給食の時、我が子に「いただきます」と言わせないでほしい。
こんな親からの要望があるということ。
給食費を払っているのに、頂きます、
というのはオカシイというのが理由とか。
確かに理屈は通っている。
こうした親たちを育てたのは、今の高齢者である私たち。
私達のなかにも、こうした考え方があったから、
こうした子どもが育ってきたのかも。
この話を聞いて思い出したのが、中学の昼休み。
お弁当を食べる時に呪文のごとく唱えさせられたコトバ。
「ホントウニ生キンガタメニ、今、コノ食ヲイタダクマス・・・」
後を覚えていないのが残念。
同年輩の人も、子どもの頃、家で、
先祖や親、天に感謝するコトバを述べたという。
「いただきます」というコトバを、学校から給食をいただいている
としか理解できなくなったのは何故か?
天地から食をいただいている、という意味がスッポリと抜けてしまった。
これは私達の生活から「祈り」が消えていったことと深く関わっていそう。
自分や人間を越えた存在を想像する能力がなくては、
祈りは生まれてきません。
私達の世代は、人間中心のヒューマニズム、個を大切にすることを
第一に考えてきた。
それが新鮮だったのは、人間や個を抑圧する軍国主義などが存在していたから。
対抗するものが消えていった後に、ヒューマニズムが変質する可能性に気づかなかった。
子どもの世代は、そういう対抗する存在のないなかで、
人間中心、個の尊重を刷り込まれて来た。
人間を越えた存在を否定したために「祈り」は消えてしまった。
いただきます、の相手は見えなくなってしまったのでしょう。
もちろんバランス感覚がある人がほとんどですから
極端な行動に走るのは、ごく一部でしょうが、
根底には同じ考えがあるのではないでしょうか。
昨日は夏至。時の流れの早いこと!
今日は一日ということ。
明日はに。
こんな親からの要望があるということ。
給食費を払っているのに、頂きます、
というのはオカシイというのが理由とか。
確かに理屈は通っている。
こうした親たちを育てたのは、今の高齢者である私たち。
私達のなかにも、こうした考え方があったから、
こうした子どもが育ってきたのかも。
この話を聞いて思い出したのが、中学の昼休み。
お弁当を食べる時に呪文のごとく唱えさせられたコトバ。
「ホントウニ生キンガタメニ、今、コノ食ヲイタダクマス・・・」
後を覚えていないのが残念。
同年輩の人も、子どもの頃、家で、
先祖や親、天に感謝するコトバを述べたという。
「いただきます」というコトバを、学校から給食をいただいている
としか理解できなくなったのは何故か?
天地から食をいただいている、という意味がスッポリと抜けてしまった。
これは私達の生活から「祈り」が消えていったことと深く関わっていそう。
自分や人間を越えた存在を想像する能力がなくては、
祈りは生まれてきません。
私達の世代は、人間中心のヒューマニズム、個を大切にすることを
第一に考えてきた。
それが新鮮だったのは、人間や個を抑圧する軍国主義などが存在していたから。
対抗するものが消えていった後に、ヒューマニズムが変質する可能性に気づかなかった。
子どもの世代は、そういう対抗する存在のないなかで、
人間中心、個の尊重を刷り込まれて来た。
人間を越えた存在を否定したために「祈り」は消えてしまった。
いただきます、の相手は見えなくなってしまったのでしょう。
もちろんバランス感覚がある人がほとんどですから
極端な行動に走るのは、ごく一部でしょうが、
根底には同じ考えがあるのではないでしょうか。
昨日は夏至。時の流れの早いこと!
今日は一日ということ。
明日はに。
一斉に食事に取り掛かるための呪文にすぎない。
自然に対する恵み、その奥にある神の恩寵。そんなものを考えて「いただきます」を唱えてなど居ない。
「私達の生活から「祈り」が消えていったことと深く関わっていそう。
自分や人間を越えた存在を想像する能力がなくては、
祈りは生まれてきません。」
そんなものがあったのですか。
思うようになったのは、ほんの最近のこと。
神の子孫の天皇がなぜ存在するのか?
ちょっと考えたら分かるでしょう?
庶民は押し付けられただけ、恐いものね
庶民にとってとっちでもよかったんですよ。
思考の圏外ですね
神国日本、神風といっていたのは、
いま70歳から上の世代。
その人たちも今では、そんなこともあったっけ?
という顔をしていますよ。
あの時代は、滅私というコトバが流通。
それこそ「個」を越えた国家という存在を
ほとんどの日本人が認めていました。
これは過去のことと笑っていられる人は
幸せな人ですが・・・
個が強くなったなどとは、ゆめゆめおもってはいません。
個人の力なんて脆いものです。
土壇場まで来たら立ち上がるなんて思いますか。
あの戦争で日本人がどれほど個を確立し、
反省したでしょう。
日本は上からの改革に安心を感ずる国民なのでは?
文面があるそうです。
そして自民党の有村議員が私が提案したのです
と、PRしているとか。
これって少し微妙です。
本来無償。国民の権利。
でも、国家が与えてくれるという風に
考えてほしい人も居そう。
愛国心を説く人なんか、そう言いたいかも。
こんな時は、いただきます、と言わせないでという
感覚は威力を発揮するでしょうか?
微妙かな?