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ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

2009-05-31 | Weblog
 今日は休日を利用して、祇園のお庭のメンテナンスに行ってきました。木はだいたいが元気ですが、2本が弱っていました。気になります。
 また先日は友人の柴田さんに連れられ、花見小路四条下ルの上品なお店にはじめて行きました。いい坪庭をカウンターからガラス越しに見ながら、お酒を飲む店でした。ちょうど店の女性が植木に水をやるところでしたが、ピンチヒッターでわたしに出番が。ジョウロで3杯くらい葉や燈籠にもかけました。お客さんは結構入っておられ、ガラスの向こうでの拙いわたしの水やりが、意外と好評になってしまいました。
 終えてカウンターにもどると、はじめてお会いした大阪の会社の方が名刺をくださる。また横に坐っておられる芸妓さんも千社札を胸から出してくださる。きっと、変な植木屋もどきと思われたのだろう。
 ところで庭のメンテナンスはきりがない。最初に作った東山三条の庭は陽が当たらず、2ヶ月か3ヶ月で弱った木を交換しなければなりません。弱った木を自宅のベランダに持ち帰り、陽光をいっぱい浴びせ、元気を回復しているのですが、まるで草木の入院か、保養所です。
 花木は子どもと同じで、育てるのには苦労がたえません。えっ、自分は育っているのか、といわれれば弱る一方・・・。しかし草木の回復をベランダで日々見守るのは、いいものだ。
<2009年5月31日>
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人にあらず

2009-05-24 | Weblog
 先日、友人と話していたら、ケガレに象徴される差別の原点はどこにあるか、という話になった。以下の見解をご紹介する。

 ケガレやなどでいわれる差別は、この世とあの世の接点、わたしたちが生きている現世と来世であり前世である「生命の世界」との境界がポイントであるという。
 例えば死の儀式にかかわる僧侶は差別されず、高位にある。一方、実際に遺体に接する職業のひとたちは、差別されたりする。変な話である。
 昔からわたしたちの祖先は、空間にはふたつの世界が重なっていると考えてきたのだろう。ひとつは、いま現実に生きている世界。もうひとつは、生命が誕生する前の「生命豊穣の世界」。この豊穣の世界は、現世からいつか行く、死後の世界、それも同じく「生命溢れる世界」で、誕生前と同じ世界である。産まれる前の世界と、死後の世界は、まったく同じ「生命の国」と考えたのではないか。
 そしてこのふたつの世界、来世と前世にかかわる、境界を職業とするひとたちが、片や僧侶や医者として高位に位置づけられる一方、すぐ横に位置するひとびとが、ケガレとして差別された。
 の字は、「人にあらず」であるが、「佛」という字も「」であるという説がある。まず沸騰の「沸」は、水ではない蒸気である。佛の「弗」字は「非」を意味する。
 すなわち、佛・ブッダは「人ではない」、人間を超越した非常に希な存在である。「」人にあらずは、必ずしも「人間以下」を意味しない。神聖なる存在と捉えるべきであろう。

 彼とは近いうちに会って、もっと話を聞く予定である。楽しみだ。
<2009年5月24日>
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若冲 五百羅漢 №14 <若冲連載33>  

2009-05-17 | Weblog
「江戸時代の石峰寺五百羅漢」<売茶翁続編>

 そして大典が二十九歳、翁七十三歳のとき、売茶翁の茶器・注子に若き和尚は「大盈若冲」云々の文字を記しました。京の避暑地として有名な糺(ただす)の森での余興です。ちなみに、この注子はいまも残っていますが、若冲は三十二歳でした。
 大典が注子に書いた「若冲」の字が、画家若冲の名の誕生するきっかけであったことは、間違いないであろうと思います。しかし大典が「若冲」という名をこの画家に与えたと断定することはできません。
 売茶翁は京洛のあちらこちらをうろつき、たくさんのひとたちと交わった高潔の非僧非俗、俗塵のなかの茶人です。「大盈若冲」云々の大典の書には、都人が毎日のように接していたのです。画業見習い中の若旦那の若冲もしかり。
 「貴きもいやしきも、身分はありません。茶代のあるなしも問いません。世のなかの物語など、楽しくのどやかに、みなでいたしましょう」と売茶翁はおだやかに、みなに語りかけました。そのようになごやかに庶民と話す、売茶翁は都名物のオジイサン、こころが透明で温かい、にこやかな人物だったのです。「茶銭は黄金百鎰(いつ)より半文銭まで、くれ次第。ただで飲むも勝手。ただよりは負け申さず」。百鎰とは、二千両のことといいます。一文は寛永通宝一枚、いまの一円つまり金銭の最小単位でしょうか。割りようがありません。
 そのころの京都は、売茶翁を文化軸の中心に、十八世紀中後半は回転しました。当時、江戸期最高の京文化が百華繚乱できたのは、自由と平等を至上とする売茶翁という温和な怪物がいたからなのです。まさに売茶翁の存在は、十八世紀江戸期京文化、いや日本文化における大事件であったのです。日文研の早川聞多先生は「売茶翁といふ事件」と称しておられます。卓見だと思います。
 売茶翁を慕うたくさんのひとたちに惜しまれつつ、彼は永眠します。宝暦十三年(1763)七月十六日、鴨川の左岸ほとりの小庵で没しました。享年八十九歳。
 遺体は荼毘にふされ、遺言によって骨はみなの手で砕かれ粉にされ、鴨の川にすべて流されました。骨の粉末を川に流す葬法は、擦骨(さっこつ)とよぶのだそうです。いかにも売茶翁らしい己の始末です。
 ところで、存命中の人物を画に描かなかった若冲ですが、売茶翁の絵だけはたくさん残しています。ふたりは互いに尊敬信頼しあう、別格の関係だったのでしょう。
<2009年5月17日 南浦邦仁> 

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若冲百話―五百羅漢 №13 <若冲連載32>  

2009-05-10 | Weblog
「若冲の石峰寺五百羅漢」<売茶翁>

 若冲におおきな影響をあたえた売茶翁(ばいさおう)は延宝三年(1675)五月十六日、九州肥前の神崎郡蓮池に生まれました。地元佐賀の寺で得度し、月海元昭のちに高遊外(こうゆうがい)と名のります。売茶翁と呼ばれるのは、還暦の年に京都で喫茶店・茶舗を営みだしてからのことです。
 若かりしころ、まだ佐賀にいたときのことですが彼は病をえ、一念発起します。「このように弱い肉体や精神ではいけない。釈尊におつかえ申すこともあたわぬ」
そして何年ものあいだ、江戸や東北など全国各地をめぐり、修行学業にはげみました。臨済宗・曹洞宗の禅二宗をきわめ、南都の鑑真和尚からはじまる律学まで修しました。彼は当時、大秀才の若き学僧・文学僧として、将来を嘱望されたエリートでした。文学にもあかるく、詩でも書でも彼に比肩するひとは少なかったといわれています。
 ところが晩年、六十歳を前にして、久方ぶりに帰って来た肥前を去ります。寺は弟分にゆずり、京に向かいました。だが、本山の黄檗山萬福寺にも入らず、彼はなぜかまもなく寺を、さらには佛教までを捨ててしまいます。
当時の宗教界は、いまと同様でしょうか、堕落していました。六十一歳、当時は六 十をひとつ過ぎた年が還暦です。この年に彼は京で、突然に茶舗をはじめます。それも天秤棒に茶道具一式をぶら下げ、肩にかつぐ。春は花の名所に、秋は紅葉で知られる地に、住居兼のささやかな茶舗もありはしましたが、もっぱら日々移動するのです。荷茶屋というそうです。ちなみにそのころ、煎茶を立てて売る売茶業は、いやしい職業とされていました。
 彼の生活姿勢は、宗教家や知識人には痛烈な批判でした。いやしい職業にはげむ売茶翁は、かつて時代を代表する知識人。翁の姿は都のあちらこちらで見かけられましたが、市井で清貧の生活を送る、実はとてつもない文化人だったのです。
 売茶翁はこういっています。わずかの学業学識をひけらかして、師匠だの宗匠などとみずから称すことなど、まことに恥ずかしい。
 また僧侶にたいしては、立派な僧衣をまとい、おのれは佛につかえる身、佛弟子などと上段にかまえ、理も知らぬ庶民に高額な布施を要求して生きる。わたしには、とてもできないことです。
 「春は花によしあり、秋は紅葉にをかしき所を求めて、みずから茶具を担ひ至り、席を設けて客を待つ」
 彼の日々の収入などわずかなもの。特に客の絶える冬場、何度も喰う米にもこと欠き、生活は困窮しました。「茶なく、飯なく、竹筒は空…」。翁の餓死を憂えた友人は冬のある日、双が岡の彼のあばら家を、手に米を携え売茶翁を訪ねます。「我窮ヲ賑ス、斗米伝ヘ来テ生計足ル」
 若冲の別号・斗米庵や米斗翁は、ここからとったのではないか、わたしはそのように確信しています。
<2009年5月10日 南浦邦仁>
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若冲 五百羅漢 №12 <若冲連載31>

2009-05-05 | Weblog
「江戸時代の石峰寺五百羅漢」<京都ルネッサンス>
 久しぶりに若冲です。近ごろ意欲が減退・・・。

 かつて売茶翁高遊外(ばいさおうこうゆうがい)は、若冲の最高傑作「動植綵絵」を制作中にみて感動した。鴨川べりのアトリエ・心遠館でのことあろう。そして若冲に一行書を贈る。「丹青活手妙通神」。この「通神」が高遊外の遊、さらには石峰寺門額「遊戯神通」にまで昇華したのであろうか。
 また黄檗山第二十代の伯(はくじゅん)が、後に若冲に与えた偈頌には「丹青刻苦妙通神」とある。これら「通神」が「遊戯神通」に発展したのであろうかと思っていたのだが、実はそうではなかった。
 萬福寺の田中智誠和尚からご教示いただいたが、黄檗山第六代・石峰寺開山の千呆(せんがい)和尚の書があった。大坂「明楽寺」蔵の図巻題字「遊戯通神」である。千呆の書「遊戯通神」を、石峰寺後山入口門の扁額に使用したのである。深草・石峰寺の創立は、正徳三年(1713)である。
 なお売茶翁は十八世紀なかばころ、京の市井で売茶を生業としたが、宗教者また文人として最高の世評人望を得、たくさんのひとたちに大きな影響を与えた非僧非俗の人物である。ちなみに彼の売茶とは、茶道具を肩に担いでの移動式喫茶店、またささやかな茶店を構えて煎茶を点てる小商いであった。
 彼は佛法についてこう語っている。「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている。」
 十八世紀後半の京都、百華が繚乱した文壇画壇のルネッサンスは、売茶翁の影響からはじまったといわれる。だいぶ後、若干三十三歳の藤岡作太郎が著作『近世絵画史』(明治三十六年刊)で「画壇の旧風革新」と呼んだ時期である。多士済々、京都文化が光り輝いた活気あふれる文化豊穣の画期であった。売茶翁によって、この時代人は本当の自由を知り、文化芸術が開花したのである。
<2009年5月5日 南浦邦仁>

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