幸福のことが気になりだしたのは、昨年の11月のことです。ブータン国王夫妻が来日されたときでした。GNH<国民総幸福>を標榜し、貧しいけれど97%もの国民が「幸せ」だと返答する国。「幸せとはいったい何なのか?」素朴な疑問からはじまって、その後いくつかの幸福本巡りを続けました。
ところで、京都の浄土宗古刹で連続勉強会が開かれています。佐伯啓思著『反・幸福論』(新潮新書)をたたき台に、市民が幸福について議論する。活発な意見が飛び交い、初参加のわたしなど正直なところ少し怖じ気づきました。
まず5月に開かれた初回には30人以上が集いました。第2回は旅行のため欠席。7月の3回目は行きましたが20人ほどがカンカン諤々。最後の第4回目は8月初旬に開かれます。
それにしても鹿ケ谷の閑静な寺院の広間で、このような研究会、討論会がひっそりと熱く続いているのは心底驚きです。なおこの読書会は科学を冠する教団とは、まったく無縁です。
ところでこれまで参加しての印象ですが、「幸福」「幸」とか「仕合わせ」「幸い」とかの類似関連語の意味の問題です。個々人のもつ語のイメージや意味合い、さらには言葉の定義なりが異なる。
幸福=金銭財力という方もいますでしょうし、健康や家庭の平和、社会的地位や権力というひともおられるでしょう。なかには快感主義やリッチなセレブ志向、あるいは三高との結婚という女性もおられるかもしれません。
あれこれ幸本を読んでいますと、幸福とは自己実現であったり、ショーペンハウアーは解脱だったり、別の著者は生存中に幸福を得ることは不可能と書いていたり。宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。最貧国ではお腹いっぱい食べること。老子は「足るを知る」。チルチルとミチルの幸福の『青い鳥』は、あるひとつの願望幸福をかなえると何処ともなく飛び去りました。
ポジティブシンキングではヘラヘラ笑っておれば幸福になれる。「幸せだから笑うのではない。笑うから仕合わせになれる」。願望が弱いからあなたは幸せになれないともいいます。
字「幸福」が日本で使われ出したのは、どうも19世紀のはじめのようです。中国では千年ほど前、『新唐書』に載る語ですが、ここでの「幸福」は「福を願う」という意味のようです。幸は願うです。現代日本でいう幸福とは異なります。漢語「祥福」()あるいは福祥が日本語の幸福に近いようです。西暦720年ころの『常陸國風土記』には「祥福は俗の語に佐知(さち)という」と記されています。
幸字はさち、しあわせ、さい、さいわい、みゆき、ゆき、ねがう、コウ、カウ、シン……。次回は「記紀」の海幸山幸からはじめて、「さち」「さつ」「さき」を考えようと思っています。そして「さいわい」「仕合わせ」、いつかは新語の「幸福」までを追ってみたいと考えています。
当然ですが、わたしは国語学の門外漢です。「幸ゲーム」としてやってみようと思っています。間違いや不足の指摘、アドバイスなどをいただければありがたいです。それでは次回。
<2012年7月23日 南浦邦仁>
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