おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

葛飾北斎の描いた風景をたどる。+α。隅田川沿い。その4。

2017-09-28 20:52:25 | 世間世界
                                          両国橋。
JR両国駅の南側を探訪します。⑤は、両国橋の東詰にあります。
「両国納涼一の橋弁天ー絵本隅田川両岸一覧ー」
 狂歌絵本『隅田川両岸一覧』三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の竪川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。

 もともと「両国広小路」は、「両国橋」の西たもとに設けられた広場をさし、現在の中央区東日本橋二丁目あたり。火除地(ひよけち)として扱われたため、常設の建物は作られなかった。
 江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出す。事態を重く見た老中・酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。木製の橋への類焼を防ぐため、火除地として広小路は作られた。地名としての「両国」は、隅田川西側の武蔵国側を多くは指し、対岸の(現在の両国である)旧下総国側(墨田区側)を「向両国(むこうりょうごく)」(東両国とも)と呼んだ。
 ・・・空き地はすぐに目的外使用が始まり、仮設の見世物小屋(ヒラキと呼んだ)(現在の相撲・飲食店含む)が立ち並び、「両国広小路」と「浅草寺裏」は、江戸一番の盛り場(歓楽街)として、江戸時代期から明治時代初期を通して繁盛した。将軍が鷹狩りに出るときなどは、両国の全ての見世物小屋がきれいに無くなって、本来の火除地の姿に戻った。江戸三大広小路のひとつにあげられる。この姿は江戸東京博物館のジオラマ模型展示で再現されている。
 木橋としての「両国橋」は1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。
 両国駅の開業や両国国技館の開館にともない、両国という地名は次第に東両国を指すようになっていった。1971年には住居表示にともない、中央区の日本橋両国は「東日本橋」と改められ、現在は中央区東日本橋二丁目となっている。一方、墨田区側はすでに1967年、東両国から両国へ改称されている。現在、両国橋西交差点(中央区)付近に、「両国広小路記念碑」が設けられている。
(以上、「Wikpedia」参照)
 

HPより)

注1:江戸三大広小路は「下谷(上野)広小路」「浅草広小路」「両国広小路」をさす。
注2:江戸時代の両国橋は現在の両国橋より50㍍ほど下流に架けられていた。

 両国橋の東詰の広場にはいくつかの碑と解説板があります。その一つ、句碑「日乃恩や忽ち 具(く)だく厚氷」。

 この句碑は、忠臣蔵四十七士の一人で、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手したと言われる大高源五の句碑。源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を、上野介のお茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。大高源五の俳句といわれる「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」を刻んだこの石碑は昭和3年に立てられました。

 大高源吾の句碑は旧東海道中・土山宿の先、間の宿であった猪鼻村にもありました。
「猪鼻村」解説板と句碑。
 いの花や 早稲のもまるる 山をろし 子葉

 大高源吾は俳人宝井其角とも交流がありました。俳号は「子葉」。
 討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた源吾が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした源吾に対し、其角は餞に「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠みました。これに対し、源吾は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残されています。

 

もゝんじや」。

 ももんじ屋(ももんじや)またはももんじい屋とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐、猿、鶏、牛、馬など牛肉、馬肉等を肉食させたり、売っていた店のこと。表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。猪肉を山鯨(やまくじら)、鶏肉を柏(かしわ)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」と称するのは、花札の絵柄に由来する隠語の説もあるが、赤身と脂身の色から牡丹と言ったり、牡丹を模して盛り付けるからとも言われている。江戸時代では、猪をブタ、野猪をイノシシと読み混合していた。
 江戸では両国広小路、あるいは麹町にあった店が有名であった。獣肉を鍋物にしたり、鉄板で焼いたりし食べていたようで、近代のすき焼きや桜鍋の源流と言える。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名された。また、新撰組でも豚肉を常食していた記録が残っている。これら肉食文化は明治初期の牛鍋の人気につながっていった。
 百獣屋の字をあてて「ももんじや」としているが、一方で関東地方で妖怪を意味する児童語のモモンジイに由来しており、江戸時代には尾のある獣や毛深い獣が嫌われてモモンジイと呼ばれたことから、それらの肉を扱う店も「ももんじ屋」と呼ばれるようになったという説がある。
 彦根藩では第3代藩主・井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった。
(以上、「Wikipedia」参照。)

 右折して、「一之橋」方向へ向かいます。


「片葉の蘆」「駒留橋」「藤代町跡」解説板。前の二つは本所七不思議の一つにちなんだもの。

本所七不思議
 本所(東京都墨田区)に江戸時代ころから伝承される奇談・怪談。江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきた。いわゆる「七不思議」の一種であるが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから8種類以上のエピソードが存在する。

・置行堀(おいてけぼり)
・送り提灯(おくりちょうちん)
・送り拍子木(おくりひょうしぎ)
・燈無蕎麦(あかりなしそば)別名「消えずの行灯」
・足洗邸(あしあらいやしき)
・片葉の葦(かたはのあし)
・落葉なき椎(おちばなきしい)
・狸囃子(たぬきばやし)別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」
・津軽の太鼓(つがるのたいこ)

「赤穂浪士休息の地」。
 休息後、大名との無益な衝突を避けるため、旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。

「旧両国橋・広小路跡」。

1880年代。 2010年代。

「一之橋」から隅田川を望む。下は「竪(たて)川」。

「宮戸川長縄ー千絵の海ー」
 水が織り成す造形美と漁師達を描いた「千絵の海」シリーズの一枚。浜町河岸から見た宮戸川の漁風景と、両国界隈の景観が描かれています。宮戸川とは、江戸時代の隅田川下流の呼称の一つ。長縄は、一本の幹糸から多くの釣糸を垂らす釣法のことです。奥の建物は幕府の軍船を係留する「御船蔵(おふなぐら)」で、今の千歳一丁目から新大橋にかけての一帯にありました。4,800坪の土地に14棟の船蔵が並び、徳川家光が新造した軍船形式の御座船「安宅丸(あたけまる)」も係留されていたことから、この一帯は「御船蔵安宅町」と呼ばれていました。

     
     
1880年代                         2010年代

「一之橋」から両国駅方向を望む。

「一之橋」。
 ・・・万治2年(1659)、竪川の開削と同時に設けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ13間、幅2間半ほどありました。・・・一之橋は赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。

 「二之橋」方向へ進みます。その途中にあったのが「出羽海部屋」。
 
出羽海部屋
 日本相撲協会所属の相撲部屋。現存する部屋では最多の9人の横綱を育てたほか、3人が協会理事長を務めるなど相撲界随一の名門とされている。11の相撲部屋からなる出羽海一門の本家。
 初代出羽ノ海は寛政の前頭筆頭・出羽海運右エ門である。
 5代は大錦・栃木山・常ノ花の3横綱に對馬洋・九州山・大ノ里・常陸岩の4大関などといった数多くの関取を育て上げた。1917年(大正6年)1月場所から1921年(大正10年)5月場所にかけては部屋所属の力士が10場所連続して優勝を果たし(栃木山5回・大錦4回・常ノ花1回)、この記録は現在でも破られていない。
 1966年8月の土俵開きと、現存する相撲部屋の中では最も築年数が古い。
 
その先には「塩原橋」。
 ・・・橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
 太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の「塩原太助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。・・・


「本所立川ー富嶽三十六景ー」

 富士山を描いた「冨嶽三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」などの墨書があり、版元名とその場所、本シリーズ(「冨嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。

「竪川」。

「二之橋」。
 ・・・池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも。大川から舟で乗り付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立ち寄るにもこの橋は必ず登場し、まさに欠かせない場所となっています。
「朝日新聞」9/28夕刊。

 現在でも竪(立)川に架かる橋によって、「清澄通り」(二之橋)、言問橋で水戸街道につながる「三ツ目通り」(三之橋)、錦糸町・押上に通じる「四ツ目通り」(四之橋)、亀戸・「明治通り」の「五之橋通り」(五之橋)と南北に通じる道路が残っています。

 そしておしまいは「本所松坂公園」。おなじみ、吉良邸跡です。


「新板浮絵忠臣蔵第十一段目」

 「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮絵の様式で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曾祖父であると、北斎自ら語っていたそうです。


                  

 こうして駆け足で回ってみても見所がたくさん。江戸時代の風情を偲びながら街中を巡るのも乙なものです。

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