権力者や著名人が、さまざまの文書を残すことは歴史上いくらでもあります。ところが驚いたことに、江戸時代の庶民が詳細な工事記録を残していました。ここで紹介するのは、塩田開発の古文書です。遠方からもたくさんの方が来ておられる。江戸時代のいわばプロジェクトXそのものです。読んでいますと、ここに登場された方々が、まるでいま活躍しておられるような、そのような錯覚を感じます。
19世紀の塩田新規開発が、どのような計画で進められたのか、詳細な記録です。よく書き、よく残されたと、敬服いたします。なお的形村の隣村は、東が大塩村、西が三木宗栄の木場村です。
文政10年1827年春、的形村近隣に在住の4名が集まった。大塩村黒川源左衛門・同村千葉惣左衛門・砂部村磯野(金沢)九郎兵衛・東山村茂木八二郎。
この4人が発起人になって、的形塩田浜・新開発を協議し現地を熟見した。的形沖の瀬の浅深、場所の高低、縦横の間数を脚によってはかり、帰って大塩の黒川(発起人)家で絵図面化し、さらに石垣・土手の仕様、土石、人夫の積り、入用の銀高を概算し、計画一件帳を作った。
その後、銀主(ぎんしゅ/金主と同じ)の依頼に成功し銀主と発起人との約定が取り交わされた。(略)もし途中で出銀不能となった場合は、それまでの出銀は損銀として事業から立ち退くという一札を取り交わし、さらに普請とその後について約束を次のように取り交わした。
<以下約定6項目略 契約締結は文政11年正月10日>
契約完了以前の10年9月初旬、資金拠出歩割りが決まったところで、10日ころ普請奉行堀米令治に干拓希望を話した。(注:姫路藩が望む新塩田開発です)奉行は喜び代官・諸役人に掛け合ってくれ、9月12日呼び出され、工事に関し大塩村・的形村から支障申立はないかと問われた。申立はないと返答したが役所自身も両村に問合わせて、大塩村からは在来塩田との間の水路は上荷舟運航のため、なるべく広くしてほしい。的形村からは河口の波止場堤80間を、新塩田の沖に付け替えて欲しいと申し出ている。
堀米奉行は発起人・願主4人以外に、普請加勢支役の必要を説かれ、近隣2村の庄屋を支役に推薦した。またここで4名の願主は普請成就を期し、もし誰かが落命しても、幼少の子どもであっても、連中に加えると「3人宛ての印に而互いに取替」した。かくて9月19日は久長町薬屋新兵衛方に泊まって奉行からの連絡を待った。21日正午に召状によって、村役人梶原・梅谷・七十郎・庄太夫・大庄屋船津源左衛門・惣左衛門・八次郎・九郎兵衛・砂部村庄屋・寺家町大庄屋・東山村庄屋・宇佐崎大庄屋。各人立ち合いのうえ、代官より正式の開発許可があり、古い塩田の障りにならぬよう、また領主に一切の無心のなきよう申し渡され、銘々押印の請書を提出した。23日には開発支役の庄屋2名も請書を提出した。24日には源左衛門と惣兵衛が呼び出されて、大塩村からの水路の要望、横水尾についてその場合新開塩田面積はどうなるのか、絵図面を提出せよといわれたが、その場合広げた部分を深く掘り下げることになれば、銀子百貫目も余分に必要になり、新開塩田は4町歩ほど少なくなる。それについては銀主と相談するからしばらく返答を待ってほしいと返答したが、この要望は立ち消えになったようである。10月5日には支役両人立ち合いにて干潟検分。6日にも検分を続け、宇佐崎新浜も検分した。8日夜には発起人のひとり、大塩村千葉惣左衛門宅にて「御願合」を催した。
工事準備の上で、石材の採掘運搬が最も重要であった。採石は塩市村の宝殿石が主だった。大塩村東の山手、西浜村、的形村の岩鼻、行基が鼻、福泊の近在の5カ所での採石も許可をとった。運送は塩市村の石を82艘の上荷舟が、近在5採石場の石は約100艘で運び、これらは丁場受け取りのため切手は用いず、丁場以外からの売石・小破石は切手取引とした。
石工は塩市村善兵衛、同村庄助、東山村清助、魚橋村利助の近在のものの他に、伊予今治の佐代治・喜代五郎・米蔵・椋蔵・常五郎その他。家嶋眞浦の丁場請負売石人など48~49人と八家・東山の人々。また石積方は備前宮ノ浦重太郎組多数。同村庄屋組、伯耆の人々などと専門職を集めた。
土方は魚橋の幸左衛門組・大塩村東組・同中組・同西組・田谷才吉組・備前伊部良介組・赤穂の治九郎組・尾張成岩村助右衛門組・酒見北条徳兵衛組・岸□村丈兵衛組・志方町幸兵衛組・岩倉与之介組・木場村小市郎組・的形村村山河清五郎組・同久左衛門組など。遠くは備前や尾張からも来ている。
剛土(はがね)を扱う集団もいた。剛土とは、防潮堤の石垣と裏土との間に漏れ防止用の粘土。一般に満潮位までは海粘土、それより上部は山粘土を用いた。山粘土は曽根村のものが極上であるので、同村の橋本屋長左衛門に請け負わせ、同村の上荷舟40艘で運搬した。不足分は魚崎剛土・塩市土・的形川筋の粘土などで補った。
釜屋・納屋・穴(鹹水粘土)の建造大工は、市場村清兵衛組・大塩村甚吉が中心で、これに屋根葺、壁塗り人足が加わる。
ほかに、竹打ちの作業がある。溶出装置を割り竹で作る。また台盛りは、その装置に粘土で共に造る。また堤防上の上穴など、様々な工程がある。これら工事施工の指図人は山の治兵衛が契約された。これらの大工や人足は地元で間に合ったようである。
また運搬舟の修理のため舟大工なども雇われた。普請用の土船は新調または購入したが、赤穂や飾万津その他からも借り受けた。また工事用の土石はもちろん朶草(たぶくさ?/した草・歯朶シダ?)・筵・縄・俵・眞藁・麦藁なども近在から買い受けた。
諸職人の食糧は膨大な量にのぼった。職人自身で買い求めることは往還に時間がかかり、作業に支障を来すと思われるので、万源方または会所で斡旋してきたが、文政11年1828年冬から米価が高騰したため、蔵米を買い請けて各組に配給するようにした。
<以下簡略>
もちろんこの普請中、藩の重役の検分が4回あり、願人中からその度ごとに饗応を行い、4回とも機嫌よくすますことができ、また願主・銀主共に、「御褒詩御挨拶トシテ御音物(いんもつ/贈り物)」
「暑寒ヲ不厭、晴雨ヲ不撰、日ヲ積円ヲ重ネ、千辛万苦ノ功ヲ畳ミ、土手ノ惣長七百余間、横幅或ハ(は)五間或ハ七間、同高サ或ニ間半或三間、或ハ三間半ノ土手ヲ、蒼々タル波濤ノ中ニ築キ、塩浜十一軒ヲ得タリ」
すごい大工事の末、完成しました。文政12年1829年冬。ご苦労さまでした。おめでとうございますと、心から祝います。
数字は概数ですが、防潮堤1200m以上、高さ4m~6m、幅 9~12m。面積 23町歩=23ヘクタール。(※なおこのころ1軒前=約2町歩) 開発費用 465貫以上(1町当たり 20貫)
的形の隣村木場の三木宗栄は、入浜塩田の初期開拓者でした。面積は上記の的形塩田に及びませんが、彼は先進の開発者だけに、新しく創意工夫を重ねて造成されたと思います。
参考:『姫路市史』4巻 平成21年刊
<2025年4月29日>