NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」の中で女性解放運動家、
平塚雷鳥さん(1886-1971)が取り上げられていましたが、
これを見ていて、半世紀近く前に手がけたテレビ番組のことを思い出しました。
昭和42年に制作した「カメラ・ルポルタージュ この100年ー女性解放ー」です。
この番組で私は当時、80歳になる平塚雷鳥にインタビューしています。
場所は、東京世田谷成城のご自宅で、一人で住んでおられました。
女闘士を想像していたのに、お会いすると、気品のある穏やか物腰で
インタビューに応じてくださったのを、今でも覚えています。
幸い当時、私の書いた台本が残っていました。その一部を抜粋します。
(本文中、Qはナレーションを、「 」はインタビューの内容です)
Q 明治44年、日本で初めて女性の手で雑誌「青鞜( せいとう)」が創刊されました。
「 元始女性は実に太陽であった。」
平塚雷鳥さんのこの熱っぽい調子の一文は、古い殻から
脱しきれずにいる当時の女性をめざめさせました。
平塚さんは「 青鞜 」創刊当時を振り返って
「編集をすべて終えてから、深夜自宅で静座後、
夜明け頃までに一気に書きあげたものでした。
自分の心持ちが何者の抑圧も受けずに、ここに吐露されており、
私自身は、ぜんぜん予想もしなかったことですが、
同じ時代の若い女性の魂を揺り動かすことになったのです。」
番組では明治時代、牛馬のように働かされた女性たちの証言も取り上げています。
愛知県一宮市では、ある小作人が娘を機屋( はたや) に年期奉公に出した時の
珍しい証文が見つかり、紹介しています。
Qこの証文には、地主に年貢がどうしても払えないため、娘をあなた様の所で八年間、
奉公させてやってください。その労賃は娘に渡さず、すべて地主方へ直接、お送り願いたく思います。
と凡そ、このように書かれています。
彼女たちが働く紡績工場のまわりには、牢獄を思わせる高く厚い塀がめぐらされいました。
また、一宮地方で明治、大正にかけて歌われた機屋唄を女工だった三人の生存者が覚えていて、
再現してくれました。
「年期奉公 一枚紙に 封じ込められ ままならぬ 」
「主も下人(げにん)も生まれは一つ 奉公せるだけ 身のさがり」
「機屋旦那さん かぼちゃのつるじゃ よさりはいずる どこまでも」
「わたしゃこなたの旦那のめかけ 仕事してよし せんでよし」
「年期奉公に出すよな親は 親でござらぬ 子の敵」
「腹が減ったで框( かまち) が打てぬ 縞が薄ても わしゃ知らぬ」
Q愛知県春日井市に住む加藤静子さん( 64 )
加藤さんは、大正6年、当時15歳の時、自宅から凡そ3キロはなれた紡績工場へ働きに出ました。
Q大正5年、工場法が実施され、労働時間は12時間と定められましたが、
加藤さんたちの工場では、朝の5時から夜10時まで、一日17時間みっちり働かされたと言います。
加藤さんは働きに出て半年たったある冬の日、あまりの辛さに耐え切れず、
ついに、工場から脱走を試みました。
「手がぽんぽんに腫れて、あまり寒いので、火鉢でちょっとの間、手を温めていますと、
急に、後ろから、きつくどなられ、ひどい目にあいました。
そこで、何も持たずに工場の人の目をのがれて、いっきに逃げ出しました。
その日は、寒い日で、それでも素足で一目散に家へ向ったのです。
家に着いて、母に実情を話すと、母も泣きました。
本当に今、思っても当時は辛かったですね。」
ここまで来て、ふと、今、こうした内容の番組を作ることができるか、考え込んでしまいました。
個人情報保護法や秘密保護法など言論統制に近い状況の中で、制作者は自粛規制するのではないか。
カメラ・ルポルタージュは昭和37年(1962)から昭和44年(1969)までTBSをキー局に
ABC( 昭和50年までTBS系 )、CBCが持ち回りで制作。
硬派の番組ながら「カメ・ルポ」と言われて親しまれ、人気がありました。
私たちは誰に云はれるわけでもなく、放送の中立性を守りながら、きわどい内容の政治、社会問題にも挑戦しました。
竹中敬一
(なお、本文中に下人という言葉が引用されていますが、当時のままにお伝えします)遅足
平塚雷鳥さん(1886-1971)が取り上げられていましたが、
これを見ていて、半世紀近く前に手がけたテレビ番組のことを思い出しました。
昭和42年に制作した「カメラ・ルポルタージュ この100年ー女性解放ー」です。
この番組で私は当時、80歳になる平塚雷鳥にインタビューしています。
場所は、東京世田谷成城のご自宅で、一人で住んでおられました。
女闘士を想像していたのに、お会いすると、気品のある穏やか物腰で
インタビューに応じてくださったのを、今でも覚えています。
幸い当時、私の書いた台本が残っていました。その一部を抜粋します。
(本文中、Qはナレーションを、「 」はインタビューの内容です)
Q 明治44年、日本で初めて女性の手で雑誌「青鞜( せいとう)」が創刊されました。
「 元始女性は実に太陽であった。」
平塚雷鳥さんのこの熱っぽい調子の一文は、古い殻から
脱しきれずにいる当時の女性をめざめさせました。
平塚さんは「 青鞜 」創刊当時を振り返って
「編集をすべて終えてから、深夜自宅で静座後、
夜明け頃までに一気に書きあげたものでした。
自分の心持ちが何者の抑圧も受けずに、ここに吐露されており、
私自身は、ぜんぜん予想もしなかったことですが、
同じ時代の若い女性の魂を揺り動かすことになったのです。」
番組では明治時代、牛馬のように働かされた女性たちの証言も取り上げています。
愛知県一宮市では、ある小作人が娘を機屋( はたや) に年期奉公に出した時の
珍しい証文が見つかり、紹介しています。
Qこの証文には、地主に年貢がどうしても払えないため、娘をあなた様の所で八年間、
奉公させてやってください。その労賃は娘に渡さず、すべて地主方へ直接、お送り願いたく思います。
と凡そ、このように書かれています。
彼女たちが働く紡績工場のまわりには、牢獄を思わせる高く厚い塀がめぐらされいました。
また、一宮地方で明治、大正にかけて歌われた機屋唄を女工だった三人の生存者が覚えていて、
再現してくれました。
「年期奉公 一枚紙に 封じ込められ ままならぬ 」
「主も下人(げにん)も生まれは一つ 奉公せるだけ 身のさがり」
「機屋旦那さん かぼちゃのつるじゃ よさりはいずる どこまでも」
「わたしゃこなたの旦那のめかけ 仕事してよし せんでよし」
「年期奉公に出すよな親は 親でござらぬ 子の敵」
「腹が減ったで框( かまち) が打てぬ 縞が薄ても わしゃ知らぬ」
Q愛知県春日井市に住む加藤静子さん( 64 )
加藤さんは、大正6年、当時15歳の時、自宅から凡そ3キロはなれた紡績工場へ働きに出ました。
Q大正5年、工場法が実施され、労働時間は12時間と定められましたが、
加藤さんたちの工場では、朝の5時から夜10時まで、一日17時間みっちり働かされたと言います。
加藤さんは働きに出て半年たったある冬の日、あまりの辛さに耐え切れず、
ついに、工場から脱走を試みました。
「手がぽんぽんに腫れて、あまり寒いので、火鉢でちょっとの間、手を温めていますと、
急に、後ろから、きつくどなられ、ひどい目にあいました。
そこで、何も持たずに工場の人の目をのがれて、いっきに逃げ出しました。
その日は、寒い日で、それでも素足で一目散に家へ向ったのです。
家に着いて、母に実情を話すと、母も泣きました。
本当に今、思っても当時は辛かったですね。」
ここまで来て、ふと、今、こうした内容の番組を作ることができるか、考え込んでしまいました。
個人情報保護法や秘密保護法など言論統制に近い状況の中で、制作者は自粛規制するのではないか。
カメラ・ルポルタージュは昭和37年(1962)から昭和44年(1969)までTBSをキー局に
ABC( 昭和50年までTBS系 )、CBCが持ち回りで制作。
硬派の番組ながら「カメ・ルポ」と言われて親しまれ、人気がありました。
私たちは誰に云はれるわけでもなく、放送の中立性を守りながら、きわどい内容の政治、社会問題にも挑戦しました。
竹中敬一
(なお、本文中に下人という言葉が引用されていますが、当時のままにお伝えします)遅足
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