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猛暑の夏。広島では大変な惨事。その他の地方でも猛烈な豪雨による被害が続出。その中で、東京地方はときどき小雨がぱらつくほど。お盆休み前の何日かちょっと不安定な天気だったが、その後は猛烈な暑さ。
日本はどうなっているのか、どうなっていくのか? お天気と甚大な被害が示す、行く手。
この夏。こうして終わりそうな気配。久々に東海道の旅に。炎天下の歩き!
JR横浜駅の西口を出て、少し西に向かうと「上台橋」。ここは、前に来たところ。その時は、、東に進んで「神奈川宿」の道をたどりました。
「上台橋」は、1930(「昭和5)年、横浜駅方面からの切り通しの道路ができたために、その上に架けられたもの。
『神奈川駅中図会』。
かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。
横浜駅西口方向を望む。欄干の文様は「青海波」。
橋のたもとにある案内板。スタート地点。ここから、西に向かいます。
旧東海道。
東方向・「神奈川宿」(台町)方向を望む。神奈川宿方向からは下りになっている。この辺りで海岸線沿いになっていた。
「旧東海道」という道しるべ。
この先で「環状1号」線に合流する。
浅間下交差点。旧東海道は斜め右・交番の辺りから入っていく。
ここで交差しているのが、「横浜道」。
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1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。東海道と「横浜道」が交差している付近(↓)。東海道は海沿いに進み、この先から丘陵地帯沿いに次の宿場町「保土ケ谷(程ケ谷)」に向かう。「横浜道」は、東海道と交差した後、開港した「横浜港」へ向かう(直線の黒い線)新田間(あらたま)橋、平沼橋の名が見える。現在の関内付近まで続いていた。
「よこはま道」案内板。
安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況であった。当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(当時、東海道と連絡するには、保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった。)
この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものだ。
記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同等の幅員であったと考えられる。工期3ヶ月の突貫工事で、橋材は欄干には杉を、杭には松を使用した。
新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。
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右図で、赤い点線が「旧東海道」、青い点線が「横浜道」。
案内図。
赤い線が「旧東海道」、青い線が「横浜道」。
交番裏の「浅間下
公園」。旧東海道の一部になっている。
明治後期のようす。かなり海が干拓され、土地が広がっている。上の↓が、「横浜道」との交差点。下の↓が「八王子道」との分岐点・追分。
現代。(「今昔マップ」より)
浅間神社方向を望む。
浅間神社脇の道標。
緩やかにカーブを描いて進む。
「環状1号線」方向。下り坂になっていて、「旧東海道」がかつては海を干拓した田んぼと丘陵の縁を進んでいたようすがわかる。
右手の住宅の裏はかなり切り立った崖。
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足下には「旧東海道」との銘板。
静かな住宅街の道。
振り返って来た道を望む。左手の公園の奥は、崖になっている。
行く先には「八王子道」との分岐、「追分」。
日本はどうなっているのか、どうなっていくのか? お天気と甚大な被害が示す、行く手。
この夏。こうして終わりそうな気配。久々に東海道の旅に。炎天下の歩き!
JR横浜駅の西口を出て、少し西に向かうと「上台橋」。ここは、前に来たところ。その時は、、東に進んで「神奈川宿」の道をたどりました。
「上台橋」は、1930(「昭和5)年、横浜駅方面からの切り通しの道路ができたために、その上に架けられたもの。
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かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。
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ここで交差しているのが、「横浜道」。
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安政5年(1858)6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。
しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況であった。当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(当時、東海道と連絡するには、保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった。)
この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものだ。
記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同等の幅員であったと考えられる。工期3ヶ月の突貫工事で、橋材は欄干には杉を、杭には松を使用した。
新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/0b/95da2fcdaa6672e4e93a5dabeeb7caa4.jpg)
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右図で、赤い点線が「旧東海道」、青い点線が「横浜道」。
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赤い線が「旧東海道」、青い線が「横浜道」。
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公園」。旧東海道の一部になっている。
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