おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「荒川」(「荒川放水路」)。その1。「荒川放水路」開削。少年野球・サッカー。

2021-02-01 18:45:16 | 川歩き

                          

2度目の「緊急事態宣言」が発出されて、3週間。2/7までを延長するかどうか。どう判断するかのせめぎ合いが。

去年の春。自粛がかなり徹底して行われましたが、今回は、少し緩やかな印象。小生も少し・・・。

というわけで、川歩きを計画。まずは旧「荒川放水路」を上流に向かって歩くことに。

かつて、自転車で四つ木から河口まで「中川」との土手を走りました。さらに、右岸(足立区側)を「日暮里舎人ライナー」鉄橋付近まで自転車で出かけました。

今回は、徒歩で左岸(葛飾区・足立区側)を歩き、隅田川との分岐点・岩淵水門まで出かけようと思います。

その第1回目。1月31日(日)。快晴。「四つ木橋」から「堀切橋」まで。

自宅~四つ木橋~堀切橋~自宅。約14,000歩。

「四つ木橋」付近の今昔。

                                                         

1880年代のようす。「元綾瀬川」、「曳舟川」。    2010年代のようす。「新四つ木橋」が「曳舟川」の跡。

 

そこで、まず「荒川放水路」について。「」HPに詳しく解説されています。以下は、その記事より(写真も一部借用して)

東京の下町を水害から守る抜本策として、荒川放水路事業は明治44年(1911) に着手されました。荒川放水路の洪水の流量(計画流量)は、岩淵地点における明治40年洪水での推定流量に基づき、毎秒3,340m3を荒川放水路に流下させ、隅田川には堤防がなくても洪水が氾濫しない流量として毎秒830m3を流下させるものとしました。

(注:1 m3の箱に水をいれると、1t(トン)の重量。)

 

荒川放水路開削は、工事費、工事規模、開削土量などすべてが大規模でした。掘削した土砂の総量は東京ドーム18 杯分に及びます。その大規模工事は、人力、機械、船を駆使して進められました。

荒川放水路の開削工事は、必要な用地も広大なものでした。工事で移転を余儀なくされた住民は1,300世帯にのぼりました。また、移転対象地域には、民家や田畑をはじめ、鉄道や寺社も含まれた大規模なものでした。

 (「木下川(きねがわ)薬師」の移転図。荒川放水路に埋没するため、荒川の河岸の東に移転。)

参考:(「今昔マップ」より)

                    ○から○へ移転

荒川放水路開削事業は、大正13年(1924)の岩淵水門完成によって上流から下流までが繋がり、通水が行われました。

荒川放水路通水後は、放水路が洪水抑制の効果を発揮したことが確認されています。・・・

この後、関連する工事が進められ、昭和5年(1930)に荒川放水路は完成しました。

「綾瀬川」、「中川」などの河川や東武線の線路、道路なども大きく変化しています。

(「今昔マップ」より)

東武線が大きく東に曲がっていましたが、西寄りに変わっています。(東武線は、「北千住」駅の先でも「荒川放水路」開削のために線路が変更になっています。)左図ではまだ京成線は開通していません。

赤線が綾瀬川の旧水路(右下に延びている水路は「元綾瀬川」)。「隅田川」との合流地点に「綾瀬川」が残っていて、「墨堤通り」に「綾瀬橋」があります。

なお、「荒川放水路」は1965年(昭和40年)に正式に「荒川」の本流とされ、それに伴い岩淵水門より分かれる旧荒川全体が「隅田川」となりました。

「岩淵水門」下流の「荒川」が明治・大正・昭和と長い年月を掛けて開削された人工河川であることを知らない人も多くなっているようです。

河川敷のグランド・野球場では少年野球が行われています。

          

歓声が上がり、のびのびとプレイを楽しんでいます。父母の応援も盛ん。コロナ禍も何のその。

「荒川」に併行する「綾瀬川」。「元綾瀬川」の一部が利用されています。

ここはサッカーグランド。少年達が元気に。

 

 


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