ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

スーチー・チルドレン

2016-01-17 | Weblog
 政治家集団にはチルドレンとよばれる新人の大量選出が時々起きます。近ごろの日本なら小泉、小沢、橋下、安倍各氏でしょうか。ミャンマーも11月の総選挙で多数のアウンサンスーチー・チルドレンが誕生しました。
 日経新聞電子版1月15日発をダイジェスト引用します。


「スー・チー党 新人教育に躍起 新政権の運営に不安 」(ヤンゴン=松井基一)

 2015年11月の総選挙に大勝したミャンマー最大野党、国民民主連盟(NLD)が、今春の新政権樹立に向けて大きな課題に直面している。党指導部の高齢化が進む一方で政治経験のない新人議員が大量に誕生し、政権運営を担う人材の不足への不安が浮き彫りになっているのだ。アウン・サン・スー・チー党首(70)のカリスマ性に依存し続けてきた同党は、世代交代と新たな人材育成という“第2の創業”に突貫工事で挑んでいる。

■公募の新人議員が9割、乏しい政治経験
 1月10日、最大都市ヤンゴン市内のホテルにNLDの若手約200人が集まった。15年12月に始まった教育・研修プログラムを受ける新人議員たちだ。
 憲法や予算編成、法律・規則、党のマニフェスト(政権公約)など12分野について、国内外の研究機関やコンサルから講師を招き、政治家として必要な基礎知識を猛勉強している。履修の後は、理解度を試す試験も待ち構える。
 党幹部のウィン・テイン下院議員は「君らの勝利の75%はスー・チー党首の名声によるものだ。君ら自身には何の経験もない。だからこそ学ばなければならない」と気合いを入れた。
 NLDは総選挙で、上下両院の改選議席の8割に当たる390議席を獲得した。うち9割は選挙前の候補者公募で選ばれた新人だ。医師や弁護士、教師などの出身者が多く、いずれも政治経験は乏しい。
 選挙運動の期間中、スー・チー氏が「個別の候補者でなく、党の旗に投票して欲しい」と有権者に訴え続けたのも、新人候補の能力に不安があるための苦肉の策だった。この戦略は成功したものの、当選した新人をどう活用するかという課題は残ったままだ。
 「私は大臣になりたいという人を好きではありません。選挙以降、様々な人から手紙で要請を受けますが、今後は手紙を出した人を処罰します」
 1月4日、ヤンゴンのNLD本部で開かれた独立記念日の式典。今年初めて公の場に姿を見せたスー・チー党首の訓示に、居並ぶ党員の間に緊張が走った。
 総選挙に圧勝した同党は、お祭りムードが抜けきらなかったが、スー・チー氏は訓示で「国民の負託を忘れるな」「路上駐車するな」「率先して選挙区を清掃しろ」などと苦言を連発。厳しい言葉からスー・チー氏の危機感がにじんだ。
 NLDは1988年、国軍クーデターにより当時の社会主義政権が崩壊した直後、民主主義国家の建設を目指す人々が結集し発足した。党の歩みはミャンマーの民主主義の歴史そのものだ。建国の英雄アウン・サン将軍の娘のスー・チー氏は、常にその中心にいた。
 軍事政権から警戒されたスー・チー氏は、1989年~2010年まで3回にわたり計15年間、自宅軟禁状態に置かれた。この間も党が存続できたのは、民主化運動の象徴としてスー・チー氏の求心力が強かったからにほかならない。だが、スー・チー氏の突出したカリスマ性に依存する党の体質は「ナンバー2はいない」といわれる、アンバランスな組織構造を生んだ。
 さらに大きな問題は党指導部に高齢の幹部が多いことだ。独立記念日の式典でスー・チー氏とともに壇上に上った幹部は、元国防相のティン・ウー最高顧問(88)、党広報を担当する弁護士のニャン・ウィン中央執行委員(73)、元軍人で政治犯として収監されていたウィン・テイン下院議員(74)ら。スー・チー氏よりも年上で、結党直後から支えてきた民主化運動の老闘士ばかりだ。

■臆測呼ぶ国軍や現政権との「協調」
 NLDは12年春の前回補欠選挙で国政に初めて参画し、国会に42人の議員を送り込んだ。しかし、党の中核を担う現職国会議員の平均年齢は15年末時点で59歳に達した。学生運動を一つの源流とし、かつては若々しいイメージだったが、すでに結党から27年以上たった。
 総選挙で大量の新人議員が当選した結果、議員の平均年齢は「10~20歳は若返った」(幹部)とみられる。ただ、新人の大半は結党当初の苦難の民主化運動の歴史を知らない。同党の政権奪取を見込んで、要職に就くため立候補した者も少なくないとみられる。
 現実主義者のスー・チー氏は、こうした事態に手をこまぬいていない。15年12月、自身の希望で旧軍政の最高指導者のタン・シュエ元上級大将と会談した。両者は新政権でのNLDと国軍の協力を議論し、タン・シュエ氏はスー・チー氏を「将来の指導者」と呼んだ。
 かつて旧軍政はNLDを弾圧し、多くの党員を政治犯として収監した。獄死した党幹部も多い。この会談は、「反軍政」という結党以来のレーゾンデートル(存在理由)を大転換したとも取れる行動だった。
 スー・チー氏は前後して、テイン・セイン政権と共に政権移譲のための特別委員会を設置した。元軍人を含む大統領府の閣僚と党幹部が3月の新政権発足まで毎週、政権引き継ぎの情報交換を進めている。
 スー・チー氏の国軍や現政権との協調的な姿勢には、「現政権の主立った閣僚を留任させるのではないか」(地元紙)との臆測も浮かぶ。政権を円滑に運営するため、今まで敵対してきた勢力との連携もいとわないという見方だ。
 NLDの実質的ナンバー2、ニャン・ウィン中央執行委員は「現政権の幹部も最初は銃の扱い方しか知らなかったはず」と強調、人材不足との指摘に反論する。元高級軍人が主体のテイン・セイン政権も、初めは政権運営のノウハウを持っていなかったが、次々に抜本的な改革を打ち出し、経済成長を軌道に乗せた。NLDも「経験不足」との下馬評を覆す可能性はある。
 とはいえ、ミャンマーが経済発展の遅れを取り戻すためには、未熟な政策運営による混乱は大きな痛手となる。中国の成長が減速するなか、ミャンマーのような伸び盛りの国には世界から期待が集まる。軌道に乗りつつある成長を一段と伸ばすため、NLDが急ぐ“第2の創業”の成否が注目されそうだ。
<2015年1月17日>
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アウンサンスーチーとミャンマー (4)

2016-01-06 | Weblog
北朝鮮とテインセインとアウンサンスーチー


 つい先日のこと(2012年2月)、北朝鮮にくわしい方と話していたら、話題は自然とビルマ(ミャンマー)の変革に行き着いてしまった。ごく最近に変化著しいミャンマー大改革は本物か? 北朝鮮とともにアジア最貧国で、自由のカケラもなかった国が、本当に変身するのか?
 軍出身のテインセイン大統領が、はじめて外国メディアの取材に応じた。「ニューズウィーク」2012年2月1日号。

 記者「短期間に驚くべき変化が起きているが、この国を変えようと思った動機は?」
 テインセイン「平和と安定、そして経済発展を実現したいという、人々の強い希望が根底にあるからだ。」

 言い得て妙だと思う。国民のために平和と安定と経済発展を目指す。国家のトップとして、言い尽くされた目標のはずだ。口先ではなく、彼が実行しているのがすごい。
 またテインセインは今後のステップについて「透明性を大切にしたい。世界の国々と友好関係を維持していきたい。」
 やっと自由になったアウンサンスーチーが率いる野党 NL D は、政党として登録された。そして4月1日の国会補欠選挙で議席48すべてを獲得するべく、活動を開始している。まだ解放されていない収監中の政治犯も、何人もがこの日には釈放されるという。
 少数民族の武装グループとの信頼関係構築も、テインセインは最重要課題にあげている。全国に11の武装勢力があるが、すでに最大派のカレン族勢力とは停戦合意を結んだ。ほかのすべてのグループとも対話を継続している。

 テインセイン大統領は欧米諸国について「われわれに求めている条件が3点ある。政治犯の釈放、補欠選挙の実施、スーチーをはじめとする人々を政治プロセスに参加させることだ。これらの条件はすでに達成したと、わたしは確信している。欧米の側もやるべきことをやるべきだ。3つの条件を実行したのは、国の外から圧力を受けたからではない。この国のために必要だと思ったからやったのだ。欧米による経済制裁の目的はミャンマー政府を痛めつけることだったが、実際は国民の利益を損なった。」

 また北朝鮮との核兵器開発での連携協力がウワサされているが「北朝鮮とは外交関係を結んでいるが、核開発や兵器の開発協力といった関係はない。そのような懸念は疑惑にすぎない。核は保有しておらず、北朝鮮との軍事協力もない。北朝鮮はわれわれの国を支援できる状況ではなく、われわれには核開発をはじめる財政手段がない。」
 北朝鮮と国交のない日本からすれば、北と外交関係のあるミャンマーが奇異にうつるかもしれないが、そんなことはない。日本こそが少数派である。世界162カ国が北朝鮮と国交を結んでいる。米韓日は当然だが国交はない。

 また大統領は「この国で民主主義が繁栄するための条件は、主に2つある。国内の平和と安定の実現と、経済発展だ。経済を発展させて国民の生活を向上させるため、必要な手段を実施している最中だ。…国民の貧困は、20年以上に及ぶ経済制裁のせいだ。この国で民主主義を繁栄させたければ、経済制裁を緩和して、民主主義に必要な活動を奨励するべきだ。」

 北朝鮮もミャンマーの行きかたを熟考すべきであろう。核すなわち原子力だが、貧しい国が自国を守るために、保有し開発し続けることには無理がある。外国からは危険な敵とみなされ、同国は疲弊し尽くすしかない。国民は食に窮してどん底に堕ち、数え切れないひとたちが餓死していく。そのような国家がいつまでも存続できるはずがない。
 たいへん危険な状態にある現在の北朝鮮事情について、李相哲氏は次のように記しておられる。金正恩政権を「維持するには、差し迫った食糧事情を何とかするしかないが、外からの援助を受けるには、その代償として、核廃絶に向けた態度表明を含む、責任ある態度を、国際社会から要求されるのは逸れない」(雑誌「諸君!」2012年2月臨時増刊号 北朝鮮特集)
 国民を餓死させないという当面の課題も果たせないのであれば、北朝鮮の現体制は存在してはいけない。その能力も資格もない。差し迫ったいまが、ふつうの国に変わるための絶好のチャンスのはずだ。
 しかし核を手放し自由化と開放に向かえば、きっと反乱を起こす国民の手で虐殺されるであろうと確信している金一族と一部特権階級であるならば、外国に移住すればよい。彼らを温かく迎える、おおらかな国は世界にいくらでもあるはずだ。しかし立つ鳥、あとを濁さずという。

 2012年4月1日のミャンマー補欠選挙、そしておそらく投票終了直後に実施される全政治犯の釈放。当日のテレビ報道がいまから楽しみだ。この日4月1日は絶対に、エイプリルフールであってはならない。

 連邦議会下院補選立候補に彼女は届け出た。スーチー率いる野党NLD(国民民主連盟)は全48議席獲得を目指しているが、彼女は立候補のために住民登録を貧民が多数住む村に移した。
 NLDは1月下旬に党本部で選挙対策会議を開いた。48人の立候補者の住所地をどこに置くかを決めるためである。会議の席で「地図を広げて検討していたところ、スーチーさんは貧困層が多いヤンゴン南部コムー地区郊外のワティンカ村を指定した」。そして党関係者が同村を訪れたところ、面識のないカレン族の60歳前後でふたり暮らしの姉妹が、「スーチーさんの住民登録はぜひわたしの家にしてください」と強く希望した。スーチーは選挙の前日夜に姉妹宅にはじめて泊り、4月1日はこの家から投票場に向かう予定である。ワティンカ村での彼女の姿は、きっとテレビ映像で全世界に流れることだろう。
 彼女が少数民族と貧困層の問題を大切に考え、実行していることを象徴する話題だ。武装少数民族の問題についてスーチーは「少数民族側は私に和解仲介の役割を求めている」。政府が望めば仲介を実行すると彼女は先月話している。

 ビルマ、すなわちミャンマーのいまの大改革は、テインセイン大統領とアウンサンスーチー女史、ふたりを中心に進んでいる。そのように思える。しかし在野のスーチーは、これからどのような戦略を立てていくのだろうか?
 スーチーはテインセイン大統領について「私は大統領が本心から改革を求めていると信じている。ただ軍部が大きな権力を持つことを認める現行憲法の下では、大統領は国のトップであっても、最高権力者であるとは限らない。」
 確かに、改革を進めるテインセインに敵するのは、スーチーたちのNLDよりも、もしかしたら軍部現政権内部の保守派かもしれない。テインセイン主導の改革は、ここにひとつの危惧を感じてしまう。

 また彼女は4月の補欠選挙について「48議席すべてを確保したとしても、600議席以上ある上下院の中ではわずかにすぎない。あらゆることを一度に実現することはできない。議会の中で徐々にわれわれの活動を広げていく。」
 国会の議席は4分の1を軍部が独占すると、憲法は定めている。憲法改正は重要な課題だが、新憲法の成立までには大きな障害がある。今回の補選はミャンマーにとって大きい意味を持つが、現実には小さな一歩にならざるを得ないのであろう。

 テインセイン大統領についてスーチーは、2011年3月に「新政府が誕生し、テインセインがトップに立ったからこそ改革が進んでいる。彼は変化と改革の必要性を理解し、最善を尽くしている。政府内の改革派はほかにもいるが、彼なしに実現できたとは思わない。テインセインは軍から尊敬されている。大統領は現政権の中でもまれな、汚職に手を染めていない人物のひとり。彼だけでなく彼の家族も同様で、これはとても珍しいことだ。」
 ミャンマーの軍部や政府高官たちには汚職が当然とされるなか、テインセインの清潔さはなぜであろう? 彼はミャンマー南西部のイラワジ川デルタ地帯で幼少年期をすごした。父は船着き場での荷役労働者であった。6歳上の兄は学業を断念し、弟のテインセインを中学そして高校へと進ませた。テインセインが高校卒業後に国軍士官学校に入学したのは、学費が無料だったからである。
 彼は汚職に染まらなかった。それは軍で生き抜き出世するための狡猾な処方であろうか? 貧民として生まれ育ってきた自らの過去からの清廉志向ではなかろうか。
 テインセインの出身地、ジョンク村住民は「子どものころ、彼は目立たず、また偉ぶることもなかった」。軍部トップだった独裁者タンシュエは、テインセインが「物静かで野心がなく、従順である」から後継に選んだともいわれている。

 スーチーは、当然だが次の補選で当選する。しかし大統領が望む閣僚就任は辞退するはずだ。ミャンマー憲法では、閣僚の政党活動は禁止されている。スーチーの党NLDは4月から新スタートを切る。彼女は党建設に力をそそがねばならない。
 そしてテインセインとスーチーは競うけれども連携し、新しいビルマ・ミャンマーを建設していくはずだ。国民の自由と幸福のために。(以上は2012年2月記載)


 今日現在(2015年12月)、スーチーは3年前と同様に、信頼する同志のテインセイン現大統領と連携し、新生ミャンマーを築きつつあるようだ。改めて、そのようにしかわたしは考えることができない。ミャンマーは軍部とUSDP とNLDの相互理解と協力を必要としている。
<2016年1月6日 南浦邦仁>
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