ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

字「幸福」の誕生(5) オランダ

2012-09-30 | Weblog
勝海舟は25歳のころ(嘉永2年1848か)、日本で最初の阿蘭陀(おらんだ)語写本辞書『ドゥーフ・ハルマ』を江戸のある蘭医から借り受けます。借り賃は10両(約100万円!!)。しかし貧乏学生だった勝麟太郎はそのような大金は持ち合わせていません。1年間がかりで58冊もの大冊から写本2部を作成し、1部は手持ちしもう1部は50両ほどで売ったといわれています。蘭医へは当然、後払いだったのでしょうね。

 徳川幕府は200余年にわたって鎖国しました。例外は和蘭(オランダ)と支那・清のみ。当時は西洋語といえばオランダ語しかありません。蘭書の輸入がある程度許されるとともに、知識人のあいだで蘭学(洋学)がブームになっていきましたが、しっかりした辞書(オランダ語―日本語)がありません。
 出島商館長のヘンドリック・ドゥーフは、蘭語日本語辞書作成の幕命を受け、長崎のオランダ通詞(長崎奉行所所属の日本人通訳)たちとともに編纂にあたりました。そしてドゥーフ帰国16年後の天保4年(1833)、ついに3000頁を超す大辞典が完成します。しかしこの大冊は手書き写本で、制作部数はわずか30部ほどといいます。勝麟太郎が写した辞書は、写本の写本、彼の作成本は原本の孫本だったのかもしれませんね。

 ほとんどだれも手にとることのできないほどの貴重書『ドゥーフ・ハルマ』、別名長崎ハルマ・ズーフハルマ・道訳法爾馬・道富ハルマです。印刷本が当然望まれました。公許を得て桂川甫周が中心になって『ズーフ・ハルマ』改訂増補版が、印刷版『和蘭字彙』(おらんだじい)として安政2年(1855)に刊行されました。蘭学者の悲願が達成されたわけです。見出し語は実に5万ほどもあります。

 オランダ語日本語辞典『和蘭字彙』に、語「幸福」があるかどうかみてみました。単語「GELUK」「ZEGEN」と類義語「VREUG」について、名詞・形容詞・副詞・動詞をあわせて日本語訳語を一行書きにしました。また熟語や例文用例もたくさん載っていますが、オランダ語原文は記さずに日本文のみいくらか抜粋列挙しました。なお字「幸福」は出てきません。

「GELUK」
 幸・果報・無事・祝い・幸なる・幸に・首尾よくできる。
<用例>果報は見えぬものである。
 彼に幸が笑いかかる(彼に果報が転びかかるという意味)
 果報が彼に付き従っている。
 おのれの婚礼に幸がない。
 その事が左様になるという事は、智恵よりは幸の方が多い。
 人に仕合をよくしてやる。
 人に幸なる年頭を祝す。
 実際の幸は天にあるものなり。

「ZEGEN」
 天幸・恵・天幸を授ける・誉る・幸を祈る・幸を悦す・幸の祈り・清め祓うこと。
<用例>天より汝に幸を授く。
 彼は商い事にはなはだ運がよい。
 汝にあだなす者に幸を祈りて遣るべし。

「VREUG」
 喜び・悦び・楽しむ。

 横浜開港の後、しばらくしてから福沢諭吉は居留地を訪れました。安政6年(1859)のこと、諭吉はこれまで学んできた自信十分のオランダ語がどれほど通じるものか、試してみたかったのです。
 「行ってみたところが、一寸も言葉が通じない。こちらのいうことも分からなければ、相手のいうことももちろん分からない。店の看板も読めなければ、ビンの貼り紙も分からぬ。何を見てもわたしの知っている言葉というものがない。」
 苦心惨憺して習得したオランダ語が、さっぱり外国人に通じないことを知った福沢のショックはおおきかった。しかし彼は気付く。「これからは英語を知らなければ洋学者としては、お話しにならない」
 江戸に帰った福沢は英語の習得を決意した。ところが困ったことに英語を学ぼうにも、どこで誰に学んでよいか、さっぱり分からぬので困惑したという。次回は幕末の英語を取り上げようかと思っています。
<2012年9月30日 南浦邦仁>
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字「幸福」の誕生(4) 上田秋成 後編

2012-09-28 | Weblog
上田秋成は語「幸福」を日本ではじめて用いたひとであろう。また幸福を「こうふく」ではなく、「さいはひ」すなわち「さいわい」と読ませた。前回に書きましたが、秋成にとって幸福の意味は運、好運、福運、天性の運、自らに自然に備わった運。井原西鶴の「仕合」(しあわせ)に似ています。

 田中俊一氏は「秋成は勝利者を正義としてでなく、<幸福><冥福><命禄>とし、敗北者を<不幸>と意味づける」。また人間の美徳や意思とはかかわりなく、運命(幸福)は神の意志に委ねられている、と記しておられる。
 「冥」は、神仏によって授けられた福運。仏説でいう来世の幸福と前世の善果。「命禄」は、持って生まれた幸不幸などと現代語に訳されています。
 わたしには田中氏の幸福説について語る力はありませんが、勝者とは不思議な天運に恵まれた人。敗者とは、いくら努力し善徳を積んでも、天の運に助けられなかった人をいうのではないでしょうか。これが上田秋成の幸福論のようです。

 彼は幼年期、父母の愛情をほとんど受けることもなく4歳で商家の養子となった。翌年には病を得て重篤な状態になったが、養父母が稲荷明神に必死に祈願したところ「死を免じ、かつ六十八の寿を与えるという夢のお告げがあり、病は峠を越していたという。秋成は生涯にわたってこの秘蹟を固く信じ、六十八歳を迎えた享和元年には六十八首の歌を奉納して神徳を感謝している」(中村博保)。稲荷は加島稲荷、現在の香具波志神社(大阪市淀川区加島)

 終生病弱で成人までも寿命がないであろうと、自他ともに認めていた秋成が、75歳までも生きたことは不思議なことであった。中村博保氏は「秋成は後年、中井履軒との間に、世の中には儒者の合理をもってしては割り切ることができない不可測(ふかしぎ)があるとするやりとりをしており、頑として譲らなかったが、自然を不可測とする感受性(自然観)も、この幼児の体験につながるところがあったと考えていいだろう」
 以下に「冥福」と「命禄」の用例を列挙します。


「さらば天の時か 天とは日々に照しませる皇祖(みおや)の御國也 儒士等『天とは卽あめを指か』と聞けば 『命祿(めいろく)也』と云」<『春雨物語』血かたびら>
 それならば帝位王朝の隆替も時運によるのか。天とは日々照らさるる皇祖天照大御神のおられる高天原である。儒士らが「天とは空を指すのか」と聞くと、「命禄である」とこたえた。

「いかなれば 佛法の冥をかうふらせたまひて 如來の大智の網にこめられたまふよ」<『春雨物語』天津処女>
 なぜだろうか。仏説でいう冥福、すなわち来世の幸福と前世の善果をうけられて、如来の大きい智恵の中に丸めこまれなさった。

「これも修業のにはあらで冥の人なるべし」<『春雨物語』天津処女>
 これもまた修行によっての徳ではなく、仏の好運を授けられた人であるはずだ。

「人各遇不遇ありて我しらぬ命祿は論ずまじきや」<「遠駝也延五登」>
 人にはそれぞれ遇不遇、幸不幸があるが、我々には理解できるはずのない命禄について論じようもない。

「我佛の冥と云事を生れ得させけん」<『藤簍冊子』(つづらぶみ)月の前>

「冥福蔽天真 厄貧顕奇才」(秋成の自讃だそうですが未確認です。大胆にも我流で意訳してみました)
 冥福はいつも人の本性をつつみ隠している。災いや苦しみや貧そして貪欲にむさぼることによって、世にまれなる才能、埋もれていた奇才が、世にあらわれたりもする。

参考 田中俊一著『上田秋成文芸の世界』昭和54年 桜楓社
 中村博保ほか校注訳解説『日本古典文学全集48 雨月物語 春雨物語他』1973年 小学館
<2012年9月28日 南浦邦仁>

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字「幸福」の誕生 (3) 上田秋成 前編

2012-09-25 | Weblog
井原西鶴の本に字「幸福」がひとつも出ないのは、前回にみた通りです。西鶴以前にも、どうも見あたりません。日本ではじめて語「幸福」を用いたのは、江戸時代でも後期の文人・上田秋成(1734~1809)であろう。そのように考えています。『雨月物語』(1776)と遺稿「膽大小心録」に「幸福」がみえます。以下、(かな)は原文の振りかなです。


「上皇(じやうくはう)の幸(さいはひ)いまだ盡(つき)ず」<雨月巻1白峯>
 後白河上皇の好運はまだ尽きていない。

「他死(かれし)せば一族(ぞく)の幸(さいはひ)此時に亡(ほろぶ)べし」<雨月巻1白峯>
 彼さえ死ねば、平氏一族の運は一気に亡ぶはずだ。彼とは平重盛。

「貧をいはずひたすら善を積(つま)ん人はその身に來らずとも子孫はかならず幸(さいはひ)を得(う)べし」<雨月巻5貧福論>
 貧賤・富貴を口にせず、ひたすら善行を積み上げる人には、たとえ自分自身では得られなくても、子孫が必ず福運を得ることができるのだ。

「名に高きは必不幸つみつみて節ニ<節操を守って>死するなり 世にあらはれぬは必幸の人々なり」<胆大155(156)>

「漢学はやめてわつかよむと事のすむ古学者といはれたは幸しや」<胆大 異文2>

 幸福はそれぞれ、運、好運、福運と現代語訳されています。
 それと「幸福」字は登場しましたが、雨月物語三例の読みは「さいはひ」です。胆大小心録には振りかながついていません。「かうふく」「こうふく」でしょうか? 
 雨月がすべて「さいはひ」ですから、胆大も同様に読むべきではないでしょうか。ただ気になるのが「不幸」です。これなど「ふしあはせ」とすべきですが、

 「信玄死(しんげんしし)ては天(あめ)が下に対(つい)なし 不幸(かう)にして遽死(はやくみまか)りぬ」<雨月貧福論>
 不幸の幸を「かう」「こう」としています。
 また胆大小心録異文2には、振りかなはついていませんが「不幸か天祿か」。天禄は「てんろく」でしょうから、読みで「ふしあわせ」では釣り合いが取れません。やはり「ふこう」が自然です。

 これまで延々と「さち」「さいわい」「しあわせ」を古代からみて来たのですが、やっと「幸福」にたどり着きました。幸福「さいわい」の発見です。しかし決して幸福な気分ではないのが残念です。

 追記:現代中国でも「幸福」が日本と同じような意味で使われていますが、本来は「福」であって、語「幸福」はだいぶ後世からの使用のようです。華語「幸福」はその内に調べてみようと思っています。
<2012年9月24日 「秋成」もう1回続けます 南浦邦仁記>

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字「幸福」の誕生 (2) 井原西鶴

2012-09-22 | Weblog
日本人が「幸福」の字を用い出したのは、どうも江戸時代からのようです。そしてこの作家ならまず記したであろう、と勝手に狙いをつけたのが井原西鶴(1642~1693)でした。
 長者についての致富譚『日本永代蔵』(副題:大福新長者教 貞享5年1688)と、『世間胸算用』(元禄5年1692)です。
富豪である長者・分限者の話に語「幸福」が出るのではないか? そう思って両書を読むのではなく、字探しをやってみました。結論は残念ながら、見つかりませんでした。
 「仕合」(しあはせ)、「幸ひ」(さいはひ)はいっぱい出て来ます。しかし字「幸福」は、どこにも見えません。西鶴の活躍した元禄期は、その後に出現する幸福の前夜のようです。
 
 西鶴の用例をいくつか紹介しますが、参考図書は古典文学全集(岩波・小学館・新潮)と、西鶴全集(中公)など。本によって解釈が異なるときは、両方の説を併記しています。また引用原文中(かな)は、原文の「振りかな」です。
 なお参考書の注や現代語訳を整理しますと、「しあはせ」と「さいはひ」の意味は、ざっと以下の通りになりそうです。

<しあはせ>仕合<しあわせ>
 運・好運・福・家運・運命・収入・儲け・財産。
 次第。人の運。運の良い。縁起の良い。ものごとの巡り合わせ。成り行き良く成功する。
 生まれつき与えられた好運。天然自然の好運。神仏の加護による運。自分ではどうしようもない成り行きの人生。才覚と運の合体した好運。天性の好運。
 知恵と才覚が合わさった結果、都合よくことが運ぶ。自分の知恵才覚で、富裕になって家を栄えさせること。

<さいはひ>幸ひ・幸・<さいわい>
 好都合なことに。これさいわい。ちょうどよいこと。霊験。
 ※神社仏閣の縁日やまつり、正月行事には語「幸ひ」が用いられることが多いように思います。


「初午(はつむま)は乘(のつ)て來(く)る仕合(しあはせ)」<永代蔵巻1目録>
 2月の初午の会日、泉州の水間寺観音に参詣すると運が向いてくる。好運がやって来る。

「世(よ)は欲(よく)の入札(いれふだ)に仕合(しあはせ)」<永代蔵巻1目録>
 宝くじ・富くじで得た利益で家運を挽回した話し。仕合せは好運。

「かりし人自然(しぜん)の(さいはい)有けると」<永代蔵巻1 初午は乗て来る仕合>
 有る男が水間寺から借りた大金を、すこしずつたくさんの人に又貸ししたところ、観音の力の込められたお金なので、きっとその霊験があるとみな信じてそのように話しあった。自然と好運に恵まれる。

「思ひよらざる仕合(しあはせ)は是ぞかし」<永代蔵巻1 二代目に破る扇の風>
 予想外に金貨を得て。

「奉公(ほうこう)は主取(しゅとり」が第一の仕合(しあはせ)なり」<永代蔵巻1 浪風静に神通丸>
 奉公先は、主人の選び方で奉公人の運が決まる。

「是非(ぜひ)もなき仕合(しあはせ)」<永代蔵巻2 才覚を笠に着る大>
 致し方のないなりゆき。ぜひもない次第。

「參詣(さんけい)の人買(かふ)ての幸(さいはひ)と一日に利(り)を得て」<永代蔵巻2 才覚を笠に着る大黒>
 参詣のひとたちがこれ幸いと買い求めた。「諸商人買(かう)ての幸ひ賣(うつ)ての仕合(しあはせ)」は、縁起を祝う商人の商い口、口上。ことわざ。<胸算用巻頭序>
 元日の朝、若えびす売りが来ると、諸商人が「買うての幸い、売っての幸せ」の諺通り、縁起を求めて買い求めた。

「每年仕合男(まいねんしあはせをとこ)とて」<永代蔵巻2 天狗は家な風車>
 福男。ここでは漁師の話しなので、毎年漁獲高が多くて縁起・運のよい男。

「仕合(しあはせ)のよい時津風(ときつかぜ)真艫(まとも)に舟(ふね)を乗(のり)ける」<永代蔵巻2 天狗は家な風車>
 好運にも、順風を船尾(真艫)から真直ぐにうけるごとく、船に縁のある家業が順調に発展した。

「仕合の有時」<永代蔵巻2 舟人馬かた鐙屋の庭>
 収入のよい時。儲けがあった時。やり方がひとと違って上手なので、それが基になって成功した。

「分限(ふけん)は、才覺(さいかく)に仕合手傳(てつだは)では成(なり)がたし」<永代蔵巻3 高野山借銭塚の施主>
 分限者になるには、知恵・才覚とともに運、好運(仕合)が働かねばなりにくい。

「仕合(しあはせ)の種を蒔錢(まきせん)」<永代蔵巻4 目録>
 神に賽銭をあげることが、わが身の幸せのもととなる。「種を蒔く」にかけている。

「海上(かいしやう)の不仕合(ふしあはせ)一年(ひととせ)に三度(ど)迄の大風(かぜ)」<永代蔵巻4 心を畳込古筆屏風>
 海での不運続きで、一年に三度も大風にあって船の積み貨を失った。

「日每(ひこと)の仕合(しあはせ)程なく元手(もとで)出來(てか)して」<永代蔵巻4 茶の十も一度に皆>
 日ごとに儲かり、ほどなく元手をこしらえて。

「思ひの外(ほか)の仕合(しあはせ)」<永代蔵巻4 茶の十も一度に皆>
 思いもしない好運。

「水車(みつくるま)は仕合(しあはせ)を待(まつ)やら」<永代蔵巻5 目録>
 昼夜休みなく働く水車は、好運を待つ象徴のようなもの。「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」の小唄のもじり。

「四五年は仕合のかさなりけるに」<永代蔵巻5 世渡りには淀鯉のはたらき>
 四、五年間は儲けが続いたが。

「惣領(そうれう)に幸(さいはひ)の嫁(よめ)ありて」<永代蔵巻6 銀のなる木は門口の柊>
 幸いは「好都合」。長男に良縁があって。

「此たび賣(うる)に仕合(しあはせ)と」<永代蔵巻6 銀のなる木は門口の柊>
 このたび、売ればいい値段になる。

「自然(しぜん)の仕合(しあはせ)見えしは」<永代蔵巻6 身躰かたまる淀川のうるし>
 生まれつき身に備わった好運があるということがわかったのは。自然と好運が向いてきたのは。

「これらは才覺(さいかく)の分限にはあらずてんせいの仕合(しあはせ)なり」<永代蔵巻6 身躰かたまる淀川のうるし>
 天性、天の与えた好運。これなどは才覚でなった分限とは言えず、天然自然の好運にめぐりあわせただけだ。

「商賣(しやうばい)に仕合あつて」<永代蔵巻6 智惠をはかる八十八の升掻>
 商売がうまく行って。

「幸(さいわ)ひこれに碓(からうす)有とて」<胸算用巻1 長刀はむかしの鞘>
 ちょうどいいことに踏み臼(台臼)があった。

「人の分限(ぶげん)になる事仕合といふは言葉(ことば)まことは面(めん)々の智惠才覺(さいかく)を以てかせぎ出し其家榮(さか)ゆる事ぞかし」<胸算用巻2 銀壱匁の講中>
 富裕になるとは、仕合せという言葉は各自が智恵才覚でその家が栄えることである。人が金持ちになることは好運によるというのは、言葉だけのことで、本当は各人が知恵才覚で稼ぎ出し、その家が栄えることである。西鶴のこれまでの主張と矛盾する。

「心よきお客(きやく)の御出來年中の仕合はしれた事」<胸算用巻2 訛言も只はきかぬ宿>
 年の暮れに、気前のよいお客がおいでになって、来年中の好運はこれでわかりました。

「米は追付(おつつけ)のぼると仕合」<胸算用巻3 年の内の餅ばなは詠め>
 米はまもなく回送されて来て、儲かるのだ。

「其上(うへ)の此仕合そなはりし人(ふくじん)」<胸算用巻4 闇の夜のわる口>
 まだその上にこれだけの財産があるのは、それに備わった、生まれついての福人・福徳長者だ。

「此男なれ共ときの運(うん)きたらず仕合がてつだはねば是非なし」<胸算用巻4 長崎の餅柱>
 この男こそ分限者・金持ちにならねばならぬはずだが、天の好運という仕合せが手伝わないのだから、そうなれないのは仕方がない。

「不仕合(ふしあはせ)いふを聞もあへず」<胸算用巻5 平太郎殿>
 都合よく事が運ばなかったことを弁解する。うまくゆかなかったと弁解を最後まで聞かず。
<2012年9月22日 南浦邦仁>
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尖閣 漁船千隻の来襲

2012-09-19 | Weblog
中国での反日デモと暴動は、おさまりそうにありません。また1000隻もの漁船が、尖閣諸島に出撃すべく待機中ともいいます。凶悪な中国漁船とは何でしょう。
 ちょうど2年前、2010年9月7日に起きた尖閣諸島での中国漁船の体当たり事件、映像をみたときだれもが驚きました。あのビデオひとつで、わたしの中国観は一変してしまいました。ショックは何も日本だけではありません。世界中の良識ある膨大な数のひとたちが見たのです。そして「なぜ?」「中国を信用してはいけない」
 国際世論はそのように判断してしまったようです。中国は体当たり事件で、国家の信用という大切なものを一瞬にして失ってしまいました。海保の一職員は、世界中に意識革命を起こしたといっても過言ではありません。活字のウィキリークスと同等、あるいは映像だけにそれ以上のショックを数億の人類に与えたはずです。

 中国漁船は同様の事件を韓国に対しても度々起こしています。北朝鮮の延坪島砲撃事件の直後、2010年11月28日、黄海での米韓合同軍事演習がはじまりました。その翌日、演習に呼応して韓国済州島南方沖海上で中国漁船員が棒で殴るなどの暴力をふるい、韓国海洋警察官6人が負傷しました。そして漁船は逃走。

 そして翌月12月18日、韓国軍は延坪島砲撃事件後はじめて、同島で訓練を開始しました。すると韓国中西部の黄海、於青島オチョンドの北西約130キロ。韓国排他的経済水域EEZ内で、中国漁船約50隻が不法に操業をはじめました。
 取り締まりに当たっていた韓国海洋警察の警備艦3000t級が停戦命令を出した。そして海洋警察官4名が、小型ボートから漁船に乗り込もうとしたところ、漁民は鉄パイプなどで暴行。韓国側4人全員が重軽傷を受け、警備艦に引き返した。すると漁船1隻約60tは警備艦に2度体当たりし、転覆してしまった。海上に放り出された乗員10名の内、4人は中国漁船が救助した。5名は韓国艦が救助したが内1名は死亡。韓国側は4人を拘束。また警備船6隻とヘリコプター4機を投入して、もうひとりを探したが行方不明である。
 黄海の韓国EEZ内では、中国漁船が不法操業を繰り返し、取り締まりに当たる海洋警察官に漁民らが暴行する事例が目立ち、問題になっていた。しかし韓国外交通商省は漁船乗務員に死者と行方不明者が出たことに関し、在韓中国大使館に遺憾の意を伝えた。韓国政府は今回の事態が、中国との外交問題に発展するのを避けた。撮影されたビデオは公開されず、拘束した4人もすぐに釈放された。
 まるで前の尖閣諸島沖での体当たり事件を思わせるような光景です。さらにこの暴挙では、中国漁民に2名の死者が出たのです。一体なぜ、いつもこのように緊迫した日を選んで、攻撃を仕掛けてくるのでしょうか。

 雑誌『正論』昨年2月号(産経新聞社)に用田和仁「国民よ、中国の脅威を直視せよ」が掲載されました。用田氏は2010年まで、陸上自衛隊・西部方面総監だった方です。以下、ダイジェストで引用します。
 軍事的に見るならば、海上における南シナ海や尖閣の動きの中で海上民兵といわれ、平時は漁民だがいざとなったら軍人として正規軍の渡海・上陸作戦を支援する「多数の漁船群」に着目しなければならない。これらと旧軍艦等の監視船、そして現役の軍艦が役割を分担して行動している。ちなみに海上民兵は、小型漁船の二百から二百五十隻で一個歩兵師団を運ぶ(中国軍事雑誌「艦船知識」2002年)といわれているので、それらが島嶼へ侵攻する場合の先導とし、まず港湾に殺到して来る。尖閣のまわりでは、すでに2010年8月から二百七十隻の漁船が操業し、その内の約七十隻が日本領海にいた。見方を変えると尖閣諸島は、約一個師団の海上民兵に長く包囲されていたことになる。漁民の保護、すなわち国民の保護という大義名分で戦争に及ぶのは、古典的な常套手段である。このやり方でいくと、南西諸島まで戦火を拡大することは、いとも簡単なことである。中国は「人海戦術」を得意とする。

 中国海軍の近代化、ハイテク化は驚くほどのスピードで進行しています。いま建造している、はじめての空母2隻の完成も近い。高性能潜水艦の保有量の多さにも驚く。ハワイ以西の西太平洋を制覇しようとしているのが、いまの中国といいます。さらにはインド洋も、石油のライフラインとしている。米国と並ぶ海洋帝国の誕生は決して遠い未来の話しではないようです。
 外国の違法漁民を取り締まることは国際法上、対処に困難がつきまとうという。彼の国の狙いは、きっとそこにあるのでしょう。末端ではあるが、彼ら漁民たちは中国海軍に組み込まれた海兵であることを、わたしたちは知らねばならないようです。
 中国政府高官は米国要人に、こう語りました。「ハワイを境に西太平洋は中国に、東太平洋は米国の管轄に」。夢物語ではありません。わたしたちは太平楽なのではないでしょうか。
 1000隻の漁船で襲来するという船団は、実に4個師団体制にあたります。海上保安庁でも警察でもまた自衛隊でも、雲霞のごとく押し寄せる自称漁民の大軍を防ぐことは困難です。
<2012年9月19日 北朝鮮による延坪島砲撃事件の後に書いた文の改訂版です 南浦邦仁記>
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字「幸福」の誕生 (1)

2012-09-17 | Weblog
このブログで「幸」字についての連載を以前やっていました。サチ・サイワイ・シアワセ……。言葉の本来の意味や、いつごろから使われ出したのか。そのような話しを何度も書いていました。
 しかし続けるうちに、段々と嫌気がさして来ました。こんなことを続けていても、だれもシアワセになれない。何の役に立つというのか? いったいわたしは何を続けているのか? それこそ不幸の奈落を進む気分になってしまいました。

 それで中断といいますか、中止にしてしまいました。しかし本来の目標は言葉「幸福」にたどり着くことだったのです。
 サチ・サイワイ(咲き這い)は古い語です。そしてシアワセ(仕合)はどうも室町時代以降の語で、少しずつ現代の「幸福」の意味に近づいていったようです。
 ところが幸福(カウフク・コウフク)が、歴史上なかなか出て来ません。現代では幸福は、サイワイ=シアワセ=コウフク、どれもほとんど同じような意味に使われる言葉です。
 幸福論といいますが、「幸い論」とか「仕合せ論」はあまり馴染みがありません。いわば語「幸福」が現代用語の勝者で、サイワイ・シアワセは従者のような扱いかもしれません。

 そんなこんなで連載を再開しようと思い出しました。奈落から這いあがる気分ですが。語「幸福」は、日本でだれがいつから使いだしたのか? 幸福語はいつごろから根強く定着したのか? そのようなどうでもいいことですが、続けることにしました。

 結論をいえば、語「幸福」の最初の使用人物と目される井原西鶴(1642~1693)ではなかった。『日本永代蔵』にも『世間胸算用』にも、幸福は出て来ません。
 その後の上田秋成(1734~1809)こそが、「幸福」を多用した人物だと思われます。しかし秋成の「幸福」も一般には文字普及しませんでした。
 語「幸福」の使用が定着し出したのは幕末にはじまり、明治になってからが顕著のようだ。そのような結論になりました。
 近世近代の書物を渉猟したわけでは、当然ありません。しかしこの結論は、大きくは誤っていないと確信しています。なんとも厚顔ですが。

 マイナーで面白くもない幸福論です。幸福になるための役にも立ちません。しかし一度やりかけた自分の意地として、引くに引けない気分になってしまいました。ほんのわずかの方であっても、これからの連載に多少とも面白さを感じてくだされば、最高のしあわせです。
<2012年0月17日 南浦邦仁>
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日本人の識字率

2012-09-13 | Weblog
 江戸時代末期ころ、日本人の識字率は世界有数だったといわれています。トロイ遺跡の発掘、『古代への情熱』で有名なシュリーマンが日本を訪れました。慶応元年(1865)のことですが、江戸や八王子でみた寺子屋の盛況ぶりに驚いています。「日本の教育は、ヨーロッパの最も文明化された国民と同じくらいよく普及している」「自国語を読み書き出来ない男女はいない」。そのように記しています。

 信州埴科郡森村、いまの長野県千曲市森のある農民の記録によると、寛政6年(1794)ころから、素読が流行し出し、年季奉公人までもが夜に字を学び、その後、森村では俳諧、狂歌、和歌、長歌までたしなむひとがずいぶん増えた。識字の力は急速に高まった。
 「まったく天地黒白ほども変わってしまった。このような事態は森村だけのことではなく、世間一般に見られる」。庶民はさらに小説を読み、生け花、茶の湯、書画などの芸道にまで及んだ。
 藤川覚著『大江戸世相夜話』(中公新書)で紹介されていますが、19世紀日本の文化レベルの高さには感心してしまいます。

 ところが最近、東京の友人から届いた冊子には驚きました。彼は自分が気に入った記事コピーや冊子などを郵便でどっさりと送ってくれます。いつも到着が楽しみなのですが、そのなかに月刊「本」7月号、高島俊男「日本の識字率世界一?」がありました。
 高島先生によると、寺子屋は確かに18世紀末の寛政以降、幕府末期70年ほどの間に、全国に4万校くらいも誕生した。常時100万人ほどの子どもが寺子屋に通っていたことになる。
 しかし寺子屋に行った子どもが、みな読み書きができたかというとそうでもない。遊んだりあばれたり、また農民は冬場しか来なかった。学習はあまり進まなかったようだ。
 その後、長野県常盤村、現在の大町市の明治14年調査によると、10歳以上の男子で名前と住所くらいしか書けない、あるいはどれも書けない者が77%にのぼる。この村は、先に出て来た森村の、おおよそ30キロほど西にあります。
 明治20年前後の鹿児島県の調査では、自分の名前が書けるひとは、わずか25%ほどだったといいます。

 幕末の高い識字力の記述と、明治初期のこの調査のギャップには驚きます。いったい何が正しいのでしょうか。
 推測ですが、農民にとって文芸や遊芸は好ましいことではない、という根強い考えがあります。文化的なことに熱中すると日々のきびしい労働をおろそかにしがちである。また農業をやめてしまい、遊芸で身を立てようとする者がたくさん出だした。
 家の永続と村の維持が何より大切な篤実な農村社会にとって、文芸へののめり込みは百害こそあれ、益のないものです。藩体制や初期の明治政府にとっても、生産性を低下させるような庶民のリテラシー向上は、許しがたい文化現象です。江戸時代末期に高揚した文芸、遊芸の発達はこのように、農民社会では冷水を浴びせられたのではないでしょうか。

 しかし明治時代、商工業のめざましい発展とともに、農家の二男三男たち、娘たちも都会や工場に出ます。識字力が必要とされるようになったことでしょう。軍隊もしかり。また当時は方言も強烈です。会話より文字による伝達が確実です。
 小学校への進学率をみますと、明治7年30%ほど、明治23年40%。低下していた若年層の識字力が、徐々に復旧したのではないかと考えられます。
 そして明治の新聞には、すべての漢字に振り仮名がついていました。総ルビです。新聞の果たした役割も大きかったと思います。庶民には高価だった新聞も本や雑誌同様、回し読みされたのでしょうね。

 ところで、こんなつまらぬブログを書く暇があったら、もう少し役に立ち、実益のあることでもやったらどう? そんな声がどこからともなく聞こえて来る気がします。もっともな声です。
<2012年9月13日>
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若冲忌

2012-09-11 | Weblog
 伏見深草の石峰寺に、久しぶりに行って来ました。昨日9月10日は、江戸時代に活躍した京都の画家、伊藤若冲の命日です。亡くなったのは寛政12年(1800)、212年前です。墓のある同寺にはたくさんの若冲ファンが集合しました。
 恒例になりましたが石峰寺所蔵の若冲画が、庫裏内にたくさん掛けられました。どの軸も見事です。朝10時半からは本堂で、阪田良介住職による読経回向。そして墓参です。

 若冲は還暦の数年前、それまで親しかった大典和尚の相国寺を離れました。そして黄檗山万福寺の末寺、石峰寺のために晩年をささげます。同寺門前の住まいで85歳で亡くなるまで、彼の活躍は四半世紀の長きにわたります。
 五百羅漢像で知られる石造物群、釈尊一代記パノラマ「仏伝テーマパーク」とでもよぶべき広大な石庭。観音堂天井画……。

 昨日のこと、「石峰寺伊藤若冲顕彰会」が発足しました。会が目指すのは、若冲墓と筆塚、五百羅漢像の保存。そして寺の歴史や若冲の功績などを後世に伝えることです。
 年会費は3千円ですが、さまざまの特典もあります。たくさんのみなさんが入会されますよう、ご案内いたします。詳しくは石峰寺のホームページをご覧ください。

 読売新聞9日朝刊が伝えましたが、若冲の33回忌に墓横に建てられた筆塚の建立者が判明しました。清坊なる縁者が建てたのですが、謎の人物だった清坊は若冲の弟の白歳の孫です。枡源第10代伊藤源左衛門。
 滋賀県信楽のミホミュージアム学芸員、岡田秀之さんが確定されました。これで若冲縁者の皆さんは彼岸で、ホッと胸をなでおろしておられることでしょう。
<2012年9月11日>
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津波シェルター・カプセル案

2012-09-09 | Weblog
 大津波が来ても地表にとどまり、かつ命を守る。高所に逃げろという津波常識を打ち破る逆転の発想ではないかと思います。高知県沿岸部などでは、想定高からみてまず逃げられないのです。
 ネットで調べてみました。やはり高知県がいちばん真剣に取り組んでおられる。7月21日読売、8月20日産経報道などです。

 避難所案は大きく分けると、カプセル型とシェルター型の2案。ひとつは海難用救命艇の改良です。実際に大型船が積み込んでいる「ノアの方舟」です。強化プラスチック製のカプセル。25人乗りで1週間の漂流に耐えることを想定している。
この艇の改良型開発がひとつの方向です。建造費は1艇600万円。国土交通省が現在、開発研究しているそうです。今年度中に試作品ができるという。
 どうも問題は、激しい揺れに高齢者や病人が耐えられるかということ。それと狭い密封空間に何日もじっとしておられるか? よほど健康で元気でなければ耐えられないのかもしれません。船酔いは強烈でしょう。
 
 つぎの案は、シェルター型です。3タイプが考えられています。建設費用はいずれも数億円。専門家は、どの案にも技術的な問題はないとしています。
①<地下型>海底トンネル用の箱を埋め込む。床面積330平米で、100人以上収容。ひとり当たり床面積は2平米。電源は蓄電池。圧縮空気や酸素用のボンベが必要。
②<地上型>完全地下型では「穴底に逃げたい」という住民の意識が低くなってしまうようです。確かに水漏れを起こすと水棺になってしまいますし、酸素の供給に不安はないか? 津波で壊されなくても酸欠になってしまってはたいへんです。そこで地上型あるいは半地下型なら、外気を取り込めるといいます。
③<崖横穴縦穴式>崖や山腹に横穴トンネルを90米ほど掘り、奥に広いホールを構える。地表に向けて長い縦穴も備える。この階段をよじ登れば、高所の地表に出ることもできます。空気や電気は縦穴から取り入れる。

 シェルター型の問題点も多い。だれが、どのタイミングで閉めるか? 大問題です。しかし地上避難という案を、それがために諦め放棄するのは、まだ早すぎるのではないでしょうか。
 高知県の担当者は「扉を閉める際の基準を考えたい。また密閉空間で長時間過ごす不安感やパニックなど、心理的な影響も検討が必要だ」
 国土交通省の技官は「住民が使いたくないと感じた瞬間に、ただのガラクタになってしまう。安全性を信用してもらえるかが大きな課題」

 高知県の津波避難シェルター技術検討委員会の委員は「最初からひとつの案だけに決定して、ほかの案を排除するのではなく、さまざまな可能性を探り、不利な点にどう対処すべきかを考えればいい」。わたしもこの意見に賛成です。
 高知県のホームページによると、10月に概略の設計図や工事費用などが発表されるそうです。いずれにしろ、世界初の津波避難所建設計画です。成功すれば、海外の危険津波地帯住民に向けて、人命救助での国際貢献になるはずです。日本こそ、津波対策先進国を目指すべきです。
<2012年9月9日>

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大津波シェルター

2012-09-07 | Weblog
 大津波がすぐに来襲すると知らされたら、どこに逃げますか? 大問題です。まずは想定される高さです。取りあえずは、内閣府が先日に発表した想定高です。これを信頼できる指標とせざるを得ません。
 高さ数メートルの地域なら、堅固そうなビルの3階なり高台なりに避難すればまず安心です。問題は20メートル、あるいは30メートル以上と想定された地域です。すぐ近くに高台があれば、また避難経路が整備されていればある程度は安心です。しかし高齢者など、そのような高所に短時間で駆けあがることは困難です。鉄骨の避難タワーでも、高さ数10メートルでは耐性強度に問題があるそうです。やはり地表あるいは地下構造の避難シェルターを造るより、対策はないのではないでしょうか?

 完全密封で換気装置の完備した施設をいくつも造る。しかし数十人や数百人も収容できる施設の新築は、予算的にむずかしいかもしれません。それなら、いますでにある建物を活用してみてはどうでしょう。
 公共の建物、コンクリート建築の公民館や役場支所、学校や対策に賛同する民間の建物。そういった設備を津波シェルターに改造するのです。
 まず堅固な密封装置で囲います。学校であれば、体育館をコンクリートの壁で四方八方を覆ってしまう。屋上は地区によっては鉄骨と強化素材構造でも大丈夫かもしれませんが。そして非常時には、体育館の何カ所もある扉をすべて閉じる。非情な措置ですが。
 新しい避難設備をいくつも建てるよりも、すでにある設備を活用するのが容易ではないでしょうか。また新築の公的建物の計画があれば、窓はいりません。丈夫な構造で密封すれば、収容者が息さえできれば、そして飲料水があればまず生命は守れるはずです。建物の角を丸くすれば、なおいいそうです。潮流や、ぶつかって来る車や船などの漂流物をかわせます。
 流されることのない固定式ノアの方舟かもしれません。津波対策には、もっともっと議論が百出すればいいのではないでしょうか。
<2012年9月7日>
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大阪湾大津波

2012-09-04 | Weblog
 井原西鶴『世間胸算用』に四千石積みの超大型、後に北前船と呼ばれる巨船が出てきます。「浪風静に神通丸」とありますが、名は「大通丸」というのが正しいそうです。同書刊行は元禄5年、1692年です。以下現代語意訳してみます。
 泉州に「唐かね屋」という大富豪がいる。廻船業者だが日本最大の船をつくった。三千七百石も積んでも船足は軽やかである。唐かね屋は浪花で、廻船以外にも両替商など幅広く商なったが、この大船は難波港から瀬戸内海を長州・下関へ、そして北海舟路と当時呼んだ奥州松前までの北国の海を自在に往来した。

 『摂陽奇観』(泉州飯ニ大船を造ル)にもこの巨大な船の記載があります。大津丸となっていますが、大通丸が正しい。
 泉州佐野の有名な船持ち、唐金屋が類稀な大船を、寛文のころ(1661~1672年)に造った。この大船には畑まで備わっており、野菜を栽培するほどであった。日本一の大船だといって大坂の名物だったが、惜しいことに宝永大地震のときに「津波の為に打ちあげ損ぜしかバ其砌船を解て退轉せり」
 宝永4年10月4日(1707年)の「五畿七道大地震」大津波で巨船は陸地に打ち上げられ、破船となった大通丸は解体されてしまった。

 1757年刊『拾椎雑話』を意訳します。
 宝永4年亥10月4日の昼、大坂大地震が起こった。堂島のあたり新地などは、ことごとく家が潰れ、地震による死者はおよそ5千人。夕飯前で各家が火をつかう前だったため、幸い火事はなく、余震もおさまった。
 ところが夕ご飯の準備が完了するころ、津波が大阪湾に来襲した。波は一度引いて、また襲って来た。道頓堀では潮の高さは1丈(3.03メートル)。津波による死者は1万3千人。
 地震が起きたとき、家にいるのは危険だが、余震を心配した婦女子ども老人などはみな舟に乗った。陸より海上が安心だとの判断だが、夕方に押し寄せた津波で小舟は転覆し、多数が溺死してしまった。
 このとき川尻には千石から千五百積みの大船が5艘、また四千石積みの大通丸という大船があったが、避難者が乗り込んでいた小舟は大船の下敷きになって多くは崩れてしまった。
 大通丸は河川を遡上する津波とともに内陸に押し流され、いくつもの橋が巨船にぶつかって壊れてしまった。「汐引候ては船平地に居り、後に解きて取りぬ。高麗橋邊は少も汐のかまひなし」
 この本の著者は、ちょうど地震の日に大坂に居合わせたひとから、直接聞いた話しだと記しています。

 1707年の宝永津波・五畿七道大地震は、各地の被害記録が確認できる最古の地震津波です。
 大津波は伊豆半島から九州にいたる沿岸を襲い、四国と紀伊半島での被害が甚大であった。死者は2万人以上。家屋倒壊流出6万、紀伊半島などの波高は10mに達した。また土佐の津波被害は甚大であった。遠州灘沖および紀伊半島沖でふたつの巨大地震が、同時に起こった可能性が強いといわれています。
 各地の津波高は、東京都八丈小島6m。静岡県の八木沢10m、相良8m。三重県では国府、贄浦、村上が各8m。賀田9m。尾鷲、新鹿各10m。和歌山県の勝浦、新庄各7m。大阪市3m 。徳島県朝川7m。高知県の岸本、久礼、佐賀、浦戸、須崎各6m。下川口7.7m、宇佐8m。鹿児島県種子島6mなど。
 大阪市は3メートルとされていますが、巨船の大通丸が大橋を壊しながら河を遡上していく様をみても、もっと高い津波だった可能性を否定できません。確かに当時の防潮堤や河川の堤や水門は現在ほど頑丈ではなかったでしょうが。
 内閣府が8月29日に発表した想定津波高では、大阪市住之江区5メートル、その他の湾岸区は4メートルです。

 ちなみに、宝永大地震の翌月、11月23日から富士山が大噴火を起こします。歴史上最後の噴火です。
<2012年9月4日>
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大津波避難所

2012-09-02 | Weblog
 南海トラフ大地震と津波。遠くない内に必ず起きるであろうとされる大災害です。内閣府は今年3月末の推計値発表に続き、8月29日に広域の想定波高を発表しました。死者は最大32万人以上。驚くべき数です。その内、津波被害者は7割の20余万人になるとしています。
 最大津波高想定は34メートル。とてつもない高さです。わたしの自宅は5階建ての最上階ですが、高さを計ってみました。階段の1段がほぼ20センチです。全階段数に掛け算したら、5階の我が家の床高は地表からほぼ12メートルでした。ひとつの階が約3メートル。34メートルはそのほぼ3倍、13階建てほどです。

 最高想定高34メートルとされたのは、高知県の黒潮町と土佐清水市です。30メートル以上はほかに、東京都新島村31、静岡県下田市33。
 20メートル超は静岡県南伊豆町26。愛知県田原市22。三重県鳥羽市27、志摩市26、南伊勢町22。和歌山県すさみ町20。
 内閣府が8月29日に発表した2メートル以上が想定される市町村別リストは、同ホームページでみることができます。長大なリストです。
 記録が確認できる過去300年間の津波高記録をみると、もっと高い津波が襲来しています。1771年の八重山津波では、沖縄県石垣島宮良村で85.4メートルの記録があります。明治三陸津波(1896年)では岩手県綾里白浜で38.2メートル。昨年3月11日の津波では岩手県両石湾オイデ崎で55.6メートル。遡上高ですが、驚くべき高さです。

 今回の内閣府の発表では、早く高所に退避し、また事前に適切な防災対策をとれば、人的被害を8割減らせるともいいます。今日は津波避難について考えてみます。
 まず高い所に逃げることです。しかし短時間で40メートルも階段を駆けて登るのは、なかなかたいへんなことです。高齢者や足の不自由なひとには困難です。津波テンデンコでは助け無用といいます。岡や裏山の山道は、車椅子では進めません。
 階段の避難タワーなどそのようなひとには無用の長物ですし、現状ではまず低すぎるようです。高い塔に登ったからといって、安全の保障もありません。

 わたしなりに考えて、遠くの高いとこまで逃げずに、近くの安全な地表に留まるべきではないかと思ったりします。
 ひとつはカプセルです。外洋に出る大型船は積み込んでいるそうですが、神話伝説でいうヒョウタンの発想です。数十人が乗り込める完全密封の避難ボール、現代のノアの方舟のようなカプセルです。製造費はかさむでしょうが、病院や老人施設、保育所などに常設するのも一法ではないでしょうか。ただこの非難カプセルは波に抵抗せず、ボールのようにクルクル回転します。病人が耐えられるかどうかは心配です。

 もうひとつは小型シェルターです。頑丈な完全密封の防空壕かトーチカのイメージです。低地の住宅地や職場、学校の近くに設置する。遠くても数百米ほど行けば、いたるところの公園や空き地、学校敷地内などにこの施設があるようにする。
 地震で停電しても自家発電で換気ができ、通信機能やトイレを備え、最低限の飲み水や食料も備蓄しておく。カプセルのように漂流せず、揺れることもありません。ただ入口の問題があります。常時開放し出入り自由であるべきですが、やはり通常は閉めておき、津波が危惧されるときは至急に解錠を無線で遠隔操作する。通常時は高い旗棹を立て、場所を示しておく。
 しかし波が目前に迫ったとき、必死の体で駆けこもうとするひとのためにドアを開けるかどうか。問題は山積みでしょうが。

 問題といえば、コストも大きい。国や自治体だけに頼っていては、いつまでたっても整備されないでしょう。国民の寄付を仰いでみてはどうでしょう。税金と善意の両立てです。
 たとえば十万人ほどが高所に非難するとして、あと十万人くらいを収容するカプセルとシェルターを備える。1台30人収容として、三千数百台が必要です。
 寄付先は住民の地元自治体を指定したり、あるいは内陸地の方なら無指定で被害が予想される市町村への配分を一任する。決して安価な装置ではないでしょうが、大津波に抗せず生き残る、ひとつの策ではないでしょうか。
<2012年9月2日>
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