ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

かぐや姫と京言葉「おおきに」 (一)

2007-12-30 | Weblog
京都の魅力のひとつに、言葉のひびきがあります。他所から来た観光客は、まずどこぞの店で「おおきに」といわれて、京都に着いたとしみじみ実感するそうです。そして「ありがとう」よりもやさしさとこころを感じるといいます。到着されたらまず買い物か、飲食することですね。
 しかし「おおきに」は、ありがとうの表現でしょうか。確かに感謝の意味も含まれていますが、必ずしも「ありがとう」ばかりではありません。
 たとえば祇園の席に、舞子さんが遅刻して来る。わたしはまず、そのような経験はないのですが、舞子は詫びるのに「おおきに、おおきに、すんまへん」というそうです。「ありがとう、あいがとう、ごめんなさい」では、どうもしっくりしない。
 またウドン屋を出るとき、客の背に向かって、ふたりの店員がいいます。まず「おおきに」、そして「ありがとうございました」。この逆はめったに聞きません。
 ふたつの例で気づきますが、「おおきに」の本来の意味は、大変にとか非常に、すごく、ぎょうさんとかいうことになります。

 『広辞苑』第4版で「大きに」をみますと副詞で、室町時代以降の語。文語オホキナリの連用形から。非常に。大いに。迷惑なことを非難し、また皮肉にいうときにも使う。ーそういえば「おおきに、迷惑なことどすなあ」「おおきにお世話なことどっせ」ともいいます。
 そして「おおきにありがとう」の略。関西地方などで広く使われる。ー短縮のおおきには、ありがとうをちょん切って、「非常に」という語に感謝の意味を重ねているのです。横着な用法です。
 ところで年明けの1月11日に、『広辞苑』第6版が出ます。「おおきに」の説明がどう変わっているかみたいものです。5版も持っていませんが、新版を買うか買うまいか迷っていました。やっぱり字の大きい机上版を買うことにしようと、いま決意した次第です。清水の舞台から飛び降りるここちがしましたけれど、二分冊で軽く、大字で目にやさしいから、小老体にはうれしい机上辞典です。

 『岩波古語辞典』では、オホキニは程度の甚だしさ。副詞として非常に。平安時代に入ってオホシの形は数の多さだけに用い、量の大きさ、偉大などの意はオホキニ・オホキナルの形であらわす。平安女流文学では、オホキニ・オホキナルの形は用いるが、オホキナリの形は用いない。―感謝の意味はなさそうです。以下、古典の使用例。
「年ノ程よりおほきに大人しう清らかに」源氏物語
「其が姉、法均と甚だおほきに悪しき奸める妄語作して」続紀宣命
「天衆この事を見己りて、皆おほきに歓喜し」金光明最勝王経・平安初期点
 おおきには、平安時代から京で使われていた言葉です。

 東京堂『全国方言辞典』では、「おーきに」は各地で話されています。山形・愛知・三重・和歌山・京都・高知・長崎県松原。それぞれイントネーションやアクセントは異なるでしょうが。そして大阪では「おーけに」。

 ところで「おおきに」の初出は、かぐや姫の『竹取物語』と聞きました。このお正月休みは、かぐや姫に取り組み、来年早々に続編として書きましょう。
 かぐや姫が育ての親の翁と嫗と別れ、天の国、月世界に帰るとき、「おおきに」と感謝の言葉でいったのかどうか。お楽しみに。いい年を、お迎えください。
<2007年12月30日 南浦邦仁>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲という名前 第二話 <若冲連載7>

2007-12-29 | Weblog
若冲の名づけ親といわれている、相国寺の大典和尚の生涯をざっと見ておきましょう。
 彼は享保四年(1919)五月九日、近江神崎郡伊庭郷に生まれました。滋賀県の湖東、いまの東近江市能登川町伊庭。若冲の三歳年下でした。
 俗姓は今堀氏。字(あざな)は梅荘。諱(いみな)は顕常。大典と号し、また蕉中、北禅などと号す。東湖、不生主人、淡海竺常ともいう。淡海は生国近江・琵琶湖のことです。幼名は大次郎。
 八歳のとき、黄檗山萬福寺の塔頭・華厳院にあずけられましたが、兄弟子との不和がおきる。
 毎夜遅くまで勉学にはげむ大典でしたが、兄弟子の瑞倪が隣室から「おい、まだ本を読んでいるのか」といいました。
 大典は「いいえ、読んでいるのではなく、看(み)ているのです。」
よくあることですが、できのよい若者は、不出来な先輩からいじめられます。禅寺において、師匠なり兄弟子との不和は、ふたりの将来のために不幸であり致命的なことです。
 大典の父は不仲を知り、彼が十歳のときに萬福寺から、旧知の相國寺塔頭、慈雲院の独峯慈秀和尚のもとに移しました。そして享保十四年三月(1729)、十歳のときに独峯和尚によって得度し、名を大次郎から顕常にあらためました。
 独峯死後、相国寺塔頭・慈雲院住職をついでいた大典は三回忌を終えたのち、病と偽って相國寺を辞し、京の郊外に閑居す。大典和尚、四十一歳のときです。そして十三年間、鷹峰、山端、華頂山下などに住まいして市井にまじり、詩作、文筆著述業に専念しました。
 そして明和九年四月(1772)、度々の相国寺帰山の要請をついに断りきれず、大典は寺に帰ります。すでに和尚、五十四歳のときでした。
 その後、五十九歳にして相國寺住持に、翌年には五山碩学に推挙され、六十三歳のときには朝鮮修文職にそして対州以酊庵に任ぜられました。僧として最高の栄達をきわめるのです。
 ところが天明八年(1788)正月晦日の大火が京も相國寺も燃やしつくし、大典は寺再興のために全力をつくします。そして寛政十二年(1800)九月十日に、若冲は伏見深草・石峰寺門前の寓居にて八十五歳で永眠。その半年ほどのち、翌享和元年二月八日(1801)、大典禅師は畏友・若冲を追うかのように、相國寺慈雲院で示寂す。享年八十三歳。
 この日二月八日は、くしくも若冲が錦街で生まれた誕生日でした。
 <2007年12月29日 南浦邦仁>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬福寺のメダカ

2007-12-26 | Weblog
 ベランダで、メダカを飼っています。酸素がぶくぶく泡立つような立派な、ガラスの水槽ではありません。ただ甕に水を張って水草をすこし入れただけの、ささやかな住まい。水面から覗きこむしかないので、ガラス越しの生態観察など、望めません。
 メダカ飼育のことを先日、二十歳ほどの乙女に話しましたら、
「メダカって、大きくなったら、カエルになるんでしょう。」
まじめな顔でそういったのです。わたしは「えっ!」、驚きのあまり、絶句してしまいました。メダカは何年たっても、メダカです。
 妻がよく説教します。「あなたが若い娘さんと、話しがあうわけがありません」。なるほど、確かにその通りでした。
 メダカと同居をはじめたきっかけは、若冲です。商売で何軒もの寺を訪れた。宇治の黄檗山萬福寺もそのひとつです。同寺の黄檗文化研究所を訪ねました。
 あるとき、文華殿の軒下に和尚がしゃがんでおられた。さて、何をしておられるのか。寄って覗きこむと、メダカが大きな鉢のなかにおる。黄赤色のヒメダカ。そして色の通りの名をもつ、クロメダカ、シロメダカ、アオメダカだと教えられました。みな色が違う。種別に棲家をかえて、雑種混血を防いでおられる。
 かわいいなと思ったのがきっかけで、近くのホームセンターでメダカを買い求めました。一匹十八円のヒメダカを十匹ほどまず連れ帰り、のちに値段が数倍もするクロメダカを数匹買い足しました。両者を同じ容器で育てていますので来春、暖かくなるころには、きっと混血児が産まれることでしょう。どのような色合いになるか、楽しみです。混血新種の名は、両親の名をとった姫黒メダカでは、あまりにも芸がない。「沖メダカ」にしようかと思っています。
 ところでオタマジャクシと思い込んでいる乙女ですが、誤解もいたしかたないと思います。この十年か、二十年か、あるいは三十年ほどでしょうか、メダカは小川にほとんど見当たりません。特に街中で育った若者は、メダカを目にしたことがなくとも不思議ではありません。
 小学生のとき、唱歌♪メダカの学校は川のなか~、きっと乙女も歌ったことでしょうが、口をパクパクする彼女の頭のなかには、オタマジャクシ♪が泳いでいたのです。
 わたしも、飼育メダカが多品種あることを知りませんでした。決して彼女を笑えたものではありません。つぎの休日には近所の図書館で、子ども向けの本『メダカずかん』をみることにしました。

 ところで、朝日新聞の天声人語を二十年近くも書き続けた荒垣秀雄さんの本に『メダカのいる川』がありますが、こう書いておられます。
 日本の自然を二十世紀初頭にもどせ、とかいうアピールをぶっつけてみたらどうだろうか。……ぐっと話を小粒にして「日本の川にメダカを返しましょう」と訴えたらどうか。メダカは針みたいにちっちゃな小魚だが、川にメダカが生息し繁殖するのには、それにふさわしい自然の生態系がととのわなければならぬという深い背景をうしろにせおっているのだから、よくよく考えてみれば、小さいどころか大きな問題なのだ。そして同書あとがきでは、
 「メダカという小さな魚、ずいぶん長いこと見たことがない。子どものころ、どんな小川にもうようよ泳いでいた。水面近くに群れをなして……。私の郷里飛騨の国ではハリメンコといった。メダカの名前の方言はわが国で約五千ほどあるそうで、これほどたくさんの名前を持った生物は他にあるまい。それほど日本じゅうどこにでもおり、みんなに親しまれていた証拠だろう。それが今や子どもに聞いてもあまり知らない。・・・・・・メダカや蛍のような小さな生き物もちゃんと生存できる、調和のとれた自然界の生態系をたもつことは、人間が生き延びていく道でもある。そんな願いをこめて『メダカのいる川』という書名にした。」
 荒垣さんの文章が発表されたのは、1980年のこと。三十年ほど前、日本のメダカは滅亡の危機にあったのです。若年者がメダカを知らないことを笑ってはいけない。笑われ責められるべきなのは、そのような危機をたいして意識することもなく、虚構の豊かさを追い求めて、メダカたちを死滅に追いやったわれわれ世代なのです。
 いままた、舶来の伝染病のために、カエルまでもが存亡の危機にあるといいます。オタマジャクシも、消えてしまうのでしょうか。そしてヒトも、だれもいなくなってしまう・・・・・・。
<2007年12月26日>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲という名前 第一話 <若冲連載6>

2007-12-24 | Weblog
閑話休題。江戸時代十八世紀の京都の画家・若冲の「冲」字のことは、いくらかわかってきました。これからの数話で、若冲という名前を考えてみます。まずだれが命名したか、という謎です。
 定説のようになっているのが、若冲三十五歳の前後に、相國寺の大典和尚がつけたという説です。当然ですが、『老子』からとった名であることはいうまでもありません。ただ若冲には老荘に親しむような、教養はありませんでした。本人が選択したのではありません。
 当時の京、けったいなおじいさんが煎茶のちいさな茶店を開いていました。また町のあちこへ天秤棒に茶道具をぶら下げて、移動する喫茶店屋として出没していました。彼はもと黄檗僧で、売茶翁(ばいさおう)と称しましたが、京都を代表するほどの文人です。非僧非儒非道、佛儒道教でもなく、既存の宗派をこえた、いわば市井で庶民に交じる清貧の哲学者でした。
 延享四年(1747年)夏のこと、大典和尚が親交のあった尊敬する売茶翁・高遊外の茶器「注子」(ちゅうす)に銘を記しました。「去濁抱清。縦其灑落。大盈若冲。君子所酌」。糺の森でのことです。下鴨神社の糺の森は、京の納涼地として有名ですが蚊が多い。蚊取り線香は当時もあったのかと心配してしまいますが、この年若冲は数え年三十二歳、大典二十九歳、売茶翁七十三歳。
 若冲がはじめて作品に「若冲」の名を用いたのは、年記のある「松樹番鶏図」。これが若冲名の確認された最古の絵です。三十七歳でした。三十歳代のなかばころに、若冲と大典の交流がはじまり、そして名をもらい「若冲」が誕生したと、一般に認識されています。
 さて若冲は、いろいろな名をもっていました。まず春教です。十代で絵を狩野派の師匠に習ったと思われますが、師からつけてもらった名のようです。しかし伊藤春教の落款のある作品は、まだ発見されていません。春教という名は本当にあったかどうか、若干疑問が残ります。なお、両親からもらった幼名は不明です。
 若冲五十一歳のとき、大典はこう書いています。「若冲居士の名は汝鈞、字(あざな)は景和、平安(京都)の人なり。本姓は伊藤、あらためて藤氏となす。享保元年(1716)二月八日、錦街(錦市場)に生まれた。」
 なお享保元年は六月の改元なので、二月は正徳六年です。ひとのささいなミスを見つけると、つい微笑んでしまうのがわたしの悪いクセです。いつも反省しているのですが、つい……。
 若冲はたくさんの款記・印章をもちいています。いちばん多いのが、若冲・若冲居士。若いときには、景和そして汝鈞。なぜかサンズイのない女鈞もありますが…。そして斗米庵、晩年には米斗翁を多用しています。
 俗名をみると、二十三歳で父を亡くし、長男の若冲は稼業の大店・青物問屋「枡源」の四代目・伊藤源左衛門を名のります。決して商売など好きではなかった若冲ですが、若い父を失い仕方なく名と家業を継いだのです。
 そして四十歳にして、待望の隠居になることができました。商売は弟に譲り、名を茂右衛門とあらため、画業に専心します。当然、弟の白歳が五代目源左衛門を名のりました。ところで弟の号の白歳ですが、家業の八百屋から野菜の白菜に引っ掛けたのだろうといわれています。また百歳から一を引いて、九十九歳は白歳になります。九十九はツクモともいいますが、若冲の作品に「付喪神図」(つくもがみず)があります。ゲゲゲの鬼太郎も顔負けのような、ユニークな絵です。
 もうひとつ、彼には注目すべき名があります。出家名と断定してよい道名「革叟」(かくそう)です。取り上げられることの少ない名ですが、嵐山の加藤正俊和尚が命名の軸をおもちで、この春に見せていただきました。黄檗山萬福寺住持だった伯の書です。少し長いですが、意訳してみます。
 「京の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々、錦街に居す。幼くして丹青(絵画)を学び、稼業をつがず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精妙を称される。平素、世のことに欲もなく足ることを知る。…絵事の業はすでになる。…よってすなわち命ずるに革叟をもってし、わたしの僧衣を脱いでこれを与える。かえりみるにそれ身を世俗より脱して、こころを禅道に留めよ。そして古きを去り、新しきを取るがごとし、ここにわたしが革をもってする所以である。汝よ、それ、これにつとめよ・・・」
 若冲五十八歳、相國寺に距離をおき、黄檗の萬福寺そして深草の石峰寺に接近していったころの、彼の感動の一日であった。しかし若冲は、革叟の名を、一度も使った痕跡がない。不思議である。
 ところで若冲の名について、近世絵画研究家の辻惟夫先生はこういっておられる。大典が売茶翁の注子に書いた「大盈若冲」を根拠に、大典が「若冲」号の名づけ親である可能性は依然残されている。しかし断定はできないのだから「このことには、こだわり過ぎぬ方がよかろう。」
 これを読んでわたしは、こだわってみようと決意してしまった。アマノジャクなのでしょう、わたしは。困ったものです。
<2007年12月24日 クリスマスイブ 南浦邦仁記>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休題・閑二話

2007-12-23 | Weblog
 福永光司さんを大分県中津市のご自宅に訪ねて、もう十余年になりました。一対一の個人授業を受け、ぜいたくな時間を過ごしたことは、人生の思い出深い大きなひとコマになっています。
 そのときの話しのひとつですが「つい先日まで、考古学の佐原真さんが中津に来ていました。駅前のビジネスホテルに一週間泊り込み、毎日ここまで通ったのです。君は日帰りですが、彼は徹底していましたよ」。さすが碩学のおふたり、一日や二日の議論では、時間が足りないのです。わたしは、三時間でぎゃふんでしたが。
 おふたりのいちばんのテーマは「生菜」の解釈だったそうです。三世紀に書かれた『魏志倭人伝』は、この国を記した最古の文献ですが、狗奴国の記載に「倭の地は温暖、冬夏生菜を食す」。生菜が生野菜のサラダであるのかどうかが、おふたりの最大の論点だったのです。
 佐原さんが興味を抱いたきっかけは、藤原京の遺跡からトイレの遺構が見つかり、寄生虫の卵の化石―回虫・鞭虫などが発見されたからです。生か半ナマの野菜から人体に入ったのです。なお、生中とは一切関係はありません。
 倭人伝は、飛鳥の時代から数百年もさかのぼる記録です。佐原さんは福永さんにまず手紙を送りました。「困ったときの福永頼み」だそうです。返事は「生菜は生の野菜と解して間違いはありません」。その後、徹底議論のために、豊前中津に乗り込まれたのです。
 『魏志倭人伝の考古学』によると、「金関恕(ひろし)さんとともに、福永光司さんの魏志倭人伝の講義を受けたさいに、この字は三世紀当時ではこういう意味です、という解釈が何回かありました。古代から現代まで、中国語は変化してきています。字の意味も変わってきています。だから、古典をよく読み、よく通じていなければ、中国のひとが魏志倭人伝を読んでも誤解する危険があります。日本人の場合だととくに、ということになります。コワイ、コワイ」。なお、この記述は藤原京トイレの寄生虫化石の発見以前だと思います。

 また佐原さんは『考古学の散歩道』で、次のように記しています。福永光司さんの『老荘に学ぶ人間学』によると、荘子は「遊び」を何ものにも、とらわれない自由の精神をもつこととしてとらえているという。荘子も学ばなければ。そのためにまた忙しくなるのではないか、と妻がいう。それなら、あそびの時間をつくりだして、先人の考えを学ぼう、いや楽しむことにしよう。

 佐原・福永・多田道太郎、三人を結ぶきずなは強い。みな京都大学文学部の出身者ですが、福永・多田は京大人文研で学者としてご一緒でした。三人に通底するのは、老荘でしょう。
 ところで、佐原さんは五年前、福永さんはその前年に亡くなられた。多田さんに至っては、まだ四十九日も過ぎていません。自由遊心の彼の地・仙境で、先着の佐原・福永両氏は首を長くして、多田さんの到着を待っておられることでしょう。
 三人が勢ぞろいされたら、興味深い談論がきっとはじまる。とりあえずのテーマは、「彼岸と此岸における、怠惰と勤勉の比較研究―考古学的知見もまじえて」。こんなところでしょうか。なお向こうでは、彼岸はわたしたちの住む世界を指し、此岸はお三方の居住地を意味することは、いうまでもありません。左前の通り、逆転します。
 わたしも興味深い鼎談をそばで聴講したいのですが、残念ながら彼の地に至る道順すらさだかではありません。あまり急がずに道草を楽しみ、その内にみなさんと合流したいものです。

※なお今回は「先生」の呼称を、あえてもちいませんでした。大家三人登場のために、文章が先生だらけになってしまう。それで避けました。ご容赦を。
<2007年12月23日>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休題・閑壱話

2007-12-16 | Weblog
 多田道太郎先生が亡くなった。この十二月二日、くしくも先生、満八十三歳の誕生日である。多田先生から、わたしはおおきな刺激を受けた。
 京都に来て、ほぼ二十年の歳月が過ぎたが、なかでも前半の十年ほどは、京都の知的水準の高さや人間力のすごさに驚かされ、どっぷりと浸かってしまった。多田先生はじめ鶴見俊輔、若手学者や、わたしのような市井の好奇心だけが旺盛な連中が集まって、カンカンガクガクを繰り返し、居酒屋にもよく行った。四条富小路あたりの、天狗やト一食堂である。談論風発、ユーモアあふれるすばらしい刺激の連続であった。
 考古学の佐原真先生が著作で、多田道太郎と、前回触れた福永光司、おふたりのことを書いておられる。字数がまた増えてしまうので、福永話は次回<閑弐話>に譲り、今日は多田「怠惰論」を紹介しよう。
 強制されたことは何もしない、という状況を自分でつくり出し、そこから自由に何かを自分がやり出す可能性を留保しておくところに、多田「怠惰」論の根っこがあるようだ。
 「強制されている状況からは空想力がはばたくはずがない。休んではじめて人間のイマジネーション、構想力や空想力がはばたく。働きづめに働いて、そのあげくに出てくる構想は、しょせんたいしたことはない。かえって、間違った状況にその構想力が行ってしまうのではないか。」
 二宮尊徳をはじめ、さまざまな勤労思想が出てくるけれども、勤労思想は昔からえんえんとつづいて民衆のなかにあるのではなくて、ある時期に権力者なり、資本家なりによって、強力に植えつけられた一時的な思想である。

 佐原先生は「今かかえている仕事を清算した後は、余裕の中で生きるよう転換したい、と思っています。多田さんによると、何ものにも縛られていない状況に自分を置いたときに、何かやりたくなってやる。それが遊びだ、とも言っています。これからは、遊びの境地で勉強したいものです。」
 そしてこうも記しておられる。何ものにも拘束されない状況に自らをおき、遊びとして、『多田道太郎著作集』に熱中したいと。多田思想のすごさのひとつは、ものぐさと怠惰、アンチ勤勉にあるのでしょう。
 佐原先生がうなった『物くさ太郎の空想力』には、笑いをさそう愉快な話しが満載されている。つぎに紹介する「待て」は、さすがに佐原先生も無視しておられるが、実に愉快なので掲載しておこう。
 戦前のことだが、多田先生が小学生のとき、女学生だった年若の叔母に連れられてよく活動写真に行ったそうだ。喜劇俳優エノケンの出世作「ちゃっきり金太」という映画をみたときの逸話である。金太が捕吏・御用役人に追われる。その捕手が大声で叫ぶ。「金太、待て!」
 「そこでクダンの叔母がげらげら笑いだした。私には何のことやら、わからなかった。彼女の笑いは、はた目もはばからず、いっそ見っともないくらいであった。彼女の笑いは、種を明かせばじつにくだらないことであった。金太、待てーというのを口早にいうので、「そやかてキンタマテー、ておかしいやないの」というのである。キンタマの何がおかしいと、少年の私は乙女の笑い上戸に憤然としたものである。人間の記憶というのは妙なものだ。大事なことはどんどん忘れてしまうのに、こういうくだらないことがじつに鮮明に記憶にのこる。」

 多田先生は、これまでに増して、自由遊心な空間に旅立たれてしまったが、不肖の弟子は、いまだにキンタマ談義にこだわって、大切なことも、どうでもいいことも、どんどん忘れてしまっている。
 次回は、佐原考古学と福永老荘思想のことを書くことにしよう。品位を下げてばかりもおれない気がしてきたためである。

 珍しく、まじめに、今回は引用本を紹介しておきます。
 佐原真・田中琢共著『考古学の散歩道』「道具の進歩と豊かさ」
  岩波新書
 佐原真著『考古学つれづれ草』「牛型人間と羊型人間」
  「働き者の考古学」小学館
 多田道太郎著『多田道太郎著作集』第4巻「怠惰の思想」
  筑摩書房
 多田道太郎著『物くさ太郎の空想力』「怠惰の思想」「待て」
  角川文庫
 <2007年12月16日>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤若冲の「冲」字考  <第三話> 若冲連載5

2007-12-10 | Weblog
冲と沖、ニスイとサンズイの話を、二日連続延々と続けてしまったが、今日月曜で土日月連続の三日目。はじめての連日三連載になってしまった。わたしは月曜に駄文をつくることなど、まずない。実はきのうの日曜、あまりに暇だったので、あらかじめの書き溜め置きをしてしまった。余話の賞味期限が切れそうだが。
 ニスイ冲の福永光司先生には、親しみと懐かしみを覚える。十年余り前のことだが、豊前大分・中津にお住まいの先生を訪ねて、ご自宅までおもむいたことがある。中津駅前からタクシーでたしか千円あまりかかったと記憶している。海を見下ろす高台の、田畑に囲まれた農村であった。
 福永先生は京都大学教授、そして後に東京大学に教授として招かれ、京大に戻って人文科学研究所長をつとめられた。老荘思想、道教研究の第一人者である。京大と東大、両大学の教授を経験したのは、福永先生ただひとりではなかろうか。
 先生との話しは、三時間にも及んだ。一対一の真剣勝負である。相手は大家、オオヤではない。話しは中国思想文学、漢字、典籍、民俗民族学、考古学、宗教……。博覧強記、森羅万象とはこのことかと驚いた。
 三時間はあっという間に過ぎたが、疲れた。「先生、そろそろタクシーを呼んでくだい」といったとき、「もう帰るのかね」と不機嫌であった。不思議と鮮明に、そのときのお顔を覚えている。力量は不足しているが、熱心な中年学生が、はるばる京都から訪ねて来てくれた、との感想をもっておられたのだろうか。
 当時のわたしは、若冲に関心も知識もなかった。ニスイとサンズイのことも、当然だが一切知らなかった。『老子』も、斜め読みをしたことがあるだけであった。もしも沖冲字に気づいておれば当然、質問していたのだが。
 世間話もしたが、十年あまりも前のことなのに、不思議なことに俗話はよく覚えている。
 「村のドブさらえも、せんならん。妻がわたしのかわりに出て行ってくれて助かっているのだが、彼女には本当に感謝している。」
 「先生ほどの碩学は、別格です。村でも特別扱いしてくださるでしょうに。中津市が生んだ福澤諭吉以来、最高の知識人です。名誉市民にはやく認定していただきたいものです。」
 「いやいや、村のしきたりは厳しいものです。わたしは若くして中津を去り、京都に出、最近になってやっと半世紀ぶりに故郷に戻ってきたものですから、村人はみな、あの爺は一体何者や? といっています。浦島太郎ですね。中津では、東大と福澤の慶応義塾が一流大学であって、京大など二流に過ぎません。」
 福澤諭吉の出身地ではそうなのかと、妙に感心してしまった記憶がある。
 「ところがこの元旦に、NHKテレビが自動車を連ねて、ここまでやって来たのです。去年の秋に電話があって、正月の生番組出演のために福岡まで来てほしいといわれたのですが、歳も歳だしと断ったら、大きなアンテナを屋根につけたバスとかが、中継に来たのです。」
 以来、村民の福永先生を見る眼がかわった。「どうも、あのジジイは並ではないようだ。」
 「NHKの放送で、わたしの経歴が地元の方に知られてしまったのですね。京大と東大と、両方の教授をやったものですから、元東大教授、京大ではなしに、それでみなさんのわたしを見る眼が一変しました。なかでも受験生をもつ母親たちは、手のひらをかえしたようになりましたね。」
 苦労された奥さんには、大分市の百貨店で買った葉茶を手土産にお渡しした。  「まあ、トキハのお茶ですね。」と、ずいぶん喜んでくださった。
 それ以来、わたしは年配の方のご自宅を訪ねるとき、少量だが葉茶を、値段は松竹梅の竹か梅だが、いつも茶葉っぱを持参することにした。まるで木っ葉を小判のごとく偽って手渡す、中年悪党キツネの気分そのものである。
 ところで福永先生は、六年前に鬼籍に入られた。不肖の弟子はいまだに、ニスイとサンズイの疑問を解くこともできないでいる。残念である。
<2007年12月10日 南浦邦仁>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤若冲の「冲」字考  <第二話> 若冲連載4

2007-12-09 | Weblog
冲と沖が混乱していることは昨日、書いた。ところで、わたしがこの連載を二日連続書くなどということは珍しい。理由はきのう今日、土曜日曜が連休で、たいした雑用にも追われていないからである。映画「三丁目の夕日」続編を見に行く予定だったが、妻の都合で延期した。ふつう土曜は仕事に拘束されることが多く、雑事も重なる。たいていが日曜の駄文作りになってしまう。休日の娯楽としての楽しみが「片瀬五郎の京都から」のようだ。
 さて昨日触れた『老子』第四十五章が、若冲の名の出所であるが、『老子』そのものが混乱している。福永光司本は冲ニスイ。木村英一・武内義雄・金谷治・小川環樹各氏の本では、サンズイの沖と記されている。ニスイ冲は、福永・山室三良氏など、少数派である。
 暇にまかせて今日、北山通の京都府立総合資料館と岡崎の京都府立図書館に行ってきた。わかったことは、世界で認知されている『老子』の古いテキストには二種類あるということ。どちらも中国の古い本だが、「王弼(おうひつ)注本」と「河上公(かじょうこう)注本」の『老子道徳経』である。漢字ばかりの両書を一読したが、王弼はサンズイの沖、河上公はニスイの冲を載せる。どちらのテキストを底本に用いるかで、沖と冲がわかれるようだ。
 江戸時代の明和七年(1770)に、宇佐美本「王注老子道徳経」が江戸で刊行された。この本は日本における決定版になるのだが、若冲五十五歳、相国寺に「動植綵絵」三十幅を寄進した年である。なおサンズイ沖の寿蔵はその明和三年に建てられている。宇佐見本は未見だが、書名「王注」のとおり、サンズイのはずである。
 『老子』は、テキストに異同が多い。宇佐見本を使う訳者も、ニスイにしたりしておられる。図書館の椅子にもたれ、わたしは混乱し疲れてしまった。
 ところで、面白い本を見つけた。明徳出版社刊『馬王堆老子』である。湖南省長沙で、三十年ほど前に発掘された古墓で発見された、驚くべき『老子』絹本である。四十五章は欠字が多いが、「…盈如沖、其…」と書かれている。この史料がもっとも古い、約二千二百年も昔にさかのぼる一級の本である。これだと若冲は「如沖」になってしまうが、意味は同じく「チュウなるがごとし」。
 さらには、もっと古い伝聞は「若(または如)盅」。盅は上に中、下に皿の一字であるが、やはり「チュウなるがごとし」。幸い、意味はみな同じであるが、ジャクチュウかジョチュウか、ニョチュウになるのであろうか。
<2007年12月9日 南浦邦仁>
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤若冲の「冲」字考  <第一話> 若冲連載3

2007-12-08 | Weblog
十八世紀後半の江戸時代、円山応挙とともに京を代表する画家だった伊藤若冲の「若冲」とは、変わった名である。
 彼の墓はふたつある。伏見深草の石峰寺には土葬された墓、もうひとつは御所のすぐ北の相国寺墓地内。後者は寿蔵・生前墓であるが、墓表の字はともにまったく同じ。相国寺の大典和尚が記したもので、「斗米菴若沖居士墓」と彫られている。若「冲」はニスイのはずなのに、墓はサンズイ。冲が沖とは、これいかに?
 石峰寺住職のご母堂・阪田育子さんから聞いた話しだが、若冲の墓前に立ち止まった若い女性観光客たちが「ワカオキさんて、だれ?」。確かに、サンズイの墓表・若沖では、そう読まれても仕方がない。
 若冲の名には、謎が多い。これから三回か四回か、あるいは五回ほどの連載で、彼の名を考えてみようと思う。ただこれまでの様なのんびりした掲載スピードでは、年も越してしまいそうである。しかしどうせ長引くのなら、例によって寄り道話しを交えながら、ゆっくり歩むのも酔狂とお許し願いたい。
 「若冲」の字は、中国古典『老子』による。『老子』第四十五章には、
「大成若缺。其用不弊。大盈若冲。其用不窮。大直若屈。大巧若拙……。」
以下、福永光司先生の朝日文庫・中国古典選『老子』に依る。
 大成は欠けたるが若(ごと)く、其の用弊(やぶ)れず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若く、其の用窮(きわ)まらず。大直(たいちょく)は屈するが若く、大巧(たいこう)は拙(せつ)なるが若し。
 本当に完成しているものは、どこか欠けているように見えるが、いくら使ってもくたびれがこない。本当に満ち充実しているものは、一見、無内容(からっぽ)に見えるが、いくら使っても無限の効用をもつ。真の意味で真っ直(す)ぐなものは、かえって曲がりくねって見え、本当の上手はかえって下手くそに見える。
 
 冲字は、沖(ちゅう)の俗字であるが、沖は「盅」字の借字である。読みは同じくチュウ。
 サンズイの沖はチュウだが、オキと読み、海のオキとするのは日本の勝手である。本来の中国には、海の意味もオキの読みもない。
 冲も沖とも同音で同意字であるが、意味は、むなしい、からっぽ、なにもない、ふかい、ふかくひろいなど。水のサンズイが付く中を、深く広い沖・オキと読ませた最初の日本人がだれかは知らないが、彼の着想は当を得ている。字意を心得ての当て字である。海のオキは、この国の古語であろう。沖は奥(おく)と同じで、万葉の時代、「奥」は「おき」とも発音された。遠い場所をいうそうだ。
 海原のおき(意吉)ゆく舟を帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 
 松浦佐用比売(まつらさよひめ) 『万葉集』八七四
 
 話しがまた横道にそれてしまったが、老子の「大巧若拙」についてひとこと。鈴木大拙先生の名は、ここから採っておられる。若拙ではなく大拙とされたのだが、若冲も大冲でなかったのが面白い。ところで、大拙先生は名親である老子の子、義名兄弟に当たる若冲のことをご存知であったかどうか、少し気になる。
<2007年12月8日 南浦邦仁>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金玉余話

2007-12-02 | Weblog
「幕末金玉三話」をこの連載で書いたことがある。それを読んだ旧知のお医者さんから電話をいただいた。「キンタマ話は愉快でした。」
 電話での話しは当然だが、毒婦・お辰のことになった。美人の彼女に言い寄る男を寝床に誘い込み、○○の最中にキンタマを指でひねりつぶして殺害する。そしてサイフから金を盗み取った。しかしその程度の悪行で、男は死ぬものか? お医者さんは泌尿器科が専門なので聞いてみた。ちなみに彼は、包茎問題の第一人者である。余談であるが。
 「つぶされたら、気絶はするでしょうが……」。確かに、子どものころ、何度か金玉を痛打した記憶からして、すごい激痛は走るが、そう簡単には死にはしないのではないか。両玉ともに健在の筆者であるが。
 お辰の手口は、気絶した助平男の顔に、濡れ手ぬぐいを被せ、窒息死させたのではなかろうか。意識を失った裸体をそっと仰向けに転がし、男の頭の向こうか、あるいは腹のうえに馬乗りになり、濡れた手拭で顔を覆う。おそらくこの方法を使ったのであろう。彼女のその乱姿を想像するだけで、何かゾクゾクと身震いする心地がしてしまう。お辰の背には、雲霧の見事な刺青が鮮やかであった。「雲霧の辰」とも、彼女は呼ばれた。
 しかし、このやり方が正しいとしたら、男は腹上死ではなく、お辰の腹の下で、腹下死したことになる。死んだ助平の浮かばれないこと、はなはだしい。
 ところで、お医者さんの質問は、「なぜお辰は牢に入ったのですか。五人の男の玉をひねりつぶしたと、はじめて牢内で勝海舟に話したのなら、彼女のもとの罪状は何だったのでしょう。」
 これは鋭い質問である。お辰の情夫は、幕末の大悪党・もと旗本の盗賊である青木弥太郎であった。青木も同じ小伝馬の牢に収監されていたのだが、彼女は盗賊団首領の妾夫人、一味の幹部である。
 かつて青木が斬り落とした首を「お辰、ぶら下げて行け」と命じたところ、辰は「いやですよ」と断った。当然であろう。だれもそのような生ものをぶら下げたくはない。
 しかしお辰の口上が振るっている。「旦那、血が垂れていけませぬから、手拭を貸してください」。自分の着物が血で汚れるのが嫌だったのである。青木は後に語っている。「手拭をやると生首を包んで、平気で持って歩いたくらい気丈な女でした」。彼女は「鬼神のお辰」とも呼ばれた。
 慶応四年は、同年九月に明治元年に改元になるが、牢屋敷に収容されていた二千人以上の囚人たちが特赦を受け、放免される。幕府崩壊の始末を任された勝海舟の英断であったが、牢は空屋敷になってしまった。青木弥太郎もお辰も、解き放たれる。その直前に、勝は悪党どもに興味をいだき、何人かのユニークな囚人たちと牢内で面談した。青木やお辰は、興味ある悪党であったが、勝というひとも、つくづく興味深いひとであると感心してしまう。
 海舟は記している。彼らは「おしいことには、卑賤や貧しい出身で、生涯衣食のことに追われ、本来の天分をまっとうに伸ばすことができなかったのだ。世が世なら、偉人と呼ばれるてえした人物になっていたかもしれねえよ。しかしそれがために、国家とか政治とかいう屁理屈を悪用して、大そうな悪事をやらなかったのは、(誰かたちと違って)世間のためにはかえって幸せだったかもしれないよ。とにかくおれも、彼らにはかなわねえ」(現代語意訳)
 ところで赦免されたお辰のその後だが、尼になってしまった。消息は不明であるが、藤沢の清浄光寺か、鎌倉の光明寺に入ったともいう。艶っぽい尼は相変わらず、得意のひねりつぶしの芸当で、完全犯罪の腹上死を繰り返したのであろうか。明治期の彼女の消息をご存知の方があれば、是非お知らせいただきたい。なぜか、気になる女性である。
<2007年12月2日 南浦邦仁>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする