<西部邁師の論(47)。国民の『総意』とは、日本国家の歴史をつらぬく、『伝統』の精神のことだ>
「国家象徴。」のほうも、その象徴が、歴史に関わるからには、平和の時代のみならず、戦争の時代も、民衆の時代だけでなく、独裁の時代も、象徴の対象としているのです。
それら、過去の政体を、『復活』させれば、「公民性。」が、回復不能なまでに、踏みつぶされるという、状況判断があるのなら、そういう復古は、やめにすればよいだけのことです。
日本国憲法の第1条で、天皇の「地位は、主権の存する、日本国民の総意に基づく。」とあり、その第2条では、「皇位は、世襲のものである。」とされております。 「両条の間には、矛盾がある。」、「皇位世襲が、国民の総意とは、限らない。」と、指摘するものが、少なくありません。
「馬鹿げた。」議論というべきです。
国民の(公民としての)『総意』とは、日本は国家の歴史をつらぬく、『伝統』の精神のことだ、と考えておけばよいのです。
その『伝統』が、今の『生者』の意識の根底を、支ええているとみるのが、むしろ、正統かつ、正当の人間観で、ありませんか?
その伝統に、皇位世襲(による皇室堅持)のことも、含まれているという解釈が、ごく自然に成り立ちます。
とはいえ、もし、成文で、『国体』のことを、規定したいのなら、余計な、「民主主義的解釈。」を、あらかじめ、排除しておいた方がよいでしょう。
そうするためには、一つひとつの言葉の、意味についての吟味と、それを文章に、含ませるに当たったっての『慎重』とかが、必要です。
民主主義国家、アメリカの軍人たちが、(聖書の創世記を、真似るようにして)たった、「6日間。」で、書き散らかした憲法草案に、また、ほんの一晩の徹夜作業で、でっちあげた翻訳憲法に、そういう吟味や慎重が、あったはずが、ありません。
極論となるのを、恐れずに言うと、皇位をめぐる、血統のことは、第二義のことにすぎないでしょう。
「人間象徴による、国家象徴。」の観念、それを、『保持』するのが、「国民が、『公民』たること。」の必須要件であるという、常識を、「手放さないこと。」が、第一義なのです。
その常識は、『死生』観と時代観があれば、「公民にあって、おのずと、抱懐される。」ものです。 というより、そういう精神形式を持たないのは、公民として、余りにも、『未熟』だといわなければなりません。
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