百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

Friedrich Wilhelm Nietzsche (1844ー1900)

2019年10月14日 | 空木宝剣

台風や 日本列島 水浸し

台風15号では、暴風で千葉県は大被害。

この度の19号は、千曲川や阿武隈川が大氾濫。

台風一過とはいかない、後始末。

風の通り道と、水の通り道。

大型台風の度に思い出す。

昭和29年の洞爺丸台風。

団塊が4才の時に命びろいした台風。

北九州は戸畑港。

石炭満載の永福丸に乗り合せ沈没。

横なぶりの雨と、荒れ狂う大波の中で一命を取り留めたが、その台風は、日本列島を席巻し、青函連絡船洞爺丸を転覆させ、1155名もの犠牲者を出してしまった。

水上勉(1919〜2004)「飢餓海峡」の題材にもなり、「ああ洞爺丸」という題名で映画化もされた。

その台風の姿は、4才の幼児ながら、暴風雨や波しぶきに洗われる戸畑港の岸壁と、闇の中を右往左往する懐中電灯の光として日光写真のごとく脳裡に焼け付いている。

今回話題となった61年前の狩野川台風は、その洞爺丸台風の4年後、昭和33年の事だった。

気圧877ミリバール、風速75mの台風は、1269名の犠牲者を数えた。

その翌年の昭和34年には、伊勢湾台風。

4697名の死者と401名の行方不明者を出した。
団塊は、当時小学3年生なので、その記憶は鮮明に残っている。

百島小学校、福島校長が朝礼で、「名古屋が台風で大変だから、学校は毛布や衣類を送るが、皆さんもお小遣いを寄付しましょう」との事で、はじめての寄付を覚えている。

当時、アルミ製の1円玉ができて新しかったが、二宮尊徳の1円札などもあり、一人平均5円から10円の寄付をした。

それから16年後の昭和50年代。

青年の思い描いていたモノクロの、悲惨な名古屋は、どこにもなかった。

高潮で陸に乗り上げた船や、強風でバラバラにされた民家など、どこにも存在しなかった。

高度成長期の16年間が、白黒の世界をカラフルな世界へと様変わり。

伊勢湾台風の痕跡など、既に、どこにもないと思えたが、あった。

覚王山の近くに、金網に囲まれたこんもりとした芝生の広場があったのである。

聞けば、あの台風の際、井戸水が汚水にやられて、飲み水に不自由した為、以来名古屋市民を災害が襲っても、足りるほどの膨大な水を、地下に溜めているとの事だった。

2019年の現在。

何十年に一度の大災害が、毎年のようにやって来る。

道より先に家を建て、水の通り道や風の通り道より、人の都合を優先した事による出口なしの付けが回ってきているかも知れない。

名古屋には、広小路通りがあるが、広島にも百メートル通りがある。

戦後、広島の浜井市長は、「無駄に広い道を造って滑走路にでもするのか」と揶揄されたとのことだが、先見の明とは、こういった人物のために用意されたものであろう。

未だに人間様は、雨を降らせたり、雨を止めたりの調整能力すら与えられず、宇宙の果てさえも、はてな?の世界であるが、ツァラトゥストラの語る「超人」を人工知能AIが肩代わりするとなれば、様々な生活環境が選択可能となり、神の掌から自由に飛び出す時が、すぐそこまで来ているのかも知れない。

昨日まではてな?だった、ラグビーのスコットランド戦は、日本が勝利したことは自明の理だが、次は南アフリカ戦。

今月今夜、次の勝者が分かる人あれば、その人は超人である。