おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その4。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-26 21:11:43 | 青梅街道
                             (12:03「桜街道(旧青梅街道)」。

開花にはまだ早かった! (3/17)

」碑。
 村山団地から東大和市駅を抜けて小平へ向かう旧青梅街道は、かつては江戸街道と呼ばれた美しい桜並木になっていました。
 花の咲く頃は遠く鹿島神社の裏山から、まるで白い幕をひいたかのように見えたそうです。
 この桜並木は明治15,6年頃に植えられ、小学校の遠足の場所でもあり、並木道を使って運動会が行われたそうです。
 桜の木は畑に植えられたさつまいもや桑の木の成長を妨げる「こさをひく(影ができる」
ということで切り倒されたりしたこともあったようです。
 この見事な桜並木も昭和20年4月24日の空襲で付近がほとんど壊滅状態になり、大部分がなくなってしまい、今となっては名前が残るだけになってしまいました。
 市では、桜並木を復活させるため、この道路の街路樹に桜を植え、道路の愛称も桜街道としました。

 この付近も空襲でやられたのですね。
 以下HPより。

戦災遺跡 東大和市指定文化財 旧日立航空機株式会社変電所
 昭和13年、北多摩郡大和村(現在の東大和市)に戦闘機のエンジンを製作する大きな軍需工場が建設されました。東京瓦斯電気工業株式会社(翌年「日立航空機株式会社」となる)立川工場です。工場の敷地北西部に存在した変電所は、高圧電線で送られてきた電気を、減圧して工場内へと送る重要な施設でした。
 昭和20年、多摩地域一帯の他の軍需工場と同様に、当時の大和村でも合計10回の空襲があったといわれています。うち2月と4月の計3回の空襲では、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える方が亡くなり、建物のほとんどが破壊されましたが、変電所は奇跡的に生き残りました。
 もちろん窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。しかし鉄筋コンクリート製の建物本体は、致命的な損傷をうけなかったのです。
 戦後、工場はスレートや編み物機の製造など平和産業に転換し、自動車会社との合併や社名変更などを行いながら、平成5年まで操業を続けました。
 その間、変電所は主要設備機器の更新をしながら、工場へ電気を送り続けていました。しかも、外壁に刻まれた生々しい爆撃の傷跡や内部の一部にも痕跡を残したままの状態で使われていたのです。
 平成5年、都立公園の整備のため、変電所を含む工場の敷地の一部を東京都が買い上げることになり、変電施設としての役割を終えました。
 しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのまま保存されることになりました。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。
 戦争で多くの尊い命が犠牲になったことを、誰よりも雄弁に物語ってくれるこの変電所を、東大和市は平成7年10月1日に文化財に指定し、後世に伝えることにしました。
壁には機銃掃射の弾痕が残っている。

「イトーヨーカドー」の先、左手の公園の中に保存されています。寄れなかったのは、残念!

「森永乳業」の工場。今をときめく某さんの関係筋?

(12:13)多摩都市モノレール「桜街道駅」。多摩モノレールと交差したのは「甲州街道」歩き以来。
 

 「甲州街道」歩きで、立川から日野に入るとき、「多摩川」に架かる「立日橋」の上にあったのが「多摩都市モノレール」でした。

多摩都市モノレール線
 東京都東大和市と多摩市を結ぶモノレール路線。
 南北方向の交通手段の整備が望まれていた多摩地域を縦断する路線である。元々鉄道空白地帯だった地域とターミナル駅間の輸送が主力だが、接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際には、代替経路として振替輸送に利用される。
 基本的には高架駅で統一されているが、中央大学・明星大学駅のみ地上駅となっている。
 沿線はおおむね住宅地であるため、通勤・通学客の多い朝夕は非常に混雑する。また、周辺には大学などの教育機関が点在するため、その最寄り駅や他線との接続駅は学生で賑わっている。採用しているモノレールの仕組み上、悪天候に弱く、降雪や台風などによる強風の影響で遅延や運休が発生しやすい(改札付近に、運休の可能性がある旨の告知がしばしば見られる)。
 上北台駅から甲州街道駅の区間では高層建築物の多い立川周辺を除き南西方向に見える富士山の眺望が良い。(以上、「Wikipedia」参照)

《駅名》
上北台―桜街道―玉川上水―砂川七番―泉体育館―立飛―高松―立川北―立川南―柴崎体育館―甲州街道―万願寺―高幡不動―程久保―多摩動物公園―中央大学・明星大学―大塚・帝京大学―松が谷―多摩センター


その先、左手の農道が狭山丘陵南麓から八王子経由で大山に通じていた道のようです。


この付近の今昔。→が大山道。←が桜街道駅。

1880年代のようす。


2010年代のようす。

まっすぐ西に向かっています。

「江戸街道」という標示。

 (12:36)広大な「村山アパート」(「都営村山団地」)が左右に広がる。


                      

 土曜日の昼過ぎですが、ほとんど人通りはありません。たまにすれ違う人も年寄りの方が目立ちます。最寄り駅に行くのにもバスに乗るしか? それでも、北側の団地は高層に建て替えられ、敷地も広々としています。

都営村山団地 人情味残して進化
2016年6月5日

現在建て替えが進む都営村山団地(中央)。=本社ヘリ「おおづる」から(淡路久喜撮影)
 
 新宿から西へ約30キロ、多摩地域北部のほぼ中央にある武蔵村山市。都内の市で唯一、鉄道がないが、都心のベッドタウンとして発展してきた。ここに都営村山団地がある。
 村山団地は1964~66年度に5260戸が建設された。50年が過ぎた今、老朽化のため建て替えが進む。市によると今年1月1日現在の団地住民の高齢化率は49.3%と、住民の約半数が65歳以上だ。
 そんな団地内の村山団地中央商店会には、利用客を無料で送迎する自転車がある。体力的になかなか外出できない高齢者を中心に活発に利用されている。屋根付きで赤いボディーの自転車が団地内を走り、住民の生活と街を活気づけている。
 多摩都市モノレール立川北(立川市)-上北台(東大和市)が98年11月に開業、徒歩圏内にモノレール駅ができた。市内を通り箱根ケ崎(瑞穂町)まで延伸する計画もある。商店会の比留間誠一会長(67)は「団地には義理堅い人が多く、昔ながらの人情味が残っている。建て替わっても、モノレールが延びて便利になっても、団地のよさは変わらないでほしいね」と話した。 (萩原誠)

住宅に囲まれた畑地で農作業。

(12:56)「江戸」パーキング。「江戸街道」にちなんだ名?

しばらく進むと、「榎」交差点。「江戸街道」は右に折れていきますが、旧道は正面の細い道へ。
 

その先で旧道は消滅しています。
                A地点からB地点までが消滅。先ほどの「江戸街道」と合流して復活します。↓が元「原(はら)江戸道」
 白い空白部分は、「日産自動車」の村山工場跡地。
 広大な跡地の北側は大きなイオンモールなどになりましたが、南側の半分以上は、まだ空地のままになっています。イオンモールの先で旧道は復活し、残堀(ざんぼり)川に出会います。この通りは「原江戸道」とも呼ばれ、西に向かって進み、「米軍横田基地」のところで途切れてしまいます。

この付近の今昔。

1880年代のようす。原っぱが続きます。流れは「残堀川」。


2010年代のようす。中央が「イオンモール」。

左手はお茶畑。

右手は果樹園。

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