おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その6。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-28 20:02:06 | 青梅街道
                                  「瑞穂第一小学校」沿いに「江戸街道」という標識。

(14:33)旧家の雰囲気を残す「関谷」家のところで右折。

日光街道」。「箱根ヶ崎」宿はこの通り沿いに置かれた。
 この「日光街道」は、「千人同心日光道」のことで、八王子千人同心が日光東照宮の「火の番」の任に往来した道。「千人同心街道」、「日光脇街道」、「日光脇往還」などとも呼ばれました。街道沿いの表示板、説明板などには「日光街道」と記されたものが多いようです。
 八王子宿から甲州街道と分かれ、拝島→箱根ケ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→館林と進み、佐野(天明宿)で「日光例幣使街道」に合流しました。日光までは約40里、3泊4日の行程。

 八王子市の甲州街道沿いに「千人町」という町があります。珍しい町名ですね。なぜ「千人町」という町名なのでしょうか。それは江戸時代、この辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたからなのです。
・・・
 八王子千人同心の始まりは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)に求められます。9人の小人頭(こびとがしら)とその配下の人々で、武田氏の家臣でした。しかし武田氏は織田信長の攻撃により天正10年(1582年)に滅亡してしまいます。新たに甲斐国を治めたのが、後に江戸幕府を開いた徳川家康でした。小人頭と配下の同心も家康に召し抱えられ、新たな道を歩み始めます。
 戦国時代、関東に強大な勢力を持っていたのが北条氏です。八王子も北条氏の領地でした。秀吉は関東に侵攻し、天正18年(1590年)に北条氏を降伏させました。北条氏に替わり関東を治めることになったのが徳川家康で、八王子も家康の支配となりました。
 やがて八王子地域の治安維持を主な目的として、9人の頭(かしら)とおよそ250人の同心が八王子に移されたのです。彼らが最初に住んでいたのは、落城まもない八王子城下でした。以降、千人同心の組織が整えられていきます。翌天正19年(1591年)、小人頭を一人増やして10名、同心は500人に増員され、文禄2年(1593年)には八王子城下から、現在の千人町を中心とした地域に屋敷地を拝領して移転してきます。さらに関ヶ原の戦いが行われた慶長5年(1600年)頃、同心が新たに召し抱えられて1,000人となり、文字通り「千人同心」となりました。
八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭(せんにんがしら)10名に率いられた同心1,000名からなります。頭1名に100名の同心がつく構成です。
 千人同心の役割は、八王子の治安維持や国境警備、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣しました。千人同心は軍事集団の役割を担っていたのです。しかし幕府の体制が整い、世の中が安定して平和の時代が到来すると、千人同心の役割も変わっていきます。
 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
 千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
 当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
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(以上、HPより)

 しばらく進むと、現在の青梅街道に合流します。左折する右の角に明治5年創業の「漢方の會田」というお店があります。


                            

「圓福寺」。

現青梅街道を西に進みます。沿道には土蔵造りの建物。

JR八高線の踏切に近づきます。

                     (14:44)

 この付近の今昔。

1880年代のようす。「箱根ヶ崎宿」は、「日光街道」沿いに発展しました。→が「日光街道」。○が合流地点。


2010年代のようす。左手の駅がJR八高線「箱根ヶ崎駅」。

しばらく進んだ右手、「岩藏街道」が分岐します。

茶畑。

 (14:59)「国道16号線(瑞穂バイパス)」を通り過ぎ、そろそろ休憩を。


                

さて、再開。「37㎞かち歩き」の幟。この地点が「37㎞ポスト」。

 新宿からは青梅までは「43㎞」。あと6㎞でゴールということに。

 

 ポスターの惹句「逞しい日本人の育成」が気になりますが・・・。

(15:28)沿道には大きなお屋敷が並んでいます。


                       

(15:40)いよいよ「青梅市」入り。「青梅新町境」交差点。

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