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この連載の前回、木場村の歴代庄屋名と、明治期の村長名を列記しました。登場の人物を見ますと、三木氏 11名。神澤氏 9名。白井氏 4名。木場三木氏と白井氏のことはこれまでいくらか記してきました。ところが神澤氏の記述を調べても、ほとんど参考資料が見当たりません。なぜでしょうか?
平田秀一氏は、一般に紹介されることがほとんどない神澤一族について、「姫路藩酒井家時代のほぼ100年間を、世襲の庄屋として木場村発展のために尽くしたのであるが、『兵庫県飾磨郡誌』に同家の事績が紹介されなかったためか、その事情が知られていない。」
『兵庫県飾磨郡誌』の掲載だけが原因なのでしょうか。不思議に思います。同書を紹介します。書名は兵庫県を略し、『飾磨郡誌』に短縮します。
『飾磨郡誌』は飾磨郡教育会が編纂発行した大冊です。地域を網羅した百科事典といえるほどです。「大正天皇即位の大典を記念するために郡誌編纂の計画を立て、之が調査に着手したのである。」完成刊行は昭和2年。十数年の歳月と精査を積み重ねて完成された。総頁500以上。
その前に、町村合併の経過を記しておきます。
明治22年1889年 八家村と木場村が合併し八木村になる。
明治29年1896年 飾東郡と飾西郡が合併して飾磨郡になる。
昭和29年1954年 八木村、姫路市に合併。
『飾磨郡誌』に紹介されている歴史上の人物は、大正期の記載ですので、旧木場村でなく新八木村に広がっています。新村で合わせて5人が記載されていますが、旧木場村で活躍した3名を紹介します。
<三木宗栄> はじめ久右衛門と称し、後に又兵衛と改める。三木城主別所小三郎長治の遺腹の男にして母は於松の局なり。天正8年正月三木落城の際、於松はこの地を遁れ、宗栄を福泊に産む。時に6月8日なり。宗栄長じて木場に移り、三木姓を称す。姫路城主本多忠政の知遇を得て、寛永2年八家川尻に24反の塩田を拓き、また寛文3年には子の定信とともに明田に明田新田を開けり。木庭山上の木庭神社はまた宗栄の造営である。寛文4年5月13日没す。行年85。
<白井元貞> 木場村の人にして長左衛門と称す。播磨名跡志および『木庭記』の著あり。元文のころの人なり。各郡諸所の名所旧跡を旨として記し、諸家の和歌記文などを列挙す。元文3年戌午の末書あり。
<長澤蘆洲> 木場の人、名は呑江、長澤蘆雪の義子なり。家法を守りて円山の画風をよくす。ついに義父の後を継ぎて城州淀の藩士となれり。弘化4年10月24日没。年81。
[飾磨郡誌・編者曰く] 芦雪1年この地に遊びしに墨磨り?に来たりし蘆洲の画才あるを見抜き、親に乞いて養い受け、弟子として連れ帰りしが、刻苦勉励上達すること速やかなりしかば、ついに師の後を継ぐにいたるという。
播州高砂の豪商岸本家・三代目博高は応挙や芦雪と交渉があった。冷泉為人氏は次のように記しておられる。蘆雪の義子蘆洲が「博高像」を描いている。さらに蘆洲の息子蘆鳳も父蘆洲とともに、岸本家に劉備玄徳の図の鯉幟の幟を描き残している。岸本家は蘆雪、蘆洲、蘆鳳と3代にわたって交渉をもった。
[拙記] 蘆洲の子は長澤蘆鳳だが、円山風の絵をよくす。京都に住む。帰省の際には、東山村の再幸寺を度々訪れた。住職の啓寶と懇意だったためです。同寺には大作もたくさん残している。ところで、「円山派主要画家画系図」をみますと、円山応挙の弟子には20名ほどが記されています。しかし一番弟子の長沢芦雪の弟子には、2名しか名がありません。長沢芦洲と長沢芦鳳です。長澤蘆雪の画風は、木場村出身のふたりが継いだのです。
<2025年5月22日 なぜ神澤氏が載らないのか、調べたくなります>
ここで一度、三木別所氏の子孫のことを振り返ってみます。
まず城主別所小三郎長治の嫡男幼名寅松、別名千松丸のようですが、祐嗣別所小三郎小右衛門光治ともいうようです。母は正室照子。三木城が開城したとき、寅松は3歳だったようですが、両親姉弟とともに落命したと伝わっています。天正8年正月17日。
この時、同時に亡くなったのは、長治弟の彦之進友之夫妻。それから叔父の別所吉親夫妻と子ども3人。介錯をつとめた家老の三宅治忠。羽柴秀吉に約した自刃の全員です。ほかに殉死された方も何人もおられるでしょうが、名前はわかりません。
ところが、城主別所小三郎長治の長男は生きていた、といまも信じられています。家臣杉本□兵衛氏己がわが子の亀吉と、長治の長子小三郎寅松とを入れ替えて、城主の嫡男の命を守ったという。
落ち延びた寅松は、住居は加東郡長井村に定めました。ごく少数の家臣に守られ、育ったことでしょう。そして村名にちなみ長井を氏とし、惣兵衛と名乗ったようです。秀吉方の探索を遁れるためです。呉服業を営む。
その後、8代目小三郎惣兵衛は姫路藩家老、河合寸翁のもと藩内でさまざまの土木建設工事に携わっています。「継村の人、別所小三郎祐忠」とも記されているようです。継村周辺では8代目小三郎がさまざまな工事を行ったことで知られます。小三郎祐忠とも惣兵衛とも記されていますが、継村は、河合寸翁が開設した仁寿山校の隣村です。木場村も徒歩圏内ですし、運河船溜まりの堀止から小舟に乗ればすぐです。
そして次の別所家9代小三郎も継村に住み、彼は「学才あり書画をよくす。好んで村内子弟を養育す」。そして10代目は5人兄弟で、明治になって、苗字を長井から別所にもどしました。長子と次男は大阪に、また東京などに兄弟は散った。その後、継村には誰も残っていない。大きな石碑2基と、歴史を刻んだ別所家墓碑が当地に建っている。
各地に子孫は散ったが、現在でも三木別所家のご当主は、代々小三郎を名乗っておられるようです。
何度か紹介してきましたが、木場の三木氏も三木別所氏の一族です。久右衛門、改名して三木又兵衛尉宗栄。母は別所長治の側室、於松の局だが三木城開城の時、懐妊の身であった。はじめ木庭山の東麓の福泊に隠れ住む。苗字を別所から三木に改めたのは、秀吉の探索を恐れるがためです。そして後に、木庭山の西麓の木場村に移り住む。以降、宗栄の子孫は木場三木氏として現在にも及ぶ。
ところで木場初代三木宗栄は、姫路藩主の本多忠政の命を受けて、木場村の八家川尻に2町4反歩の塩田を開発しました。前六反浜と十八反(じはた)浜です。前の城主、池田家の姫路城築城が完成したのが慶長14年1609年。城石垣の大土木工事が全国的に落ち着くのが、このころからでした。新しい城の建設もほとんどありません。
新しい製塩方式は「入浜式塩田」と呼ばれる工法ですが、まったく新しい画期的な大工事です。かつての石工たち、城の石垣を築いた人たちが、平和な時代の到来で、海岸に塩田用の防波堤を築くという職に転換移動しました。
三木宗栄の工事は、無事に竣工しました。寛永2年1625年のことですが、宗栄はいかほどの新建設の知識や経験を積んでいたのでしょうか。おそらく綿密な計算や理論、準備作業。職人たちの組織化。そうした計画で実践不足の先駆者、宗栄は成功したのではないでしょうか。三木宗栄は、天正8年6月8日1580年生まれ、寛文4年5月13日1664年没。
そのように優れた宗栄を藩主は抜擢し、木場村庄屋の初代役も彼に任せています。なおこの連載で「入浜式塩田」のことを2度書いています。ご興味ある方はぜひご一読ください。
「別所長治公の末裔/(8)入浜式塩田/(9)的形塩田」
つぎに江戸期木場村の庄屋と、明治期の村長をみてみます。圧倒的に三木氏が多く、次に神澤氏、白井氏も5度、庄屋を務めています。彼らとその周辺の人物についても記したいと思います。
庄屋の一覧表には、白井氏の名があります。木場在住で地誌『木庭記』(元文3年刊1738年)などを残した白井長左衛門元貞・五柱斎が、木場白井氏の一族と考えられています。元貞の著作にはほかに『播磨東山村(柿畔鎮守)稲荷社略記』(元文3年)など、計6点が知られています。それらの文章から「彼の学識はすごい」と研究者からの絶賛を聞きます。
寛保元年1741年、元貞は三木魚泰と力をあわせて暴風雨で壊れた木庭神社を再興しました。魚泰は三木宗栄の曾孫で、別名寸斗。父の三木元泰とともに「医を業となす」。木場別所氏の一族です。また木庭神社を創建したのは木場三木氏初代の三木宗栄です。元和元年1615年創建。
なお「庄屋」ですが、村落行政の責任者です。村内の治安・勧農・水利土木。代官のお触れ伝達。年貢割付徴収。祭礼。証文の添書。人別改。村代表として願届訴訟。他村交渉など、業務は多岐にわたり大変な激務です。特に人口の多い村は大ごとでしょう。庄屋を補佐する組頭や年寄を置いたりもしたそうです。
<江戸期・明治期 木場村代表者> ※年表示は就任年
三木久右衛門宗栄 庄屋 寛永年間(元年1624年~15年1638年)
三木又兵衛定信 庄屋 寛永16年1639年
三木市右衛門 庄屋 寛永16年1639年
白井利兵衛 庄屋 正徳5年1715年
白井利左衛門義周 庄屋 寛保元年1741年
白井利兵衛 庄屋 寛延2年1749年
白井利右衛門包道 庄屋 宝暦6年1756年
白井利右衛門包道 庄屋 宝暦11年1761年
三木政右衛門尚昌 庄屋 安永7年1778年
三木又右衛門尚興 庄屋 天明5年1785年
三木政右衛門尚義 庄屋 寛政11年1799年
三木伊左衛門典愛 大庄屋格 文化5年1808年
三木又右衛門尚浩 庄屋 文政6年1823年
神澤政右衛門尚吉 庄屋 天保2年1831年
神澤松次郎 庄屋 明治元年1868年
三木達治郎 庄屋 明治3年1870年
神澤伊三郎 戸長 明治22年
神澤伊三郎 村長 明治22年
神澤松次郎 村長 明治26年
神澤伊三郎 村長 明治28年
三木彌平 村長 明治30年
神澤伊三郎 村長 明治30年
神澤柳吉 村長 明治34年
三木彌平 村長 明治37年
中島幾太郎 村長 明治39年
神澤伊三郎 村長 明治43年
中澤松次郎 村長 明治45年
さて木場村の庄屋と村長を見ましたが、宿題は頻出する神澤氏です。彼も三木別所の一族です。次回は神澤氏を取り上げる予定です。
<2025年5月13日>