ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

平均寿命 続

2013-01-31 | Weblog
 麻生太郎さんの発言には、その後ネット上でさまざまな意見が飛び交っています。賛否両論で決して非難や反対ばかりではありません。
 メールマガジン「佐々木俊尚の未来地図」1月28日版では次のように記されています。「物議を醸している麻生さんの発言、これ読むと(時事ドットコム)別に間違ったことは言ってないと個人的には感じた」

<時事ドットコム「麻生財務相の発言趣旨」>
 やっぱり現実問題として、今経費をどこで節減していくかと言えば、もう答えなんぞ多く(の方)が知っておられるわけで。高額医療というものをかけてその後、残存生命期間が何カ月だと、それに掛ける金が月一千何百万(円)だ、1500万(円)だっていうような現実を厚生(労働)省が一番よく知っているはずですよ。
 チューブの人間だって、私は遺書を書いて「そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから」と渡してあるが、そういうことができないと、あれ死にませんもんね、なかなか。
 死にたい時に、死なせてもらわないと困っちゃうんですね、ああいうのは。いいかげんに死にてえなと思っても、とにかく生きられますから。
 しかも、その金が政府のお金でやってもらうというのは、ますます寝覚めが悪いんで。ちょっとさっさと死ねるようにしてもらわないと、いろんなこと考えないと、これ一つの話だけじゃなくて、総合的なことを考えないと、この種の話って解決がないんだと僕はそう思っているんです。(2013/01/21-19:27)

 麻生発言から10日が経ちました。何事も忘れやすいわたしですが、珍しくこの問題は記憶に残っています。
 3日前には90歳に近い、恩人の大先輩を亡くしました。彼はその日の昼間、電話で長話をされ、みなで「相変わらず元気だなあ」と言い合っていたのです。ところが突然、夕方前に亡くなった。終末期医療には一切無縁で逝去されました。
 麻生さんが奇しくも提起されたこの問題は忘れずに、考え議論せねばと思っています。
<2013年1月31日>
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平均寿命

2013-01-22 | Weblog
 麻生副総理が、また失言したとマスコミが報じています。本人は後に不適切だったと撤回し、議事録からも削除されたそうですが、1月21日付けウェブ版速報をみてみます。

 麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。また、「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。

 「さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」など、国民の非難を受けることになるでしょう。しかし言い方は不適当でも、言わんとしたことは決して間違ってはいないという意見もあります。
 北海道大学医学教授の宮本顕二氏の昨年6月に発表された「欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか」を転載します。読売新聞医療サイト「ヨミドクター」、「今こそ考えよう高齢者の終末期医療」2012年6月20日。

 ヨーロッパの福祉大国であるデンマークやスウェーデンには、いわゆる寝たきり老人はいないと、どの福祉関係の本にも書かれています。他の国ではどうなのかと思い、学会の招請講演で来日したイギリス、アメリカ、オーストラリアの医師をつかまえて聞くと、「自分の国でも寝たきり老人はほとんどいない」とのことでした。一方、我が国のいわゆる老人病院には、一言も話せない、胃ろう(口を介さず、胃に栄養剤を直接入れるため、腹部に空けた穴)が作られた寝たきりの老人がたくさんいます。
 不思議でした。日本の医療水準は決して低くありません。むしろ優れているといっても良いくらいです。
 「なぜ、外国には寝たきり老人はいないのか?」
 答えはスウェーデンで見つかりました。今から5年前になりますが、認知症を専門にしている家内に引き連れられて、認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。
 その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。
 ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。
 さて、欧米が良いのか、日本が良いのかは、わかりません。しかし、全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない、そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると、人間の尊厳について考えざるを得ません。
 家内と私は「将来、原因がなんであれ、終末期になり、口から食べられなくなったとき、胃ろうを含む人工栄養などの延命処置は一切希望しない」を書面にして、かつ、子供達にも、その旨しっかり伝えています。

 国ごと、また宗教によって、死生観や医療観は異なるのでしょうが、人間個々の終末のことはもっともっと議論されるべき大きな課題です。
 上記で取り上げられた国の平均寿命をみてみます。男女合わせての数字ですが、
日本82.7歳、オーストラリア81.5、スウェーデン80.9、イギリス79.4、アメリカ79.2、デンマーク78.3。
 反対に寿命の低い国をウィキペディアで見てみました。197カ国の統計が載っていますが、50歳未満を低い国から並べます。
 アフガニスタン43.8歳、ジンバブエ、ザンビア、レソト、スワジランド、中央アフリカ、シェラレオネ、コンゴ民主共和国、ギニアビサウ、ナイジェリア、モザンビーク、マリ、チャド、ソマリア、ルワンダ49.9。
 最低のアフガニスタン以外は、すべてアフリカの国々です。彼らの無念で悲痛な終末について、超高齢化国のわたしたちは、ほとんど考えることがない。問題はここにもあるのではないかと思ってしまいます。
<2013年1月22日>
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夜行観覧車

2013-01-19 | Weblog
 朝起きたら、妻が開口いちばん「読みたい本があるので、図書館に予約するか、アマゾンで中古本を注文してほしい」。湊かなえ著『夜行観覧車』双葉社刊です。
 訳を聞くと、昨晩からMBSテレビで同題の連続ドラマが始まった。なかなか興味深いストーリーなので、読みたくなったそうです。
 まずアマゾンを見ると、単行本は品切れで古本はプレミアがついている。文庫版は新本在庫切れで定価680円。古本もあるが送料込みで新本よりも高い!
 京都市立図書館は、予約者75名!! 全所蔵冊数は40冊ほど!! ほとんどの館が、2~3冊在庫しておられる!! 今日予約してもそれほど待たされないようです。結局買わずに、図書館の新規予約登録者76人目になってしまいました。

 どのような話しの本なのか? わたしは昨夜は飲み会で、TVは見ておりません。アマゾンと図書館の画面で内容説明を読むと解説はそっくりですが、以下の通り。
 父親が被害者で、母親が加害者。高級住宅地に住むエリート一家で起きたセンセーショナルな事件。遺されたこどもたちは、どのように生きていくのか。その家族と向かいに住む家族の視点から、事件の動機と真相が明らかになる。『告白』の著者が描く、衝撃の「家族」小説。『小説推理』連載に加筆、訂正し単行本化(そして文庫化)。2013年1月18日よりTBSにて連続ドラマ化。
 新聞のTV番組表を見ると、「夜行観覧車 衝撃殺人…家族崩壊」。出演は、鈴木京香、石田ゆり子、宮迫博之、田中哲司、安田章大、夏木マリ、高橋克典。

 懇切丁寧な本の内容解説には感心してしまいますが、要は妻が夫を殺害するのである。こんな本を朝いちばんに「買うか、図書館に予約してほしい」とは、一体どんな料簡なのであろうか。わたしは妻を疑い、恐怖心を抱いてしまった(w

 それにしても恐ろしいのは、アマゾンと図書館。アマゾンで新本を注文すると、早いと当日夕、だいたいは翌日に本が届く。
 京都市立図書館では、いま借りて読んでいる方と、返却を首を長くして待っている読者が、合わせて120人に上る。図書館で借りてこの本を読む方は、全国ではその数10倍になるはずです。ドラマの展開がこれからも好評なら、読む人はどんどん増える。おそらく桜花の前、2ヶ月間余での図書館貸し出しは、1万冊を超えるのではないでしょうか。
 著者印税は1冊65円ですから、逸失所得は70万円ほど。それと本屋の被害が大きい。無料貸し本屋化した図書館は、著者と本屋を明らかに圧迫しているのです。
 しかし我が身を振り返ると、同じく買わずに図書館頼り。安いのがいちばんというコモデティ化の行きつく結論が、買わずにロハで借りることです。困ったものです。
<2013年1月19日>
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国・ムラ・イエ・会社・家族

2013-01-14 | Weblog
 「お国のために」、「家族のために」。ともに意味合いは変遷している。戦前戦中は「お国のために尽くし、命を捨てる」だったのが、戦後は「家族のため」に変化した。大家族制が解体した核家族では父母と子どもである。しかし最近では、父が抜け落ちてしまう。母親は「家族は大切です。ただ夫は別ですけど」。家族の中心は母親と子どもであり、父親は排除されつつある。そのようなエッセイを山折哲雄先生が新聞に書いておられた。いつのどこの新聞なのか、記憶はさだかではありませんが。

 山折説には説得力があります。利己的遺伝子理論ではないですが、子持ちの主婦にとって、頼りない稼ぎのうっとうしい夫は重要な一員ではない。父は、母子核周辺の軽いあるいは不要な存在に位置づけられつつある。すべての夫がそのような軽い存在でないことは当然ですが、子どもの成人社会人化とともに、傾向として父親の重さが減りつつあるように思えます。カマキリは交尾の後、夫を蛋白源として食します。蛇足ですが、今日は全国で成人式が行われていますね。

 嵐山の南、松尾大社近くに北川さん一家がお住まいです。室内で犬夫婦と同居しておられるのだが、昨夏に子犬が5匹も産まれました。秋に訪問しましたが、7匹と3人の大家族は壮観でした。
 そのときに思ったのですが、父犬の存在は実に軽い。授乳は母、食事のドッグフードと離乳食は飼主の役目です。赤子たちは何の働きも当然しませんが、残念なのが父親です。家族にとって、まったく無用の存在に近い。せいぜい見知らぬ他人が訪問すると、玄関で吠えるくらいで、身を挺して家族を必死に護ろうとするのは母犬だけです。父犬の遠吠えでしたね。わたしは彼と同性の男として、悲しい気持ちになってしまいました。やはり家族の核は母親と子どもであって、父親なぞどうでもいい存在かもしれません。

 ところでお国のためですが、「お国はどちらですか?」と国内で聞かれて「日本です」と答えるひとは少ない。現代なら、大阪府や兵庫県、あるいは「高槻です」「亀岡です」。しかしもともとは「摂津です」「丹波です」と答えたはずです。山城国、丹後国、播磨国、近江国です。
 大日本帝国を国と考えたことは、おそらくなかろうと思います。それは国家です。国に家が付くのも変ですが、同郷者同士の会話なら、広域のムラが故郷のクニだったであろうと思います。ふつうの兵隊が「大日本帝国」を言うのは「バンザーイ」と叫ぶときだけだったのではないでしょうか。
 そのような兵卒が「お国のために」と身命を賭したのは、故郷のひとたちのことで、政府軍部のいう帝国や国家ではないはずです。それらはあまりにも抽象的に過ぎます。たとえば関西人が東北や北海道、四国や九州のひとびとにまで「尽くし犠牲になる」とは確信しにくい。あくまで故郷やムラ、大家族や親戚や同郷人であったはずです。

 戦後、帝国がまず崩壊し、ムラやイエが解体していきます。かわりに登場したのが会社と核家族です。父親は会社と家族の為に尽くす。「お国のため」が「御会社&御家族のために」なわけです。実態は「会社イノチ」、家族二の次です。
 ところがその大切な、帝国のごとき存在の会社は社員を裏切り、最後の拠り所であるはずの家族、妻と子どもまでもが、父なり夫を家族の枠から排除しようとしています。これを「父親の遠吠え」と呼ぶのでしょうか。
<2013年1月14日>

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山本覚馬と「八重の桜」 後編

2013-01-12 | Weblog
山本覚馬は薩摩藩邸の牢から解放された後、京都府の顧問に迎えられた。盲目で歩行もできぬ彼は、新知事の槇村正直を京都府参謀として支える。そして京都の復興再生のために精魂を傾注した。しかし槇村の革新の姿勢は年月とともに、自由を離れ独裁専制に堕す。覚馬は府顧問を9年つとめた後、独裁者と化した槇村と訣別した。
 翌明治12年春、はじめての府会選挙が実施される。選挙権を持つのは5円以上の地租(税)を納める成年男子のみ。また10円以上の納税者は全員が自動的に被選挙人名簿に記載された。立候補制ではない制限選挙であるが、覚馬は予期もせぬことに府会議員に選出された。

 吉村康著『心眼の人 山本覚馬』から、府会議場に現れた覚馬のことを紹介します。
 門人の背に負われて議場に入ってくる覚馬の姿は、なんといっても奇異に映った。京都市民は、よりによって目も見えず足も立たぬ者を議場に送りこんできたーーそんな驚きと侮蔑の入り混じった気分が、多くの議員たちの目の色にあらわれていた。
 そしてこの日の第1回府議会で議長に選出された。
 「あれで、議長がつとまるんかいな」
 「ほんまや、盲目では誰が手を挙げてるか、それさえもわからんやないか」
 「選んだほうも無責任やで」
 しかし山本覚馬の見識そして人物は、議員たちにも府市民にも大きな驚きをもって知られ、認められて行くことになる。

 同明治12年6月12日、同志社の第1回卒業生15人に向かって、山本覚馬ははなむけの言葉を贈った。
 目が見えないということは確かに不自由です。しかし、目が見えないために見えるものがある。物の本質、本当のものといってよいでしょうか。私たち盲人は、目が見えないから、それらが身にまとっている衣裳に惑わされることがないわけです。たとえ衣裳が貧しくとも、美しい心は美しく見えるし、いくら立派な衣裳をまとっていても、よこしまな心はよこしまに見える。あなたがたは目が明いているが、ときには目を閉じて世の中を見てほしい。そうすれば、なにが本物か、なにがニセモノかが判るだけでなく、あなたがたの描こうとする構想が美しい虹となって闇のなかに浮びあがってくるにちがいありません……

参考書 吉村康著『心眼の人 山本覚馬』1986年 恒文社
<2013年1月12日 南浦邦仁>
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山本覚馬と「八重の桜」 前編

2013-01-06 | Weblog
NHK大河ドラマ「八重の桜」第1回放映は今晩です。楽しみですね。2013年初春からはじまる、と知ったのはずいぶん前でした。NHK公式発表より早かった。
 このドラマは前半が会津、後半が京都になるのでしょうが、会津出身者で京都在住の佐藤さんがおられます。福島県では「佐藤さあ~ん」と叫べば、何人もが「はあ~い」と返事するほど佐藤姓が多い。県知事は現在も前も佐藤さんですね。
 大河決定の朗報はまず京都の会津人の佐藤さんにお知らせしました。幕末京都の会津藩士、戊辰戦争の会津城下。とてつもない苦難を強いられたのが会津人でした。
 そして3・11、福島県民は再度の大難に毅然と向かっておられる。「八重の桜」はそのような東北人に贈るエールでもあるのでしょう。

 主人公の新島八重は旧姓山本、兄は会津藩大砲術頭取で、藩校日新館・洋学所教授の山本覚馬です。幕末に佐久間象山、勝海舟、西周たちとも交わった人物。番組では、これまで知られることの少なかった覚馬にも焦点が合わせられるようなのでうれしいですね。彼こそは明治期の京都を救った近代最大の恩人です。
 昭和3年に同志社が出版した『山本覺馬』(山霞村編著)はその後、昭和51年に『改訂増補 山本覺馬傳』(京都ライトハウス刊)として再版されました。同書から「結論 京都の恩人」をダイジェストで紹介します。
 1868年(慶応4年~明治元年)、鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争で京は荒廃してしまった。そして翌明治2年には東京遷都。人口も激減してしまった京都の衰亡は見るも無残な姿であった。

 天はこれをあわれみ、京都の頽廃を救うため一偉人をつかわした。わが山本覚馬翁こそ、その人である。翁はもともと会津藩の一武人であって、何ら京都とは因縁がなかった。明治新都が東京に移ると、当時の偉材は争って東京に行った。覚馬翁も、もし身体が強健で持病がなければ、あるいは先輩同輩と同じように、永久に京洛の地に別離を告げたかも知れなかった。……
 たまたま翁は(薩摩藩京都藩邸での)幽囚二年の獄中生活の結果、治療できなかった眼病と脚疾のため、雄飛の機会を失ったのは翁のためには不幸であったが、京都府のためには得がたい幸せであった(覚馬は失明と脊髄損傷の病苦を背負っていた)
 やがて府県制発布、地方自治の新制とともに、京都はさらに一人の材を得た。後の府知事、槇村正直氏である。東京遷都により衰微していた京都は、これらの先覚者によって、雄々しくも新興の道を進むことができた。
 翁は当時の京都府参事であった槇村正直と意気投合し、懇願されて京都府顧問となり、互いに助け合って新時代に対処する府是を定め、万難を排してまい進した。すなわち産業振興、教育普及を目標としたのである。(西陣機業の危機を救い、博覧会の開催、興業場の開設。運輸、交通、商業、工業に新文明を導入し、その手際と成果には中央政府も呆然とした。また府民教育、女子教育の制度を完備。そして新島譲を助けて同志社を設立……)
 京都府顧問、そして府議会議長、商工会議所会頭に挙げられて、商業機関の発達に努めたことなど、翁が六十余年の生涯中、会津藩の一武人として壮年時代国事に奔走した以外は、すべて京都のために尽力し、忠実な一市民として、また時代の先覚者として、老いて閑居の後も、なおかつ、後進を誘導激励されたのであった。
 考えてみるに明治初年の京都は、翁の精神、思想、抱負、経綸の権化ともいえ、翁の功績は京都府の事跡と相反映して、二つであって一つであるといっても決して過言ではないと考えられる。
 京都がひとたびは戊申の兵乱にあい、二たびは遷都の悲運に会い、意気消沈し、すべてのことがくずれて二度と往時の姿を見ることができないかとも思われたとき、翁のような卓抜な識見をもち、不橈不屈の偉材を得たことは全く幸運なことで、そのため時代の潮流に先駆し、新文明を巧みに取り入れ今日の繁栄を得たのは当然のことということができる。……
 滅びようとする京都は翁によって救われた。翁は誠に京都再生の大恩人であると称賛することも決して過褒のことではない。……
<2013年1月6日 続く 南浦邦仁記>

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初詣

2013-01-02 | Weblog
 明けましておめでとうございます。新春初詣は、はじめて出雲大神宮に行ってきました。といっても島根県の出雲大社ではありません。京都市の隣市、亀岡の出雲大神宮、旧称は出雲神社です。
 常識として丹波のこの宮は、島根県杵築の出雲大社の末社と思うのがふつうです。ところがどうもそうではない。この古社は丹波国の一之宮で、丹波国風土記には
「元明天皇和銅年中(708~715)、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり」
 この記述では、亀岡の出雲神社から島根杵築の出雲大社に、大国主命が勧請されたことになります。神社の通称「元出雲」の由来もそこにあると言います。
 何とも不思議なので、岩波日本古典文学大系『風土記』を見たのですが、なぜかこの文も丹波国風土記逸文も見あたりません。
 ところがこの記述は、ネットではあちらこちらに出てきます。ご存じの方がありましたらご教示いただきたいのですが、胸に雑煮の餅がつかえたような気分です。どうも出雲大神宮にのみ伝わる社伝のように思います。

 『徒然草』に丹波出雲神社の話しが出て来ます。神社拝殿前の一対の狛犬が、向かい合わせでなく、背中合わせになっている。よほど深いいわれがあるのだろうと出雲神社の神官に聞いてみた。すると「子どものいたずらですよ」と言って、神官はコマ犬を置きかえて去って行った。
 いたずら坊主の笑い声が聞こえそうなエピソードですが、このコマ犬は石ではなく木製です。石造ではおとなでも動かせません。それにしても愉快です。

 ところで同社では毎年1月15日に、粥占い(かゆうらない)の神事が古くから行なわれています。今年は火曜日ですが朝7時から。これにも行きたくなりました。出雲大神宮のサイトから粥占を引用します。
 小正月の1月15日には粥占祭(よねうらさい)が斎行されます。この神事は古くから当宮に伝わっており、夜前、宮司による火入れ神事(浄火)が行われたあと、秘伝の方法により神饌所で小豆を混ぜた粥を炊き上げます。
 用意した3本の竹筒には、それぞれに一、二、三と刻み込みます。一は早生(わせ)、二は中生(なかて)、三は晩生(おくて)を意味しており、その中に入っている米と小豆の量で一年の稲の収穫豊凶を占います。筒中の小豆が少なく、米がたくさん詰まっている程、収穫が期待されると伝えられています。
 午前7時になると本殿で祭典が行われ、炊き上がった粥と共に御神前にお供えされた後、宮司の粥占が行われ、広く一般に拝観させられます。
 豊作か不作か、その判断は各人に委ねられていますが、昔から”当たる”と評判で、農業が盛んに行われていた戦前までは、丹波一円から多くの参拝者が訪れていました。
 また炊き上げた粥を椿の葉で包み、御神札と共に竹筒に挟みます。これは豊作の御守で、田畑にさしておけば、虫除けになり、多くの稲が収穫されると信じられています。
<2013年1月2日>
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