<神道と仏教が、他に類なき、崇高な、道徳観をつくった>
日本文明を、他の文明から分かつ、かつ核心は、何だったのでしょう?
明治の日本にあって、その問題に最も、的確に答えたのが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲。1850~1904年)でした。
ちなみに、ルース・ベネディクトの『菊と刀』が、ハーンの業績によること、大だったことは、今や、周知の事実です。
ただし、ベネディクトは、ハーン畢生の名著“Japan: An attempt at interpretation”(1904年。『神国日本』)の都合のいい部分―たとえば、日本では、西洋とは、逆に、幼児が、「好きなまま。」にされている事実や、学校教育にあっては、個人を、独立行為のために、訓練するのではなく、「共同行動のために訓練。」するという事実―だけを、つまみ食いして換骨奪胎し、日本文明の内面的論理を、ばっさりと捨象して、しまったのです。
これは、ハーンの志とは、まったく逆行するものでした。 ハーンは、執筆の意図を、こう語っています。
【 これまで、日本の宗教に関する問題は、主に日本の宗教を、悪しざまに非難する、反対論者の手によって、書かれてきたものばかりで、そういう、反対論者でない立場の人たちは、この問題を、まったく無視してきた。
しかし、この問題が、いつまでも無視されたり、誤り伝えられたりしている間は、日本に対する本当の知識は、絶対に得られるものではない。
いやしくも、一国の社会状態を、本当に理解しようと思ったら、どうしても、その国の宗教の在り方を―それも、うわべから見ただけではなく、そうとう深く突っ込んで、知らなければならない。】(『日本―1つの試練』)
ここで言っている、『宗教』が、神道を指していることは、いうまでもありません。
神道を理解せずして、「日本文明の不思議さ、珍しさ。」は、わからない、と喝破したのです。
しかも、「神道が、西欧人とは、まるで似ても似つかない信仰。」でありながら、単なる、原始宗教や自然崇拝とも異なり、日本人の内面に、「独特の美しさ。」、「庶民の日常生活の上にも繁栄している、道徳的な美しさ。」をもたらし、日本の根幹を形作っている、と見抜きました。
日本文明の精髄は、『霊的』、精神的なものにある、という考えは、1896年に、”Kokoro”(心)を、米英で出版した際、タイトルの意味を、次のように説明したことからかがも、窺えます。
〈 『心』と云う字は、情緒的な意味では、信念という意味も持っている。 つまり、精神、胆力、情操、愛情、それから、我々が、英語で、「事物の真髄。」というような、内奥の意味も持っている。〉
『心』に収められた、「日本文化の神髄。」では、神道および、仏教が、日本人の精神性に果たした役割を、端的に、こう述べています。
〈 日本の国民性のうちに、利己的な、個人主義が、比較的少ないことは、この国の救いであり、それがまた、国民をして、優勢国に対して、自国の独立を、よく保つことを得せしめたのである。
このことに対して、日本は、自国の道徳力を創造し、保存した、2つの大きな宗教に感謝してよかろう。
その1つは、自分の一家のこと、もしくは、自分のことを考える前に、まず、天皇と国家のことを思うことを、国民に教えこんだ、かの神道、である。
それともう1つは、悲しみに打ち勝ち、苦しみを忍び、執着するものを滅却し、憎悪するものの暴虐を、永遠の法則として、感受するように、国民を鍛え上げた、かの仏教である。〉(『心』〉
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