ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

「幸」字考 4  <図書館と本屋と幸福>

2012-07-31 | Weblog
本屋の経営が苦しい。最近では京都大学前、百万遍のレブン書房が店を閉じられた。これまで40年近く本の業界で世話になってきたわたしですが、かつての同業仲間が閉店するのは無念でならない。
 惨状は町の本屋さんばかりではない。広大な売り場を誇る大手書店も決して安泰ではないのです。全国展開している超大型書店も売上減少が著しい。これからは大型店の撤退が増えるだろうといわれています。
 ところが相反して活況を呈しているのが古書店です。ブックオフなど、いつも混み合っています。わたしも同様ですが、アマゾンで古書をよく購入する。1円からの値付けには驚きます。
 そして満員御礼状態なのが公共図書館。自宅から徒歩5分余ほどに京都市立図書館洛西分館があります。週に2度ほどは訪れますが、閑散とした書店を尻目に、いつも混みあっています。職員のみなさんのオーバーワークは心配ですが、図書館ボランティアの方がかなり増え、業務を補助されているのはありがたいことだと感謝します。また近ごろは避暑地でもあるようです。

 新本書店の苦境は、決して電子書籍に蹴散らかされたのではありません。E bookはまだまだ発展途上で市場は小さく、紙本業界を圧迫するほどの力を持ってはいません。
 紙本屋を苦しませている原因はあれこれ考えられますが、大きなインパクトとして、古本と図書館のパワーだと思います。本のリサイクルです。
 まず書店で新本を買った読者が古本ルートに流す。それがときには何回転もし、複数の読者の間をクルクルと回って行く。彼らは愛読者ではあっても、所有にこだわる蔵書家ではないのです。
 自宅の書架に残す本と、売り払ってしまう本の見きわめが増えているようです。わたしもアマゾン・マーケットプレイスに何冊も出品しています。
 近所のスーパーマーケット・マツモトには月に2度ほど古本屋さんがやって来ます。駐車場横に急ごしらえのテント張り店を構え、すべて1冊100円均一で売っておられる。先日はじめて行き、1冊だけ入手しました。いただいたチラシには次の開催予定日と、「3冊持参されたら1冊プレゼント」。今度行くときには、読み終えたこの本と自宅の2冊、あわせて3冊を持って行くことにしました。

 さて図書館ですが、最近のテーマ「幸」を調べるために読んだ本は、近所の分館の参考図書『日本国語大辞典』日国、白川静先生の『字統』『字通』『字訓』、そして古語大辞典、方言辞典、諸橋大漢和……。幸関連語を何枚もコピーしました。
 日国の「幸福」には、日本で最初にこの語を用いたのは上田秋成『胆大小心録』のように記されています。
 図書館の本は自宅のパソコンやスマートフォンから予約できます。検索すると『胆大小心録』は、中央公論『上田秋成全集 第9巻』にある。わずか3日後には届き確認すると、「世にあらはれぬのは必幸福の人々なり」
 やはり日国の記載では、中国『新唐書』に「幸福」の記載があるが、意味は「福を願う」。幸は願なのです。それでまた図書館にPC予約しました。明徳出版社の中国古典新書『新唐書』です。着後すぐに眼を通しましたが、どこにも幸福がありません。理由は抄本だからです。
 しかたなく再度検索しますと、府立総合資料館に影印本『新唐書』上下卷(台湾商務印書館)が見つかりました。故吉田光邦先生の寄贈図書です。資料館は少し遠い。北山通に面した植物園の隣ですが、何よりありがたいのは広い駐車場が無料。時間を気にせずに本が読めます。この館は貸出不可ですので、どうしても時間がいります。それと広い休憩室があり食事ができます。この日、といっても昨日ですが、お弁当を持って訪れました。
 しかし吉田先生旧蔵のこの本は、当然ですがすべて漢文で総頁数は千数百。小さな漢字がぎっしり詰まっています。いくらか目を通しましたが、わずか1時間あまりでギブアップ。幸福は見つかりませんでした。

 上田秋成『胆大小心録』の題名は『唐書』の「膽(胆)欲大、而心欲小」からとっているそうです。字「幸福」を日本ではじめてか、あるいは初期に使用した人物の上田秋成です。新唐書も旧唐書も読んでいたのではないか?
 また図書館に自宅から予約しました。届いたのは影印本『唐書』全4巻、汲古書院刊。またまた漢文の大冊です。この本は吉田先生と同様に、たいへんな読書家だった西谷喜太郎氏の寄贈本です。この4冊と格闘してみようかと、いま思っています。新唐書はどこに「幸福」が載っているのか、さっぱり不明なのですが、秋成の「胆欲大而心欲小」は旧唐書「隠逸伝」にあるそうだからです。短い時間で辿りつけそうです。

 新本書店を利用せずとも、古書や図書館の世話になってテーマを追求することは可能です。特にITの目覚ましい進化が、インターネットで古書や図書館蔵書を探し、自宅や近所の図書館分館まで届けてくださる。なかでも市民サービスの図書館の進化は、おそろしいほどです。ひと昔前まではカード検索でした。
 わたしの払っている府市民税以上の恩恵を、図書館だけからでも十分に受けていると感謝しています。正直な気持ちです。
 現代人はインターネットで膨大な情報を収集するだけでなく、日本人の読むあるいは入手する本のひとり当たり冊数も毎年増加しています。決して減っていません。ただリサイクル、同じ物がくるくる回転する本の延べ冊数が極端に増加しているのです。1冊が何回転も回っています。古書でも図書館でも。
 渦のような流れのなかで、日本の本屋が生き残る方策はきっとあると、わたしは確信しています。流れに抗せずに大海を目指せばよい、というのがいまの心境です。
<2012年7月31日 南浦邦仁>
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「幸」字 考 (3) 大野晋説<サチ>

2012-07-28 | Weblog
 古語<サチ>の意味は、ある程度わかってきました。まず、霊力をもった猟の矢と、漁の釣針すなわち鉤の意味であるということ。そして転じて、猟漁具で得た獲物のことにも拡大していきます。
 さらに深く追求すれば、サチの語源は何であろう? 大野晋説、日本語「t」と古代朝鮮語「l」の変化説があります。日本古代語の「t」が朝鮮語の「l」に対応するといいます。例をあげますと、

日本古代    朝鮮古代
pati   蜂   pol
kati   徒歩  kol
tati   複数  til
mitu    水   mil
kutu    口   kul
sati   矢   sal
(朝鮮語の発音記号 o と i には上に横点々がつきます)

 これだけ語例が集まると、「なるほどサチは朝鮮語のサルから来ているのか」と思います。しかしサルでは「矢」であって、釣針・鉤の意味がみえません。

 釣針の「鉤」は『古事記』の海サチ山サチにたびたび出て来ます。読みは常に「チ」です。古語では矢・箭は「サ」です。サルの末尾子音Lが落ちたのかもしれませんが、矢は「サ」で釣針の鉤は「チ」。ですから「矢鉤」が「サチ」と素直に考えるとわかりよいと思います。
 また「チ」は血です。赤い血は生命力の象徴であり、神秘的呪術的な力を「チ」ともよびました。カグツチやオロチのチです。鉤を「チ」というのには、そのような思いが込められているのではないか、そのように考えています。
 次回は『万葉集』から幸をみてみます。
<2012年7月28日>
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「幸」字 考 (2) <海サチ 山サチ>

2012-07-26 | Weblog
海幸彦と山幸彦の物語は、ほとんどの日本人が小学生のときに親しんだことでしょう。あまりにも有名な神話ですので、あらためて考え直す必要もないほどです。しかし注意すべきは「幸」<サチ>と、近ごろ思っています。現代日本人がいう語「幸福」のルーツは、どうやらこの「幸」でしょうから。
 物語は『古事記』に出ます。幸彦の表記は「佐知毘古」。毘は左に田がつくのですが、「サチビコ」と読み、原文注に「佐知毘古の四字は音(おと)をもちいる」と記されています。幸<サチ>も彦<ヒコ>もこのころ、『古事記』の成立した712年ころには、表意文字がまだ確定していなかったようです。
 『古事記』から<サチ>をみてみましょう。

 弟の山サチビコは兄の海サチビコに「お互いが持っている<サチ>を交換しましょう」と提案しました。「サチ」とは、狩猟と漁労の大切な道具、矢と釣針をいいます。それらには霊魂が宿っています。霊力がなければ獣も魚も捕らえることができないと、信じられていました。
 兄の海サチヒコは大切な霊宿る釣針(鉤)を、弟である山サチヒコの矢と交換したくはなかった。当然です。矢も鉤も単なる道具ではありません。兄は後に悪者にされてしまいますが、言い分は正しいのです。霊のこもった矢も鉤(釣針)も、それぞれ用いるべき者が使ってこそ、獲物を霊力でもって獲ることができます。しかし弟から三度も交換をせがまれ、兄は仕方なく取り換えました。
 霊的道具を互いに交換することを<サチ換え>といいますが、取り換えっこしても、やはり猟漁の成果をふたりとも得ることはできません。
 弟の山サチヒコは「海佐知(釣針・鉤)もちて魚釣らすに、かつてひとつの魚も得ず、またその鉤、海に失いたまいつ」。魚を釣れないどころか、大切な兄の鉤を魚に食いちぎられてしまいました。

 兄の海サチヒコは獲物を得ることは無理だから、お互いに猟漁具を返そうという。「山佐知(さち)も、おのれが佐知佐知、海佐知もおのれが佐知佐知、いまはお互いに佐知を返すべきと思う」。<佐知の二字は音(こえ)と注されています>
 佐知が七度も繰り返されています。この文の解釈は本によっていくらか異なります。難解ですが以下に記します。「山の猟具・矢(あるいは山の獲物)は、やはり自分の猟具でなくてはならない。海の漁具・鉤(あるいは海の獲物)もやはり自らの漁具でなければならない。いまは互いに道具を相手に返すべき」
 佐知は本来、霊力のこもった猟具の矢、漁具の鉤(釣針)をいいました。それが発展して、捕らえられた獲物の獣や魚も<サチ>を意味するようになります。そして現代では産物が海の幸と山の幸です。
 ここで七度も繰り返される<佐知>は猟漁具でしょうか、それとも獲物でしょうか。いつか再考してみようと思っています。

 『古事記』では弟は失った鉤を求めて海神の国を訪れます。そして鯛の口に刺さっていた鉤をはずすことができました。ところが山サチヒコは陸に戻らず、三年間も竜宮城の如き地に留まります。
 物語はまるで浦島太郎伝説のようですが、興味ある方は「浦島子」本をご覧ください。古典では『丹後国風土記』、『日本書紀』雄略22年、『万葉集』巻9。どれも『古事記』とほぼ同時代だけに興味深い物語です。
 ところで<サチ>のこと、次回ももう少し考えてみようと思っています。
<2012年7月26日 南浦邦仁>
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「幸」字 考 (1)

2012-07-23 | Weblog
幸福のことが気になりだしたのは、昨年の11月のことです。ブータン国王夫妻が来日されたときでした。GNH<国民総幸福>を標榜し、貧しいけれど97%もの国民が「幸せ」だと返答する国。「幸せとはいったい何なのか?」素朴な疑問からはじまって、その後いくつかの幸福本巡りを続けました。
 ところで、京都の浄土宗古刹で連続勉強会が開かれています。佐伯啓思著『反・幸福論』(新潮新書)をたたき台に、市民が幸福について議論する。活発な意見が飛び交い、初参加のわたしなど正直なところ少し怖じ気づきました。
 まず5月に開かれた初回には30人以上が集いました。第2回は旅行のため欠席。7月の3回目は行きましたが20人ほどがカンカン諤々。最後の第4回目は8月初旬に開かれます。
 それにしても鹿ケ谷の閑静な寺院の広間で、このような研究会、討論会がひっそりと熱く続いているのは心底驚きです。なおこの読書会は科学を冠する教団とは、まったく無縁です。

 ところでこれまで参加しての印象ですが、「幸福」「幸」とか「仕合わせ」「幸い」とかの類似関連語の意味の問題です。個々人のもつ語のイメージや意味合い、さらには言葉の定義なりが異なる。
 幸福=金銭財力という方もいますでしょうし、健康や家庭の平和、社会的地位や権力というひともおられるでしょう。なかには快感主義やリッチなセレブ志向、あるいは三高との結婚という女性もおられるかもしれません。
 あれこれ幸本を読んでいますと、幸福とは自己実現であったり、ショーペンハウアーは解脱だったり、別の著者は生存中に幸福を得ることは不可能と書いていたり。宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。最貧国ではお腹いっぱい食べること。老子は「足るを知る」。チルチルとミチルの幸福の『青い鳥』は、あるひとつの願望幸福をかなえると何処ともなく飛び去りました。
 ポジティブシンキングではヘラヘラ笑っておれば幸福になれる。「幸せだから笑うのではない。笑うから仕合わせになれる」。願望が弱いからあなたは幸せになれないともいいます。

 字「幸福」が日本で使われ出したのは、どうも19世紀のはじめのようです。中国では千年ほど前、『新唐書』に載る語ですが、ここでの「幸福」は「福を願う」という意味のようです。幸は願うです。現代日本でいう幸福とは異なります。漢語「祥福」()あるいは福祥が日本語の幸福に近いようです。西暦720年ころの『常陸國風土記』には「祥福は俗の語に佐知(さち)という」と記されています。
 幸字はさち、しあわせ、さい、さいわい、みゆき、ゆき、ねがう、コウ、カウ、シン……。次回は「記紀」の海幸山幸からはじめて、「さち」「さつ」「さき」を考えようと思っています。そして「さいわい」「仕合わせ」、いつかは新語の「幸福」までを追ってみたいと考えています。
 当然ですが、わたしは国語学の門外漢です。「幸ゲーム」としてやってみようと思っています。間違いや不足の指摘、アドバイスなどをいただければありがたいです。それでは次回。
<2012年7月23日 南浦邦仁>

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京都の地下鉄

2012-07-21 | Weblog
 京都人にとって、地下鉄といえばまず烏丸線、そして遅れて完成した東西線でしょう。
 烏丸線は昭和56年(1981)に京都駅と北大路間がまず開業し、後に延伸して北は国際会議場と南の竹田間。さらに近鉄に乗り入れて新田辺までつながりました。
 東西線は平成9年(1997)に醍醐から二条間。そして後に東の六地蔵から西は太秦天神川まで伸びました。
 しかし昭和56年の烏丸線開通をもって、京都はじめての地下鉄とするのは間違いです。実は昭和6年(1931)から京都には地下鉄があるのです。区間は短いですが、西院駅から大宮駅までのひと駅間。いまの阪急電車京都線ですが、この線は大阪の淡路経由で天神橋、そして十三と大宮の終点を結んでいました。
 もともとの経営は京阪電鉄でした。京阪から阪急が引き継いだのは戦後、昭和24年です。それまでは京阪電車だったのです。当時をご存じの年配者は、阪急電車のことを新京阪といまでもよびますがその名残りです。

 ということで戦前から京都には地下鉄があったのです。大阪の地下鉄の開通はそれより2年遅れでした。関西はじめての地下鉄は、京阪電車のこの区間だったわけです。
 阪急はその後に延伸して、十三終点を梅田に、また大宮から地下で四条河原町までつなぎました。河原町までの地下貫通は昭和38年(1963)です。それまで新京阪、すなわち阪急電車の京都始発は大宮駅だったのです。

 経営が京阪から阪急に移ったころ、京都にはアメリカ軍が進駐していました。当時もアメリカは世界最強の軍事経済大国です。国力は日本が足元にも及ばない超先進国でした。
 しかしアメリカは広大です。米兵の多くが田舎の出身者です。GHQ京都司令部にテキサス州の片田舎出身の青年がいました。「京都を案内してほしい」と、彼は司令部のある大建ビルにつとめるある日本人に頼みました。アメリカの田舎者からすれば、京都は驚くばかりの先進の大都会なのです。空襲被害もわずかしか受けていませんでした。
 行きたい先は清水寺か金閣寺、あるいは嵐山か? しかし意外なことに、彼が望んだのは「京都には地下鉄があるそうだな。平原を走る汽車は故郷でみたことはあるが、サブウェイは聞いたことしかない。土産話しに一度乗ってみたい。案内してくれないか」
 大宮駅と西京極駅の間をふたりで往復したそうです。アメリカはとてつもない超強大国ですが、兵隊たちは文明を享受していない田舎出身の素朴なひとたちが大多数でした。
 GIの彼が語った言葉は印象深い。「日本はこんなに技術の進んだ国なのに、なぜ戦争でアメリカに負けたのか。不思議だ」
<2012年7月21日>
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<風と空気> 後編

2012-07-19 | Weblog
 空気とは何であろう? 山本七平『「空気」の研究』によると、ヘブライ語の「ルーア」が空気である。ギリシァ語訳は「プネウマ」、そしてラテン語「アニマ」である。アニマから「アニミズム」が派生する。
 日本ではそれらを「霊」と訳すが、本来の意味は<風><空気>である。日本人の言う霊とはいくらか異なる。むしろ言霊(ことだま)の「たま」とか、物の怪の「もの」に近いようだ。ここでいう風・空気は、息・呼吸・気・精・精神などの意味。英語「Breath」のようです。

 山本は「プネウマ(アニマ・霊)といった奇妙なものが自分たちを拘束して、一切の自由を奪い、そのため判断の自由も言論も言論の自由も失って、何かに呪縛されたようになり、時には自分たちを破滅させる決定を行わせてしまうという奇妙な事実を、そのまま事実として認め、<プネウマ(霊)の支配>というものがあるという前提に立って、これをいかに考えるべきか、またいかに対処すべきか…」
 <空気>に支配されている、特にわたしたち日本人は<空気主義>あるいは<空気神教>から脱却すべきである。西洋には日本ほどに強い<空気>はない。

 明治時代までは空気に対して「水を差す」という言葉が、空気対抗語として存在していたという。「そうおっしゃいますが」「それは正論ですが」「ご意見ごもっともですが」「かつての経験によれば」。空気に対抗したのが「水を差す」だったのです。

 また現代社会での具体的な「空気決定方式」への対抗策として、山本氏は「飲み屋の空気」活用を提案しておられる。会社の会議でそのように決まってしまったが、その後に飲み屋に行くと、先ほどまでの会議参加者からは異論が出て来る。「先ほどは空気で決まってしまったが、しかし……」。フリートーキングからさまざまの本音が出て来る。
 議場と飲み屋の票を足す。両場二重採決方式が面白い。「会議での多数決と飲み屋の多数決を合計し、決議人員を二倍ということにして、その多数で決定すれば、おそらく最も正しい決定ができるのではなかろうか」

 今宵の晩酌時には窓を開け放って<風>ルーア・プネウマ・アニマを呼び込み、精霊の酒神とともに<空気>のことを再考してみようと思う。ところがいま頭の痛い課題を抱え込んでいます。近々に開催される会議、家族会議のこと。あまりの難題に「郷に入れば郷に従い、長いものには巻かれようか」「空気を読みながら紛糾を避けようか」……。このような自分はあまりにも情けない。日常はきびしい。
<2012年7月19日>
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<風と空気> 前編

2012-07-18 | Weblog
 オスプレイ型扇風機が今夏登場した。米軍が日本国内に配備しようとしているヘリ飛行機によく似ている。回転する羽根、プロペラは真上の天井に向くし、正面に方向転換して首を振って風を送る。上や斜め向きはクーラーからの冷気を拡散するのが目的で、空気循環に効率的なのだそうだ。この夏も暑さ本番を迎える。電力需給はいったいどうなるのであろう。
 この扇風機は節電を目的に開発されたのだが、設計にかかわった工業デザイナー氏は「自慢の傑作オスプレイ扇風機です。1台いかがですか?」。しかしわが家にクーラーはあるが長年動かせたことがない。いつも窓を開け放って、「がまんがまん」をモットーに自然の風を招いている。彼には丁重にお断りした。居酒屋例会でのオスプレイ談義であった。

 ところで<空気>だが、「その場の空気を読まなければいけない」と若者までもが説教口調で度々話すのには閉口する。自分の考えや意見でなく、その場その場、仕事や友人仲間の場において、何よりも大切なのは「その場の空気を読むこと」。そのように確信している方があまりに多い。風をいくらか送り込むならまだしも、ひとの顔色ばかりみて、淀んだ空気のなかで自己の主張をなおざりにする。
 風見鶏ならまだ堂々と風上に向かう。旗色鮮明なだけに立派な姿勢かもしれない。空気読鳥は風見鶏の風下に着座すべきであろう。ところでわたしなど、これまで天邪鬼の異端鳥のような生き方を通してきた。場の空気など読む習慣も器用さもなく「読むなら天の大気、気象や偏西風や天気図や」などと気象予報士のようにほざいて来た。挙句の結論が現在であるが、熱心に空気を読むくらいなら風を呼べ、などといまも思う。

 山本七平著『「空気」の研究』(文藝春秋)に戦艦大和の<空気>が出て来ます。あまりに無謀な沖縄戦への大和出撃について、山沢治三郎中将・軍令部次長は戦後「全般の<空気>よりして、当時も今日も大和の特攻出撃は当然と思う」
 海も船も空も知り尽くした超エリートの専門家集団の意見を集約した挙句、また昭和16年以降、ずっと戦い続けた相手の実力も十分に把握しての結論である。何の友軍の援護もない大和の裸出撃であった。
 出撃には戦略的必然性はない。この判断には何の科学的データもない。論理的にも科学的にもこの出撃を肯定する判断はありえない。大和出撃は、<空気>が決定したとしかいいようがない。
 最高責任者の連合艦隊司令長官の豊田副武大将は後にこう語っている。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時、ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疎しようと思わない」。「そのときの<空気>を知らないものの批判には一切答えられない」
 
 大和出撃のみにかかわらず、空気は特に日本において、まことに大きな絶対権をもった妖怪である、と山本七平氏は記している。
<2012年7月18日 続く>
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進駐軍のデペンデントハウス 後編

2012-07-16 | Weblog
日本各地に構えられたDH敷地内には幼稚園も小学校もありました。いずれも広大な土地です。当然広い運動グラウンドがついています。中学生以上は米国の寮付き学校に入ったり、祖父母や親戚宅に居候したのでしょうね。
 オフィサーズクラブという将校倶楽部のあるクラブハウス、スーパーマーケットのPX、診療所、美容院に床屋、自動車修理工場、ガソリンスタンド、消防署、門衛所や交番など。大規模な住宅地には教会礼拝堂、大きな劇場などもありました。劇場には2規格があり、小さいものでも225人収容、大型の建物は1000人分の座席があったといいますから驚きです。
 PXはいまの日本のスーパーマーケットと同じで、何でも揃っていました。生鮮食料品、果物、野菜、肉。缶詰、飲み物、日用品、雑貨などなど。当時の貧しい日本人からすれば、別世界の天国のような景色でした。なおPXの正式名称は、COMMISSARY POST EXCHANGE。酒保(しゅほ)と和訳されますが、コミサリーは軍隊の糧食販売店です。
 東京では銀座の松坂屋と和光のTOKYO PXが有名です。基地内やDH街には一般日本人が立ち入れませんので、街のなかにあったPXを外からながめるのが日本人にはたいへんな驚きでした。大きな紙袋一杯に食料品を詰めた兵や婦人が、PXから出てきます。満足な食にありつけない時代ですから、日本人はみなよだれを垂らしそうになったものです。京都は大建ビル(現ココン烏丸ビル)の2階にありました。
 米軍ではPXですが、もとはヨーロッパの軍隊内にあった兵隊酒場から来た言葉だそうです。日本軍はこれを明治のはじめに酒保と翻訳しました。自衛隊の基地内や駐屯地、自衛艦内の売店は、いまも酒保とPXだそうです。海上自衛隊は酒保、陸上自衛隊はPXと呼んでいます。日本帝国陸海軍の時代からさっぱり進歩していませんね。
 PX列車というのもありました。地方に小規模で進駐した将兵家族には満足のいくPX施設がありません。それで専用列車に食料品や日用雑貨を積み込んで、京都からは舞鶴や小松の基地などに鉄道で向いました。駅に到着する日時を先に連絡していますから、たくさんの兵や婦人たちが待ち構えていました。当然列車には大きな冷蔵冷凍庫を積んだ一両も連結されていました。

 ところで一般兵は単身赴任で、カマボコ型兵舎に居住しました。農地に並んでいるビニールハウスを大きくした、もっと丈夫なつくり。なかにはベッドが整然とならんでいました。アメリカの軍隊を描いた映画にはよく出てきますね。居住者は独身の若者が多いのですが、家族を故郷に残してきた下士官などは、早くアメリカに帰りたかったでしょう。

 新築の住宅と接収された日本人の個人所有住宅が将校用家族住宅にあてられましたが、GHQの修理工事仕様にはつぎのように書かれています。
 「室内を明るくするように内部天井、壁、木部に明るい仕上げをなすること。この意味において室内各部は監督将校指示に基づき白色または明色を塗装すること」
 戦災被害にあわずに焼け残った豪邸の各部屋は、畳をはがしてみな土足の洋間になり、壁も天井も白いペンキが塗られてしまいました。日本が誇る伝統建築の数寄屋内装、書院座敷、床柱などすべてが、真っ白のペンキ塗りになってしまったのです。

 ところでDH街に住む将校の奥さんですが、毎日時間を持て余していました。どの家にもメイドがついています。日本人の女性が掃除も洗濯もベッドメークも家事すべてををやってくれます。費用負担はする必要がありません。日本政府が支払っていました。メイドが雑用をすべてこなしてくれます。また幼い子どものいる家では、子守りのベビーシッターもメイドがつとめます。将校婦人は昼はクラブハウスでダベリング、夜は各住宅やクラブハウスでパーティの連続。しかしアメリカに帰国すればたいへんです。メイドを雇うことはまず不可能で、家事や育児に追われるからです。
 なお日本人の女性メイドですが、DH内診療所に勤務する看護婦も、みな数週間の訓練を受けてから配属されました。米語だけでなく、アメリカ人の生活スタイルやマナーを知らなければつとまらないからです。研修はメイドスクールとよばれたそうです。メイドの勤務は夕方の5時まで。夜は主婦が主体になっての家族や友人たちとの時間です。昼ご飯は主婦仲間たちとクラブハウスでとり、昼間は何もすることがないアメリカ人の主婦ですが、夫が帰宅する夜になってやっと活躍します。ディナーつくりも主婦の大切な仕事です。その辺は日本人とずいぶん違うようですね。
 ところで将校家族用クラブハウスですが、DH街には必ず建てられました。目的はまず社交と慰安。つぎに運動で、もうひとつが修養と娯楽。この3点とされていました。室内にはダンスホール・談話室・食堂・バー・カード遊び室・図書館・室内運動場など。屋外にはプールやテニスコートまで揃っています。また遠来客の宿泊用に、ゲストルームもありました。小規模なクラブハウスでも建て坪338坪、最大で1328坪もあったというから驚きです。
<2012年7月16日 南浦邦仁>
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進駐軍のデペンデントハウス 前編

2012-07-14 | Weblog
戦後の連合国軍占領時代のお話しです。アメリカ軍将校家族住宅、デペンデントハウスDHについて以前にこのブログで少し書いたことがあります。広大な京都府立植物園が接収され、戦後おおよそ百棟もの住宅が建っていました。その後、訳があっていくらかDHのことを調べました。2回連続で紹介しようと思います。

 日本全国に建てられたDH住宅地区は立ち入り禁止で、GHQの発行した許可証パスポートを持っていないと日本人は入れません。入場できた日本人はクラブハウスで働く従業員とか、家族住宅で働くメイド、作業員とか以外の日本人は敷地内の建物を見たこともありません。京都の植物園周囲は森のように高い木が取り囲み、鉄条網で隔絶されています。外からはなかの様子を知ることもできません。そんな時代があったということで、あえて書いておきたいと思います。
 昭和20年暮れ、GHQは日本政府にDH2万戸の建設を命じました。国民は住む家もないときです。当初は日本住宅、なかでも大きな洋館とか日本式豪邸、ホテルなどを住宅用に接収していましたが、21年ころからは将校の家族が続々と日本にやって来ます。接収住宅だけでは建物が足りません。アメリカ軍は少尉以上の将校は、どこの国に赴任しようが家族と同居します。前線は別ですが、安全が確保されると家族がみなやって来ます。ただし妻や子が特別な事情で国を離れることができない場合は別ですが。単身赴任を強いられる日本とはずいぶん異なります。
 ところでDEPENDENTはインデペンデント「独立」の反対の語で、「扶養家族」「依存する」とかに訳されます。かつてヨーロッパから未知の新天地に家族そろって移住し、また幌馬車に家族全員が家財道具を積み込んで、危険な荒野を渡って行ったアメリカ人です。家族の絆を第一に考えて生活する彼らを象徴する言葉DHのように思います。
 独身者や単身者は、ルームサービスや食事のついているホテルに住みました。家族連れはホテルでは部屋数も少なく狭く不便です。当時の日本人なら、家族4人か5人でも狭い平家で二間の居間と小さな台所、風呂なしで便所があれば十分恵まれていました。そんな狭いけれども極楽のような住まいに、たとえ賃貸であろうが住むことが日本人家族の夢だったのです。日本の都市はほとんどの住宅が、空襲で燃えてなくなっていたのですから。
 GHQが要求した2万戸のDH建設は、当時の日本にとってとてつもない要求です。建築資材は不足していますし、建設費や調度品費などすべて政府の戦後処理費が当てられるのです。復興に全力を注ぐべき時期にこの要求です。
 現在の駐留米軍基地も同じです。思いやり予算とかいう名目で、日本政府は米軍のために国民の税金を費やしています。特に沖縄県のいまも続く実質の占領状態は、戦後間もなくとほとんど変わっていないと思います。日本国中にいまも米軍人が5万人近くも住んでいますが、全基地の74%が沖縄にあります。
 もしもオスプレイが沖縄に配備され、悲惨な墜落事故でも起きれば、米軍は日本国民に向かって攻撃を加えているとみなすべきです。

 さてDHですが、東京に駐留する連合軍が圧倒的に多いですから、有名なDH街がたくさん誕生しました。主なものをみてみますと、まず代々木練兵場跡につくられたワシントンハイツ。敷地は28万坪近くもあり、827戸が建てられました。昭和39年の東京オリンピックのときには選手村になりました。
 ほかにも東京都内ですと、三宅坂のパレスハイツ、国会議事堂前のリンカーンセンター50戸。現在参議院宿舎のある場所にはジェファーソンハイツ70戸。成増飛行場跡60万坪、いまの練馬区光が丘のグラントハイツには1262戸。立川に410戸。横田は405戸。東京都内のDHは全部で5437戸。
 全国のDHをみると札幌277戸、仙台959戸、横浜2449戸、名古屋570戸、京都399戸、大阪976戸、呉729戸、福岡1322戸など。たいへんな数の将校用家族住宅がありました。昭和25年の記録「占領軍家族住宅内訳」では全国合計13118戸が記されています。京都の植物園には約100戸ほどの住宅がありましたが、1棟2戸~4戸のテラスハウス、米語のロウハウスも多かった。200世帯以上が居住していたようです。クラブハウス(昭和館)のすぐ横の大正天皇即位行記念に建てられた大正館も2世帯が使用していました。
 ところで全国集計13118戸の内、新築DHは9609戸で残りの3500戸ほどは接収住宅などを改修したものです。新築2万戸計画は結局、半数ほどに縮小されたかのようにみえます。
 しかしこのリストをみると、地方都市のDH数が記されていません。たとえばDHは滋賀県大津の皇子山にも多かった。これは皇子からプリンスハイツとよばれました。また小規模ですが軍港の舞鶴や、空軍が駐留していた小松などにもありました。実数はもっと多かったはずです。接収住宅も含めれば、やはり2万戸近かったのではないかと思います。
<2012年7月14日 続く 南浦邦仁>
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春歌

2012-07-09 | Weblog
 いつもこのブログを読んでくださっているナーガさんからコメントが届きました。「近ごろの若者は不思議なことに春歌を歌わない」。セクハラと指弾されることを恐れる男子のひとつの象徴なり現象でしょうか。不人気な春歌のことが気になります。
 有馬敲さんの著作『時代を生きる替歌・考―風刺・笑い・色気』を紹介します。2003年に人文書院から出ましたがいまも新本で入手可能。

 つらく単調な労働、農民や炭鉱夫など重労働者の民謡に猥雑な替歌が多い。疲労や眠気をさまし、仲間たちとともに笑って元気を得る。またそれだけでなく、神を喜ばせ笑わせることで、あらたな生命力や豊穣や時間の更新がもたらされる。そう信じてもいた。若い男女が夜なべ作業するときには揃ってうたったというから、実に楽しい。いくつも紹介されている春歌から、わたしのお気に入りです。

 臼のもと引き 大人にさせて 若い十七が 引きまわす
 あんたならこそ 元まで入れて さしてくれます 商売を
 娘十七八や 根深の白根 うまい所に 毛が生えた
 若い娘と新造の船は だれも見たがる 乗りたがる

 近ごろカラオケ・ボックスで「君が代」が歌われているそうです。十代や二十代の若者が愛唱しているというのには驚きます。ある通信カラオケ会社の調査では、手持ち全27000曲の内、2000番目くらいの順位だという。
 かつて君が代が演奏されたのは、大相撲の千秋楽くらいで「君が代は相撲協会のテーマソングでしょう?」と勘違いされたりもしてした。それだけ国民が「君が代」に接する機会が増えたのでしょう。その「君が代」に替え歌がある。
 つぎに紹介する「ひめがや」という「君が代」の替歌は、明治26年の新聞「團團珍聞」に掲載された。文部省が「祝日大祭ならびに楽譜」として「君が代」ほか8編を官報で公布した直後である。

 娼(ひめ)がやへ 千夜に八千夜に かよう身の のろけとなりて 白痴(こけ)のむすまで

 有馬氏は戦前において「君が代」替歌は非常に珍しい例という。明治時代の替歌資料を、ある大学図書館の地下倉庫で探しているときに偶然発見した。彼は「当時の民衆のおおらかさの一端が垣間見られる」、そして「なにか大きな発見をしたような気になった」
 明治38年(1905)、松岡荒村が「君が代」を論評した著作は「安寧秩序を乱す」として発禁処分になった。松岡はつぎのように記していた。
 「君が代は千代に八千代に」はきわめて陽気でおめでたいうたい出しだが、三句以降は一転、死物に過ぎない冷たい石を持ち出し、陰気な苔で締めくくるという寂寞感がある。

 戦前戦中は「君が代」替歌は不敬罪であった。しかし戦後、替歌春歌として再生する。一例をあげてみよう。

 キミが酔うは~~~ア 弥生に八千代を差され~エ 意思の嫌世(いやよ)となりて~~~エ 腰の抜けるまで~~~エ (詩人会議編アンソロジー『日本国憲法とともに』2000年所収)

 ちなみにこの替歌は、1970年代に劇団「わらび座」が奄美大島にやって来たとき、団員のひとりが懇親会の席上で歌った。弥生も八千代も焼酎の銘柄。その後に地元では定着し、入学式や運動会、卒業式でもうたわれ続けたという。
 いまカラオケで若者が歌っている「君が代」は替歌であろうか。もしそうであれば、日本の潜在活力も捨てたものではない。
 「君が代」誕生前夜から変遷史を追えば、タブー化しつつある「君が代」の再生や時代の深相に迫れるかもしれない。『替歌・考』は一助になりそうです。
<2012年7月9日 もうひとつのコメント「青」も宿題です>

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青い花

2012-07-03 | Weblog
 姫路のローズガーデンを訪れました。ちょうど1か月前のことですが、女性3人をお連れしました。みなさんは「とても素敵なバラ園だそうで、一度行ってみたい」。わたしも初訪ですが、豊富町のネスレ工場の近くです。
 入場料はひとり500円ですが、私設植物園にしたら立派なものです。バラの花は800種、3500株もあります。わたしは単独でまず園内を一巡しました。そして見渡しても仲間が見当たらない。トイレかな、と思って探しましたら、全員がショップで物色しておられる。花の見学も二の次に、ずっとショップにいたそうです。これこそ「花よりショッピング」でしょうね。
 「青いバラの花をみたことがありますか?」と聞いてみましたら、「そんなバラがあるわけがない!」。3人そろってわたしをバカにされる。そこで困ったときのスマートフォン。検索一発で画像も出ます(w
 サントリーが14年の歳月をかけて開発した幻想の青いバラ。「ブルー・ローズ・アプローズ」という名だそうです。アプローズは喝采の意味。バラには青色色素をつくるための遺伝子がない。サントリーは試行錯誤の末、パンジーの青色遺伝子を使って、世界ではじめて青いバラを誕生させました。
 この開発過程で青いカーネーションも生まれています。「ムーン・ダスト」ですが、南米の2000メートル超の高地で生産し空輸しているそうです。これはペチュニアの青色色素をつくる遺伝子を、カーネーションに組み込んだもの。

 ところで先日、沖縄に旅して来ました。不在の間心配だったのが、残してきた愛犬と青アジサイの切り花。愛犬のんちゃんは近所の友人が預かってくださりあまり心配しなくてもよかったのですが、妖しいほど青い大輪アジサイが気になりました。
 アジサイ3輪は近所の家に咲いている大きな株から、切り花を3本いただいたものです。見事な青色大輪なのでほめちぎりましたら、「花を楽しみ、後は挿し木にして育ててください」。それで3本プレゼントされました。
 旅行で京都を留守にするため、アジサイの花は切って、茎は土に植えました。食器棚を探すと青色ガラスの大きな鉢が出てきました。これにアジサイ3輪とベランダで咲きぞめたばかりのキキョウの花1輪を、器に水を張って浮かべました。青ガラスに絶妙にマッチし、妖しい雰囲気をかもしたのには驚きです。
 心配していたこの花4輪ですが、帰宅しても生き生きと水上花。花の留守番とは小粋ですが、切られた花も水に親しむと、実に強いものですね。

 さて自宅の青花から、サントリーのブルーローズ・アプローズを思い出してしまいました。切り花が市販されていますが通販はなく、代理店でのみ販売しているそうです。京都市内では2軒の花屋さんが扱っておられる。電話で「青いバラはおいくらですか?」。すると「1本3000円+税です。もうシーズンオフが近づいていますから、あと一便入るかどうか…」。当方は「……」
 見事に青いアジサイとキキョウで我慢しよう。遺伝子操作で人為的につくった造花より、ナチュラルで平凡で安価な花こそ美しい。そのように自分に言い聞かせたのですが、やはりいつも欲どうしい。
 「アプローズを1本だけ買って挿し木にしてみたらどうだろう?」。しかし調べてみると、花はパテントで保護されており、勝手に増殖すると犯罪になるという。
 脱法ハーブはまずいけど、「脱法ローズ」を日蔭もののように育てるというのも、ひそやかな楽しみである。しかし発根するのかしら。サントリーは防御処理を施しているのではないか? もし根が出なければ、1本3千円は痛い。
<2012年7月3日>
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