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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

別所長治公の末裔(9)的形塩田

2025-04-29 | Weblog

 権力者や著名人が、さまざまの文書を残すことは歴史上いくらでもあります。ところが驚いたことに、江戸時代の庶民が詳細な工事記録を残していました。ここで紹介するのは、塩田開発の古文書です。遠方からもたくさんの方が来ておられる。江戸時代のいわばプロジェクトXそのものです。読んでいますと、ここに登場された方々が、まるでいま活躍しておられるような、そのような錯覚を感じます。

 19世紀の塩田新規開発が、どのような計画で進められたのか、詳細な記録です。よく書き、よく残されたと、敬服いたします。なお的形村の隣村は、東が大塩村、西が三木宗栄の木場村です。

 

 文政10年1827年春、的形村近隣に在住の4名が集まった。大塩村黒川源左衛門・同村千葉惣左衛門・砂部村磯野(金沢)九郎兵衛・東山村茂木八二郎。

 この4人が発起人になって、的形塩田浜・新開発を協議し現地を熟見した。的形沖の瀬の浅深、場所の高低、縦横の間数を脚によってはかり、帰って大塩の黒川(発起人)家で絵図面化し、さらに石垣・土手の仕様、土石、人夫の積り、入用の銀高を概算し、計画一件帳を作った。

 その後、銀主(ぎんしゅ/金主と同じ)の依頼に成功し銀主と発起人との約定が取り交わされた。(略)もし途中で出銀不能となった場合は、それまでの出銀は損銀として事業から立ち退くという一札を取り交わし、さらに普請とその後について約束を次のように取り交わした。

 <以下約定6項目略 契約締結は文政11年正月10日>

 契約完了以前の10年9月初旬、資金拠出歩割りが決まったところで、10日ころ普請奉行堀米令治に干拓希望を話した。(注:姫路藩が望む新塩田開発です)奉行は喜び代官・諸役人に掛け合ってくれ、9月12日呼び出され、工事に関し大塩村・的形村から支障申立はないかと問われた。申立はないと返答したが役所自身も両村に問合わせて、大塩村からは在来塩田との間の水路は上荷舟運航のため、なるべく広くしてほしい。的形村からは河口の波止場堤80間を、新塩田の沖に付け替えて欲しいと申し出ている。

 堀米奉行は発起人・願主4人以外に、普請加勢支役の必要を説かれ、近隣2村の庄屋を支役に推薦した。またここで4名の願主は普請成就を期し、もし誰かが落命しても、幼少の子どもであっても、連中に加えると「3人宛ての印に而互いに取替」した。かくて9月19日は久長町薬屋新兵衛方に泊まって奉行からの連絡を待った。21日正午に召状によって、村役人梶原・梅谷・七十郎・庄太夫・大庄屋船津源左衛門・惣左衛門・八次郎・九郎兵衛・砂部村庄屋・寺家町大庄屋・東山村庄屋・宇佐崎大庄屋。各人立ち合いのうえ、代官より正式の開発許可があり、古い塩田の障りにならぬよう、また領主に一切の無心のなきよう申し渡され、銘々押印の請書を提出した。23日には開発支役の庄屋2名も請書を提出した。24日には源左衛門と惣兵衛が呼び出されて、大塩村からの水路の要望、横水尾についてその場合新開塩田面積はどうなるのか、絵図面を提出せよといわれたが、その場合広げた部分を深く掘り下げることになれば、銀子百貫目も余分に必要になり、新開塩田は4町歩ほど少なくなる。それについては銀主と相談するからしばらく返答を待ってほしいと返答したが、この要望は立ち消えになったようである。10月5日には支役両人立ち合いにて干潟検分。6日にも検分を続け、宇佐崎新浜も検分した。8日夜には発起人のひとり、大塩村千葉惣左衛門宅にて「御願合」を催した。

 工事準備の上で、石材の採掘運搬が最も重要であった。採石は塩市村の宝殿石が主だった。大塩村東の山手、西浜村、的形村の岩鼻、行基が鼻、福泊の近在の5カ所での採石も許可をとった。運送は塩市村の石を82艘の上荷舟が、近在5採石場の石は約100艘で運び、これらは丁場受け取りのため切手は用いず、丁場以外からの売石・小破石は切手取引とした。

 石工は塩市村善兵衛、同村庄助、東山村清助、魚橋村利助の近在のものの他に、伊予今治の佐代治・喜代五郎・米蔵・椋蔵・常五郎その他。家嶋眞浦の丁場請負売石人など48~49人と八家・東山の人々。また石積方は備前宮ノ浦重太郎組多数。同村庄屋組、伯耆の人々などと専門職を集めた。

 土方は魚橋の幸左衛門組・大塩村東組・同中組・同西組・田谷才吉組・備前伊部良介組・赤穂の治九郎組・尾張成岩村助右衛門組・酒見北条徳兵衛組・岸□村丈兵衛組・志方町幸兵衛組・岩倉与之介組・木場村小市郎組・的形村村山河清五郎組・同久左衛門組など。遠くは備前や尾張からも来ている。

 剛土(はがね)を扱う集団もいた。剛土とは、防潮堤の石垣と裏土との間に漏れ防止用の粘土。一般に満潮位までは海粘土、それより上部は山粘土を用いた。山粘土は曽根村のものが極上であるので、同村の橋本屋長左衛門に請け負わせ、同村の上荷舟40艘で運搬した。不足分は魚崎剛土・塩市土・的形川筋の粘土などで補った。

 釜屋・納屋・穴(鹹水粘土)の建造大工は、市場村清兵衛組・大塩村甚吉が中心で、これに屋根葺、壁塗り人足が加わる。

 ほかに、竹打ちの作業がある。溶出装置を割り竹で作る。また台盛りは、その装置に粘土で共に造る。また堤防上の上穴など、様々な工程がある。これら工事施工の指図人は山の治兵衛が契約された。これらの大工や人足は地元で間に合ったようである。

 また運搬舟の修理のため舟大工なども雇われた。普請用の土船は新調または購入したが、赤穂や飾万津その他からも借り受けた。また工事用の土石はもちろん朶草(たぶくさ?/した草・歯朶シダ?)・筵・縄・俵・眞藁・麦藁なども近在から買い受けた。

 諸職人の食糧は膨大な量にのぼった。職人自身で買い求めることは往還に時間がかかり、作業に支障を来すと思われるので、万源方または会所で斡旋してきたが、文政11年1828年冬から米価が高騰したため、蔵米を買い請けて各組に配給するようにした。

 <以下簡略>

 もちろんこの普請中、藩の重役の検分が4回あり、願人中からその度ごとに饗応を行い、4回とも機嫌よくすますことができ、また願主・銀主共に、「御褒詩御挨拶トシテ御音物(いんもつ/贈り物)」

 

 「暑寒ヲ不厭、晴雨ヲ不撰、日ヲ積円ヲ重ネ、千辛万苦ノ功ヲ畳ミ、土手ノ惣長七百余間、横幅或ハ(は)五間或ハ七間、同高サ或ニ間半或三間、或ハ三間半ノ土手ヲ、蒼々タル波濤ノ中ニ築キ、塩浜十一軒ヲ得タリ」

 すごい大工事の末、完成しました。文政12年1829年冬。ご苦労さまでした。おめでとうございますと、心から祝います。

 数字は概数ですが、防潮堤1200m以上、高さ4m~6m、幅 9~12m。面積 23町歩=23ヘクタール。(※なおこのころ1軒前=約2町歩) 開発費用 465貫以上(1町当たり 20貫)

 的形の隣村木場の三木宗栄は、入浜塩田の初期開拓者でした。面積は上記の的形塩田に及びませんが、彼は先進の開発者だけに、新しく創意工夫を重ねて造成されたと思います。

参考:『姫路市史』4巻 平成21年刊

<2025年4月29日>

 

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別所長治公の末裔(8)入浜式塩田

2025-04-26 | Weblog

 新しく塩田を築くのはたいへんな事業だったようです。三木宗栄はどのように技術を習得したのでしょう。

 まず近世の始まりとともに、江戸時代初頭から始まった「入浜式塩田」がすごい。潮の干満差を利用した画期的な製塩法で、実に昭和30年代まで、この製法は続いたそうです。最初の発祥の地は播州東南部だろうと思われます。

 まず遠浅の海岸に大きな石で、長い堤防を造る。塩田地盤は満潮時と干潮時の中間の高さにつくる。。この石積みが大工事です。波濤に耐える築堤技術の発達で可能になりました。また隙間には粘土を詰め込み、堤防の穴をふさぐ。

 塩が満ちてくると堤防に設けられた水門(伏桶・桶門)を通って、海水を適度に塩田に浸透させる。そして毛細管現象によって、砂層上部に海水を供給する。その水を太陽熱で砂に付着させ、海水をかけて塩分の濃い鹹水(かんすい)を採る。それを鍋で煮詰めて塩をつくる。鍋の加減もむずかしいそうです。

 燃料には遠方から船で運ばれてきた薪を用いた。しかし文明期ころからは、安価な石炭を使う。

 またこれらの作業が可能になったのは、平和な徳川時代になったからです。新規の築城もまずなくなり、優秀な熟練工、大きな石を扱うのに長けた石工など、新しく誕生した仕事として、彼らは取り組んだのです。

 石工の技術をみますと、防波堤を築く技術とその下を通す伏桶と桶門を造る優れた石工技術が必要でした。また石材とその切り出し運搬をする石工、塩田開発には複雑で高度な技術が必要ですが、姫路藩にはそれがそろっていたのが幸いでした。池田藩の姫路城築城工事が慶長14年1609年に終わると、その数年後には石工技法は入浜式塩田の石材工事に投入されていったのです。

 

 木場村の三木宗栄は、入浜式塩田開拓の初期開発者のひとりです。彼は藩主の命を受けて、木場村の八家川尻に二町四反歩の入浜式塩田を開発しました。木場村河口の前六反と十八(じばた)浜がこのときに開かれた。寛永2年1625年のことでした。

 ちなみに三木宗栄は子の定信とともに、明田村に新田も開いています。寛文3年1663年。

 

 ところで木場の西、八家川右岸の宇佐崎村の新塩浜築造は、たいへんな難工事でした。まず城主榊原忠次(1649~1665年)が江戸の人、三宅又兵衛に命じて起工。しかし長堤が切れ失敗し、又兵衛は辞退しました。それにしても、製塩には無縁なはずの江戸人に、なぜ築造を任せたのか。不思議です。

 次いで藩主榊原政房(1665~1667)が開発を決意します。領内の大庄屋27名に命じてここを塩田にさせようとしました。しかし工事が容易でないため、大庄屋全員が固く辞退しました。大庄屋には農村地域の人たちが多い。人足を出すことは容易でしょうが、海岸地帯の大庄屋で製塩業を理解できる人は数人ではないでしょうか。

 そして寛文8年1668年、姫路藩主榊原直矩の時代。宇佐崎村の3名が協力し、夫役を断って、自力で干拓工事を進めた。そして新塩浜26軒(30町くらいか)を完成させました。3人の発起人は、河野宗兵衛清房、河野弥大夫通賢、置塩治郎右衛門道忠。

 藩主榊原直矩はこれを誉め、塩浜1軒の公役を免じた。「軒」は塩田1単位の面積です。時代と共に生産の効率化が進み、単位面積は広くなっていきます。ざっと分かりやすく、<1軒=1町>でしょうか。たいへん横着な換算ですが。

 それから木場村について。以前に木場港の改修について述べましたが、河合寸翁の指図で竣工しました。良かったですね。文政2年1819年。

 ところが同時に計画された戎新浜は相当困難だったといいます。小島戎の宇佐崎は木場村の西対岸です。「文政5年1822年、四国あるいは江戸の小西なる人が戎新浜の開墾を始めたが、まったく成功していない」。その後、神崎郡土師村鎌谷十郎太夫広長という人が、幾分成功させた。完成した浜は、そのずっと後の明治初年にやっと開発されたものです。

<2025年4月27日>

 

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別所長治公の末裔(7)木庭

2025-04-19 | Weblog

旧木場村の初代三木宗栄のことは、前回に記しました。ところで村名は、すべて旧名です。たとえば「木場村」「的形村」などは、現在ではすべて「木場」「的形」です。ここでは、あえて村付きで呼びます。

さて木場は「木庭」(きにわ)と昔は呼ばれていたようです。木場村のすぐ東は木庭山で、小高い丘のような山ですが、山頂には木庭神社があります。

今回は木庭を取り上げてみます。まず「兵庫県神社庁」等から「木庭神社」を紹介します。

 

「木庭神社は元和元年1615年、木場開発の長者である三木久左衛門宗栄が創建した。寛保元年1741年に4代後の三木魚泰が改造した。風雨で大破したための再建で、魚泰は木場三木家4代後。医師の三木寸斗のことで、木庭神社の宮司を兼ねたようだ。一説では三木家は三木城別所氏の子孫といわれている。木庭山の前、南面の小赤壁の沖寄りは水深が深い。大きな船は沖合に船を止め、船頭一人の上荷舟が、陸と大船の間を往復して、荷物や船客を運んだ。木場港は中世より海運の発達により栄え、塩田業や廻船問屋などで三木家などの長者を輩出した。」

奇岩の並ぶ木庭山南面海岸線を「小赤壁」と名付けたのは頼山陽。河合寸翁が近くに設立した仁寿山校にたびたび講義に訪れています。山陽は沖合から眺めたのでしょう。ここは景勝の名所になっています。中国三国志の赤壁が有名ですが、赤壁はレッドクリフです。

 

ところで『木庭記』という名著が残っています。近世中期の木場村と付近の地誌を記す。元文3年1738年、白井長左衛門元貞著。白井は木場村の名士のようです。

彼は木場の港について、次のように記しています。

「さてまた、中播磨は遠干潟(とおあさ)にはべるに、この木庭山より東、地蔵の沖まで十町あまりのほどは水深も深く、山に添いて大船の浮かぶ地なり。惜しむらくは、木庭山、棲神(やか)の小島を四、五町ばかりも沖に出して、(この工事は不可能ですが、もし実行できれば)…おそらくは良港成るべし。」

八家川河口の木場港は、たびたび浚渫や増築工事を行っていますが、なかなか成功しない。小赤壁沖から隣村的形村の福泊沖合に船を停めて、小舟の上荷舟で木場港を往復するしかない。

 

『姫路市史』第4巻に、文化4・5年にこの沖に来航した客船の数が、掲載されています。船籍をみると中部から西日本各地、さまざまの地から、たくさんの船が訪れています。

客船と表示されていますが、積んでいるのは客よりも荷物が多いように思いますが。

「船は各地の商品を購入して姫路の外港に運び、そこからまた藩特産の皮革・木綿・塩などを買い積みして、阪神間方面または船籍地に運んだ。」別に、塩の運搬を業とする塩廻船も往来した。天保9年、姫路藩4か村~宇佐崎・木場・的形・大塩。近隣の村ばかりだが、年間の塩生産量は80万俵、うち40万俵は江戸に積みだした。小壁壁沖に停泊する大型帆船に、小型の上荷舟が何度も積み込み、活躍したことでしょうね。

 

<文化4・5年に小赤壁沖に来航した客船数>

尾張   船数5

紀伊   4

和泉   11

播磨   6

淡路   2

備前   13

安芸   10

周防   6

阿波   4

讃岐   15

伊予   27

土佐   20

豊前   3

豊後   8

日向   1

出雲   3

長門   1 

2年で合計139隻。年平均70回来航。当時の日本人客の船便多用には驚きます。陸路の街道を行くより、よほど楽です。特に瀬戸内海は安心な航路です。

追記 このような文章がありました。木場沖の本格的改修についてです。「文政元年、河合寸翁をして検分せしめ、港の東西に波止坪数457坪(1510㎡)。長180間、幅25間、深5尺。」翌年12月には木場港河口に灯台も築造し、大工事は、無事完成しました。

文政2年2月17日着工。同年12月26日東西波止場を完成。波止場と川堀工事費合計 銀33貫。その後、文政9年に追加工事。明治27年にも改修工事。この工事には県からの補助金獲得に、村長の神澤松次郎の尽力が大きかったといいます。神澤一族については後日紹介します。なおその後も木場港はどんどん姿を変えていきます。

 

 

<2025年4月19日>

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別所長治公の末裔(6)木場別所氏

2025-04-12 | Weblog

姫路城主本多忠政はほかの藩主同様、製塩業に着目した。「寛永2年1625年、木場村の人三木又兵衛尉宗栄に命じ、八家川尻に塩田2町4反歩を開拓させ、姫路藩内の製塩業益々発達するにいたった」

八家川尻・木場村のこの塩田は翌年に完成する。前六反と十八反(じばた)と呼ばれた広い塩田のようです。

 

宗栄は久右衛門、後に三木又兵衛尉宗栄。三木城主・別所長治の違腹の男子であり、母は側室「於松の局」であった。三木城開城のとき、於松は懐妊の身で、三木城要人の蔭山清光と久米五郎に介護されて落ち延びた。そして木場村の隣村の福泊に隠れ住んだ。天正8年6月14日1580年に生れた宗栄は母に育てられたが、秀吉の探索を恐れて、姓を三木、名を久右衛門と称した。後に隣村の木場に移る。そして寛永2年1625年以降、塩田築造を生業とする。この年、宗栄は46歳。

 

側室「於松」説が正しいなら、別所長治の嫡男の千松丸は当時3歳、三木久右衛門の兄にあたる。なお長治の子、千松丸の別名は、寅松ともいうようだ。名は祐忠という説もあるが、江戸時代には長らく長井姓を称していたという。呼称で間違いないのは、8代目別所小三郎であろうか。母は開城のときに自刃した別所照子である。

 

 

※木場別所三木氏の家系図です。簡略版ですが <宗栄> <三木宗栄>はいずれも同一人。

※宗栄は、初代木場三木/又兵衛尉宗栄・久左衛門宗栄です。

※宗栄か定信が、木場(木庭)村、初代の庄屋をつとめています。

※//:以下略

※<三木氏名前>

※木庭:きにわ・きば

 

<別所長治>――<三木宗栄・久右衛門・又兵衛尉宗栄>(天正8年6月8日1580年生・寛文4年5月13日1664年没)――

 

――<宗栄>――<定信/亦兵衛尉/久左衛門尉>(木庭村初代か2代目の庄屋/元和4年1618年生・延宝6年1678年没)――<元泰><幼名丹波・号亦兵衛尉>(万治年1659年生・享保2年1717年没/医を業となす)ーー<魚泰・寸斗>(医師)//

 

――<宗栄>――<定正・又太夫>(延宝5年没1677年)――<正之・市太夫>(正徳5年没1715年)――<信之・三木伊左衛門>(延享元年1744年没)//

 

――<三木貞夫>(本家・木場14代)――<三木美智夫>(同当主・15代)―

 

 

この系図については、興味深い逸話があります。昭和57年、大阪市天王寺区の安田定利の妻の母、三木栄(当時86歳)が所有し、大切に保管していた写系図が発見された。上記はその略図です。

それから上記の<三木元泰1717年没>について。宗栄の孫ですが、彼は医者になってしまいました。おそらく元泰の子孫は三木分家になり、三木本家はその後<定正1677年没・正之1715年没・信之1744年没>の系譜が継いだのだろうと思います。

参考:橋本政次著『新訂姫路城史』中巻/昭和27年/臨川書店

 福本錦嶺編『別所氏と三木合戦』平成8年/三木市教育委員会 

<2025年 4月12日>

 

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