おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その1。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-05-28 22:54:41 | 青梅街道

                     5月26日(土)。晴れ時々曇り。(8:57)「川井」駅から再開。

しばらく進んで右手の道に入ります。

急坂を振り返ると、「奥多摩大橋」。

 集落の中を進みます。右手上には、「川井八雲神社」。

(9:07)その道もJR青梅線に近づくと、国道(青梅街道)に合流。

 しばらく国道を歩き、(9:31)古里駅の先で左手の道に入ります。


                   

その角に小さな「馬頭観音」。

車もほとんど通らない静かな道を進みます。

右手に石灯籠など三基。

趣のある建物。木工屋さんらしい。

 (9:36)その先に「釜の水」。湧水を大きな釜で溜めています。ひと頃前の集落の共同生活飲用水。現在は水道が完備しているので、飲み水としては使用していないようです。


「清見橋」。右手の沢には小さな滝。道沿いには「多摩川」に注ぐ沢筋が多くあり、切り立った崖状になっています。
 

 多摩川沿いの遊歩道が左手にありますが、右の坂を上って国道に出ます。


眼下に多摩川に架かる「寸庭橋」。

右手には青梅線。

(9:49)「将門」交差点。左は多摩川南岸道路。

 この地に「将門」? 崖の上には将門神社があるようです。
 そこで案内板にしたがって、右手の細い坂道を上っていきます。足元はしっかりしていますが、けっこう急坂。
振り返る。

 途中、右手に上がる道が参道のようです。しかし、そのまま進むと広い道に出ます。これがさきほど「釜の水」の道から続く旧道の一部?


 将門神社の紹介
 天慶の乱(935年~940年)に敗れた平将門没後、その子となる将軍太郎良門が亡き父の像を刻んで祀ったことに始まりました。その後、多摩川流域を領した青梅の三田氏は、将門後胤を称し、三田弾正忠平次秀のときには、将門宮を再修して神剣を奉納した、といいます。
 明治維新後、将門神社は廃され、同村の熊野神社に合祀されました。そのため一時この場所は荒廃しましたが、昭和50年(1975)に地元住民の有志により総檜造りの社殿が再建されました。

 平将門に関しては、東京・大手町にある「将門塚」が有名です。
首塚の碑
 この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。
 首塚そのものは関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。
 この地は東京駅に近く皇居の間近に位置するため、周辺にはオフィスビルが林立しているが、この一角だけは広い敷地ではないにもかかわらず鬱蒼とした木が茂っている。敷地内には蛙(ガマガエル)の置物が数多く石碑の周囲に置かれている。
 数十年にわたり地元のボランティア団体が浄財を元に周辺の清掃、整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。

エピソード
 ・・・古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。
 結果、首塚はバブル景気後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。
 隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがある。

蛙の置物
 首塚の境内には所狭しと多数の蛙の置物が奉納されている。将門の首が京都から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、伝承で次の二つの利益があるとされている。
・左遷になった会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように、蛙を供える。
・誘拐されたり、行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、蛙を供える。

評価の変遷
 関東一円では武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間将門は逸話や伝説として人々に語り継がれてきた。これは、将門が重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として捉えられたためだと考えられる。
 中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教(他阿)によって神と祀られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。
 神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には江戸幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。
 また、将門の朝敵としての認識は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により除かれた。
 なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」とは首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説がある。
 明治維新後は将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして1874年(明治7年)には教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。
 第二次世界大戦終結後、皇室批判へのタブーがなくなると、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、1976年(昭和51年)には将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年(昭和59年)になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。
 このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)

(10:00)前方に「鳩ノ巣駅」が見えてきます。

 途中の路傍に馬頭観音や供養碑などがあり、旧道らしい趣き。


                           

 下り坂を進み、「鳩ノ巣駅」の西側の踏切を渡って、国道に合流(10:08)。
         

鳩ノ巣」という地名の由来
 現在のようなトラックや鉄道などの運搬手段が無かった時代。奥多摩の木材は多摩川を使って下流まで運びました。上流で伐採した木材は、この下の渓谷で集積され、さらに約1.5㎞下流の寸庭というところで、いかだに組んで六郷まで運びました。集積場となった水神の森に、2羽のハトが巣を作り、とても仲むつまじかったので、人々は鳩ノ巣と呼ぶようになりました。

 「奥多摩観光協会」のパンフレットには、以下のような記述。
 江戸期、ここには上流から一本流しで来る丸太の貯木場があり、飯場小屋があった。
 魚留滝(ナルタキ) の上の飯場に祭った水神社の森に、二羽の鳩が仲睦まじく巣を営んだ様子が人々の心を和ませ、いつしか鳩の巣の飯場と呼ぶようになり、これが地名になったという。
 魚留滝は江戸末期の大洪水で崩壊した。

 鋭く切り込まれた多摩川の渓谷が眼下に広がります。
  
上流。                                 下流。「はとのす荘」。

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