575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

伊勢湾台風とテレビ 二ユース ①竹中敬一

2017年10月06日 | Weblog
伊勢湾台風が東海地方を襲ってから、今年で58年にもなり、当時を知る人も少なく
なってきています。
その時、放送局はどう対応したのか、おぼろげな記憶をたよりに、その一端を記録
しておきます。
私は当時、25歳。名古屋の中部日本放送(CBC)のテレビニュース課にいました。
入社してまだ二年余り、ラジオニュースからテレビに移ってまだ日も浅く、毎日、
ローカルニュースの一項目を担当し、取材から原稿、フィルムの編集、送出までに
こぎつけるのが精一杯でした。

台風当日のことに入る前に、当時の放送界の状況にちょっと触れておきます。
東海地方でテレビを放送していたのは、NHK、CBC、東海テレビの三局だけでした。
NHK名古屋は昭和29年3月、CBCは昭和31年12月にそれぞれテレビ放送を開始。
東海テレビは昭和33年12月に開局したばかりでした。(因みに、東海テレビは開局前、
報道部員1人が私たちのいるテレビニュース課に研修に来ていました。その後、九州
朝日放送からも同じように系列が異なるのに2名の報道部員がテレビニュースの仕組を
勉強に一か月ほど来ていたのを覚えています。)

さて、台風当日、私は何をしていたのか。CBCの社史「中部日本放送 50年の歩み」
(平成12年刊)の中の昭和34年(1959) 伊勢湾台風の年のページを見ていて、一枚の
小さな写真に目が止まりました。
誰が撮ったのかわかりませんが、「本社玄関、昭和34年9月26日、午後9時半ごろ」
撮影とあります。
広小路通りに面したCBC会館の正面玄関でテレビ中継の準備をするスタッフの姿が
映っていました。
よく見ると、何と私の姿があるのに気がつきました。向かって左から2人目です。

この写真を手掛かりに、当日のことが少しづつ思い出されてきました。
当日は台風接近というので、退社時刻の午後6時を過ぎても全員待機となりました。
私たちは昭和31年に完成したばかりのCBC会館の三階にいました。鉄筋ガラス張りの
建物が時々、ミシミシと音を立て不気味でしたが、突然、東側の窓ガラスがものすごい
音と共に割れ、ラジオニュース課のデスクに置いてあった放送まぎわの原稿や資料が
四方に吹き飛ばされました。
このただならぬ事態に直面し、正面玄関に行ってみると、当時は乗用車も少なかった
のですが、目の前の道路で1台のタクシーが強風に煽られて横転するのを目撃しました。
デスクはこの凄まじい光景を夜9時45分からのニュースに間に合わせょうと、私たちは
その準備をしていた。というのが、先の写真の説明になります。

3人目のカメラの前にいる雨ガッパにハチマキ姿で陣頭指揮をとっているのが谷水通弘
先輩 (故人)です。この人こそテレビ生中継デイレクターの草分けの1人でした。
伊勢湾台風の年の4月、「世紀の中継」 と言われた皇太子ご結婚パレードを民放代表の
1人として、技術スタッフと共に生中継を担当した他、国府宮の裸祭りを初めて生中継、
伊勢湾台風でも被災地からの特別番組を何本も担当しました。もちろん、これらを支えた
技術陣も優秀でした。
当時、テレビニュース課は課長を入れても9人。誇り高い技術スタッフを指揮して、生中継を
担当できるデイレクターは谷水さんら3人だけで、この3人が被災地からの生中継など特別
番組を担当。残る5人が毎日のニュースをこなしました。
5人の中で私が一番、若僧の新米でした。

さて、当時の夜ニュースは無事、放送できたのか、次回、お伝えします。

写真は「中部日本放送~50年のあゆみ~」(平成12年 刊)
1959年(昭和34年)「本社玄関9月26日午後9時半ごろ」と出ています。
向かって左2人目が私。


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