つたやで『リーガル・ハイ』(堺雅人主演)を借りてきて見られたとのことですね…。
『民意』『世間常識』に対して、法廷で勝つことのみを目標に対抗する内容で、山本七平さんの『空気の研究』を思い浮かべたとのことです。
『空気の研究』とは、懐かしいですね…。 触発されて、何か書いてみましょう…。
丸山真男は、「無責任の体系。」を述べ、これを戦前の日本を特徴づける構造だといいました。
そして『丸山理論』は、民主主義を確立して、『決断』と『責任』の主体を作ることが必要だとしました。
民主主義とは、ようするに自分の頭で考え、自分の意志で決断し、その結果に対して責任をもつという政治だというのです。 こうした自立した個人がつくる社会が「市民社会。」だったのです。
ところが、民主主義が進展すれば、人々がいっそう決断と責任の意識を高め、模範的な「近代市民。」になるなどという根拠はどこにもありません。
それどころか現代社会で様々な問題が複雑になればなるほど、人々は自分で確かな判断などできなくなります。
そこで、自分で判断できなければどうするか? いうまでもなく『大勢』に従うほかないでしょう…。
『大勢』に従うとはまた、状況を『読む』ということです。 状況の動きに従うということです。
まさしく『空気』を読むことであり、“KY”は嫌われるのです。
これは山本七平のいう『空気の支配』にほかならないというのです。 状況の動きを差配するものはその場の『空気』なのです。
その状況で惹起しているある種の『情緒』が臨場感を持って、その場の『全体』を包括してしまうのです。
ある与えられた状況の中で、ひとつの『空気』が絶対的に正しいものとみなされ、「(赤信号)みんなで渡れば、怖くない…。」という『民意』が形成されているという新たな「無責任の体制。」が、正義といわれる「民主主義。」の中において『再現』されているのではないでしょかね…!?
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