おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

神奈川砲台(神奈川台場)跡。台場公園。横浜編その5。

2014-02-26 22:37:36 | 旧東海道
 東高島駅付近は、かつての「神奈川砲台(台場)」のあったところ。周囲も含めてすっかり埋め立てられて、土地に変わりました。

1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

2010年代のようす。○付近か?

「東高島駅」構内に接するところにある「史跡 神奈川台場跡」碑。

 安政6年(1859年)5月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇型で、約7万両の費用と約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
 明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

約7万両 幕末の頃には1両が現在の3~4千円(現在の米価で換算。低く見積もっても)だそうで、2億5千万円くらいの費用が費やされた、となる。が、山から土を運び出し埋め立てる、という大工事を想定すると、そんな金額じゃすまされないような気もする。最低でも20億くらいはかかっている、と。

赤丸が「碑」のあるところで、「碑」の背後に石垣が保存されている。
 


(「www.katsu-iwai.com/sansaku/index.html‎」より)
矢印が神奈川砲台(台場)(「同」より)。右手に「象の鼻」波止場が描かれている。

神奈川砲台(神奈川台場)略年表

1854年(安政元年) ペリーが軍艦7隻を率いて横浜に来航し、日米和親条約を締結
1857年(安政4年)
幕府は伊予松山藩に神奈川(横浜港と居留地)の警備を命じた
1858年(安政5年)
日米修好通商条約を締結、松山藩が幕府に神奈川砲台築立の場所指定願を提出

1859年(安政6年) 幕府は松山藩に海防砲台の構築を命じ、その後横浜港は開港し7月20日に松山藩が台場建設に着工(設計・指導は勝海舟)
1860年(万延元年) 6月神奈川台場は竣工し、松山藩主松平勝成が視察する
1866年(慶応2年) 9月天皇誕生日を祝って神奈川台場から祝砲を発射する

1899年(明治32年) 神奈川台場は廃止され、その後埋め立てが進みました
1924年(大正13年) 埋め立てられた台場の上に東高島駅(東海道線支線貨物駅)が開業

1995年(平成7年) 神奈川台場公園が完成(横浜市緑政局:現環境創造局)

2006年(平成18年) 神奈川台場西取渡り石垣発見(当社団)
2008年(平成20年) 神奈川お台場西取渡り部の発掘調査(神奈川区:埋蔵文化財センター)
2009年(平成21年) 横浜開港150周年開国祭開催、神奈川台場公園の再整備計画が神奈川区役所により推進され、神奈川区資産「わが町かながわ とっておき」に認定される
2010年(平成22年) 神奈川区は、神奈川台場をより多くの方々に知って貰う為に、星野町公園と神奈川台場公園をリニューアル


http://www.kanagawadaiba.com/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E5%8F%B0%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ より引用)

「台場公園」への道ばたにある「説明板」。
残雪で隠れているが石垣の一部。遺構の大半は、公園内の地中に埋まっている。
「台場公園」内にある発掘調査の説明板。東高島駅沿いのマンション建設現場から遺構の一部が発掘され、本格的な調査が始まった、らしい。
周辺一帯の発掘調査の概要。

パネル。台場(横浜開港を含めて)の歴史を簡潔に知ることができる。
 

「台場公園」。奥に説明パネル。

JR貨物線(東高島駅構内)をはさんで反対側にある「星野町公園」にある「神奈川台場跡地」の説明パネル。右の赤い○が「台場」、中央の赤い○が「象の鼻」(西波止場)。
線路脇(横浜市場内)に保存されている石垣。
扇型に突き出した台場の護岸用の石垣。
付近(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 なお、マンションの一室に建設中に発見された遺構(石垣)がそのまま保存されているとのこと。設計者の勝海舟にちなんだ『海舟』。訪問したときは、残念ながら閉まっていました。

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