ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

乞食 こつじき  №3

2009-12-30 | Weblog
現代日本では、乞食を見かけることもなくなりました。いくらか似たひとは、ホームレスのみなさんであろうか。
 しかし彼らはまず、物乞いをしない。乞食(こつじき・こじき)は、米銭を乞うひとを、ふつういいます。しかし、いまの法律では、自らへの寄付行為を希求する行い、金品を求める行為は、違法な犯罪とされている。本来の乞食業あるいは乞食行は、現代日本では実行できなくなってしまったのです。
 ところでホームレスの方たちは、寒風吹きすさぶなか、どのように生きておられるのであろうか。毎日あまりにも寒い。人間に限らず、動物すべてに共通する条件であろうが、生きていくためには、空気と水と、食糧が必須である。衣食住が条件ともいうが、ボロ衣をまとい、雨風をいくらかしのげば、なんとか生きていける。空気と水はまず安心だが、食べ物だけは、確保に腐心せざるを得ない。

 ところでホームレスという言葉には抵抗がある。英和辞典をみると、
 homeless 家のないひと。
 home  家・家庭・自宅・住所・故郷・宿泊所・安息所…
 house 家・家屋・一家・一族・…家(け)例:ウィンザー家・建物・商店・会社…

 確かに「ホームレス」は英語で「家のないひと」だが、日本では一般に「ホーム」は「家庭」を意味するようだ。「♪あったかホーム~」や「老人ホーム」などというのは、家屋と家庭家族の混合であろうか。しかし「家庭のないひと」だと、ワンルームマンションなどで暮らす独身単身居住者まで含んでしまう。また家庭内別居、家庭内半離婚などの場合、どうみなすべきであろうか。わたし個人のことは、さて措いて…。日本では「ハウスレス」とでも呼ぶべきか。
 しかし京の鴨川の橋下には、ブルーシートで寒風対策を見事に施した住まいも多い。一概に「家屋」住居とは何かと、決めつけるのもむずかしい。「単居野外住者」が適切かもしれない。
 私事ですが、明日からわが家の五人家族は揃って、久しぶりに播州の実家に帰省する。親の家は大正年間に建てられた古い家屋である。産まれ育った田舎屋であるが、冬場は隙間風に閉口する。風通しのいいのも、正月には考えものである。風通しの悪い住宅、密封空間こそが、現代では最高の居住所とされる。

 ところで、気になるホームレスの中高年男性がおられる。京都河原町通の繁華街の歩道で暮らす単身者である。河原町通三条上ルに、カトリック河原町教会がある。彼はこの半年くらいの間、教会玄関先の路上に居住している。また彼は眠るとき、床にゴロンと転ばず、いつも背を壁にもたれさせている。彼の真後ろガラス越しにマリア像がある。男を見守るように、小柄な女性ほどの高さのマリアは日々、微笑んでいる。わたしは通勤バスで毎日、朝晩に彼の前の車道を通っています。
 まるで聖母の御子のごとく、男はいるのです。この寒い冬も、彼は温暖地へ引っ越しをしませんでした。また道行くひとは、だれひとりとして、彼を嫌っていない。そのように感じていました。
 ところがこのクリスマス聖誕祭、教会には御降誕祭との大きな看板がありますが、そのころから彼の姿は消えました。なぜ? 彼はどこに行ってしまった?
 教会を訪れ聞いてみましたが、病気や死去ではなさそうでした。名も知らぬ、話したこともないおひとですが、新春を無事に迎えられ、2010年がすばらしい年になることを祈っています。

 さてこの河原町教会ですが、カテドラルは「聖フランシスコ・ザビエル大聖堂」といいます。イエズス会の宣教師、ザビエルが京の都を訪れたのは、1551年1月のことでした。450年ほども前です。彼は11日間、京にとどまりました。しかしこの地とひとびとに落胆し、熱望した都での布教も叶わず、西に去る。このときのことは、かつて片瀬ブログで「千秋萬歳中世史年表 新版 後編」と題して掲載しました。興味ある方はご覧ください(2009年10月11日記載)
 彼の記述によると、ザビエルは京の都を、どこかの高台から一望しています。「昔はここに十八万戸の家が櫛比していたという。私は都を構成している全体の大きさからみて、いかにもありそうなことだと考えた。今でもなお私には、十万戸以上の家がならんでいそうに思われるのに、それでいて、ひどく破壊せられ、かつ灰燼に帰しているのである」。戦乱の時代であった。
 この表現は、やはり高い位置から眺めたから書けたのであろう。ならば、一体どこから、ザビエルは都を見下ろしたのであろうか。

 明治初年の1873年新春のこと、キリシタンはまだ禁じられていました。しかしローマ教王ピオ9世は、ブロンズの聖母像を密かに京に送り込みます。名を「都の聖母」、教王自らの命名です。「ザビエルの悲願だった日本の都での布教、そして必ず教会を建てるため」まずマリアが京に着いたのです。
 しかし禁教令下、教会の建設どころか、布教活動もままなりません。ピオ9世は、京都を見下ろせる丘のうえに像を埋めることを指示しました。マリア像は明治6年、東山の将軍塚に埋められました。
 そして間もなく、日本政府はキリスト教禁制に反対する諸外国の圧力に負け、キリシタン禁制の高札を撤去する。宣教のために入洛したヴィオリン神父は7年後の1879年に、マリア像を掘り出しました。
 そしてこのマリアは、ザビエルの悲願実現を象徴し、河原町教会「聖フランシスコ・ザビエル大聖堂」の地下聖堂にいまも安置されています。

 さてザビエルが都の光景を一望した丘とは、やはりこの東山の将軍塚であろうと思います。同地は現在も、京を見渡す名所のひとつです。またザビエルは滞在中、近江坂本に行っています。天台叡山との交渉のためです。そのとき蹴上経由、三条街道・東海道を山科に抜けたのではないか。九条山峠から将軍塚まで、すぐです。坂本への往路、彼は京の街並みを見下ろした。ヴァチカンも同様の判断から、マリア像の埋蔵地に、ザビエルが登ったであろうと推察する将軍塚を選んだのであろう。
 像「都の聖母」<Notre Dame de Miyako>は、あのホームレス男性の幸福を、きっと祈り見守っていることでしょう。

 ところで明日より例の風通しのいい、隙間風刺す実家に帰省のため、ブログは数日間お休みします。パソコンは京の自宅に置き去りです。
 すべてのひとにとって、来年がすばらしい年になりますよう。
<2009年12月30日 南浦邦仁> [201]
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西暦644年の「打毬」 <古代球技と大化の改新 10>

2009-12-27 | Weblog
大化の改新の前年、644年1月1日に中大兄皇子と中臣鎌足がはじめて出会った。球技会でのこと、皇子の鞋くつが毬とともに脱げた。鎌足がそれを拾い、跪き返す。このときの球技は、蹴鞠ケマリであったのか、それとも文字通りの打毬「歩行打球」ホッケーであったのか。本日は、わたしなりの結論を出す最終章です。力が入ります。「力」は蚊ではなく、リキ・チカラです。
 偶預中大兄於法興寺槻之下打毬之侶、而候皮鞋随毬脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶述所懐。(『日本書紀』巻第24)

 ケマリには軽い球が必須です。皮革を縫い合わせた「鞠」球は、古代中国ですでに一世紀には作られていました。「革を裂き手鞠をつくる」<揚子方言>
 しかし顔師古(存581~645)によれば、当時のボールは「中実以物」であり<漢書枚乗伝>、唐代初期の皮球・鞠のなかには、毛を詰めていた。「鞠戯は皮を以て之をつくり、中を満たすに毛を以てす」<『史記』衛青列伝索隠>。いわば、表皮製の革「鞠」と、中毛製「毬」の合成球でした。大化の改新の年に亡くなった顔師古の記述から、七世紀前半の唐代までは、まだ中空の気鞠・気毬(気球)は、発明されていなかったと判断します。

 徐堅(存659~729)によると、動物の膀胱を用いて球を作り、吹き口を用いて空気を入れた<初学記>。これが初期ケマリの可能性がありますが、記されたのは大化の改新の数十年後です。
 八世紀から九世紀にかけてのひとである帰氏子弟は、「気鞠」ふくらまし球は、八片の皮革で縫い合わせ、なかに空気を注入したと書いています<嘲笑皮日休詩>

 そして唐の文宗(治世826~839年)のとき、仲無頻が『気球賦』に記した。仲のいう気球はあきらかに中空ケマリ球である。慎重な学者は蹴鞠ケマリ球の発明を、九世紀前半にもとめます。根拠はこの『気球賦』です。
 鞠は八枚の革片を貼り合わせたもので、軽くよく弾んだようです。この「鞠」マリ発明以来、ケマリは、はじめて飛躍的に発展したという。
 また同書には、「交遊競遂」とあり、2チームがふたつの球門ゴールに蹴り込もうとする対抗試合、「投足」蹴球サッカーのことも記載されているそうです。その鞠が中空なのか、詰め鞠なのか、さだかではありませんが、<気球賦>というからには、おそらく「中空吸気式革製球」なのでしょう。
 しかし現代でも、蹴鞠ケマリ球はサッカーやラグビーのような激しいボール争奪戦には向かない。打球ホッケーなどに用いれば、すぐに破れてしまう。打突や圧迫には極端に弱く、少し丈夫な皮風船のようなものという。蹴鞠球の径は、ほぼ20センチ、重さはわずか100グラムから150グラムまでである。

 中国東北で生まれ育った劉蔚天(1907~1988)は、こう記しています。「遼寧省の錦州地方では、昔から豚の膀胱で球を作り、竹管を差し入れて空気を吹き込んだ」。球技ルールは、両チームとも駆け回り、追っかけ、だれが取っても、誰が蹴ってもよい。これは蹴鞠ケマリではなく、サッカーかラグビーのような足球・蹴球ですが、ケマリ誕生の前触れのようにも感じます。

 現代のサッカー少年は、やすやすとひとりでボールを百回以上も落とさずに蹴り続けるそうです。元サッカー狂だった息子に聞いてみましたが、小学生だったころ、まわりにそのような友人が何人もいたという。「ところで君は何回?」と問うと、「えへへ、実はシュートは得意やったんやけど…」

 膀胱球なら軽く、きっとよく弾んだと思います。サッカーボールよりもたやすい技かもしれません。隋代584年の古墓、徐敏行墓室が発掘されたが、酒宴の光景を描く「饗宴行楽図壁画」には、徐夫妻の前で曲芸者がひとりで球を打ち続けている画がある。彼の演じる技は見事である。球をみると、まん丸ではなく楕円形に近い形をしている。おそらく内臓球であろう。古代中国の球遊びの画像をいくらかみたが、蹴り続ける姿は、唐以前ではこれだけであった。しかしこの曲芸師のプレイは、仲間と連携するケマリではない。ひとり技の「連続内臓球蹴り」とでもいうべきであろう。

 唐代のものと伝わる錦州に残存する気鞠・気球は、膀胱球ではなく、六枚の★形の皮革を縫い合わせたもので、直径は約20センチ。この鞠なり技法は、おそらく唐の時代、はやくて九世紀に長安から錦州に伝わったものであろうと、わたしは思います。

 唐以前の『荊楚歳時記』には「打毬・秋遷の戯を為す」とあり、字は「打毬」である(注:秋遷の両文字には、ともに革偏がつきます)
 『万葉集』(巻第6・949)では、「集於春日野而作打毬戯之楽」。同じく「打毬」であり、前者ともにホッケータイプの歩行型棒スティック打球とされています。
 『日本書紀』でも「打毬」と記されています。ただ後世、鎌倉時代末期に『釈日本紀』が、当時盛んだった蹴鞠ケマリと、打球を取り違えた。それで「打毬」を「マリヲクユル」と訓してしまったと、わたしは確信しています。「クユル」は蹴るの古語です。打つではない。
 西暦934年に成った字書『倭名類聚抄』では、「打毬:末利宇知(まりうち)、毛丸打者也」。「蹴鞠:末利古由(まりこゆ)」、「こゆ」は「くゆ」に同じ。
 また毬は毛偏の通り、毛を使ったボールです。鞠は革皮の球であり、中国でも日本でも、毬・鞠の用法は、区別されています。

 『日本書紀』ではクツは球とともに、飛んだのではない。「皮鞋随毬脱落」であり、脱げたのである。ケマリなら空に向かって飛んで行くでしょうが、脱落したのです。
 またこの「皮鞋」(かわぐつ)ですが、各種あるクツのなかでも、「鞋」は小さくて、半履きの浅い簡単粗製の革クツです。本来、打球競技にもケマリにも不向きなクツだそうです。球技には、革帯を巻く「靴」(かのくつ)なりを履くべきでしょう。また平安末期『年中行事絵巻』では、ケマリプレイヤーはみな白い帯状の革か布の紐でクツをしばっています。
 おそらく中大兄皇子は、この打球技会に突然、参加した飛び入りだったのではないかと思います。彼はクツの準備をしていなかったのでしょう。

 ケマリ「蹴鞠」は、九世紀はじめの唐代、皮製中空ボール「鞠」マリ気球の発明からはじまると、わたしは確信します。ですから644年、中大兄皇子と中臣鎌足がはじめて出会った運命的な打球会は、やはり杖スティックで球を打つ、打球ホッケー毬打ぎっちょうであって、ケマリ会ではなかったのです。ケマリ球が中国唐代に発明される、おおよそ二百年前の出来事です。

 参考資料:
 江馬務著「江馬務著作集」巻8・11 中央公論
 玉置豊著「中国の古代足球について」
  『神戸外国語大学論叢10』所収 神戸市外国語大学
 守屋美都雄訳注『荊楚歳時記』平凡社東洋文庫324
 邵文良編著『中国古代のスポーツ』ベースボールマガジン社
 渡辺融・桑山浩然著『蹴鞠の研究』東京大学出版会
 岸野雄三編『最新スポーツ大事典』大修館書店
 田口貞善編『スポーツの百科事典』丸善

 <2009年12月27日 南浦邦仁>
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長沙・馬王堆出土「黄帝と蚩尤」 <古代球技と大化の改新 9>

2009-12-24 | Weblog
三十数年前のこと、中国湖南省長沙市の馬王堆(まおうたい)から、前漢の三古墓が発掘されました。墓の主は、長沙国丞相だった利蒼とその妻、そして子息である。三座とも、2200年近くも前に築かれた墓であった。
 なかでも1号墓からは利夫人が発見されたが、彼女の皮膚と筋肉には弾力があり、まるで生きるがごとくであったという。内臓も損傷していない。なぜ傷まなかったのか、いまでも謎であるそうだ。
 そして3号墓は、1号2号両墓夫妻の息子を葬っている。この墓からは大量の帛書(はくしょ)が発掘された。帛書とは、絹地に文字を書き連ねたもの。
 その一書に『老子』乙本巻前佚書・黄帝四経「十六経」があった。この書に記された「黄帝と蚩尤」の話しには驚かされる。黄帝は三皇五帝のひとり。神話時代の伝説の王である。彼は執念深く残虐であった。「十六経」を意訳すると、

 黄帝は宿敵の蚩尤(しゆう)と何度も戦い、そして激闘の末についに倒した。黄帝は蚩尤の革(かわ)を剥いで的にし、矢を的中させたものには賞を与えた。髪を切って空中に立て、蚩尤の旗であると称した。またその胃をふくらませ、鞠(まり)として遊び、よく蹴るものには賞を与えた。

 黄帝が蚩尤の頭蓋骨をボールとして、蹴ったり、棒で打ったりしたという伝説は有名であるが、胃袋を空洞のボールとして、蹴って遊んだというのには驚く。
 中が空洞の軽い皮革製あるいは内臓利用のボールを、「気球」(ふくらませ球)という。この球が開発されてから、蹴鞠[ケマリ]は一気に普及する。詰め玉とかの重い球では、ケマリはむずかしい。
 黄帝の胃球は、ケマリのはじまりであったのだろうか。それとも、蹴球サッカー型であろうか。
 一昨日のこと、京都駅八条口ちかくの焼肉ホルモン屋「水月亭」に行った。ある大学に勤務する五人仲間との楽しい忘年会であったが、わたしはホルモン焼きの豚胃「ガツ」を箸でつまみ、しげしげと見つめて食した。うまかった。ガツは豚で、牛胃はミノ、ハチノス、センマイというらしい。
 なお余談だが京都では「旨かった」といえば、即座に「うしまけた」と臨席のひとが返す。「馬勝った」「牛負けた」の駄洒落である。この日は「豚うまかった」だったが。


 「中国通信社」のニュースでは、国際サッカー連盟のブラッター会長は北京で開かれた中国国際サッカー博覧会で「近代サッカーの起源は、2300年以上もの昔に中国ではじまった蹴球であり、後にエジプト、ギリシャ<ゲームの呼称はエピスキロス>、ローマ<同ハルパスツーム>、フランスに伝わり、最後に英国にたどり着いた」と語った。(2004年7月)

 蹴球サッカーの発祥地は、中国春秋戦国時代の斉国(山東省)の都であるという。そして漢代におおきく発展した。羽毛や毛髪を丸めた毛製<毬>を蹴り、幅30~40センチの竹の間に掛けた網に蹴り込む。手で触ることは禁止され、足や肩、胸で相手を妨害し、毬を奪い合った。
 前漢の高祖劉邦は、長安宮苑内に大規模な蹴球・サッカー競技場(鞠城)を造った<漢書戚夫人伝>。また遠征軍は各地いたるところに、足球・サッカー球場を設置した<漢書雲去病伝>
 サッカーはもとは兵士の体力作り、訓練であったが、のちに宮廷にもひろがり、さらには民間にも普及し盛んになる。唐代に東は日本・朝鮮に伝播。西は欧州にも伝わり(前漢代か?)、英国で近代サッカーに発展する。
 しかし清朝以降、中国の蹴球サッカーは下火になってしまう。清は文をよしとし、武を軽んじたためであろうか。

 中国ではこのように前漢以前から、蹴球・足球・サッカーが盛んだった。しかし唐代からは、以前にみた通り、チベットから伝来した馬打球ポロが大流行します。唐以降、ポロは騎兵や将校のスポーツとして、サッカーは歩兵鍛錬のための激しい教練として、明代まで行われました。また軍に無縁な庶民も特にサッカーを、スポーツ・娯楽として楽しんだことは、いうまでもありません。歩行打球ホッケーも流行します。

 ところで、蚩尤の胃袋気球を蹴るとは、サッカーのみならず、蹴鞠[ケマリ]であった可能性があります。寒川恒夫氏によると、蹴鞠ケマリに不可欠の、中空で軽い気球「ふくらませ球」ですが、ニューギニアのイピ族では豚の膀胱で作るという。
 南アメリカのヤーガン族はアザラシの胃袋を利用する。北アメリカのクロウ族はふくらませた膀胱に、動物の腱を網状に編んだカバーをかぶせ、補強している。内臓利用の気球「ふくらませ球」は破れやすいという欠点があるからです。
 また東南アジア、特にインドネシアで昔から盛行のケマリゲーム「セパ・ラガ」がある。球は「編み球」という。藤を丸く、荒い透かし編みにしたものを使う。遊び方は日本のケマリにそっくりで、丸く立ち並んだ数人が、ボールを地に落とさないように、協力して蹴りまわし続ける。
 世界各地に、このような軽量なケマリに向いた「ふくらませ球」があり、どこでもいろいろなパターンの遊びを発明し、さまざまのルールのもと楽しんでいます。

 さて蹴鞠ケマリ談義にもそろそろ幕を引かなければと思っています。大化の改新の前年、644年に中大兄皇子と中臣鎌足がはじめて出会った。球技会で皇子のクツが脱げ飛ぶ。鎌足がそれを拾い捧げ、ふたりは密接になった。そして両人が連携し、翌年のクーデターをおこしたと『日本書紀』は記す。
 このボールゲームが、蹴鞠[けまり]であったのか、それとも歩行打球[ホッケー]であったのか。644年の球技解明のために、これまで右往左往しながら、調べ考えてきました。次回あたりで、わたしなりの結論を出そうと思っています。
 『日本書紀』巻第24 「偶預中大兄於法興寺槻之下打毬之侶、而候皮鞋随毬脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶述所懐。」

 参考:寒川恒夫著『図説スポーツ史』朝倉書店
<2009年12月24日 南浦邦仁> [199]
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若冲「遊戯神通」  ゆげ・じんづう <若冲連載51>

2009-12-23 | Weblog
若冲は還暦の歳のころから、石峰寺門前の住まいで逝くまでの四半世紀のあいだ、彼はこの寺のために渾身の力を傾けた。五百羅漢を含む石像群は千体を超え、五百の範疇には入らなくなってしまったほどである。寺境内の東斜面、百丈山の西面、石像群苑の入り口の門扁額には、「遊戯神通」(ゆげじんづう)と記されていた。
 西暦1788年、天明8年正月28日、京の儒学者・文人の皆川淇園(きえん)は、画家の円山応挙や呉春らとともに、石峰寺を訪れた。あいにく若冲は不在であったが、彼らは後山をおおう石羅漢を見物した。
 淇園は「梅渓紀行」に記している。「境静神清、堂後ノ小山、阪一二丈、上ニ小竹門ヲ設、扁ノ云、遊戯神通…」。石像苑入り口の門には、「遊戯神通」と書いた扁額があったのである。いまの石峰寺門には、扁額がない。
 そして二日後の1月30日、天明の大火によって、京の町の八割が滅尽してしまう。宮川町の一町屋からの失火が、これほどの大災になるとは、京のだれひとり、当然だが予感予兆するものはなかった。

 石峰寺蔵の版画「城南深草百丈山石像之図」に描かれた入り口門には、「遊戯神通」とある。また最近はじめて公開された若冲筆、石峰寺「五百羅漢図」には、門の扁額に「遊戯」とのみ記されていた。
 萬福寺の田中智誠和尚からご教示いただいたが、黄檗山第六代、石峰寺開山の千呆(せんがい)和尚の書に「遊戯神通」がある。大阪・明楽寺蔵の図巻の題字である。遊戯は佛教では、「ゆげ」と読む。

 横井清先生の『中世民衆の生活文化』を読んでいて、ごく最近のことですが、遊び・遊戯・遊戯神通の記述に出会いました。以下、簡略引用です。
 橋本峰雄氏によれば、日本人の遊びの精神の転変をつらぬいてその根本にあるものは、実に大乗遊戯(ゆげ)なのであり、それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」の語に表現されるような、仏教的な遊びの精神でありながら、容易に、人生すべて遊びであるという、自由とゆとりの精神として世俗化できるものだという。
 「遊戯三昧」は「思いを労せず無碍自在(むげじざい)に往来すること」、また「優游(ゆうゆう)自在なること」。そして類似の語「遊戯神通」は、「仏・菩薩が神通に遊んで人を化(か)し、以て自ら娯楽する」をいう。

 多田道太郎先生は、橋本峰雄氏の「神遊びから大乗遊戯まで」は、ヨーロッパと日本の世俗化の二つの道を示している。そしてこの二つの道は、橋本氏によれば、ともに大乗遊戯の精神にいたる可能性を今日もっているのである。

 『岩波仏教辞典』をみてみました。<遊戯>ゆげは、仏・菩薩の自由自在で何ものにもとらわれないことをいう。漢語の<遊戯>(ゆうぎ)については、『史記』荘子伝の用例で、何ものにも束縛されることのない自由な境地を意味しており、『荘子』逍遥遊に代表される<遊>の思想を踏まえたものであろう。その意味では、書画や文章をはじめ芸術における自由無碍の境地を称して用いられる<遊戯>は、仏語によるよりもさかのぼって『荘子』の<遊>の思想に系譜づけることができる。

 この辞典は、福永光司ほか編である。上記『荘子』の解説記述は、福永先生が書かれたものに違いない。二千年前の中国・漢に伝来した佛教は、漢語への翻訳にあたって、老荘の言葉と思想を踏まえ流用した。<遊戯>の語からでも明らかである。
 皆川淇園の記述、若冲「遊戯」神通を通して、奇しくもかつてお世話になった先生方に再会した。横井清、多田道太郎、橋本峰雄、福永光司。みなさんが「遊戯」に結集集結されたのである。
 遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ<梁塵秘抄>。「遊」遊戯はやはり、自由自在のようである。

 皆川淇園著「梅渓紀行」『近世儒家文集集成』第9巻
  淇園詩文集 所収 高橋博巳編集解説 ぺりかん社
 横井清著『中世民衆の生活文化』上巻 講談社学術文庫
 橋本峰雄著「神遊びから大乗遊戯まで」
  梅棹忠夫・多田道太郎編『論集・日本文化2 日本文化と世界』
  講談社現代新書 所収
 中村元・福永光司・田村芳朗・今野達編『岩波仏教辞典』岩波書店
<2009年12月23日 南浦邦仁> [198]
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「乞食」三川  こつじき・さんせん

2009-12-20 | Weblog
乞食のことを先日来、書きはじめました。現代では「こじき」としか、いいませんが、もともと乞食の呼称なり読みは、多岐にわたります。ほかい、こつじき、きっかい、こつがい、かたい、ほいと、いざり、ひにん…。まぎらわしいので、これからは乞食の読みを、原則「こつじき」とします。

 乞食を歴史の流れのなかで観、また考えますと、おおきく三類に区分できるかと思います。
 ひとつは佛教。托鉢(たくはつ)の乞食修業です。釈尊が定めた僧の行動ルールです。
 つぎは『万葉集』の乞食(ほかい)。乞食人を「ほがいびと」とよぶ流れです。祝言を寿ぐ(ことほぐ)異形の神人、寿ひ(ほがい)の職能者です。彼らは芸能民の原点のひとつでもあります。新春に「ことほぐ」(言壽)、千秋萬歳の原型でもあります。
 そしてわたしなどが子どものころ、路上で接した「物貰」(ものもらい)のひとたち。彼らは大地に坐し、膝前に茶碗かザルか、そのような物を置き、銭を乞うた。また歩ける者は、民家の門々を訪れ米銭を乞う。
 乞食は、この三種に区分すればわかりよいと考えます。ところが現代では、それらが混交してしまったために、乞食とは何かが鮮明でなくなってしまった。そのため「乞食」に対する誤解が生じ、偏見ばかりがはびこるのです。

 乞食の三種を比喩として、三本の川にたとえてみましょう。ある山系に、ふたつの頂があります。右山頂の右隣を源流とする小さな渓水が、平地に向かって河幅を拡げながら、どんどん下流に流れていく。
 頂上ふたつの間の谷からも、もう一本の谷川がはるか彼方の海に向かう。
 そして左峰の左方からも、三本目が同様に、同じ方角を目指してゆったりと水量を増しながら流れていく。
 三川はほぼ平行して歴史の流れのなかを、ゆっくりとまだ見ぬ大海を思いながら流れいく。これらの川は、時には氾濫して合流し、またある時には渇水で細り、また中下流民によって、流路をかえられたりもする。
 源流はどれも同じ山系に属し、地下水は共有関係にあります。始発点の分水嶺から三流は、同じひとつの雲が与えた水を分けあっているわけです。

 乞食三川をこれからは、
① 佛教系
② 祝言系
③ 物貰系
 と、よぶことにします。
 三回に分けて、それぞれを考えることにします。ちょうど年末年始の休暇が近づいています。盆とゴールデンウィーク、そして暮れ正月。わたしにとって、ありがたい時間です。

 余談ですが、近江の名刹、湖東三山が有名です。百済寺(ひゃくさいじ)、金剛輪寺(松尾寺)、西明寺。いずれもわたしの大好きな寺ですが、この山系からもほぼ平行して三川が流れています。愛知川、宇曽川、犬上川です。上流は三寺のすぐ近くであり、源流は鈴鹿山系の隣処に発しています。「乞食三川」のことを考えていますと、いつも近江の湖東三山三川に想いが向かいます。
<2009年12月20日 南浦邦仁> [197]
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沖縄米軍「普天間基地」

2009-12-19 | Weblog
 現代政治のことをほとんど書かないわたしですが、民主党政権にひとこと。彼らがいまもっとも苦悩している問題のひとつは、「米軍普天間基地」移設のようです。1945年以来の属国日本の本質が、あらわになってきたように思います。 
 わたしは普天間米軍基地を、即刻閉鎖廃止すべしと考えます。なぜなら、存続や国内移設を望んでいるひとは、地元でも本土でも、ほとんどいないと感じるからです。

 しかし、移設せざるを得ないなら、どこに移すのか? ひとつ提案があります。国内どこかの地方空港への移転です。先日の新聞に前原国土交通相のコメントが載っていました。「航空機が飛ばない空港が、ないようにするための措置を考えていきたい」
 日本航空ショック以来、地方航空の多くが、危機的な状況に追いやられています。
 そこで提案があります。「航空機が飛ばない空港」は、米軍に基地として提供すればいいのではないでしょうか。住民の少ない僻地の地方空港なら、沖縄県民を救うためにも、基地誘致の名乗りをあげてはいかがでしょう。飛行機は毎日、いくらでも飛びます。
 普天間基地に進駐しているのは海兵隊です。彼らは山中ではなく、海沿いを望むかと思います。わたしは日本国内の地方空港をほとんど知りません。しかし港湾に接する空港では唯一、神戸空港だけはわかります。神戸空港を進駐軍に提供するというのは、いかがでしょうか。
 JALはこの空港を発着する路線を廃止するそうです。近いうちに爆音はほとんど消え、閑古鳥が鳴きだします。関空と伊丹と神戸。三空港はバランスがとれていません。宙ぶらりんの神戸空港はこの際、開き直ればいいと思います。
 この空港は埋め立ての出島。まわりには広大な空き地があまっています。米軍の将兵と家族の住宅、軍施設など十分に収容できる土地があります。
 また六甲山の麓に広がる市街地は、彼ら米国人にとって、沖縄以上に魅力的でしょう。神戸の商業施設は活性化します。国際都市神戸らしさがもどって来そうです。絶好の立地にあるのが、この神戸・出島空港です。
 基地で働くたくさんの日本人従業員も必要です。雇用促進にももってこい。沖縄で失業してしまうひとたちも、希望者を招けばよい。彼らは基地での日常業務運営のノウハウを持っているのですから。日米親善のためにも、この案は決して荒唐無稽ではないと思っています。
 進駐軍が大挙押し寄せて来れば、その地の村おこし、町おこしになります。神戸以外にも適地があれば、手をあげて誘致名乗りをすればいい。

 このように好き勝手な提案を書いてみました。さて国内のどこかの地方空港が賛同して、誘致活動をはじめるでしょうか。おそらくどこも沈黙するはずです。「進駐軍を招くぐらいなら、飛行機の飛ばない空港でいい」
 だれも来てほしくない軍事基地など、いらないのです。普天間基地は閉鎖し、移設など考える必要もない。グアム島民の思いも同じではないでしょうか。
 核兵器同様、軍事基地も減らすべきです。オバマ大統領にノーベル平和賞を授与した意味とは、何なのでしょう。
<2009年12月19日> [196]
※神戸空港移設の案は、すでに議論の対象だったのですね。知りませんでした。いずれにしろ、神戸は筆頭角の候補地に違いありません。ただ軍事基地はどんどん削減すべきです。2009年12月20日
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乞食  こじき・こつじき・ほかい

2009-12-13 | Weblog
近ごろ、乞食のことが気になります。現代では「こじき」としかまず読みませんが、かつては「こつじき」であり『万葉集』では「ほかひ」。乞食人を万葉集では「ほがいびと」とよんでいます(第16巻3885・3886)
 また古典の多くには「乞丐」とあり、「きっかい」「こつがい」ともいいます。中国の語です。
 先月のこと、京都駅の美術館「えきKYOTO」に、円空・木喰展を観に行きました。円空作の大きな仏像の背には、「日本国修業乞食沙門」と記されていました。
 また中世のことを書いた本を読んでいますと、「乞食非人」と、まるで通り一遍のセットのように両語「乞食」「非人」は記されています。

 十七世紀初頭、ちょうど400年前にイエズス会宣教師たちが作成した『日葡辞書』には、<hinin>と<hinnin>は同じ意味と書かれています。漢字を当てれば「非人」「貧人」でしょうが、ともに<貧人・貧しい人>と記されています。『日葡辞書』記載の関連語をみてみましょう。
 コツジキ(乞食):食を乞う、乞食。
 コツガイニン(乞丐人):乞食する者、乞食。
 コジキ(乞食):乞食(コツジキ)に同じ。
  また九州では癩病(ハンセン病)患者の意。
 ヒンニン(貧人):ヒニンに同じ、貧乏人。
 ヒニン[これは非人のはずです](非人):貧人に同じ、貧乏人。
 ゴクヒン(極貧):極まる貧、極度の貧乏。
 ゴクヒンナ(極貧な):極度に貧しい。
 キュウミン(窮民):すなわち貧人。貧しくて疲弊した民、
  窮民孤独の輩、貧しくて孤独でよるべのない人々。

 なぜ乞食や非人に関心をもちだしたかですが、この夏から中世の千秋萬歳(せんしゅう・せんずまんざい)のことをあれこれ調べたのが、そもそもの始まりです。
 予祝などの祝福芸、萬歳をはじめ、芸能を演ずる者たちが、乞食のようなものとか、非人の輩とか度々記されています。十二世紀の記載では「此ハ乞食法師ノスル事也」(『知恩院本 倭漢朗詠注上』)。芸能民たちは非人とされ、河原者とか河原乞食ともよばれます。
 芸能民に対する賤視・差別は中世から、近世そして近代にまで、延々と続いたものと思われます。
 たとえば宮中に中世以来、参内して毎々年、正月初春に千秋萬歳を寿いだ声聞師たち。彼らの末裔は、大正期まで連綿と皇居に参入し続けています。そして禁裏の庭で、雨天には殿上で、千秋萬歳や舞などを演じ続けたのです。記録上では、1204年1月3日以来、実に七百年をこえる期間です。
 なぜ彼らとその仲間たちは差別されるのか?

 先日のこと、自宅で晩酌をしながら『一遍上人絵伝』をみておりました。ふと思ったのが、「四条の大橋のなかばか、橋詰めで、現代版の乞食をやってみようか?」。畸人仲間の友人の携帯に電話したら、「面白い。やりましょう」
 なおこの乞食は法師姿で、乞食僧をイメージしています。ボロ僧衣のにわか沙門(しゃもん)です。坐さずに立って、有髪の毛坊主ですので破れ笠を被り、裸足に藁草履。わたしはまだ出家していませんが、擦り切れ破れた墨染めの衣にしようかと思っています。友人は黄色風のボロ、糞掃衣(ふんぞうえ)にするといっています。常に乞食・糞掃衣なり<往生要集>。衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり<正法眼蔵隋聞記>。喜捨を受けるため、大きく丈夫な頭陀袋を首にかけます。
 鴨川の向こうの雲をみながら、「世をわたりそめて 高ねのそらの雲 たゆるはもとの こころなりけり」と呟いてみよう。1263年夏、一遍は二十五歳のときに輪廻に思いを巡らし、上人はこのようにうたった。

 晩酌をしている最中、食卓横に座す妻にこの計画を話してみた。すると即座に、「そんなことを一遍でもしたら、サヨナラ!です!」
 乞食とは何か? そのようなことを時々、これから考え、記してみようと思っています。
<2009年12月13日 運転免許証更新の日 南浦邦仁> [195]
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若冲連載最終回 「もうひとりの蝶夢」 <若冲連載50>

2009-12-12 | Weblog
俳僧・蝶夢のことは記しましたが、明治大正期に京都で活躍した同名の蝶夢が、もうひとりいます。小松宮が羅漢像を所望した旨の文書を紹介したが、同書で信徒総代に名を連ねた雨森菊太郎です。雨森家は代々、石峰寺の檀家である。彼は儒学者月洲岩垣六蔵の次男として、安政五年(一八五八)七月七日、義仲寺翁堂焼失の翌年に生まれた。後に雨森善四郎の養子となる。同家は近江国伊香郡の出であり、江戸前期の儒者・雨森芳洲の一族に繋がる。号は蝶夢。
 菊太郎は幼いころから、儒学を父親から学ぶ。俊才が槇村正直京都府知事の目にとまり、抜擢を受けて城北中学校に通い、かたわら独逸学校で語学を習得する。新島襄とともに同志社を設立した創設者のひとり、山本覚馬について政治経済の要旨を修め、漢学を菊池三渓と石津潅園に学んだ。これらの修練・和独漢政経学が、その後の活躍の土壌になったと蝶夢本人は語っている。
 明治十年(一八七七)に京都府に出仕するが、六年後に致士退官する。そして十六年に日出新聞(京都新聞の前身)に、社長の浜岡光哲に乞われて入社した。その後、亡くなる大正九年(一九二〇)まで、二十年近く社長を続ける。「京都第一の新聞」という市民の評価を在任中に得た功績は大きい。
 十八年には京都府会議員に当選。三十一年に衆議院議員当選のために府会を辞任するまで在任した。なお師の山本覚馬は、明治二年から十年まで京都府顧問をつとめている。そして二十二年の市制実施に伴い、雨森は市会議員に当選し、さらに市会議長を十一年もの長きに亘って続ける。
 彼はまた、請われて多数の会社の役員・社長の任を受け、京都政財界のリーダーと呼ばれた。さらには教育や美術工芸の振興のためにも尽力した。たくさんの学校の創設や運営にもかかわったが、なかでも京都府画学校、いまの京都市立芸術大学であるが、同校の基礎を築き発展に貢献した業績も大きい。二十二年の市制実施にともない市立になった画学校に、雨森は親友の市長・内貴甚三郎らとともに常設委員に任じられた。彼は没年まで、同校の評議員を続ける。明治二十二年、京都美術協会創立にも尽力した。また彼の書画鑑識の目が確かであったことも、同時代人には驚異であった。
 また忘れてはならないのが、社寺に対する擁護の活動であった。明治になって衰退した各寺と什宝を守り復興するために、蝶夢が取った行動は目を見張るものがある。彼がつとめた信徒総代は五社寺を越え、評議委員や社寺会役員も同数ほど、宗派に拘わらず、社寺のために力を尽くした。

 明治初年、相国寺も疲弊した。禅宗各寺を支えたのは、将軍家や大名、武士階級、そして豪商や知識人などが主であった。それら階級の没落とともに、同寺も頽廃する。本山境内周囲にあった塔頭は廃寺になってしまった。明治二十二年、住持独園禅師の大英断で、相国寺は若冲の最大傑作「動植綵絵」三十幅を宮中に献納する。そして宮内省からは、金一万円が寺に下賜される。相国寺はこれを資金に、人手に渡らんとしていた周囲の廃寺跡を買い戻し、現在の寺域を保つことができた。
 相国寺では毎年九月十五日、いまも一山総出頭のもとに斗米庵若冲居士忌を修行している。そして各塔頭でも、朝課の回向に必ず斗米庵若冲居士の戒名を読み込んでいる。同寺においては若冲の業績は、その名とともに永遠である。

 「動植綵絵」斡旋には、北垣国道知事と土方久方宮内大臣の力があったといわれている。しかしふたり以外にも、陰で尽力したと思われる人物がいる。日本美術行政の第一人者の男爵九鬼隆一と、蝶夢雨森菊太郎である。蝶夢は当然、若冲と「動植綵絵」のことに精通していた。おそらく義仲寺を再建した、同じ号をもつ蝶夢和尚と翁堂の若冲天井画のことも、知っていたであろう。
 明治二十三年、『若冲画譜』が刊行される。信行寺の天井絵百六十八枚のうち、百画を選んで木版で摺った版彩色全四冊である。題字序は帝国博物館総長の九鬼隆一。序の「國華」の太い字が躍る。
 美術雑誌『國華』は前年の十月に創刊された。同誌序文「美術は國の精華なり」は天心岡倉覚三、「國華の発兌に就て」は九鬼の文である。
 雨森は『若冲画譜』の後書き、跋文を書いている。「最近、京都の美術工芸が新時代に対応して改良が求められ、織工、陶工たちが古名画を争って利用適用し、新しい作品の資としているが、この若冲画譜は、画家のためばかりでなく、これら各種美術工芸家の模範となるであろう」。美術工芸の振興や教育に尽力した彼の故事がしのばれる。
 跋文は長い漢文であるが一部、末尾原文を引く。なお[榮土]は墓の意である。「余家先[榮土]在石峯寺正與居士塚及其所造應真像地相密邇則余於居士不為全無縁因者况余亦居常屬望美術之振興者乃此譜之成安得[受辛]而不一言於是乎跋/明治二十三年四月/蝶夢散史識」
 なおこの本は、明治四十二年に芸[草]堂(うんそうどう)から再刊されたが、同社は初版の版木百枚すべてを所蔵し、現在も明治二十三年版・若冲木版花卉画を摺っておられる。

 蝶夢雨森菊太郎没後、七回忌に追悼集『蝶夢居士』が刊行されたが、同書の序も九鬼隆一が書いている。ふたりは社寺保存、什宝調査等、連携協力していたのである。
 日本美術界の恩人、フェノロサの墓は大津市の園城寺・三井寺法明院にある。一周忌供養のために、美術振興を企図する絵画展が三井寺円満院で開かれる。明治四十二年のことであるが、発起人には九鬼隆一、岡倉覚三、高崎親章、益田孝、本山彦一などとともに、雨森菊太郎と親友の内貴甚三郎の名もある。なお高崎はそのころ大阪府知事だが、小松宮羅漢申請書を受け取った元京都府知事である。
 円満院はかつて、近江の応挙寺として知られた祐常門主の門跡寺院だが、昭和四十年まで義仲寺は円満院の末寺であった。歴史の奇遇には、驚かされることが多い。

 雨森は大正九年五月四日に亡くなった。墓は石峰寺にある。羅漢たちと若冲の墓にはさまれた中間の位置、洛南と洛西を見晴るかす高台にある。まるで羅漢たちと若冲を見守るごとくである。雨森蝶夢が慕った俳人・四明翁が石峰寺筆塚を読んだ句が印象深い。
 若沖の筆塚古りて萩芒(すすき)
 吉井勇の五百羅漢から始まって、ふたりの蝶夢の事跡などを追い終えたいま、『荘子』の胡蝶がみたであろう百華の夢のことを思う。それは彼岸の花園のごとく、見事に美しい。

 若冲連載は今回で終えます。これからは時々、単発で若冲のことを書こうと思っています。
<2009年12月12日 南浦邦仁> [194]
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山科区民のアイデンティティ

2009-12-06 | Weblog
 山科区では、西の山を東山とよぶ。これいかに? 何度か書いた東西問題ですが、この矛盾に真剣に対抗しておられる「のりっく」さんから度々、教えや意見をいただきました。再度、考えてみましょう。

 京都の南部、伏見区はかつて京都市に編入される前は、伏見市だったそうです。人口もかなり多く、何より大阪と結ぶ河川の港、伏見港が栄えたから、洛中にいくらか対抗するほどの経済力と自負心があったようです。伏見区民はいまだに、「われわれは京都人ではない」。そのようにいわれる方があります。伏見人という気概です。
 明治21年22年測量の、参謀本部陸軍部地形図という、いちばん古い地形図があります。複製が販売されています。図書館にもあるはずですから一見をおすすめします。
 これを見ますと、まず驚くのが南区あたりの巨椋池(おぐらいけ)の馬鹿でかさ。京都市中、上中下京区の町すべてを飲み込むほどの巨大さです。ちなみにこの池は干拓され、いまはありませんが。また地図には「巨椋湖」と記されています。
 当時、町とよべるのが、洛中の上中下京区。そして東山区と伏見区だけといってもいいほどです。

 わたしの居住する西京区は、山陰街道沿いに人家がへばりついているだけ。あとは小さな村ばかりです。
 山科区も同様に、三条街道沿いの長細い集落だけが目立つ程度。御陵村、安朱村、四宮村、追分町、髭茶屋町、八軒町。町名もありますが、人家の数はごくわずかのようです。
 追分からはじまる奈良街道沿いも、小さな集落ばかりです。大塚村、大宅村、小野村。醍醐村だけがいくらか大きな集落です。
 そのほか、花山村、厨子奥村、竹鼻村、音羽村、西野村、東野村、西野山村、栗栖野村、枷辻村、勧修寺村など。いずれも数軒から数十軒までの小集落のようです。
 当時の町村の人口は、調べれば比較的簡単にわかると思いますが、地図から戸数を推測するに、現山科区域の総戸数は、千軒以上二千軒まで。推定人口は一万人以下でせいぜい数千人。このように思います。洛中からみれば山科は、またわが西京区も、おおいなる田舎だったのでしょう。

 しかしそれは明治20年代はじめのこと。現在はたくさんの住民を抱える両区です。昔からこうだ、このように呼ぶ、古くから称する。そのように納得していては、当然ですが子どもたちのアイデンティティが揺らぎます。現代未来という、時代に即した山や川の呼称を、真剣に討議すべきだと思います。
 ところで昨日、丹波八木に行ってきました。恥ずかしいのですが、ある学習会の講師として招かれたのです。しかし反響成果はさんざんでした…。反省しきりなのですが、それはさて置き、南丹市を縦断する桂川の呼称を聞いてみました。すると、左岸と右岸では異なり、住民は大堰(井?)川と保津川とよぶとのこと。これにも大いに驚きますが、一度この川の各流域地元での名称を上流まで、分水嶺の頂まで調べてみようかと思います。いつのことになるか、まったく自分でもわかりませんが。
<2009年12月6日> [193]
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日高敏隆先生のこと

2009-12-05 | Weblog
動物行動学の日高先生が亡くなった。11月14日、享年79歳。
 10数年も前のことですが当時、わたしは仲間と文化好きな市民のための勉強会を開いておりました。錦市場に近い「ト一食堂」の広間で、隔月ほどのペースで、まず講師のお話を聞く。それから鍋を囲み、ゲストとともにあれこれ談義する。
 会名を「といち会」といいましたが、命名者は第一回の講師を引き受けてくださった、国際日本文化研究センターの井上章一先生。のべ十数名の先生方が来てくださいました。多田道太郎、鶴見俊輔、鷲田清一、石川九揚、梶田真章、津村喬…。講師謝礼は、図書券一万円と鍋がロハという、格段の謝礼寸志でした。
 日高先生が来てくださったときは、あまりにもタイミングが悪かった。京都大学の総長選挙の真っ只中でした。「理学部からもだれか一名、立候補者を出そう。当然一時選考で落ちるのはわかっていますが」。学部内の決定で、すぐ落ちる前提で、日高先生の形式だけの立候補が決まったそうです。
 ところが意外なことに、何人もいた泡沫候補のなかで、最終決戦投票の二名に、日高先生が残ってしまったのです。お招きした「といち会」の日はちょうど決戦の直前、総長を決める天王山の真っ最中だったのです。
 「本当だったら、ぼくは今日、ここには来られなかったのです…。信じられないことになってしまいました…」。ところが日高先生は、鍋の約束をドタキャンすることもなく、ユーモアあふれる日高節を聞かせてくださり、みなと鍋を囲み、お開きまで付き合ってくださった。
 市井のわれわれと交わした勉強会の約束を、律儀に守り通してくださった。「何と立派な方なのでしょう…」。お見送りするとき、わたしの頭は自ずから深く垂れさがりました。昨日のことのように記憶しています。

 日高先生の業績ですが、まずいちばんに驚いたのは、モンシロチョウ・オスがどのようにメスを判別するか? わたしはフェロモンだと信じていました。そうではないという真実を知ったとき、大ショックを受けました。
 リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子理論を読んだときも、驚愕しました。「ドーキンスの原文は、翻訳がむずかしい難解(下手?)な英文でした」と、いっておられた。
 その後、滋賀県立大学を創設され、さらに総合地球環境学研究所を立ち上げられた。そのころ、蹴上げ南禅寺前の京都市国際交流会館でのパーティで、乾杯の発声をされた。「研究所の名があまりに長いので略称を<地環研>と決めました。ところが、このようにいうと、たいていの方が??。『チカン(痴漢)の研究所ですか?』。困ったことです」。参会者全員が爆笑しました。どうも<地球研>に落ち着いたようです。

 追悼文はいろいろ拝読しましたが、弟子の今福道夫(京大名誉教授)氏は、「日高先生が逝去直前に記された判読が困難な一文に、アリストテレスの霊魂論を思い重ねた。<植物も動物も生長し、動物は植物にない感情や感覚をもつが、わたしたち人間は感情を抑える理性をもつ>。先生の文と奥さんの話を総合すると、体のコンディションが低下するにつれて、拮抗する植物性と動物性のうち前者が次第に勝って行くことを、書き残したかったらしい」

 梅原猛先生は、終生酒とタバコを愛した日高先生を、「知的エピキュリアンらしく、たとえ健康に害があるとしても、酒とたばこはやめられないというようなことを[絶筆で]書いていた。また日高氏は亡くなる少し前、書きたいことがいっぱいあるのに書けなくて残念だと夫人に語ったそうである。酒とたばこは氏の命を奪った病気の原因になったと思われる。氏には、酒やたばこをやめて、まだ十年は生きて、より深く動物の命のすばらしさを語ってもらいたかったとわたしは思う」

 絶筆は、11月24日掲載の京都新聞「天眼」欄、タイトル「生まれてこの方」。好きな酒とタバコのことを書いておられる。「でも今までずっと[タバコを]吸い続けているのは、先に述べたように、ぼくが、体にいい悪いで自分の行動を変更したことがないからだろう。よくないと言われているのは知っている。自分でもいいものだとは思っていない。だからむちゃくちゃな吸い方はしないし、なければ仕事ができないというような禁断症状にまでは陥らない。しかし、あるからあるものを、やめたらどうだろうと考えるのは、まったくばかばかしいと思うのだ。/絶対吸わない、などというふうに考えない。吸えなければしょうがない、吸えれば吸いましょう、というふうに思う。このごろは健康を大事にして、やばこを吸うか、長生きを取るか、二者択一で考えている人も多いようだが、なぜそこまで追いつめて考えるのだろう。/結局ぼくは、いいかげんなのではないだろうか。[かつて]酒が飲めなかった自分。たばこを吸うようになった自分。わがことであっても、それもよかろう。これもよかろう。どこかさめた他者の目で見ている」

 日高先生とわたしの共通点は、酒とタバコだけかもしれない。前世でのご縁、お世話になったことを深く感謝し、合掌いたします。
<2009年12月5日 南浦邦仁> [192]
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