「児玉駅」。
埼玉県本庄市児玉町児玉にある駅。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅 - 倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。児玉出身の、
盲目の国学者 塙保己一
塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。
7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。
保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続編1185冊は、現在、日本の文学・歴史等を研究する上で欠くことのできない重要な資料となっています。
保己一の生まれた保木野地区には生家(国指定史跡)と墓があり、アスピアこだま内には保己一の遺品や関係資料(埼玉県指定文化財)を展示する塙保己一記念館があります。(この項「本庄市」HPより)
※『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)国学・国史を主とする一大叢書。
塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。歴史学・国学・国文学等の学術的な研究に多大な貢献をしている。
右手に奥武蔵の山々が見え始めます。
左手は田園地帯。
一転にわかにかき曇り、大粒の雨が降り始めました。
「用土駅」。
おしゃれな駅舎のようです。(「Wikipedia」より)
『新編武蔵風土記稿』の用土村の項に「村内に鎌倉古道あり、小前田村の方より入り、児玉郡八幡山町へ通ず」とある。
この付近の今昔。
(現在)「宿」という地名が残されている。
(1880年代)顕著な道が通る。旧道か?
左手から秩父鉄道が迫ってきます。
「寄居駅」に近づきます。
「東武東上線」ホームが左奥に。
「寄居駅」。
秩父鉄道の秩父本線(秩父線)、東武鉄道の東上本線(東上線)、JR東日本の八高線の3路線の接続駅となっており、東上線に関しては当駅が終点となっている。
駅名の由来秩父山麓の豊かな緑と荒川の名水で有名なこの地は、秩父地方の出入口として重要な位置を占め、この町を通過しなければ、峠よりほかに道はなし、といった立地条件を背景に多くの人が寄り集る場所と云われたことから、「寄居」という名前が生れ駅名にも命名されました。
戦国時代には特に重要な拠点として登場しています。(この項、「」HPより)
八高線・高崎行きの列車。