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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その4。新幹線と元荒川。郷地橋。埼玉県運転免許センター。三谷橋。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-11-02 19:31:02 | 元荒川

新幹線の高架橋。

下流(西側)を望む。

新幹線の橋梁から右手に。

県道に出ると、正面に古びた建物が。

      倉庫? 

一つ手前の橋から上流を望む。

「郷地橋」。

新幹線高架下を流れてくる。

       振り返る。

対岸遠くに「埼玉県警察運転免許センター技能試験場」。

 

            

          対岸は、「運転免許センター」。

土手の道をのんびりと進みます。

鮮やかな朱色のカラスウリ。

これは「槙(まき)・イヌマキ」? 

小さい赤い花が流れ沿いに。

左からは、上流の「三ツ木堰」で取水した農業用水の排水、余水。

左に見えるのは「三谷橋」。

橋のたもとはポケットパークになっています。

右:「鴻巣市ふるさと総合緑道」案内図、左:「歩いて地域再発見 歩鴻(行)マップ」。

今回は、ここまで。JR高崎線・鴻巣駅に向かいます。

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その3。上谷総合公園。中斉橋。ふるさと総合緑道。竹林公園。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-10-31 18:50:08 | 元荒川

畑が広がります。

対岸は、「上谷総合公園サッカー場」。

その先には、「テニスコート」。

      

      真夏とは違い、晴天の下、歩きやすい。

     大空を悠々と飛ぶ。

「中斉橋」を渡り、対岸へ。正面には、広大な「上谷総合公園」。

鴻巣市の南東に位置する『上谷総合公園』内に設置されたスポーツ施設です。野球場の「フラワースタジアム」を主施設とし、人工芝テニスコート10面・人工芝サッカー場1面、多目的グラウンドを配置し、夜間照明設備も整備されています。
スポーツ振興を目的として設置された公の施設で、スポーツ及びレクリェーションの場を提供し、健康で明るい市民の育成を図っています。                                           (「スポーツナビサイタマ」HPより)

下流方向。上流方向。

「ふるさと総合緑道」案内図。

「フラワースタジアム」。

             ここで、小休止。

「ふるさと総合緑道」を歩いて、上流へ向かいます。

「笠原大橋」。

「元荒川と緑、竹林」。               

対岸(右岸)のようす。

水道橋。 

対岸沿いの道路は、けっこう車が行き来しています。 

緑道には、銀杏の実や栗、木の実などが散らばっています。

  ぎんなん。

新幹線に近づいてきます。

        

橋の名は不明。

栗林。

「もうシーズンは終わったよ」と作業していた方。

「この先は県道に出て竹林公園へ向かうといいよ。あそこに見えるのが竹林公園だから」と。

                

新幹線沿いの管理道路。

ここにも木の実が散らばっています。何の実?

右手に「竹林公園」。

  

静かな空間。

                  朽ちかけた四阿がポツンと。

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その2。流路の今昔・蛇行した跡。鴻巣市常光・久喜市菖蒲。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-10-29 20:48:01 | 元荒川

上流方向。

左岸土手の道を歩きます。

右手にはかつての流路跡が残っています。

※流路に沿って村境が設定されています(現在の鴻巣市と久喜市にあたる)。

この付近の今昔。

                

                                   (1880年代)

 

                (現在)    

 

               右手に広がる、かつての流路跡。

       叢になっているところと道路になっているところがあります。

現在の元荒川の流れ。

航空写真では、

蛇行する旧流路がはっきりしている。             

正面に立派なお屋敷。

                                       このおうちは、鴻巣市常光。

草刈りの終えた土手を歩くことに。

ここは、久喜市。

左岸が久喜市、右岸が鴻巣市。

                                 

                                カラスウリ。

左手から鴻巣東部都市下水路。

               右岸方向。田畑が広がっている。

来た道を振り返る。

                 右が鴻巣市常光、左が久喜市菖蒲。

前方に草刈り作業中の軽トラ。

           「次の橋のところまで、草を刈ってありますよ」。まだ土手を先まで進めるので、一安心。

振り返って望む。

右手に田園風景が広がります。

この付近の今昔。 かなりの曲がりよう。

        (1880年代)           (現在)

左手(右岸)に「上谷総合公園」が見えてきます。

サッカー場や野球場、テニスコートなどけっこう施設が整い、大きな運動公園です。

 振り返る。

          川幅がぐっと狭くなっている。                     

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高崎線「桶川駅」~「鴻巣駅」。その1。五丁台バス停。幸手市。新幹線と何度か交差。鴻巣市常光入り。四郎兵衛橋。(「元荒川」をゆく。第5日目。)

2024-10-28 18:27:06 | 元荒川

今回は、「桶川駅」から朝日バスに乗って「五丁台」まで。そこから元荒川を遡ります。

「五丁台」バス停。

                「新幹線」高架線の手前から「幸手市」の標示。

「五丁台橋」。

              秋も深まる10月20日(日)晴れ。

元荒川下流方向。

               正面に見えるのは、「圏央道」。

上流方向。この先、新幹線と何度か交差します。

土手沿いに歩くことが出来ないので、新幹線沿いに迂回します。

本郷水管橋。

頭上をけっこう行き来する新幹線。

新幹線と川との間は耕作地になっています。

再び新幹線と交差。

この先も土手歩きは出来ず、集落に通じる道を進むことに。

上流方向。

田園風景が広がります。

右手に元荒川の流れ。

振り返る。

道路が交差する地点に何やら標識のようなものが。

 

この付近から鴻巣市常光入り。元荒川の対岸は、久喜市菖蒲。

来た道を振り返る。

鴻巣市と久喜市の境にある橋から。下流方向。

上流方向。

ここも草むらで歩行不能。

少し回り道をして次の橋に向かいます。

「四郎兵衛橋」。

この先からかつての元荒川が蛇行していた跡が残っています。

※今回の総選挙。今後の政局がどうなっていくのか? 立憲民主党も、いよいよその真価が試されている、と。

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その5。綾瀬川源流付近。横手堤。朝日バス「五丁台」バス停。附:桶川宿。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-24 20:15:13 | 元荒川

「東北新幹線」。

農地が広がります。

「桶川市 環境センター」。

新幹線高架下。綾瀬川。

横手堤(左手)。

横手堤:赤堀川の水除堤と綾瀬川への導流堤を兼ねた旧堤防。横手堤を挟んで2本の農業排水路が流れていて、北側の排水路は赤堀川へ落ちる。南側の中堀は綾瀬川の源流となっている。

赤堀川。

              

北東側に広がる田畑。

新幹線高架脇を進みます。                

                           遠くに「圏央道」。

                新幹線と交差する「圏央道」。

桶川市マンホール。

  市章と紅花のデザインの側溝の蓋。「べに花の郷 桶川市」。

朝日バス「五丁台」バス停で乗車。桶川駅まで戻ってきました。「桶川」は「中山道」の宿場町。中山道は、板橋宿から下諏訪宿まで歩きました。その先は、まだ。

中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸日本橋から数えて6番目の宿場。現在の埼玉県桶川市にあたる。

「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし-の-くに あだち-ごおり おけがわ-の-ごう-ない すがや-むら)」とある

日本橋から距離にして10里14町(約40.8 km)と、ちょうどそれは江戸を出立した旅人が1日で歩く道程(詳しくは「#中山道の行程」を参照)とおおよそ等しく、江戸方に一つ手前の上尾宿(9里16町、約37.1 km)とともに、宿場町として絶好の位置にあったと言える。また、この距離はフルマラソンともほぼ同じである。

桶川宿は寛永12年(1635年)に設置された。当初わずか58軒に過ぎなかった宿内家数は、「中山道もの」といわれた紅花等の染料や食用農作物の集散地となっていた天保14年(1843年)頃には347軒に達し、経済的にも文化的にも繁栄を見せている。本陣は1軒、脇本陣は2軒。府川家が世襲した敷地面積1,000余、建坪200坪に及ぶ本陣は、当時の建物の一部が個人宅として現存している。旅籠は36軒あり、当時の建物を残して今日ある「武村旅館」はその中の一軒であった。

加賀前田家を始めとする参勤交代の大名の多くが、桶川宿の府川本陣を定宿としていた。水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が足跡を残していることも知られている。また、文久元年11月13日(西暦1861年1月2日)には、皇女・和宮(親子内親王)が公武合体政策の一環で徳川将軍・家茂御台所として降嫁すべく江戸へ下向の際、宿泊している。

(この項「Wikipedia」参照)

町並みが懐かしく、歩いてみます。

             宿内のようす。旧中山道。

            

           車が突っ込んだらしく、修復中だそうです。

       

             

「桶川宿本陣跡」。

          

     

ということで、「桶川宿」をほんのちょっと散策して帰りました。

駅前は、大規模な開発計画が出来ているようで、整地された空き地が目立ちます。

何年かすれば、駅前は大きく変貌することに。

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その4。赤堀川・備前堤。「綾瀬川起点」碑。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-22 20:41:37 | 元荒川

途中、地元の方の軽トラで送ってもらい、「元荒川」沿いの農地を歩かないですみました。

さて、「桶川市環境センター」のところで降ろしてもらい、そこから再び歩き始めます。

「赤堀川」。右は、「桶川市環境センター」。

赤堀川

北本総合公園南東の北本市朝日地区と、鴻巣市常光地区との境界付近の田園地帯に源を発する。 ゆるやかに蛇行しながら概ね南東方向に流れ、高野戸川等の支流を合流しながら次第に流量を増す。 桶川市環境センター(ゴミ処理場)の脇、備前堤と直角にぶつかった所で備前堤に沿って北に不自然に曲がり、約300m 下流で元荒川の右岸に合流する。なお、備前堤を挟んだ反対側に綾瀬川の起点がある。 

起点から合流点まで、全域で元荒川の右岸側にほぼ平行して流れている。主に水田の排水路として機能していて、周囲は上流域は工業団地、下流域は主に農地となっている。 

※「備前堤」という名は、江戸時代に関東郡代として、幕府の領地にあった伊奈備前守忠次に由来する。忠次は、鴻巣領(鴻巣市付近)、小室領(伊奈町)一万三千石を給され、小室に陣屋を構えた。
この備前堤は、常光(鴻巣市内)、中丸(北本市内)方面から流れる赤堀川を幅4メートル、高さ約3メートル、長さ約600メートルの堤を築いて締切り、その流れを元荒川に直角に落としたものである。

この堤の完成によって、下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになったが、現在の桶川市域を含む上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年にまで及んだという。
出水のたびに、上流と下流の村々の間で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、現在も残る「御定杭」はこの争いを調停するために、土俵を積む高さを制限する目安とされたものである。

                                               (現在)〇のところで直角に折れる。北と南、二か所に「御定杭」が残っている。

                                               (1880年代)堤が確認できる。元荒川は河川改修前で、かなり蛇行している。

「綾瀬川起点」碑。

下流を望む。備前堤に沿って流れているか?

綾瀬川

埼玉県桶川市の小針領家の田園地帯の排水に源を発し、桶川市営運動場付近を流れ東に向かう。徐々に方向を南東に変えて北足立郡伊奈町蓮田市の境となる。右岸が上尾市に変わるところで、原市沼川を合わせる。以後蛇行しながら南東に流れ、いくつもの農業用水や排水路の水をあわせて次第に流量を増す。綾瀬川によって形成された低地によって大宮台地の片柳支台、鳩ヶ谷支台および岩槻支台が隔てられている。

以後中川低地に至り、草加市越谷市あたりでは川幅が数十メートルになる。しかし草加市で綾瀬川放水路を東に分け、一気に流量を減らす。綾瀬川放水路は洪水防止のために作られたもので、東京外環自動車道の下を通って中川に流れ込む

草加市内では古綾瀬川を合わせ、東京都足立区と埼玉県八潮市の境に入る辺りで伝右川毛長川を合わせる。足立区では花畑運河で中川と連絡する。葛飾区荒川放水路の左に沿って流れ、葛飾区東四つ木で中川に合流する。

左が綾瀬川、右は中川。ここで合流する。

戦国時代の頃は利根川荒川の本流であった。

荒川放水路が開削される前は、現在の旧綾瀬川を経由し隅田川に合流していた

戦国時代の頃は利根川荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は、現在の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから現在の綾瀬川の流路に入った。現在の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれて綾瀬川が分離した綾瀬川の川筋は、武蔵国内の足立郡埼玉郡の境界とされていた

慶長年間(1596年 - 1615年)には備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという

当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっていた。寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まり、これにあわせて、天和3年(1683年)に綾瀬川の直線化の工事が行なわれた。これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになった。

(この項、「Wikipedia」より)

「日光街道・草加宿」と綾瀬川。

  
  
  
1880年代のようす。         現在のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

「御定杭」。

    南北2ヵ所にあるうち、南にあるもの。※北の杭は「赤堀川」の対岸にあるが、叢に隠れていて、確認できず。

その付近から綾瀬川起点碑を望む。

              かなり下方に流れ(枯れた)がある。

新幹線沿いの道を歩いて、バス停のある「五丁台」へ向かいます。

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その3.「常福寺橋」・「高虫橋」。「野通川」。ソバ畑。工事中の道・今回も軽トラに乗せてもらう。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-21 20:57:33 | 元荒川

「常福寺橋」を渡り対岸へ。

「常福寺橋」(下流より)

元荒川(下流方向)。

対岸。

元荒川の下を潜り抜けた見沼代用水が南東に向かっていきます。

元荒川右岸の土手を歩きます。

右から「野通川」が合流。

野通川はかつて周辺に存在した小針沼を始めとした、沼地干拓排水路として開発されてきた。 現在の流路は元荒川支派川改修事業が実施された大正末期から昭和初期にかけてのものである。その後鴻巣市加須市と元荒川と見沼代用水に挟まれた低地を南東と流れ、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で元荒川左岸に合流する。 流域は主に農地として利用されているほか、川里工業団地といった工業団地ゴルフ場が存在する。

左手に広がる田畑。

高虫橋」。

              

この先、土手伝いは歩きにくいので、左の道路を進みます。

ソバ畑が広がる。

「日本アニマルパートナーシップ協会」の建物を右折。コスモス。

          

「ソバ」の名は栽培地や植物の性質を表したものと考えられている倭名類聚抄』には「曽波牟岐(そばむぎ)」とある。また『古今著聞集』には「そまむぎ」とある。「そま」は漢字では「」と書き、権力者が建築資材確保のために所有した山林のことで、中世にかけて貴族や社寺の所有する荘園の一部であった。このことから「杣」のような山で栽培される畑作物の意味で「そまむぎ」と呼ばれていたと考えられているまた、山の険しい地形を意味する「岨(そわ)」や「そは」の語や険阻なことを意味する「曾波(そば)」の語から地形に由来するという説もある

元荒川から少し離れ気味に。

住宅地へ入ります。

蓮田市のマンホール。

            蓮田市の木ハナミズキのデザイン。

カラスウリ。

花卉(かき)栽培。

鑑賞用の植物という意味を持つ「花卉」を栽培することです。 花卉の例としては、切り花、鉢花や花壇苗や観葉植物、盆栽など食用でない植物があげられます。 基本的に贈答用や、切り花の場合には冠婚葬祭として扱われることの多い植物の栽培になるため、嗜好性の高い作目の農業。

さて、住宅地を抜けて畑の中の道を進もうとしましたが、道路工事中で立ち入り禁止!

傍の工場で作業中の方に、この先の道を尋ねたところ、「どこまで行くの?」

「元荒川に出たいのですが」

「それなら、送っていくよ」と。軽トラを出してくれました。

「すいません。ありがとうございます」

「いや、こんな時間に歩いている人を見かけることはないので。気になって見ていたところだよ」。

というわけで、「八ッ場ダム」歩きに続いて、今回も軽トラに乗せてもらって、やれやれ。

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その2。見沼代用水。柴山伏越。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-20 19:05:27 | 元荒川

道に迷いましたが、「柴山伏越(ふせこし)」にようやく近づきます。

左に「柴山伏越」。

                         正面には「常福寺」。

「柴山伏越」。

元荒川と見沼代用水の交差地点で、元荒川の川底を見沼代用水が抜け出る構造になっています。これは、流体を低い所に落とし、元の高さまで押し上げる連通管の理論を応用したものです。この伏越は、享保12年(1727)に井沢弥惣兵衛為永によって「紀州流」という土木技術でおこなわれました。当初、伏越地点では伏越と掛渡井(元荒川の上を樋によって通水する)がおこなわれ、舟運にも利用されていました。

令和元年、見沼代用水は「世界かんがい施設遺産」に選ばれました。(「白岡市観光協会」HPより)

           

見沼代用水(みぬまだいようすい)は、埼玉県にある灌漑農業用水。江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永新田開発のために武蔵国に普請した。灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であった。現在の埼玉県行田市付近の利根川から取水され、東縁代用水路東京都足立区西縁見沼代用水路は埼玉県川口市に至る。埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている疏水百選にも選定され、かんがい施設遺産に登録されている。

「見沼代用水路の概要」

          「見沼代用水」概念図。

「見沼代用水」(北東方向)。

柴山伏越 

見沼代用水路は、享保12年(1727)徳川吉宗が勘定吟味役格井沢弥惣兵衛に命じ、県南東部(大宮台 た見沼溜井を干拓させたとき、代わりに水源を利根川に求めて掘った用水路であり、もとの見沼に代わる用水路といことで見沼代用水路と命名された。水路延長は約60キロメートルで、受益面積約17,000ヘクタールにも及ぶ大用水路である。

井沢弥惣兵衛は紀州(現和歌山県地方)の人で、土木技術にすぐれ、この用水路の工事は、着工から完成まで約6ヶ月で完工している。当初の設計にほとんど狂いがなかったといわれたほどで、いかにすぐれた土木技術を駆使して進められた工事であったかがわかる。

同用水路が元荒川と交差するこの場所では、元荒川の川床を木製の樋管を使用してサイフォンで通すという大工事を行った。これが柴山伏越である。

現在は、河川の改修が行われ、以前より川幅も3分の1と狭くなったが、これまで、修繕や伏替工事などが20数回行われ、現在見られるような構造になった。

設置当時:荒川の川底のさらに下、平地から5.4mの地下にトンネルを掘って木で樋を造り、その中に用水を通して、元荒川の下をサイホン式にくぐらせている。  設置当初の伏越は、長さ約47m、内幅約4.2m、高さ約1.2m。

※伏越(ふせこし・ふせごし)

用水施設排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川法の適用を受ける河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの

用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い武蔵国見沼代用水埼玉県)の「柴山伏越」二十箇用水大阪府)の「久左衛門樋」など、歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)

                

 

  

この付近の今昔。

                               (現在)「柴山伏越」。近代化されている。

                               (1880年代)「見沼用水」と表示されている。

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宇都宮線「蓮田駅」~「桶川駅」。その1。朝日バス「根金(ねかね)橋」バス停。「隼人堀川」。「柴山沼」。(「元荒川」をゆく。第4日目。)

2024-10-19 20:15:06 | 元荒川

気温も少し落ち着いてきたので、「元荒川」歩きを再開します。

10月14日(スポーツの日)。晴れ。

「蓮田駅」から朝日バスで「根金橋」まで。

                         前回、暑さで中断したところから歩きます。

左岸の土手を歩く予定でしたが、草がかなり生い茂って、歩くのが難しい状態。

                       

     右岸もこんな状況。

「根金橋」。

そこで迂回し、「柴山沼」の方へ向かいます。

 

                          「隼人堀(はやとほり)川」。

白岡市柴山を管理起点とし、宮代町を流れ、春日部市で古利根川に合流する1級河川である。隼人堀川は、見沼代用水路の完成とともに周辺地域の灌漑用水が確保され栢間沼を干拓するにあたり、溜水を排水するために掘られたものである。この川の呼び方は、以前は庄兵衛堀川合流地点から下流を隼人堀川と呼び、上流部分は栢間堀と呼んでいた。今では河川行政上は全川を通して隼人堀川と表示されている。隼人堀川が見沼代用水路の川底をくぐって川の立体交差を形成している。

・・・

工業団地に出入りする大型ダンプなどがひっきりなしに行き交う道路「稲穂通り」を歩き、ようやく

「柴山沼」へ。

大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の下浸作用によって形成された河川跡です。
県内の自然沼としては、川越市の伊佐沼に次ぐ広ささの沼です。面積は12.5ヘクタール、水深は約8メートル。
平成4年度から始まった県営水環境保全事業によるビオトープ(生態系の保全、復元)などの整備により、さらに親しみやすい沼になりました。
柴山沼は格好の釣り場として、多くの釣り人が年間を通して訪れています。(「白岡市観光協会」HPより)

大雨などの際には隼人堀川(栢間堀)が排水不良となり、柴山沼の水が流下できなくなり冠水する事態もたびたび発生していた。1948年昭和23年)のカスリーン台風水害の際にその地理的条件から大きな損害を受けている。後に柴山沼は1977年(昭和52年)より埼玉県営圃場整備事業で面積は12.5ha、水深約8mの規模の沼となり、周囲の掘り上げ田は通常の水田乾田)へと姿を変えた。・・・(「Wikipedia」より)

             

「県営干拓地等農地整備事業 芝山地区竣工記念碑」など。

「柴山沼」解説板。

柴山沼は、大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の浸食作用によって形成されたものである。

江戸時代の享保13年(1728)から井澤弥惣兵衛によって周辺の浅い部分を堤で囲い、新田約24町3反歩(約24.3ヘクタール)を開いたにとどまり、中央部に53町歩余(約53ヘクタール)を残していた。

その後、明治から現在に至るまで稲作中心の土地利用が促進され、今では沼の規模は総面積11.9ヘクタール、最大深度約8メートルになっている。

最近では、沼周辺部は稲作にかわって梨、野菜、イチゴなどの栽培が進められている。

・・・

この付近の今昔。

                               (現在)中央の川が「元荒川」。

干拓事業が完成している。

                                (1880年代)沼地が大きく広がっている。

※現在、「柴山沼」の南側、北側には、田畑・果樹園などが広がっています。

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宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。リタイヤ編)

2024-07-28 19:28:27 | 元荒川

白岡市のマンホール。

抽象的な「家族」を中央に配置。 その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。

「篠津一号橋」。「星川」。

              

星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。

橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。

けっこうな回り道。

「蓮田白岡環境センター」。

右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、

やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。

       

産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。

星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。

上流に橋が見えてきます。

橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。

※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町を流れ、春日部市で古利根川に合流する1級河川である。隼人堀川は、見沼代用水路の完成と共に周辺地域の灌漑用水が確保され栢間沼を干拓するにあたり、溜水を排水するために掘られたものである。この川の呼び方は、以前は庄兵衛堀川合流地点から下流を隼人堀川と呼び、上流部分は栢間堀と呼んでいた。今では河川行政上は全川を通して隼人堀と表示されている。

左折し、元荒川に架かる橋へ。

                    「根金(ねかね)橋」。

ここまで小1時間。もう汗びしょびしょ。

ここからは土手の道を歩くことになりますが。

振り返る。

この先は木陰のない土手歩き。

しばらく、小休止。この先どうしようか。

この付近を通るバス停の時刻を調べると、「蓮田駅」行きが、あと10分くらいで来るらしい。

この先はあきらめることにし、バスに乗り、蓮田駅まで戻ってきました。

この時期。炎天下の土手歩きは危険、危険。

この先は、涼しくなってからにしよう、と。

ということで、元荒川歩きは中断にします。

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7月27日(土)。向島百花園。カルガモの姿がなくなった池。風鈴。朝顔。そして隅田川花火大会。

2024-07-27 17:37:30 | 元荒川

向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?

ところが、どこを見渡してもいません。

親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?

そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。

帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。

こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。

園内には、

風鈴が涼しそうな音色を響かせています。

         

           

足下には木漏れ陽。 

炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。

そしてザクロの実が一つ。

朝顔展の準備が始まっています。

            

売店には「氷」の旗が。

この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。

アゲハチョウの姿が(↓)。

遠くにスカイツリー。

今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになるはずです。

間近で眺める機会もなさそうなので、開会前の様子を野次馬根性で行ってみます。

工事中の隅田公園(墨田区側)は立ち入り禁止のようです。

隅田堤も規制線が張られ、もう厳重警戒中。

シートが置かれ、番をする人も。

いつ頃かシートを敷いたのでしょうか? 

                    もう宴会をしている人たちも。

TV中継の準備中。

その向こうには、スカイツリー。

桜橋脇の打ち上げ地点の準備も着々と。

下流を望む。

何だかゴロゴロ雷の音が聞こえてきます。足立のときのように直前で中止にならないよう。

「隅田川花火大会」。

我が家で花火の音を楽しむことにします。飲むビールは「アサヒ」ではなく、キリンの「一番絞り(糖質0)」で。

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宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。リタイヤ編)

2024-07-26 18:34:20 | 元荒川

7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。

「八幡橋」方向。

             

かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな? と       

「さくらロードガーデン」。

川べりも歩けそうです。

左手に解説板があります。

                        「茅野(かやの)の渡し」。

現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました

渡しは対岸の二軒の家で交替に行われ、舟はそれぞれが持っていました。当番が向こう側の時には手を叩いたりして合図し、向こうから舟を持ってきてもらいました。大正初期で一銭だったといいます。この渡し場は下流に大正一二年五月に八幡橋が架橋されると次第に利用者は無くなりました。

なお、当地で船頭を行っていた杉崎家には「円空仏」が伝わっており、これは渡船の渡し賃として円空からいただいたものだと伝えられています。

対岸(蓮田市側)を望む。

この付近の今昔。

                                                                

(1880年代)渡し場がある。白岡側は砂地。        (現在)白岡側は住宅地。上は「星川」。

右手から「星川」が合流。

              

元荒川上流へ行くには、星川沿いを迂回します。

元荒川の下流を望む。

コスモスが咲き始めています。

※星川は熊谷市上川上を起点とし、白岡市西で元荒川と合流する延長約34km、流域面積約45平方kmの利根川水系の1級河川である。起点から小見(行田市)までを上星川といい、小見から上大崎(久喜市)の16間堤までを見沼代用水といい、16間堤から元荒川合流点までを下星川という。見沼代用水が伊澤弥惣兵衛為永によって半年間の短い工期で完成できた理由の一つはこの星川を利用したことであると言われている。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その7。白岡市。八幡橋・八幡の渡し。元荒川架橋記念碑。車站(しゃたん)之碑。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-24 21:03:30 | 元荒川

「東北新幹線」。

白岡町(白岡市)の表示が。

※「白岡市」

白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。

昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。
誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。
このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。

交通面では、都心まで40分程度で結ぶJR宇都宮線が南北に走り、白岡駅、新白岡駅には上下線とも1日100本前後の電車が停車し、通勤・通学の足となっており、東京都心まで約40キロメートルに位置し、ベットタウンとして発展してきました。

また、東北道、国道122号、県道8路線が市内を通過し、東北道久喜インターチェンジや圏央道白岡菖蒲インターチェンジにも良好なアクセスが可能であることから、広域的な交通利便性に富んでいます。

特産品の「梨」は県内有数の埼玉梨の主産地であり、4月中旬には市内の梨園が梨の花で白一色となります。
白岡市は、『みんなでつくる 自然と利便性の調和したまち しらおか』をスローガンに、自然と調和した新しいまちづくりに取り組んでいます。

(この項、「」HPより)

対岸は、蓮田市。

     東北新幹線・橋梁。

             水位計。

振り返ると通り過ぎるところ。屋根しか見えませんが。

上流に「八幡橋」が見えてきます。

           

叢の中に石碑と解説版。

          

対岸は蓮田市貝塚で、以前この地は「八幡(やわた)の渡し場」があった。明治43年に白岡駅が開業を始め、駅周辺の商家を中心に近隣の有志の援助を受け、大正12年に「八幡橋」を架けた。現在の永久橋は平成6年に架け換えられたものである。(「白岡市」HPより)

※渡しの仕事は「かっこし(川越し)の家」の屋号で呼ばれる早川家で行っていた。

左手には「元荒川架橋記念碑」が残っている。

上流方向。

今回は、ここまで。炎天下、宇都宮線「白岡駅」に向かいます。

白岡駅前に大きな石碑。

旧国鉄東北線白岡駅は、明治43年(1910年)2月11日に開業しました。本碑は、その開業を記念して同年5月、白岡駅前に建てられました。
撰文と書は中島撫山。篆額は亀田雲鵬。裏面には、本碑建設のための寄付者氏名が列記されています。

白岡駅と車站之碑 
 明治維新後、国は輸送手段の一大改革として鉄道建設を推進し、その一環として1885年(明治18)7月、日本鉄道会社により大宮-宇都宮間が開通しました。 しかしその際、白岡駅は設置されませんでした。
 そのため、地元有志は交通の利便化と産業の振興を願って、日本鉄道や帝国議会に駅の設置を請願市、駅用地の寄付も行いました。しかし、その後の日露戦争(1904~1905)で設置は遅れ、再三の請願の結果、1910年(明治43)2月11日になってようやく駅が開設されました。駅名は白岡八幡宮から名をとって「白岡駅」とされました。
 「新設白岡車站之碑」は駅開設の5月に立てられたもので、開設までの苦労や、駅開設後に人々が利益追求に走ることを心配する内容などが、久喜の漢学者中島撫山の撰文により刻まれています。また、記念碑の寄付人名には久喜、岩槻、蓮田の人々も含まれ、周辺地域の人々も白岡駅開設に関心の高かったことがうかがえます。
   平成13年6月    白岡町教育委員会

【新設白岡車站(しゃたん)之記】 明治43年(1910)建立。高さ 364cm。

※ ( 「站」は立ちどまる意 ) 車が中途で立ち寄る所。停車場。鉄道の駅。

「白岡駅」ホーム。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その6。新今宮橋。今宮橋。東北新幹線。白岡市入り。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-23 19:25:04 | 元荒川

日差しが強くなってきます。

木々があるので、

                 歩くのにはちょうどいい。

ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。

次の橋に近づきます。

振り返る。この先には運動公園はなさそう。

広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。

「新今宮橋」。

下流方向。

             

上流方向。

大きくて見事なサボテン。

水管橋。

蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。

「今宮橋」・今宮けやき通り。

     下流方向。

上流側から橋を望む。

川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。

                                これがけっこう長い。

この付近から白岡市入り。

対岸に東北新幹線。

この付近の今昔。

                                                                                                                       

(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。          (現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その5。河川敷の公園。パークゴルフ。荒川橋。色鮮やかな草花たち。新荒川橋。キウイ。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-21 20:21:02 | 元荒川

運動広場が続いています。

パークゴルフ? それともグラウンドゴルフ?

この先、公園ではどこもゴルフを楽しんでいます。

河川敷なので大雨なのでは水没する可能性も。

両の島水門。

橋が見えてきます。

「荒川橋」。

JR宇都宮線・鉄橋。

                     白岡駅方向。

「椿山住宅地」。

川沿いの緑地・公園へ。

                

この公園の土手際には、様々な花が咲き誇っています。

 

  

                                 ベンガルタイガー(カンナ)。 

知らない名前の花たちが、

色鮮やかに。

          

                       

素敵なおうち。

「新荒川橋」。

少し河川敷から離れて進みます。

キウイがたくさん実る棚の下を抜け、河川敷に。

この公園でもゴルフを楽しむ人たちの姿。

元荒川の流れ。

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