おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その3。蒸気河岸(がし)。通運丸。『青べか物語』。境川。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-13 21:05:04 | 江戸川を歩く

                      地下鉄東西線鉄橋。

「蒸気河岸」解説板。

このあたりは、かつて蒸気船「通運丸」の発着所があったところで、「蒸気河岸」と呼ばれていました。

通運丸は、明治10年(1877)内国通運株式会社によって運航された大型蒸気船で、東京深川や両国などから小名木川、新川を経て、江戸川・利根川一帯を定期的に運航していました。

大正8年(1919)には通運丸にかわり、東京通船株式会社(昭和3年に東京通運株式会社と改称)の定期船が、深川高橋(たかばし)から浦安を経由し行徳までを航行しました。高橋から浦安までの所要時間は1時間から1時間半でした。その後、葛飾汽船株式会社の経営する「葛飾丸」も営業を開始しました。これらの定期船を地元の人は、通称「通船」と呼んでいました。浦安から東京方面への行商や通学には、これらの定期船が利用されていました。

その後、葛飾汽船株式会社は、自動車の普及に伴い、経営が悪化してきたことから、昭和5年(1930)、東京通運株式会社に買収され、葛飾丸は就航を停止しました。さらに、昭和15年2月、浦安橋が開通し、昭和17年、東京市営バス(通称「青バス」)が浦安橋西詰まで開通したため、定期船の利用者は少なくなり、昭和19年に廃止されました。

※「通運丸」についてはこのBlogでも「利根運河」のとき(「利根川」を歩く)に取り上げたことがあります。

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1915年(大正4年)の利根運河

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1892年(明治25年)4月14日に内国通運会社(現在の日本通運)が、利根運河に初めて汽船の運河往復試運転を実施、1893年(明治26年)4月1日に銚子汽船(後の銚子通運会社、銚子合同汽船会社)が初就航し、銚子-東京間は6時間短縮された。1895年(明治28年)2月15日には、東京-銚子間の直行の汽船が就航し、東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。

1896年(明治29年)12月25日日本鉄道土浦線(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。1897年(明治30年)6月1日、銚子-東京間に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、所要時間が従来の5分の1(4時間)となった。これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年(明治43年)頃までのわずか20年程度であった。

(この項、「Wikipedia」参照)

上記のように、「通運丸」は明治10年(1877)から大正8年(1919)まで、内国通運株式会社(現在の日本通運の前身)が経営した定期船。大型の蒸気船で、東京深川を起点とし、北関東、主に利根川や霞ヶ浦方面に広く航路を持っていた。東京-行徳航路として、浦安にも寄港した。

※「通運丸」は、車輪状の推進器を船の両翼につけた外輪船でした。

通運丸開業広告引札明治10年(1877) 山崎年信画

                         (「」HPより)

浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔のりと釣場とで知られていた。町はさして大きくはないが、貝の罐詰かんづめ工場と、貝殻を焼いて石灰を作る工場と、冬から春にかけて無数にできる海苔干し場と、そして、魚釣りに来る客のための釣舟屋と、ごったくやといわれる小料理屋の多いのが、他の町とは違った性格をみせていた。
 町は孤立していた。北は田畑、東は海、西は根戸川、そして南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地がひろがり、その先もまた海になっていた。交通は乗合バスと蒸気船とあるが、多くは蒸気船を利用し、「通船」と呼ばれる二つの船会社が運航していて、片方の船は船躰せんたいを白く塗り、片方は青く塗ってあった。これらの発着するところを「蒸気河岸がし」と呼び、隣りあっている両桟橋の前にそれぞれの切符売り場があった。

                                  (山本周五郎「青べか物語」より)

 

 

橋のたもとにある「船宿吉野屋」。「山本周五郎著『青べか物語』の船宿千本」と記され、登場人物のモデルになったようです。

青べか物語

根戸川の下流にある浦粕という漁師町を訪れた私は、沖の百万坪と呼ばれる風景が気に入り、このうらぶれた町に住み着く。言葉巧みにボロ舟「青べか」を買わされ、やがて“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、親しまれる。貧しく素朴だが、常識外れの狡猾さと愉快さを併せ持つ人々。その豊かな日々を、巧妙な筆致で描く自伝的小説の傑作。

(この項「新潮社」HPより)

※1960年(昭和35)1~12月号《文芸春秋》に連載。作者の山本周五郎は昭和3年(1928)から1年余、浦安に仮寓していました。そこでの体験・見聞から生み出された傑作。

※「べか舟」

べか舟とは、のり採り舟のことです。

長さ12尺(3.6メートル)、幅2尺8寸(84センチ)位の薄板で造った小舟です。幅が狭いのが特長で、これはのり採りをするとき、棚の間隔4尺(1.2メートル)に入りやすくするためでした。

一人乗りで艫部に縛りつけた櫂で漕ぎます。のちに、機械化され、4馬力から5馬力の発動機を取り付け、のり採りは電気掃除機のような長い柄がついたモーター付きの採取機で、のりの網の上から吸い込んで行うようになりました。

(「」HPより)

「境川西水門」。

境川から見る西水門と東西線の陸橋は元町浦安を代表する景観として地元住民から親しまれています。水門の両側にある大桜は浦安の桜の名所の一つとして毎年見事な桜を見せています。

              境川。

※昭和30年代まではアサリやハマグリ漁、海苔の養殖などで隆盛を誇った潮の香が漂う漁師町で、市内を北西から南東に流れる川もかつて漁港の指定を受け、最盛期には千数百隻もの大小さまざまな漁船の基地となり、生活用水や消防用水に利用され、子どもたちの遊び場でもあって町の発展を支えてきた重要な川であった。

境川に平行して延びている堀江地区のフラワー通りは、芝居小屋や寄席があり、この辺りで一番の繁華街だったところで、周辺には寺社が数多く、貴重な民家や昔ながらの銭湯、駄菓子屋が現在も点在している。(「Wikipedia」より)

                     1880年代のようす。

この地域のみ集落が集中していた。微高地だったのか?

                     2010年代のようす。

周囲にも住宅が密集している。上に東西線「浦安駅」。

歌川広重画・名所江戸百景「堀江ねこざね」。「境川」を挟んで「堀江」村と「猫実」村。

リンド技師記念碑」。

現在も利根川・江戸川の工事用基準として使われている利根川・江戸川の水位基準面の基となった「堀江水準標石」を設置するなど、日本における近代測量の基礎を成したオランダのリンド技師の功績を称えた記念碑。

表面がかすれて判読不能になってしまっているのが、残念!

振り返ると電車が通過中。

河口に向かうボート。


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