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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

珍しい姓、「鯰江」さんとか

2009-09-27 | Weblog
ユニークな苗字の方にはじめて会うと、「お名前の由来いわれは?」と、つい聞きたくなってしまいます。
 だいぶ前のことですが、中京の町中を歩いていたとき、ふと目にとまった表札には、「神」と一文字。わたしは愕然驚愕し、のけぞってしまいました。姓、苗字が神さんなのです。いったい、どのような方がお住まいなのでしょうか。一度お会いして、少しでも苗字についてのお話しを、お聞かせいただきたいものだと思った。しかし突然に、見ず知らずの人間が玄関でピンポーンと鳴らしても、神社神前の鈴の音に等しく、おそらく門前払いであろう。またわたしも赤面してしまって、まともに質問もできないのではないか。
 ところが偶然ですが今日、京都市中の電話帳をみていたら、「神」の苗字が二軒。それで気づきましたが、わたしがかつて見た表札の神は「しん」さん。そしてもうおひとり、上賀茂の神氏は「かみ」である。
 神について調べ考えるのは、ふつうは宗教学ですが、苗字から追跡していく氏姓学からの神の追及も興味深い。
 しかしそのような作業を進めるくらいなら、わが家のカミさん、「山のカミ」をもっと理解することが、先決の課題、重要問題であることに思い至ってしまった…。「神さんは、理解することが困難である。だから神である」。オットーも『聖なるもの』(邦訳・岩波文庫)で、切々と述べています。

 ところで先々週のことですが、ある女性と話していましたら、「旧姓はナマズエです。変な苗字なので子どものころ、いじめからかいを受け、ずい分いやな思いをしたものです」。ナマズエ? 鯰絵かと思い聞きましたら、「鯰江」とのこと。「滋賀県には鯰江の地名があり、決して変わった名ではないと思うのですが…」
 そしてわたしの悪い癖がはじまりました。好奇心がむくむくと湧いてきたのです。「鯰江さんの名誉挽回のため一肌脱いで、来歴を調べてみようじゃないですか!」。本当に困った性格です。何かに疑問をもち、知りたい、調べたいと一度思うと、もう停まらないのです。そして、にわか仕立ての興信所のごとくですが、いくらかわかって来ました。書いてみます。

 滋賀県東近江市に「鯰江町」があります。この町の歴史は古い。一帯は古代に渡来集団の秦(はた)氏、秦朝元たちが開拓した広大な土地と伝承されています。考古学、古代史ともに、朝鮮半島から来た秦氏が開いた土地であると解説しています。秦は、古代中国の秦帝国「しん」の末裔とも自称しています。「神」さんも「しん」さん。もとは秦かもしれません。
 元総理の羽田(はた)孜さんは長野県出身ですが、何かでかつてみた羽田家の家系図では、始祖は秦(はた)氏でした。五世紀以降に渡来した彼ら集団は、河内(大阪)、山背(特に京都太秦と伏見)、播州(姫路あたり)、吉備(岡山)そして近江(滋賀)、信州(長野)などへと拡散したのです。京の神(しん)さん、長野の羽田(はた)さん、鯰江の秦(はた)さん、太秦の秦さん。ルーツはもしかしたら、古代において繋がっているのかも知れません。
 
 古代に秦氏が開いた湖東の一帯ですが、その内の鯰江庄は奈良時代、聖武天皇のころに天皇祈願起請で、奈良・興福寺領となります。そして平穏だった平安時代が過ぎ鎌倉時代以降、近江の大勢力となった守護・佐々木氏を核とした地元豪族たちと、興福寺との争いが深刻化します。鯰江庄は現在の東近江市(旧:愛知郡愛東町)鯰江町、中戸町、妹町、曽根町、青山町など。広域な愛知川(えちがわ)右岸の農村地帯です。
 中世には、水利をめぐり争いがたびたび起きています。集落のすぐ横を流れる愛知川は、いまでもふだんは水量の乏しい川です。河幅は広いのですが、水は流れているのか溜まっているのか分からぬほど。
 かつて対岸の近衛家領の柿御園などが、新しい水路を愛知川上流から切り開いた。下流の鯰江庄はたまったものではありません。死活問題です。八ッ場ダム以上の大問題が起きました。対岸上下流のひとたちは、何度も激しい葛藤を繰り返したことが記録にみえます。
 なお柿御園ですが、現在の東近江市(旧:八日市市)御園町、池田町、今代町、寺町、岡田町、林田町、中小路町、妙法寺町。山上町(旧:神崎郡永源寺町)などの農村地帯です。
 鯰江庄はその後、室町時代には嵐山渡月橋近くの臨川寺領になったりもしましたが、ますます力を増した佐々木氏に侵食されていく。
 そして佐々木六角氏の有力家臣、地元豪族の鯰江萬介貞景が本拠とした鯰江城ですが、織田信長の近江侵攻に対し、最後まで抵抗します。六角氏本城の観音寺城が落ちた五年後の1573年9月、信長の家臣、柴田勝家ら四将らによって激烈な攻撃を受け、平城だったが堀を巡らした堅固な鯰江城も落城。近江の名族・佐々木六角氏と部将だった鯰江城主・鯰江貞景たちの最後の城、闘いは終わったのです。
 参考までに、鯰江城は信長との一戦に備え、防備の備えを充実したのですが、かつての発掘調査記録によると、そもそもの築城は十六世紀早々とみられます。古くとも、せいぜい十五世紀末あたり。鯰江氏が城を築いた時期を、もっと早いころとみる見解があるようですが、同城発掘報告書は、築城の時期を歴然と語っています。
 そしてその後、鯰江庄は一時、豊臣氏の支配下となりましたが、関ヶ原合戦の後、1617年のころ彦根藩領となり維新まで続きます。

 ところで大阪市城東区にも鯰江があります。鯰江小学校・中学校・公園など。城東区役所の東一帯は、いまでは今福という町名ですが、かつては鯰江町といい、鯰江川がありました。川はいまでは道路になってしまい、痕跡もありませんが。
 この川、堤はかつて鯰江備中守が掘り開いたのでこの名があるという口承があります。記録では、1586年に近江愛知郡鯰江郷出身の毛利備前守定春が、居住したとする。定春は鯰江城で最後まで戦った鯰江一族の将・鯰江定春。彼は鯰江貞景から改名したようです。戦後、秀吉につかえ姓を後に、鯰江から森そして毛利に改めたという。近江鯰江城落城の十数年後のことです。近江の鯰江から、落城の数年のあとに大坂に来たに違いない。
 蛇足ですが、定春のその後の名、毛利備前か備中守といえば、秀吉の高松城水攻めを思い出します。1582年、本能寺の変の急報で、備中高松城を落とした秀吉はあわてて畿内に引き返す。中国大返しです。鯰江郷で愛知川の水を扱うことに優れた才をもつ定春たち鯰江の残党たちは、このとき既に秀吉の配下として、高松城水攻めの戦に加わっていたのでしょう。鯰江落城の九年後です。ありうる事と、わたしは思っています。
 定春の弟のひとりは森高次。高次の子の森勘三郎高政は、秀吉の配下として備中高松城戦に参加。終戦時、高政は秀吉の命により人質交換のため、毛利方に預けられました。そしてこれを機に、森高政は毛利氏より同姓を与えられ、毛利高政と名のる。その後、同毛利家(旧姓:森)は大分豊後の佐伯藩城主として幕末まで続く。豊後の毛利(森)氏は、もと鯰江の一族だったのです。鯰江庄内大字鯰江には、森村がかつてあり、村の出身者は森姓を名のりました。森と鯰江は同族です。鯰江の定春も甥の高政と同様に、毛利輝元候から同姓の毛利姓を与えられたのでしょう。「もり」は「もうり」に通ず、故の賜姓という。 

 江戸時代の人物をみると、鯰江伝左衛門直輝がいる。1815年に但馬城崎に生まれた。鯰江城が落ちたあと、彼の祖先は城崎に流れ落ちて来た一派である。代々当地で温泉宿と農を営み、庄屋をつとめた。幕末、勤皇の志士と交わった直輝は、長州に走り生野事件にも参加する。同志のひとりに、後の京都府知事・北垣國道もいました。
 過激な運動のために妻子は捕らえられ、獄につながれた。そして禁門の変で長州が破れたが、鯰江は遍歴ののちに危険な京に入って国事に奔走するも、病に倒れる。1866年5月5日、享年52歳。維新の二年前である。

 鯰江城で最後まで織田信長に刃向かった鯰江貞景、幕末の志士・鯰江伝左衛門直輝、鯰江一族は熱血豪快な血流のようです。きっと立派な鯰ヒゲをたくわえていたのでしょうね。
<2009年9月27日 南浦邦仁> 続編をはじめました。「鯰江さん考」。シリーズになる予定です(2012年5月17日)
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「千秋萬歳」中世史年表(改訂増補版)<後編>

2009-09-22 | Weblog
「千秋萬歳」中世史年表(改訂増補版)<後編>
また大幅に改訂しました。
前編は、2009年10月10日、後編は10月11日にブログ新掲載。
そちらをご覧ください。
以下、年表本文を削除します。2009年10月10日記。

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「千秋萬歳」中世史年表(改訂増補版)<前編>

2009-09-22 | Weblog
 以前に万歳の中世史年表のようなものを記しました[本年8月15日]。
 参考資料は盛田嘉徳著『中世賎民と雑芸能の研究』(雄山閣出版)。それに世界人権問題研究センター編『・声聞師・舞々の研究』(思文閣出版)、渡辺昭五著『中近世浮浪芸の系譜』(岩田書院)などの史料を加えて、年表を充実してみました。
 この年表は、新春の寿ぎ(ことほぎ)芸能である千秋萬歳(せんしゅう・せんずまんざい)関連の歴史年表です。「まんざい」であって、萬歳(ばんぜい・ばんざい)ではありません。またいくらか、萬歳以外でも関連する事項、民の萬歳法師、声聞師・唱門師(しょうもんじ)のことなども含んでいます。
 たとえば声聞師大黒は、1月18日には禁中に参内し、火祭りの左義長・三毬打(さぎちょう)で、拍子をとって囃しました。左義長・三毬杖・三毬打は、民間では小正月の火祭り「とんど」「どんど」です。
 また声聞師たちは、猿楽・舞々などの芸能をいつも演じています。そして九月九日の重陽の前日、毎年のように声聞師大黒は禁裏に参内し、菊を植えています。
 しかし左義長や菊のことなどは、新春の千秋萬歳とは直接のつながりがありません。一部を記しましたが、原則として略しました。なお<御湯殿>は<御ゆとのゝ上の日記>と同じで略記です。
 ところでこの表は、校正が十分ではありません。これから少しずつ修正追加していきますが、間違いに気づかれた方がありましたら、ぜひご指摘ください。
続編「近世史年表」もいつかは作りたいものですが、かなりの労力がいりそうです。もう尻込みをしております。
 なおこの稿は、ブログの字数制限をこえてしまいました。前編後編にわけて掲載します。<2009年9月22日 前編>

追伸:さてこの年表、またもや大幅に書き変えました。「新版」と称し、2009年10月10日前編と、11日後編を掲載します。そのため以下、本文を削除します。
<2009年10月10日記>

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連載「ふろむ山麓」ブログ目次

2009-09-20 | Weblog
この連載をはじめて、ちょうど二年になります。これまで何を書いたか、何をまだ書いていないのか? 定かではなくなってきました。情けないのですが、記憶力の低下です…。整理のために、目次を作ってみました。今後の駄文作りのため、自己の参考資料です。あしからず。

№ 年・月日  タイトル

2007
1  9.16  伊藤若冲と石峰寺
2  9.17  伊藤若冲と阿弥陀寺
3  9.24  車石・車道
4  9.30  京都府立総合資料館
5  10.7  比叡山のコンビニ
6  10.8  山中越え
7  10.13  京都・花の名所
8  10.14  大枝の柿
9  10.16  竹林公園
10  10.27  時代祭の大原女・白川女・桂女
11  10.28  桂女(かつらめ)
12  11.3  坂本龍馬とノロウィルス
13  11.11  幕末の「金玉」三話
14  11.18  京都御苑の図書祠
15  11.23  大原と大原野
16  11.25  大原野神社
17  12.2  金玉余話
18  12.8  伊藤若冲の「冲字考」 №1
19  12.9  伊藤若冲の「冲字考」 №2
20  12.10  伊藤若冲の「冲字考」 №3
21  12.16  休題・閑壱話 多田道太郎先生
22  12.23  休題・閑二話 福永光司先生
23  12.24  若冲という名前 №1
24  12.26  萬福寺のメダカ
25  12.29  若冲という名前 №2
26  12.30  かぐや姫と京言葉「おおきに」 №1
 
2008
27  1.3  かぐや姫と京言葉「おおきに」 №2
28  1.4  かぐや姫と京言葉「おおきに」 №3
29  1.5  かぐや姫と京言葉「おおきに」 №4
30  1.6  かぐや姫と京言葉「おおきに」 №5
31  1.7  「若冲」という名前 №3
32  1.13  島耕作の皿洗い 
33  1.14  「若冲」という名前 №4
34  1.19  中野さん、ありがとう
35  1.20  東川と東山
36  1.21  「若冲」という名前 №5
37  1.27  京都・百万遍の高倉健 
38  2.2  聖ヴァレンタインデーの謎 №1
39  2.3  聖ヴァレンタインデーの謎 №2
40  2.10  片瀬五郎という名前
41  2.11  巌谷小波
42  2.17  京都疏水
43  2.22  上ル下ル西入ル東入ル
44  3.2  奇声「カッカ、カカカカ」
45  3.9  鴨川の水
46  3.15  京都印象記 
47  3.23  キリシタンと歌舞伎 №1 
48  3.29  キリシタンと歌舞伎 №2
49  3.30  花咲く疏水べり
50  4.5  京のモンシロチョウ
51  4.6  国境の山崎
52  4.12  山崎の斉藤道三
53  4.20  鞍馬の桜 
54  4.22  『古都』の京言葉
55  4.23  京言葉の寝言
56  4.27  アメリカヤマボウシ、別名ハナミズキ
57  4.29  美しい京都のわたし
58  5.3  御所カラス伝説
59  5.4  捨て鳥
60  5.9  五輪と銀輪
61  5.11  京の四季
62  5.12  大佛次郎の名文
63  5.17  この木 何の木?
64  5.18  京の道標<道しるべ石>
65  5.18  日立の樹
66  5.25  謎の道標
67  5.31  岡部伊都子先生
68  6.1  幕末維新
69  6.2  慶応三年四年の年表
70  6.7  更新
71  6.8  タスポ一週間
72  6.9  織田信長の命日
73  6.14  本能寺の変
74  6.15  豊臣秀吉の天下取り
75  6.18  織田信長の葬儀
76  6.21  パキラの花
77  6.22  秀吉狂乱
78  6.23  醜悪なる秀吉
79  6.28  女三代記
80  6.29  現代のことば
81  6.30  若冲天井画 №1
82  7.2  若冲天井画 №2
83  7.5  天下布武
84  7.6  京都 宝ヶ池競輪場
85  7.7  若冲天井画 №3
86  7.12  観光都市 京都
87  7.13  十姉妹
88  7.14  若冲天井画 №4
89  7.20  タバコ余話
90  7.21  若冲天井画 №5
91  7.26  ヒトとタバコ はじめての出会い
92  8.3  京の夏バテ
93  8.10  夕立
94  8.16  北京オリンピック
95  8.23  上村松園の四条
96  8.30  雷神
97  8.31  若冲天井画 №6
98  9.7  土
99  9.8  若冲天井画 №7
100  9.14  京の底冷え
101  9.20  温暖化? 寒冷化?
102  9.21  若冲天井画 №8
103  9.29  日曜日
104  10.4  京のコンビニ
105  10.12  四条河原町
106  10.25  京都の町
107  11.2  重山文庫
108  11.11  若冲 五百羅漢 №1
109  11.14  若冲 五百羅漢 №2
110  11.16  狛猪(こま・いのしし)
111  11.24  若冲 五百羅漢 №3
112  11.26  若冲 五百羅漢 №4
113  11.30  若冲 五百羅漢 №5
114  12.6  京都御苑
115  12.7  京都御苑
116  12.14   若冲 五百羅漢 №6
117  12.21 若冲 五百羅漢 №7
118  12.25 若冲 五百羅漢 №8
119  12.28 戦時の動物園 №1
120  12.30  戦時中の動物たち №2

2009
121  1.3  戦時中の動物たち №3
122  1.16  戦時中の動物たち №4
123  2.7  戦時中の動物たち №5
124  2.8  若冲 五百羅漢 №9
125  2.11  戦時中の動物たち №6
126  2.15  戦時中の動物たち №7
127  2.22  若冲 五百羅漢編 №10
128  3.1  若冲 五百羅漢編 №11
129  3.8  戦時中の動物たち №8
130  3.14  戦時中の動物たち №9
131  3.22  戦時中の動物たち №10
132  4.12  作庭記
133  4.25  作庭
134  5.5  若冲 五百羅漢 №12
135  5.10  若冲百話 五百羅漢 №13
136  5.17  若冲 五百羅漢 №14
137  5.24  人にあらず
138  5.31  庭
139  6.6  カラス
140  6.14  陶磁記
141  6.21  若冲百話 五百羅漢編 №15
142  6.28  庭
143  7.4  おくりびと
144  7.12  若冲百話 石峰寺五百羅漢 №16
145  7.14  ケガレと夏バテ
146  7.19  土用の丑
147  7.22  若冲 五百羅漢編 №17
148  7.25  西にみえるは東山
149  7.26  謎の万歳(ばんざい)
150  7.31  万歳(ばんざい) №2
151  8.1  若冲 石峰寺五百羅 №18
152  8.2  万歳(ばんざい) №3
153  8.9  若冲 五百羅漢 №19
154  8.12  若冲ワンダーランド
155  8.13  万歳(まんざい)の歴史 №1
156  8.15  万歳(まんざい)の歴史 №2 「中世編」
157  8.16  万歳(まんざい)の歴史 №3
158  8.23  万歳(まんざい)の歴史 №4 声聞師
159  8.27  若冲 五百羅漢 №20
160  8.31  万歳(まんざい)の歴史 番外前編
161  9.5  若冲 五百羅漢 №21
162  9.6  万歳(まんざい)の歴史 番外後編
163  9.13  ヒガンバナ
164  9.19  若冲 五百羅漢 №22
165  9.20  ブログ目次

この二年間で、延々百六十回を超す駄文を書き連ねたのですね。自分でもあきれ返りますが、それでもまだ続けたい気がしております。不思議ですね。やはり趣味なのでしょう。テニスやゴルフに釣りやドライブ、競馬や麻雀やパチンコに音楽…。それらを好むひとは数多い。わたしは彼らと同じように、かわりにつまらぬ文章ばかりでも、何かを興味のおもむくままに、表現したいのです。単に趣味としか、いいようがありませんが。自己満足とは、この作業をいうのではないか、と考え思いながら、これからもきっと継続していくことでしょう。
<2009年9月20日 愛犬の三回忌を迎え記す>
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若冲 五百羅漢 №22 <若冲連載42> 

2009-09-19 | Weblog
『京都府寺誌稿』後編

 深草石峰寺の拙門和尚によると、後山の若冲石像の配置は世尊在世中の逸事を形取り、第一画題は世尊の誕生。第二は世尊が王家嫡男である系統を捨てて入山。第三画題は、雪山(せっせん)での六年間におよぶ苦行を終え、山を降りての出山外道教化。第四は華厳教悦法。第五は般若浄土。第六は霊山會上。第七は祇園精舎二十五菩薩雍護。第八は法華教授。第九が涅槃。第十は[塔]所に至る。世尊に附帯表順させて羅漢を配置している。 
 それ故に諸佛や羅漢、そして鳥獣などを合わせて合計千体を超える。すべて石峰寺山上に羅列し、また山間渓谷に橋梁を架け、二十四橋を構え、実に壮厳に造り上げている。見る人すべてが驚嘆した。
 ちなみに塔所とは、石峰寺歴代の住持、千呆はじめ和尚たちの墓所であろう。いまも一般墓地とは離れ、少し低い地に一角を占める。開山僧・千呆禅師の遺骨も埋葬されている。

 そして拙門和尚は語る。願主の俊岳和尚は寛政八年(一七九六)に、若冲居士は同十二年に、密山和尚は文化十二年(一八一五)に、おのおの物故してしまった。そして経ること百余年の今日に至り、破戒僧および奸僧のために石造物は散乱し、往時の盛観を失ってしまった。現今は十画題の内、誕生佛、霊山会上、涅槃、塔所の四所のみを残すのみになってしまった。六百余個が在しているが、四百個以上が売却され、三都や地方の有数の邸園に翫弄物として散在してしまったのである。

 ところで石峰寺が明治前期にこれほど凋落してしまった原因のひとつは、寺の大きな収入源であった伏見船から得ていた運上が、幕府の瓦解とともに失われたためである。伏見の港を中心とする伏見舟は、淀川船すなわち過書船同様に、淀川や宇治川に就航した人荷運搬船である。伏見船の運上益金は、正徳四年(一七一四)に伏見の郷士・坪井喜六益秋が、幕府から与えられた免許権利の一部を寺に寄進したものである。淀川通船のうち、小回り船三十艘の運上を寺門香燈の資として、坪井が永代寄附したことによる。また福建省から長崎に来航する支那船からの香燈金収入も、伏見船以上に大きかった。
 そして明治初期、廃仏毀釈と上知令の嵐が、寺宝流失や堂の破却にも拍車をかけた。拙門和尚から破戒僧と名指された二代にわたる住職が、かつて俊岳と密山両和尚の勧進、若冲の奉仕や、たくさんの庶民の浄財喜捨でもって完成された石峰寺と石像らを、それこそ破壊してしまったのである。
 しかし、そのころに全国の宗教界を突如襲った激流を振り返ってみて、ふたりの和尚だけを責めるのは、あまりにも残酷であるとも思うのだが。
<2009年9月19日 南浦邦仁>
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ヒガンバナ

2009-09-13 | Weblog
 ヒガンバナが咲き出しました。ちょうど一年前、京都新聞「現代のことば」欄に、彼岸花のことを書いたことがあります。あれから一年、彼ら曼珠沙華たちは、葉を枯らし、じっと地中で秋をひたすら待っていた。何ともいじらしい。横着な転載・再録です。

 秋の彼岸が近づいてきました。この時節を待ちこがれていたかのように突然、地上に茎が伸び、真紅の花を咲かせるヒガンバナ。田畑のあぜ道で、黄金に色づく稲や、緑の草の間に、花火のように開く朱色の花はあざやかです。
 彼岸花とも曼珠沙華とも書きよびますが、この花を好まぬかたは多いようです。だいたい別名が悪い。シビトバナ、ジゴクバナ、ユウレイバナ……。死人や地獄幽霊の字が当てられます。
 この草は、球根状の地下茎に猛毒を含んでいます。地中に穴を掘るモグラやネズミ、ケラなども、ヒガンバナを嫌う。そのために田のあぜや、土手や墓地などに植えたそうです。
 しかし、とことん毒を抜けば、食べることができます。飢饉のときには救荒食物として、最後の頼みのひとつにされました。ただ素人の安直な毒抜きは危険です。ふだん、絶対に食してはいけない植物です。
 この草花には、墓地、猛毒、死そして飢饉などといった、古くからよからぬイメージがつきまとっています。かわいそうな植物です。
 ただ愉快なのは、ヒガンバナが、ほかの草花とはまったく逆の一年を過ごすこと。秋に地中から長い茎を伸ばして花を咲かせ、花後に葉を出す。ほかの草花が弱り枯れる秋から冬、ヒガンバナはやっと日光をあびます。そして翌年の春過ぎに葉は枯れてしまい、地上には何の痕跡もなくなってしまう。地上が新緑青葉の季節から秋彼岸のころまで、地中に閉じこもってしまいます。ヒガンバナの生き方は、何ともユニークです。
 わたしの職場近く、大通りの街路樹の下にも何本かのヒガンバナが、いま彼岸を前に地中で待機しています[ 註:今年は昨年より早く、同じ場所で咲き出しました。文章を書いたのは昨年9月10日ころ。掲載は9月17日夕刊 ]。川端通り沿いの鴨川べりにもこの草花は、ずいぶん増えました。一般植物とは違う生き方をするこの草を、近ごろでは好むひとが多くなったのでしょうか。京の町なかにもっと植えてもいい花のひとつだと、わたしは思います。好き嫌いはそれぞれの自由ですが、迷信や偏見で草花をみてはいけないと、この花をかばいたくなります。ただ毒はあります。だがきれいなバラにも、トゲがあります。
 本で知りましたが、ヒガンバナの日本列島への渡来は、弥生時代だろうとのこと。稲作を大陸半島から伝えたひとたちが、同時にこの草花をもたらしたという記述です。
 彼らが華麗な花を愛したからでしょうか。地中にトンネルを掘る小動物を防ぐため、あるいは非常時に備えるため? それとも土に混じって偶然に渡来した? 球根もどきは薬にもなる。毒と薬は、紙一重ともいいます。
 二千数百年の間、ヒガンバナは日本人とともに暮らしてきた仲間です。読書の秋、本を手に、草花と人間の歴史に思いを馳せるのも楽しい。
<2009年9月13日>
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万才(まんざい)の歴史・番外後編

2009-09-06 | Weblog
「がまの油売り」口上・後編

 [がまの油が]取れますのが五月に八月に十月、これを名付けて五八十(ごはそう)は四六のがまだ、お立会い。がまの油を取るには四面には鏡を立って、下に金網を敷き、この中にがまを追い込む。がまは鏡に写るおのれの姿をみて、おのれと驚き、タラリタラリと油汗を流す。その油汗を下の金網抜き取り、柳の小枝をもって三七、二十一日の間、炊き詰めたのがこのがまの油だ。
 赤いが辰砂野臭(しんしゃやしゅう)の油、テレメンテイカマンテイカ。がまの油の効能はヤケドにヒビ・アカギレ、霜焼けの妙薬。金創(きんそう)には切り傷、出痔、イボ痔、走り痔、脱肛、横根、雁瘡【病】(がんがさ)、梅瘡(ばいそう)、打ち身・クジキ・はれもの一切、下の病い。何日(いつ)もは一貝で百文だが、本日はひろめのため小貝を添えて二貝で百文だ、お立合い。
 がまの油の効能はまだあるかというに、切れものの切れ味をとめて、カミソリの刃をとめる。手前持ち出したるは拵(こしらえ)は粗末といえども、刃引ナマクラではない。多くお立会い、中にはあの膏薬屋の刃は先が切れて元が切れて、中刃が切れぬ仕掛けでもあろうという。切れるか切れないか、お目の前で白紙を細かに切り刻んでごらんに入れる。一枚の紙が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚は十六枚、三十と二枚、六十と四枚。六十四枚が一百(そく)と二十八枚だ、お立会い。
 春は三月落花の舞い、比良の暮雪は雪降りの景(かたち)。かほどに切れる業物でも、差し裏指し表にがまの油を塗る時は、切れ味とまってナマクラ同然。白紙一枚容易に切れない。引いて切れない、たたいて切れない。ご覧の通り。
 多くお立会いの中には、あの商人(あきうど)のツラの皮は厚いという御人(ごにん)もござろう。しからば、ところを変えてここを試す。たたいて切れない。引いて切れない。ご覧の通り。拭きとる時にはどうかというに、がまの油のケがなければ、鉄の一寸板でも真ッ二つ。触ったばかりでこの通りだ。お立会い。
 この位の傷はなんでもない。がまの油を一付けつけて拭きとる時には、即座に痛みが去って血がピタリと止まる。何とお立会い……
<2009年9月6日>
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若冲 五百羅漢 №21 <若冲連載41>

2009-09-05 | Weblog
『京都府寺誌稿』前編

 石峰寺の若冲五百羅漢について、もっとも詳しく正確な明治期の資料は『京都府寺誌稿』である。明治二十四年に北垣国道京都府知事の提唱により、府内の有名各寺に寺の来歴や什宝、原状などを報告させた資料をまとめた寺誌集である。石峰寺の原稿は、住持拙門和尚によって、二十四年か翌年に記されたものであろう。石峰寺が提出した文書のなかの「五百羅漢石像」項を意訳してみるが、やはり後山はかつて、釈尊一代記のパノラマであり、佛伝テーマパークとでも呼ぶべき、石像数は千体を超す壮大な光景であった。

 「長さは六尺八寸から二尺五寸ほど、現在おおよそ六百体あり。羅漢建立の年度は安永末年で寛政年間に竣成したという。当時石峰寺前所に閑居していた斗米庵伊藤若冲が画類を描き、石像を石川石をもって造った。石峰寺六世俊岳哲和尚が願主となり、そして第七世密山修和尚が洛中洛外、近隣の国郡にも出向いて、首に勧進の函箱を懸けて鉢を持ち、鐘を叩き“深草石峰寺五百羅漢建立”と、東奔西走し金銭米穀、有信の施物を仰ぎ、その喜捨浄財をもって星霜十余年を経過し、竣切したとのこと。一体の像でも、一人あるいは二人三人の寄附によって建立された石像群である」

 若冲の石像造営作善は、わずか数年にして当初の完成をみた。第一期五百羅漢完工を成し得たのには、密山和尚の勧進勧化、粉骨砕身の尽力が大きかったことが知られる。若冲が画を米一斗と交換していただけでは、これだけの短期間に事業を完遂することはできなかったであろう。第二期以降も、密山和尚の勧進業、民衆の喜捨、それらが合力されての十数年にわたる事業が完成された。
 また若冲の大作モザイク画「鳥獣花木図屏風」「樹花鳥獣図屏風」などは、石像山の造営資金を集めるために、若冲工房の総力を動員して制作されたのだろうと思う。画の升目描きには西陣織との関連が指摘されているが寛政十二年、相国寺主催の若冲四十九日法要に、西陣の富商・金田忠平衛とおぼしき人物が招かれている。金田がこの屏風制作に関わり、勧進に貢献したことも推測される。豪商たち、パトロンもかかわったと推察する。
<2009年9月5日 南浦邦仁>
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