運び手。」にすぎない。

 その運び方において、自分が、自由を発揮したのだとしても、その「自(みずか)らの由(ゆう)。」(自由)をたずねてみると、それは、やはり歴史が、自分に手渡してくれたものなのだ、と思わないわけにはいかない。

 さすれば、『集公』の側面では、自分の生が是であったか、非であったかは、抜き差しならぬ問題となるのである。

 もう少し控えめに、「神は、『論及』を超えた次元にある、神について『喋々』するなかれ…。」という者もあります。 

 『集公』としての自分からみれば、そこでの自分は、集団人であり「公共人。」であるわけだから、自分の死後に、当該の集団に貢献したか否か、当該の社会の公益に資したかどうかをめぐって、自分がどう評価されるかを、気にかけざるをえないのだ。

一例として、「神風特攻。」のことを考えてみよう。

 後生が、特攻隊員の死からいわば、「国を思う心。」の大切さを思うなら、『集公』の側面では、その死は無駄死にではない。

『個私』の側面では、自分の死の意味が称えられるのか嘲られるのか、伝えられるのか、死ねば確認しようがないのだから、それは、徒死になるほかないのだが…。 

 往時、「死に甲斐。」という言い方はあったが、「生きがい。」のそれはなかった。 

 正確には、『集公』の面で、「死に甲斐。」のことを考えざるをえないからには、(生きているあいだの)生き甲斐にも死に甲斐のことを含めざるを得ない、というべきであろう。

 そんなことは、妻や子の『延命』のため、自分が死を選びとる、という場面のことを想定してみれば分かるはずである。  

 つまり、妻子を水に蹴落として、自分が生き延びるか、それとも自分が、身を投げて妻子を生き延びさせるかという選択が迫られたとしたら、男子たるもの、大概は『自死』を選ぶのだ。

 そうするのが、オトコの「甲斐性。」と思ってそうするのである…。

 

 


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