ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

義人「若冲」

2012-11-30 | Weblog
ブログ小休止宣言を前回に出しましたが寂しいものです。5年以上にわたって駄文を書き連ねて来たのですが、どうも習慣になってしまったのだと思います。
 休刊の理由は、急きょ「伊藤若冲年譜」制作をはじめたからです。還暦までを前編とし、あるていど仕上がって来ました、といっても道のりは遠い。それにしてもたいへんな難題を引き受けてしまったものです。

 若冲は56歳のころから還暦の直前まで、ほとんどというか、まったく画を描いていません。空白の謎の期間といえます。ところが近年、やっと原因が判明しました。滋賀大学経済学部の宇佐美英機教授が、当時の錦市場を経済史の立場から解明されたのです。学問はそれぞれ孤立せず、連携することの大切さを痛感させる大事件でした。
 若冲は存亡の危機にあった錦青物市場の救世主でした。それこそ命をかけて全力で疾走していたのです。これまでの若冲という人物の評価は、世事に疎く画を描くしか能のない畸人とされていました。そのような人物観はものの見事に打ち破られてしまったのです。驚くべき若冲の勇姿が出現しました。

 この若冲年譜稿は石峰寺に送ります。彼が還暦から亡くなる85歳までの四半世紀、全力で創作活動を注いだ黄檗の石峰寺の会報に掲載するために作成しています。友人からは「文はブログに載せず、興味ある方には会報で読んでいただきましょう」と釘をさされていました。
 しかし錦市場を救った義人「若冲」の活躍だけは読んでいただきたいと思います。全文は「石峰寺 伊藤若冲顕彰会」会報で読めます。年始刊予定ですが、興味ある方はぜひ入会ください。若冲のためにも新しい会員が、ひとりでも増えますことを祈ります。詳細は前回ブログをご覧ください。

1771年 明和8年 辛卯 56歳
○12月22日 京都東町奉行所より錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。商いがそもそも公許を得てのものなのか、その証文はあるか、また営業の内容は正当であるのか、返答書を求められた。このような意外な事態が生じた原因は、同じ青物市場で競っていた大橋西の五条問屋市場の謀略であった。錦高倉青物市場の解体、分裂弱体化させての傘下化、さらには錦高倉市場の廃止を画策したのである。
○12月24日 東町奉行所への返答書に、帯屋町年寄の若冲署名「高倉通四条上ル丁/年寄/若冲」

1772年 明和9年 壬辰 57歳 
○1月 錦高倉市場は奉行所より営業停止を言い渡される。青物市場四町の代表者である帯屋町年寄の役にあった若冲は、この苦境を解決するために対外交渉に当たった。彼は五条市場と妥協することなく、正々堂々と役所と交渉する道を選ぶ。若冲は五条市場からの理不尽な提案に対し、四町は揃って拒絶する旨の書を返した。「五条問屋丁ニしたかい申候訳者一切無御座」。四町は中魚屋町、西魚屋町、帯屋町、貝屋町。
○2月30日 いったんは営業再開にこぎつけた。しかし7月にはまたもや営業を停止させられる。
○町年寄 幕府直轄の諸都市における町年寄は、他の有力町人とともに江戸城において将軍に拝謁できるという格式を与えられていた。年頭には江戸の町年寄はじめ、上京、下京、大坂、堺、奈良、伏見の町年寄などが白木書院の縁側で将軍に目見を受けた。若冲は京を代表する町年寄ではないが、いざとなれば幕府に訴え出ることが可能な立場であったと思われる。
○4月 大典が相国寺慈雲庵に復帰。本山からの度々の強い勧告を受け、13年ぶりに戻った。画ばかり描いている聞中への大典の叱責はこのときか。聞中は若冲から作画を習い、毎日一紙の芦雁を描くことを日課にしていた。聞中はその許可を大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に関する訳では、決してない……」。大典著『小雲棲手簡』二編下(1787年刊所収)。残念に思うのは、描画を否定するかの厳しい言葉と、苦境にある若冲を大典の相国寺が助けた気配が感じられないことである。相国寺なら幕府に対していくらかの影響力を示せたのではないか。
○7月 奉行所はまたもや錦高倉市場の営業停止を命じた。困りぬいた若冲は医者の四条原洲菴に悩みを話した。「市場は差しとめられ、町年寄として末代まで汚名を残すことになり、また数千人の農民百姓町人たちが難儀している」。原洲菴は江戸から入洛していた知人の中印中井清大夫を紹介した。若冲は中井の意見を取り入れ、困窮している農民を取り込む作戦をたてた。若冲はまず壬生村の庄屋四郎八を説得し連携行動をとる。若冲は四郎八に「どのようなことがあっても、わたしが責任を取る」と語った。
○秋 若冲は西九条村、中堂寺村の賛同も得る。彼らはこのままでは農の生活が成り行かず、年貢の上納にも支障が生じると奉行所に訴え出た。また五条問屋市場と錦青物市場とはまったく性質の異なる市場で、錦青物市場がなくなれば、京の需要がまかなえないとする書状を提出した。賛同する村はその後も増える。若冲は東九条村や御霊村に出向いて説得した。西七条村、西塩小路村、上鳥羽村、東寺廻りも加わり、若冲の努力で九カ村連合が結成された。錦市場とは取引のない聖護院村、吉田村、岡崎村までもが加勢を申し出た。
○8月25日 若冲は町年寄をあえて辞任する。彼は錦高倉四町を代表する町年寄であったが、理由は万一市場再開が不可能になれば江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。実行すれば一揆とかわらない。若冲は命がけで幕府評定所に出願する決意を固めた。役をついだ町年寄の三右衛門に若冲は「関東に下って江戸奉行に訴え出る覚悟がある」と語っている。自らを平ラ(ヒラ)にしたのは、その累がせめて錦市場に及ばないようにという配慮である。
○11月2日 十二カ村代表が寄りあった。中井は「町奉行所から市場再開の許可が下りなければ、七カ村の御蔵百姓たちと錦街商人たちが江戸に出願したらどうか。この場におられる若冲さんもその覚悟である」と話した。東九条村はおじけづき役所への願いを取り下げた。御蔵とは幕府直轄の米蔵で、七ケ村は幕府領地であった。
○聞中は隠元百回忌の書記をつとめるために、萬福寺に呼びもどされた。翌年には住持の伯結制の冬安居の知浴をつとめる。
○11月16日 安永に改元。

1773年 安永2年 癸巳 58歳
○この年も錦高倉市場四町の営業再開は許されなかった。決着は翌年に持ち越す。
○3月25日 大坂に移った中井清大夫にかわり智恵者の若林市左衛門が加わり、若冲とはじめて対面した。若林は「錦高倉四町の結束が揺らいでいる」と教えたが、その後確かに西魚屋町と貝屋町が脱落し、帯屋町と中魚屋町二町のみが、困窮を役所に訴え続ける。
○6月26日 二町は七カ村と協調して追願書を提出した。訴願には多額の費用が必要で、村方町方は合力で金二十両と銭六十一貫四百文を取り急ぎ集めた。
○夏 萬福寺20代住持の伯照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌(げじゅ)を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服を更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱して之を与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。……」。また「絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」と記されている。古くから子どもが習い事、芸事をはじめるのは、六歳の六月六日であった。若冲も同様であったのではないか。なお「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
○宇治の萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持の選任には幕府が当たっていた。萬福寺こそ幕府との強い接点をもっていた京の大寺と考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願ったことも可能性はあろう。またいたし方なく幕府に直訴するなら、黄檗山住持が下賜拝領した僧衣を身にまとい、出家僧として「革叟」の法名を名のり、七ケ村の義民と一緒に江戸に向かうつもりであっただろう。しかしこの名「革叟」はさいわいなことに一度も使われず、その後どこにも見当たらない。

1774年 安永3年 甲午 59歳
○8月29日 錦高倉青物市場四町の営業再開を、東町奉行所がやっと許した。公認の青物市場として復活がついにかなった。解決の次第を記し、村方町方関係者が連署した一札には「桝屋若冲」の署名がある。また三年近い紛争の間、若冲が画筆をとったという記録は、どこにも見られない。
○『猿猴摘桃図』に萬福寺の伯照浩が着賛。この猿図が数年ぶりにやっと筆をとった若冲の久方ぶりの画作かもしれない。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。賛を意訳すると「桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになるであろう」。命がけでみなのために目標を達しようとしている若冲の姿を描いているのであろうか。紛争の末期、解決の目途がやっと立ったときに描かれたのであろうか。ついに仙桃は得られた。

1775年 安永4年 乙未 60歳
○6月 大典『小雲棲稿』刊。若冲寿蔵の補訂字句を記す。
○この年に第二弾が刊行された『平安人物誌』に、応挙、若冲、大雅、蕪村の順で載る。はじめて蕭白(1730~1781)の名が出たが、順位は二十名中十五番目と低い。若冲の住所は高倉錦小路上ル町。応挙の住まいは四条麩屋町西へ入町で、明和5年版の『平安人物誌』と異なる。四条麩屋町のすぐ向いに引っ越したようである。このころ、画家若冲は錦高倉青物市場を救った義人としても評価されたはずである。人物誌には「藤汝鈞/字景和号若冲/高倉錦小路上ル町/藤若冲」。この住まいは帯屋町ではなく伊藤家本宅の向かい、中魚屋町の北屋敷のようだ。
<2012年11月30日 南浦邦仁>
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幸福 小休止

2012-11-25 | Weblog
 近ごろ、ブログ休筆宣言中のような状態になってしまいました。理由はいろいろあるのですが、ひとつは友人の自分史本の出版が近づき、最後の仕上げ作業に入ったためです。
 今日も打ち合わせに行って来ましたが、書名タイトルの決定も大問題です。語り手と聞き手のわたし、それともうひとりのご意見役。3人での話しあいですが、ご意見番は題名『飽きない 春夏冬』がいちばんいいという意見。この本のキーワードは「商」いですが、「秋がないのが面白い」。語り手は「それでは紅葉が可哀そうだ。いま京都にわんさか観光客が訪れていますが、秋のモミジがあればこその繁盛ですよ」。「いや、松下幸之助さんの物真似には断固反対する」。何の話しか途中から不明になってしまいました。
 こだわりの「商」の一字は裏表紙に大きく載せてはどうか。これはわたしの折衷案ですが、表紙は「飽き」ないで、秋のない「春夏冬」……。「本の表紙裏表で意味をなすのは面白いですよ」。しかし語り手は「紅葉が気落ちするのも寂しい」。結局のところタイトル決定は、次回の鳩首会談に持ち越すことになってしまいました。「あとがき」の文案も、ああでもないこうでもない。3人寄れば文殊の知恵のはずなのですが。

 それともうひとつ理由があります。京都伏見深草、黄檗山石峰寺は江戸時代の画家、伊藤若冲ゆかりの寺として知られています。還暦のころから入寂の85歳まで、若冲は晩年の4半世紀、この寺のために全力をそそぎました。住まいも門前に構え、境内は五百羅漢で埋めつくした釈尊一代記パノラマワールドが10年の歳月を費やして完成されました。いまはなくなっていますが、観音堂の格天井にはたくさんの花卉図が満天を飾っていました。若冲居士は同寺の墓地に、筆塚と五百羅漢に見守られながら眠っています。没年は西暦1800年、寛政12年のことでした。
 命日は9月10日ですが、石峰寺では毎年この日に若冲忌を開催しています。そして今秋の命日から、「石峰寺伊藤若冲顕彰会」が発会しました。目的は、五百羅漢と伊藤若冲そして石峰寺を学び理解し、貴重な国民的財産を保存ならびに後世に継承することです。
 顕彰会では年に数度、会報を発行するのですが、つい先日のこと石峰寺の阪田和尚が電話で「新年の会報第1号に若冲の詳しい年譜を掲載したい。ついては作成をお願いします」。年賀を兼ねての発行らしい。もう間もなく師走ですよ。締め切りは近いのです。また「詳細な年譜制作」という注文までついています……。暇人のはずのわたしですが、そんなわけで時間に追われ出しました。
「幸福」ブログは致し方なく小休止です。心づもりとしては、次回に「福沢諭吉と『学問のすゝめ』幸福論」を掲載したかったのですが。しばらくお預けです。

 ところで「若冲年譜」ですが、近世美術史研究者の友人から「ブログで勝手に公表しないように」と釘をさされました。理由は「興味深い詳細な年譜になるのですから、読みたい人には若冲顕彰会に入会してもらいましょう」。これまたたいへんなプレッシャーをかけられたものです。決してわたし程度の年譜で釣るわけではないのですが、ひとりでもたくさんの方が趣旨に賛同され入会してくださることを願っています。

 詳しくはホームページ公式サイト「石峰寺―京都伏見、黄檗宗百丈山 五百羅漢」をご覧のうえ、メールで入会をお申し込みください。年会費は三千円だったと思いますが、春秋開催の若冲特別展覧会(会場は同寺広間で会員限定)にも無料参加できます。当然、若冲忌にも特別優待。
http://www.sekihoji.com/event/y-y-4.html
<2012年11月25日>

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幸福雑記 (17) 福沢諭吉

2012-11-20 | Weblog
これまで延々と、「幸福」という字を、はじめて使った日本人はだれかをみてきました。判明したのは上田秋成『雨月物語』(1776年)がどうも初出であろうということ。読みは「こうふく」ではなく「さいわい」。また秋成の遺稿『胆大小心録』(1808/9)にも「幸福」が出ます。
 そして長崎オランダ通詞の本木庄左衛門が中心になり、幕命で作成した英学書『諳厄利亜興学小筌』(1811)に、「Fortune」訳「幸福」が載ります。そして英単語集『諳厄利亜国語林大成』(1814)では、「Fortune」と「Happiness」の訳に「幸福」が当てられ、読みはいずれも「さいわい」。しかし両書は幕府の命令でつくられた秘書で、江戸時代にこの本をみたのはごく限られたひとのみでした。

 そして「幸福」と記した三人目、江戸時代最後の第三の男は福澤諭吉のようです。慶応2年(1866)『西洋事情』初編卷之二。「Happiness」に「幸福」が当てられました。そしてこの直後、明治になると突然、「幸福」が辞書にあふれ出します。読みは「かうふく」。「こうふく<幸福>」の本格的誕生です。
 明治の二大ベストセラーは福沢諭吉『学問のすゝめ』(1872~)と中村正直『西国立志編』(1870)ですが、前著はこれまでに300万部以上が発行されました。ふたりはほかの著作もベストセラーになっています。たとえば福沢の『西洋事情』、中村の『自由之利』(1872)などです。これらすべての著作に「幸福」が登場します。
 幕末まで非常にマイナーな言葉だった「幸福」が、日本で一気に普及したのは、嚆矢の福沢諭吉と中村正直の著作からだといえそうです。ふたりは明治6年に結成した「明六社」のメンバーです。

 「明六社は、福沢諭吉、西周(あまね)、加藤弘之、森有礼、中村正直など、当時の代表的知識人を集め、集会を開き、『明六雑誌』を発行して西欧新思想の啓蒙に努めるなど、時代の最先端にある華々しい存在だった」(柳父章著『翻訳語成立事情』岩波新書)
 海外の言語や事情に精通した彼ら知識人たちが、外来語を訳語創作し、また旧来の漢語を利用しつつも意味を改変して行ったのです。

 ところで福沢はなぜ「Happiness」を「幸福」と訳したのでしょう。前に中浜万次郎のHAPPYをみてみましたが、福地桜痴が記したように、福沢の英米語師匠はジョンマンと森山栄之助でした。1859年、開港なった横浜に出かけた福沢は得意のオランダ語がさっぱり通じず、大ショックを受けます。26歳のこのとき、彼は英語学習を決意した。「夫れから以来は一切万事英語と覚語を極めた」
 長崎オランダ通詞だった森山栄之助多吉郎に弟子入りを申し込んだ福沢ですが、幕府役人をつとめる師匠は忙し過ぎた。『福翁自傳』を意訳します。
 
 森山多吉郎というひとが英語に通じているという噂を聞き、鉄砲洲から先生の水道町に出向いた。英語教授を頼み込むと「森山の云うに、昨今御用が多くて大変に忙しい。けれども折角習おうと云うならば教えて進ぜよう。ついては毎朝出勤前、朝早く来なさい」
 片道二里余を早朝に行くと、今日は呼び出しがあり、もう出勤しなければならない。翌日に行くと、来客のために会えない。
 「如何しても教えて呉れる暇がない。ソレは森山の不親切と云う譯ではない。絛約を結ぼうと云う時だからなかなか忙しくて實際に教える暇がありはしない」
 朝は時間がとれないので、晩に来てくれということになった。「所が此夜稽古も矢張り同じ事で、今晩は客がある、イヤ急に外國方(外務省)から呼びに來たから出て行かなければならぬと云うような譯けで、頓と仕方がない。凡そ其處に二月か三月通うたけれども、どうにも暇がない」

 森山宅に通う内に、福沢は「幸福」に出会ったはずである。森山は1848年に漂着したアメリカ人のラナウド・マクドナルドを教師に、半年間ほど米語学習に励んだ。教材は本木庄左衛門の『諳厄利亜』二書くらいしかなかった。そして両書には訳語「幸福」が載っている。
 毎日毎日肩すかしをくらった福沢に、「幸福」の載った英単語集を森山は筆写させたのは間違いない。そのテキストは本木の本を修正追加した「ラナウド版」、森山の手控えを元にした私家本の簡略版であったろうと、わたしは考えています。幕府の公許版は福沢ごときに見せることはできません。そのような行為は法令違反、御法度でした。
 宋代1060年刊の史書『新唐書』<幸福>-上田秋成―本木―森山・ラナウドー森山―福沢―中村正直――。この流れで字「幸福」は引き継がれていったであろうと推測します。本木庄左衛門は、上田秋成「雨月物語」を読んでいたという証拠なき確信から、そのように考えています。いうまでもなく、この伝播論はわたしの勝手な仮説です。

 最後に、アメリカ合衆国独立宣言(1776年)訳を、福沢諭吉『西洋事情』と現代語訳で、「幸福」の登場する2カ所をみてみます。

「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州獨立の檄文」……(西洋事情)
 天の人を生ずるは億兆皆同一轍にて、之に付與するに動かす可からざるの通義を以てす。卽ち其通義とは人の自ら生命を保し自由を求め幸福ぬを祈るの類にて、他より之を如何ともす可らざるものなり。……政府の處置、此趣旨に戻るときは、則ち之を変革し或は之を倒して、更に此大趣旨に基き、人の安全幸福を保つべき新政府を立るも亦人民の通義なり。是れ余輩の辦論を俟たずして明了なるべし。……(岩波書店『福澤諭吉全集第1巻』※祈・変は旧字)

「一七七六年七月四日、コングレスにおいて一三のアメリカ連合諸邦の全員一致の宣言」……(現代語訳)
 われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。……そしていかなる政治の形体といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、かれらの安全と幸福とをもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。……(岩波文庫『人権宣言集』)

 原文では「生命、自由および幸福の追求」 Life , Liberty, and the Pursuit of Happiness.
 「かれらの安全と幸福」 their Safety and Happiness.

 前にも書きましたが、日本国憲法(1946)も独立宣言を流用しています。第13条です。
 「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
<2012年11月20日 南浦邦仁>
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占領軍住宅 デペンデント・ハウス

2012-11-17 | Weblog
前にデペンデントハウスについてこのブログで書いたことがあります。京都では敗戦の翌年、21年には府立植物園が接収され、占領軍将校家族用住宅DHがおよそ100棟(200世帯ほどか?)も建てられました。当然たくさんの樹木が切り倒されてしまいました。
 京都在住の友人の熊井隆一さん、年齢は30歳近くもわたしよりも上ですが、戦後の数年間、京都GHQで働いておられました。「来年の米寿にあわせて自分史の本を出したい」と2年前に話しがありました。人生80有余年の貴重なお話しをこれまで何度もお聞きし、やっと私流の文章にまとまりました。DHにも出入りしておられました。題名はまだ決まっていませんが、88年間の人生の記録はいま出稿前の最終確認中です。年明け早々には本になる予定です。
 デペンデントハウスDHの書き替えた文を再録しましたのは、見知らぬ学生さんからDHについての問い合わせコメントをいただいたからです。お名前は坂野さんですが、卒論執筆中で少年野球がテーマだそうです。DH内の小学校にはグランドもプールもテニスコート、室内運動室も揃っていました。そのころ、わたしたち少年仲間は三角ベースで皮グローブもなく、母親に頼んでぼろ布製グローブもどきを自慢しあったものです。
 坂野さんの参考になればと思い、書き替えた文を掲載します。いちばん参考になった資料は『占領軍住宅の記録』上下巻(住まいの図書館出版局・1999年刊)。年明け出版の本には参考文献として載せようと思っています。
 すばらしい卒論が完成しますことを願っています。なお下記文の「わたし」は戦後、京都GHQで働いておられた語り手の熊井さんです。


 アメリカ軍将校用家族住宅、デペンデントハウスDHについて知るひとはいまでは少ない。住宅地区は立ち入り禁止で、GHQの発行した許可証パスポートを持っていないと日本人は入れません。わたしのようなクラブハウスに出入りする者とか、家族住宅で働く日本人メイド、作業員とか以外は敷地内の建物をみたこともありません。京都の植物園周囲は森のように高い木が取り囲み、鉄条網でふさがれています。外からはなかの様子を知ることもできません。DHのことは話しの横道ですが、そんな時代があったということで書いておきたいと思います。
 昭和二十年暮れ、GHQは日本政府にDH二万戸の建設を命じました。国民は住む家もないときです。当初は日本住宅、なかでも大きな洋館とか日本式豪邸、ホテルなどを住宅用に接収していましたが、二一年ころからは将校の家族が続々と日本にやって来ます。接収住宅だけでは建物が足りません。アメリカ軍は少尉以上の将校は、どこの国に赴任しようが家族と同居します。戦闘中や戦線に出ているときは別ですが、安全が確保されると家族がみなやって来ます。妻や子が特別な事情で国を離れることができない場合は別ですが。
 ところでDEPENDENTはインデペンデント「独立」の反対の語で、「扶養家族」「依存する」とかに訳されます。かつてヨーロッパから未知の新天地に家族そろって移住し、また幌馬車に家族全員が家財道具を積み込んで荒野を目指したアメリカ人です。家族の絆(きずな)を第一に考えて生活する彼らを象徴する言葉のように思います。
 独身者や単身者は、ルームサービスや食事のついているホテルに住みました。家族連れはホテルでは部屋数も少なく狭く不便です。日本人なら家族四人か五人でも狭い平家で二間の居間と小さな台所、風呂なしで便所があれば十分恵まれていました。そんな狭いけれども極楽のような住まいに、たとえ賃貸であろうが住むことが日本人家族の夢だったのです。日本の都市はほとんどの住宅が、空襲で燃えてなくなっていたのですから。
 GHQが要求した二万戸のDH建設は、当時の日本にとってとてつもない注文です。建築資材は不足していますし、建設費や調度品費などすべて政府の戦後処理費が当てられるのです。復興に全力を注ぐべき時期にこの要求です。
 現在の駐留米軍基地も同じです。思いやり予算とかいう名目で、日本政府は米軍のために国民の税金を費やしています。特に沖縄県のいまも続く実質の占領状態は、戦後間もなくとほとんど変わっていないと思います。日本国中にいまも米軍人が五万人近くも住んでいますが、全基地の74%が沖縄にあります。

 さてDHですが、東京に駐留する連合軍が圧倒的に多いですから、有名なDH街がたくさん誕生しました。主なものをみてみますと、代々木練兵場跡につくられたワシントンハイツ。敷地は28万坪近くもあり、827戸が建てられました。昭和三九年の東京オリンピックのときには選手村になりましたね。
 ほかにも東京都内ですと、三宅坂のパレスハイツ、国会議事堂前のリンカーンセンター五十戸。現在参議院宿舎のある場所にはジェファーソンハイツ七十戸。成増飛行場跡六十万坪、いまの練馬区光が丘のグラントハイツには一二六二戸。立川に四一〇戸。横田は四〇五戸。東京都内のDHは全部で五四三七戸(昭和二五年十月一日)
 全国のDHをみると札幌二七七戸、仙台九五九戸、横浜二四四九戸、名古屋五七〇戸、京都三九九戸、大阪九七六戸、呉七二九戸、福岡一三二二戸など。たいへんな数の将校用家族住宅がありました。昭和二五年の記録「占領軍家族住宅内訳」では全国合計一三一一八戸が記されています。その内、新築DHは九六〇九戸で、残りの三五〇〇戸ほどは接収住宅などを改修したものです。新築二万戸計画は結局、半数ほどに縮小されたようにみえます。
 しかしこのリストでは、地方都市のDH数が記されていません。わたしが知る範囲だけでも、DHは小規模ですが軍港の舞鶴や、空軍が駐留していた小松にもありました。実数はもっと多かったはずです。接収住宅も含めれば、やはり二万戸近かったのではないでしょうか。
 広大なDH敷地内には幼稚園も小学校もありました。中学生以上は米国の寮付き学校に入ったり、祖父母や親戚宅に居候したのでしょうね。当然広い運動グラウンドがついています。
 オフィサーズクラブという将校倶楽部、オフィサスと発音されます。スーパーマーケットのPX、診療所、美容院に床屋、自動車修理工場、ガソリンスタンド、消防署、門衛所や交番など。大規模な住宅地には教会礼拝堂、大きな劇場などもありました。劇場には二規格があり、小さいものでも二二五人収容、大型の建物は千人分の座席があったといいますから驚きです。
 PXはいまの日本のスーパーマーケットと同じで、何でも揃っていました。生鮮食料品、果物、野菜、肉。缶詰、飲み物、日用品、雑貨などなど。当時の貧しい日本人からすれば、別世界の天国のような景色でしたね。なおPXの正式名称は、COMMISSARY POST EXCHANGE。酒保(しゅほ)と和訳されますが、コミサリーは軍隊の糧食販売店です。郵便受付と両替もやっていたわけです。
 東京では銀座の松坂屋と和光のTOKYO PXが有名です。基地内やDH街には一般日本人が立ち入れませんので、街のなかにあったPXを外からながめるのが日本人にはたいへんな驚きでした。大きな紙袋一杯に食料品を詰めた兵や婦人が、PXから出てきます。満足な食にありつけない時代ですから、日本人はみなよだれを垂らしそうになったものです。京都は大建ビルの二階にありました。
 米軍ではPXですが、もとはヨーロッパの軍隊内にあった兵隊酒場から来た言葉だそうです。日本軍はこれを明治のはじめに酒保と翻訳しました。自衛隊の基地内や駐屯地、自衛艦内の売店は、いまも酒保とPXだそうです。海上自衛隊は酒保、陸上自衛隊はPXと呼んでいます。日本帝国陸海軍と進駐軍の時代からさっぱり進歩していませんね。
 ところで一般兵は単身赴任で、カマボコ型兵舎に居住しました。農地に並んでいるビニールハウスを大きくした、もっと丈夫なつくりで、なかにはベッドが整然とならんでいました。アメリカの軍隊を描いた映画にはよく出てきますね。居住者は独身の若者が多いのですが、家族を故郷に残してきた下士官などは、早くアメリカに帰りたかったでしょう。

 新築の住宅と接収された日本人の個人所有住宅が将校用家族住宅にあてられましたが、GHQの修理工事仕様にはつぎのように書かれています。
 「室内を明るくするように内部天井、壁、木部に明るい仕上げをなすること。この意味において室内各部は監督将校指示に基づき白色または明色を塗装すること」
 戦災被害にあわずに焼け残った日本の豪邸の各部屋は、畳をはがしてみな土足の洋間になり、壁も天井も白いペンキが塗られてしまいました。日本が誇る伝統建築の数寄屋内装、書院座敷、床柱などすべてが、真っ白のペンキ塗りになってしまったのです。

 ところでDH街に住む将校の奥さんですが、毎日時間を持て余していました。どの家にもメイドがついています。日本人の女性が掃除も洗濯もベッドメークも家事すべてをやってくれます。費用負担はする必要がありません。日本政府が支払っていました。メイドが雑用をすべてこなしてくれます。また幼い子どものいる家では、子守りのベビーシッターもメイドがつとめます。将校婦人は昼はクラブハウスでダベリング、夜は各住宅やクラブハウスでパーティの連続。アメリカに帰国すればたいへんです。メイドを雇うことはまず不可能で、家事や育児に追われるからです。
 なお日本人の女性メイドですが、DH内診療所に勤務する看護婦も、みな数週間の訓練を受けてから配属されました。米語だけでなく、アメリカ人の生活スタイルやマナーを知らなければつとまらないからです。研修はメイドスクールとよばれたそうです。メイドの勤務は夕方の五時まで。
 パーティのない夜は主婦が主体になっての家族の時間です。昼ご飯は主婦仲間たちとクラブハウスでとり、昼間は何もすることがないアメリカ人の主婦ですが、夫が帰宅する夜になってやっと活躍します。ディナーつくりも主婦の大切な仕事です。その辺は日本人とずいぶん違うようですね。
 ところでクラブハウスですが、DH街には必ず建てられました。目的は社交と慰安、運動、修養と娯楽とされていました。室内にはダンスホール・談話室・食堂・バー・カード遊び室・図書館・室内運動場など。屋外にはプールやテニスコートまで揃っています。また遠来客の宿泊用に、ゲストルームもありました。小規模なクラブハウスでも建て坪三三八坪、最大で一三二八坪もあったというから驚きです。
<2012年11月17日 南浦邦仁>
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幸福雑記 (16) 明治の漢和辞典

2012-11-15 | Weblog
現代の辞典事典にみる語「幸福」を前回に載せました。なお事典は解説が長いので抄録にしています。興味ある方はぜひ原文を読んでいただきたいと思っています。結構おもしろい読物です。
 興味のおもむくままに幸福街道を乱進しているこのブログですが、シリーズ題名がそぐわなくなってきました。今回から「幸福雑記」に変更します。ただ通番は残します。

 近ごろ明治期の漢語字典、現代でいう漢和辞典ですが、あれこれと字「幸福」を調べてみました。まず驚くのが、膨大な点数の辞典が出版されていることです。明治の半世紀ほどの間に、おそらく数百点の漢語字典が出たであろうと思います。古書店の相場をみましても、明治2年刊『漢語字類』5000円。明治3年『新撰字類』4000円、『増補新令字解』2500円。5年刊『新撰字解』2500円。どれも二足三文のような価格です。数多くの部数が出版され、また現代では読もうというひとが極端に減っているのでしょうね。
 なぜ明治期にこれほど多くの漢語字典が発行されたのか? ひとつには身分制が解体し、国民はみな努力や勉学次第で成功できるという風潮でしょう。大ベストセラーの中村正直著『西国立志編』が象徴的です。「天は自ら助くる者を助く」で有名な成功伝集(明治4年刊)。漢字の学習は成功のための前提条件でした。この本にも「幸福サイハヒ」が登場します。「名声及ビ幸福ヲ得タル」「不幸ヲ転ジテ幸福ト為スベシ」

 それから新語の乱造でしょう。偶然本日11月15日は坂本龍馬受難の日ですが、自由国民社『現代用語の基礎知識2013年版』の発売日です。かつてわたしはスマートフォンの意味がわかりませんでした。「どこがスリムで細身なのか?」。同書旧版をみましたら「賢いケータイ」の意味で、「高機能携帯電話端末」とあり納得しました。現代では外来新語は和製漢語に置き換えず、スマホのようにカタカナ表記されます。しかし明治期、舶来新語は漢字で翻訳されました。文明開化の嵐のなか、どんどん量産される和製漢語を理解するためにも、新しい漢和辞典が必要だったのです。どれもこれもが現代用語字典だったといえます。もちろん旧語も載っていますが。

 明治期の漢語字典を百冊近く調べてみましたら、「幸福」がゴールドラッシュのごとく登場しました。読みはすべて「かうふく」すなわち「こうふく」。意味は金太郎飴で「しあわせ」か「さいわい」ばかりですが、現代漢和辞典をみても同様です。熟語の字が読めて簡単な意味がわかればよい、というのが漢和辞典編集の伝統のようです。
 ところで調査の方法ですが、ひとつは国立国会図書館のデジタル化資料です。実に便利な「電子端末遠隔古書検索閲覧奉仕制度?」ですが、意外と所蔵されていない古書が多い。古書店で安く手に入る資料が多いのですから、蔵書の充実を望みます。また館に出向かないとデジタル閲覧できないという表示は、なぜ?と不思議です。すでにデジタル化されているのですから、電子網ネットで公開しても問題はないように思います。
 それと参考にしたのが大空社『明治期漢語辞書大系』。全136巻の刊行予定が現在、既刊36卷で中断しています。国会図書館にない本も多数収録予定ですので、これも続刊完成を期待します。

 確認できた語「幸福」収録字典は下記の40冊ほどですが、「しあわせ」表記と「さいわい」の記載とほぼ半々です。興味深いのは「いいしあわせ」「ねがうさいわい」です。幸せには、いい仕合も悪い仕合もあるという本来の言葉の名残りでしょうね。また「幸福」が中国で例外的に記された最初、『新唐書』にはじめて記されたようですが、「幸」は「ねがう」であって、幸福は「福を願う」。「ねがうさいわい」という明治9年の福寿信編『開化節用集』は正確な辞書です。
 それともう一点気付いたのが、「幸然」カウゼンを「サイハヒ」とし「幸福」を「シアハセ」と書き分けている字典も多かったことも感動的でした。幸然のみを載せて、幸福がみあたらない字典もありました。準新語「幸福」誕生は、辞典編集者を混乱させたようです。

 さてなぜ明治2年以降になって、これほど豊穣に語「幸福」が頻出するのか? 幕末まではほとんどみることのなかった幸福字です。結論をいえば、福沢諭吉『西洋事情』の慶応2年(1866)刊行です。福沢の使ったhapiness翻訳語「幸福」が明治早々からのラッシュになったといえそうです。福沢のことは次回かその次で記そうと思っています。
 以下は明治期漢語字典の「幸福」記述です。

1869年(明治2年)『漢語字類』 字「幸」 読み「カウフク」 意味「シアワセ」
1870年(3)『新撰字類』 意味:シアハセ
『増補新令字解』 シアハセ
『漢語便覧』 シアハセ
『掌中早字引集・布令日誌必用』 サイハヒ
1872年(5)『新撰字解』 シアハセ
1873年(6)『世界節用無尽蔵』しあわせ
 『漢語類苑大成』 シアワセ
1874年(7)『新撰字解』シアハセ
 『漢語字解』 シアワセ
 『大増補漢語解大全』 サイハヒ
 『訳書字解・漢語新選』 シアハセ
 『増補新撰字類』 しあはせ
1875年(8)『大全漢語字彙』 シアハセ
『普通漢語字引大全・布令新聞新撰校正』 シアハセ
1876年(9)『小学読物熟字解』 さいはひ・イイシアハセ
 『開化節用集・音画両引』 ネガフサイハヒ・サヒハヒ
 『万通字類大全』 シアハセ
1877年(10)『漢語日用弁』 シアハセ
 『御布令新聞漢語必要文明いろは字引』 サイワイ
1878年(11)『布令必用普通漢語解・掌中両引』 サイハヒ
1879年(12)『新撰伊呂波字引』 サイハイ
 『必携熟字集』 サイハヒ
1880年(13)『布令新聞日誌必用新撰校正普通漢語字引大全』 シアハセ
1881年(14)『漢語字引集』 シアハセ
1882年(15)『明治いろは字引大全』 サイハヒ
1884年(17)『新撰漢語字引大全』 シアハセ
 『新撰普通漢語字引大全』 サイハヒ
1887年(20)『漢語新画引大全』 サイハヒ
 『漢語いろは字典』 サイワイ
1888年(21)『新撰漢語字引』 シアハセ
 『新撰漢語字引』 シアハセ
1889年(22)『広益漢語伊呂波字引』 ヨキサイワイ
1892年(25)『漢語大字典・熟字伊呂波引』 サイワイ
1894年(27)『新撰漢語字引・改訂音訓』 シアハセ
1896年(29)『明治漢語字典』 シアハセ
1904年(37)『新編漢語辞林』 サイハヒ
1906年(39)『作文新辞典・漢語国語』 しあはせ。さいはひ。
<2012年11月15日 南浦邦仁>
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字「幸福」の誕生 (15) 現代の辞典

2012-11-09 | Weblog
長々と続けている「幸福」連載ですけれども少し疲れます。なかなか仕合せな気分になれませんが、先日はいくらか幸福感に浸ることができました。コメントで教えていただいた和菓子店「幸福堂」を訪れたからです。向日町競輪の駐車場に車を止め、南に少し歩くと商店街のアーチが路上高くにあります。お店の場所がわからず、その辺で通行人の女性に聞くと、「左に曲がってすぐですよ」
 訪れたのは夕方でしたが、おはぎは売り切れ。おすすめの金団菓子を三個いただきました。ご夫婦でやっておられる小さなお店ですが、創業は13年前とのこと。看板も目立たず、のぼり旗も出ていません。奥さんは「もっと目立つようにしたらいいのに、というお客さんもありますが、夫婦ふたりで細々やっている店です。お馴染みさんだけに来ていただいたらいいとも思っています」
 どうもご主人の定年か脱サラではじめられたようですが、いい店をひょんなご縁で知ったものです。キントンの和菓子はおいしかった。この甘くておいしい味が、わたしに幸福感をもたらしたようです。ご教示、ありがとうございました。近いうちにまた行って来ます。「甘味はひとを幸福にする」という女性がかつておられましたが、本当だなあと納得しました。

 さて江戸時代から明治にかけて、字「幸福」がいつ誕生し、また「かうふく」「こうふく」と読まれだしたのはいつなのか? ある程度わかってきましたが、本日は一足飛びで戦後現代の辞事典の「幸福」をみてみます。「幸福」の読みはどれも「こうふく」で、各解釈は幸福の定義でもあるわけです。
 わたしには『新明解国語辞典』第5版(1997年)がいちばんぴったりします。これなら幸福に手が届きそうだからです。バブル崩壊の数年後の記述ですが、時代世相が言葉の解釈に影響している可能性を感じます。それから東京堂出版『類義語辞典』(1972)も気に入りました。また傑作は、2002年『事典 哲学の木』。ほかはハードルが高過ぎるように思います。

 それにしても漢和辞典はどれも紋切で味気ない。実は近ごろ、明治期の漢語辞典をあれこれみているのですが、同じように金太郎飴です。「しあわせ」か「さいわい」としか書いてないのです。不思議です。しかしどうでもいいようなことを、ムキになって追いかけるわたしは、よほどの暇人なのでしょうね。時間に恵まれていることこそ「さいはひに」でしょうか。


1946年「日本国憲法 第13条」(辞典ではありませんが、戦後官語「幸福」の誕生ですのであえて記します) すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(1776年アメリカ合衆国独立宣言「生命、自由および幸福の追求の含まれること…」。13条の生命自由「幸福」は、独立宣言のコピーです。戦後最初の幸福宣言は、アメリカの写しなのです)

1954年『日本国語大辞典』 恵まれた状態にあって不平を感じないこと。満足できてたのしいこと。めぐりあわせのよいこと。また、そのさま。さいわい。しあわせ。(第2版2001年も同文) 

1955年『広辞苑』初版 めぐりあわせのよいこと。みちたりた状態にあること。さいわい。しあわせ。

1959年『角川漢和中辞典』 しあわせ。さいわい。

1969年『角川国語辞典』 さいわい。しあわせ。

1970年 現代新書『現代哲学事典』 私達日本人は「幸福」ということばはあまり使い慣れていない。「わが子の倖せを祈る」とか「どうぞおしあわせに」ということばは頻繁に使われても、「自分の幸福」を、正面から語るのは少し面映ゆい感じがする。「幸福の追求」が「利己主義」的な形でしか考えられなかったということが「幸福」の意味が未だに消極的であり、曖昧なままでいる一つの原因になっていると思われる。それでも、あの「生きているのはいいな」という一瞬の幸福感や「ああ、もっといい生活がしたい」という幸福への願いは、誰の胸をもよぎる思いなのである。… 

1971年 平凡社『哲学事典』 一般に心身の要求を満たされた状態をいうが、要求およびその主体をいかに考えるかによっていろいろな相違が生ずる。…

1972年 東京堂出版『類義語辞典』 幸福は、客観的な状態であるとともに、本人がそう感じているようなときにいい、比較的持続する時期についていう。

1974年 諸橋轍次『大漢和辞典』修正版 しあはせ。さいはひ。

1981年 東京書籍『中村元 佛教語大辞典』 幸福という語は漢訳仏典の中には見当たらないようである。しかし楽・安楽、利、吉祥という語がそれに相当する。

1981年 小学館『国語大辞典』 恵まれた状態にあって不平を感じないこと。満足できてたのしいさま。さいわい。しあわせ。

1982年『大修館 新漢和辞典』改訂版 しあわせ。さいわい。

1983年『学研新世紀百科辞典』第2版 みちたりた状態の中で、生きる喜びを感じること。さいわい。しあわせ。

1989年 有斐閣『新法律学辞典』第3版「幸福追求権(生命、自由及び幸福追求権)」 憲法13条の保障する人権。アメリカの独立宣言(1776)が、他人に譲り渡すことのできない人権の権利の一つとして幸福追求権(pursuit of happiness)を挙げたことに由来する。憲法3章(国民の権利及び義務)に規定する個別の自由・権利は、いずれも生命・自由・幸福追求にかかわるから、この権利は人権の総則的意味をもち、また、それら個別の自由・権利に含まれない一般的な自由権がここから導かれる。プライバシーの権利、喫煙の自由などがその例。 

1991年『広辞苑』第4版 みちたりた状態にあって、しあわせだと感ずること。

1994年 小学館『日本大百科全書』第2版 人間は生きていくなかでさまざまな欲求をもち、それが満たされることを願うが、幸福とはそうした欲求が満たされている状態、もしくはその際に生ずる満足感である、とひとまずいえよう。人間はだれしも幸福を求める。しかし、人がどのような欲求の満足を求めているかに応じて、幸福の内容もまたさまざまである。いわゆる幸福論や人生論は、人間にとって真の幸福とは何かを語るが、語り手によって幸福の内容がそれぞれ違うのも、ある意味では当然であろう。

1994年 偕成社『下村式 小学国語学習辞典』 めぐまれて、不平や不満のないこと。しあわせ。

1997年『新明解国語辞典』第5版 現在の環境に十分満足出来て、あえてそれ以上を望もうという気持を起こさないこと。またその状態。しあわせ。

1998年『岩波哲学・思想事典』 一般的に言えば、幸福とはある主体の欲求ないし要求が持続的に満たされた状態を意味する。幸福の追求は人間にとって自然的かつ不可避の要求であるが、その内実は個々の主体のあり方に依存するため幸福概念の一義的な規定は不可能である。……インド古典において「幸福」を意味する最も一般的なサンスクリット語はスカsukhaである。それは「苦」duh-khaに対する語で、漢訳仏典においては「楽」と訳される。……

1998年 弘文堂『ラルース哲学事典』 人は快楽や喜びと、幸福や至福とを区別する。快楽とか喜びは、さまざまな出来事からわれわれのところにやってくる。幸福とか至福は、われわれが自分自身から引き出すものであり、常に自分たちの手の届く所にある。……

2000年『新潮現代国語辞典』第2版 不満がなくみちたりた状態であること。しあわせ。さいわい。

2001年『旺文社 小学漢字新辞典』第3版 しあわせ。

2001年『旺文社 小学国語新辞典』第3版 心が満ちたりているようす。しあわせ。

2002年 講談社『類語大辞典』 苦しみ・悲しみ・不安などがなく、精神的・物質的に満ち足りている状態。

2002年 講談社『事典 哲学の木』 幸福について書くのは難しい。巷にはいつの時代にも、数多くの幸福論が溢れ、哲学者たちもまた昔から幸福とは何かを論じてきた。しかし、幸福論を読むだけで幸福になれるものなら、こんなに安上がりな話しはないし、いまさら新たに幸福という項目を哲学事典で取り上げる必要もあるまい。とは言うものの、困ったことには、我々はどんな幸福論にも満足できないが、さりとて幸福を求め、幸福について考えることを止めるわけにもいかないのである。…

2006年『大辞林』 不自由や不満もなく、心が満ち足りている・こと(さま)。しあわせ。

2008年『広辞苑』第6版 心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。

2010年『岩波 日本語語感の辞典』 生きている喜びをかみしめるほど心の満たされる精神状態をさして、会話にも文章にも使われる日常の基本的な漢語。

2010年 ベネッセ『チャレンジ小学国語辞典』第5版 めぐまれていて苦労や心配がなく、心が満ちたりていること。幸せ。

2010年 小学館『新レインボー小学国語辞典』改訂第4版 なに不自由なく、こころに不平のないこと。しあわせ。

2011年『岩波国語辞典』第7版新版 恵まれた状態にあって、満足に楽しく感ずること。しあわせ。

2011年 文英堂『シグマベスト小学国語辞典』第5版 しあわせ。さいわい。

2011年 三省堂『例解小学国語辞典』第5版 満足していて楽しいこと。幸せ。

2012年『新明解国語辞典』第7版 現在(に至るまで)の境遇に十分な安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持ちをいだくことも無く、現状が持続してほしいと思うこと(心の状態)

2012年『大辞泉』第2版 満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。

2012年『ウィキペディア』 幸福(こうふく happiness)とは、心が満ち足りていること。幸せとも。
<2012年11月9日 その後もいくらか追記しています 南浦邦仁記>
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東京タワーとスカイツリー

2012-11-07 | Weblog
 夏にわたしの家族が東京に行ったときの話しです。東京在住の友人にメールすると、「スカイツリーの見学ですか?」 閏2月29日竣工、5月にオープン。周年記念式典は4年に1回でしょうかね。
 スカイツリーと商業施設の大繁盛振りはテレビでもみていましたが、東京人から真面目にそう聞かれたのにはあきれ返った。墨田区の押上には行ったこともないので、感想も持ち合わせないのですが、あの騒ぎぶりは異常だったのではないでしょうか。

 ところで東京タワーには二度登りました。最初が中学生の修学旅行。次が20年ほど前、なぜかふと懐かしくなって訪れました。タワー再訪の話しをしましたら、ある東京人は「御上りさんですねえ。地元では東京タワーに行くひとなんか、まずいませんよ」。確かに登りましたので、それこそオノボリサンですが。そして塔内では閑古鳥が鳴いていましたね。
 しかしスカイツリーも同じ運命をたどるに違いない。はじめこそ物珍しいでしょうが、すぐに飽きてしまいます。一度登れば十分です。商業施設なども同じでしょう。きっと何度もリピートするほどの魅力はないはずです。

 東京タワー完工は、年表をみますと昭和33年12月23日です。この年にチキンラーメンが誕生し、フラフープが大流行しました。月光仮面放映がはじまったのは同年2月。♪どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている~
 そしてスバル360が発売され、巨人軍の長島茂雄が国鉄戦でデビューしました。金田正一投手は長島を4打席連続三振に打ち取ったからたいしたものです。
 皇太子妃に正田美智子さんが決定し、11月の記者会見で彼女がつけていたカメオのブローチとヘアバンドが流行した。当時の写真をみると、本当におきれいですね。

 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」がちょうど東京タワー完成のころを描いています。戦後復興から経済成長の勢いが盛んになりだしたころです。町にはパワーと人情がみなぎり、家庭にはついにテレビが入り出します。そもそも東京タワーはテレビ電波を届けるために建てられたわけです。
 東京スカイツリーも同様にテレビ塔ですが、最近になって大問題が判明したといいます。600メートルほどの高さから来る電波が役に立たないというのです。このことはテレビもその親会社の新聞社もほとんど報道しません。TBSとは離れてしまった毎日新聞が先月末に報じたそうです。
 新電波は強すぎて受像機が対応しない、アンテナの向きがあっていない…。650億円もかけて建設された新塔と周辺設備ですが、あとまだ100億円かけないと多くのテレビが写らない。たいへんな失態です。電波はいつから飛ぶか、関係者は答えられなくなってしまいました。

 なぜこのような事態になったのか? いちばんの原因は、旧郵政・総務省とテレビ局のなあなあの関係です。本来は衛星CSだけに統一しておれば地デジ塔などいらなかったのです。それがBSだの地上波デジタルなど、行政が複雑な電波網を構築してしまったために、日本の放送はガラパゴスになってしまったのだそうです。
 さまざまな放送・電波関係の協会が誕生し、それらは天下りの受け皿になっている。また新聞社も放送局を、キー局は系列局を同様に利用している。家電メーカーも地デジで大儲けしたあげくの結論が、いまのパナソニックとソニー、そしてシャープの危機です。

 東京タワー建設のころは透明で、いまのようなガラパゴスではなかった。国民のため生活文化向上のため、関係者は真剣に未来を見据えていたはずです。日本の電波放送関係者は、三丁目と東京タワーの夕日を見つめるべきです。本日は番外編の脱線ですが、スカイツリーの難視聴問題は、メルマガ「高野孟のTHE JOURNAL」Vol.54を参考にしました。
<2012年11月7日>
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字「幸福」の誕生 (14) 中浜万次郎

2012-11-05 | Weblog
 福沢諭吉(1835~1901)が亡くなったとき、福地桜痴源一郎(1841~1906)が追悼文「旧友福沢諭吉君を哭す」を寄せました。明治34年のことです。抜粋意訳します。
 「福沢君はかつて大阪で緒方洪庵塾に入って蘭学を修め、学成りて江戸に来たり、中津藩奥平邸に寓し、英語を中浜万次郎に学んだ。当時江戸では英書を読むものは森山栄之助先生、英語を話すものは中浜翁のふたリだけであった」。福地は毎日のように、遠く離れた森山と中浜宅に通い、英語を学んだ。福沢も短期間ではあったが、森山宅にも通っている。

 中浜万次郎(1827~1898)、アメリカ名ジョン・マン。土佐中ノ浜に生まれた漁師の子倅である。数え14歳になったばかりの天保12年正月5日(1841)、はじめて沖に出たカツオ漁で海難にあう。船は7日7夜漂流し、先輩仲間4人とともに太平洋をさまよった。そして漂着したのは無人の孤島、アホウドリで有名な鳥島です。
 島に流れ着いて4ヶ月の後、彼らはアメリカの捕鯨船に救助される。ウィリアム・ホイットフィールド船長率いるジョン・ハウランド号。万次郎のジョン名はこの船にちなみます。長い航海のあいだ、ジョン・マンは好奇心と向学心から言葉を習い、船中作業も期待以上にこなし、船長からも信頼されるひとかどの船員に成長します。
 あくまで帰国を望む仲間たちとハワイで別れ、ジョンはマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに向かいます。ホイットフィールド船長の家庭に温かく迎えられ、彼は家族からはまるで実の子のように扱われました。船長は、広大な「海で拾ってきた、それこそ黒人まがいの少年」に、人間は対等で平等であると教えた。
 まず地元の小学校に通います。土佐では寺子屋に行ったこともない貧民の万次郎がはじめて受けた教育は英語だったのです。1年ほどで卒業した後、航海専門学校で高等数学・測量術・航海術を修了しました。
 国を離れて10年後の1851年、万次郎は帰国を決意します。船長一家に別れを告げ、ハワイ、グアム経由で琉球に着きます。土佐の凡庸な漁師だった少年が、幕府直参旗本として、通訳に航海術に、海外事情の教師として徳川幕府と各藩や国民に対しました。ペリー来航の前後の時期、唯一達者な英語を話せるのが万次郎ひとりだけだった。万次郎は偉大な貢献をこの国のために開拓者として残しました。

 ジョン・マン著の有名な英会話教本が残っています。『英米対話捷径』(しょうけい)安政6年(1859)刊ですが、1カ所に HAPPY が載っています。わたしの大好きな英和文です。「ハペ」が幸福や幸い、幸せではなく、「よろこぶ」なのが好きです。

 I am happy to see you to good health.
 アイ アム ハペ ツ シー ユー イン グーリ ヘルス
 わたくし おまんの よき 得意(うまきこと)に おけるを みる ことを よろこぶ


 再度の捕鯨業でグアムに寄港した万次郎がフェアヘブンに残った恩人、ホイットフィールド船長にあてて投函した手紙が残っています。ジョン・マンの英語力は飛躍的に成長しました。日本に近づいた万次郎ですが、これまでホイットフィールド船長らとともに、大西洋そしてインド洋、たびたびの太平洋と世界中を巡ってきました。彼は日本の置かれた状況をだれよりも理解していた。「捕鯨船が寄港できるように開港の努力をします」と船長に便りしている。捕鯨船には薪水と食糧の補給が重大事だったからです。万次郎は帰国のあかつきには、開港・開国に尽力するのが自分の使命であると確信していました。
 なお英文の手紙ですので本人による日本語訳はありません。乾隆氏訳で一部を転載します。

 Hope most sincerely that these few lines will find you and your friends enjoying the health and happiness.
 (この数行をお読みいただいている貴方様が、そしてお友達が、お元気でお幸せであることを心より望んでおります。)

 万延元年(1860)、咸臨丸で大平洋を横断した万次郎は、帰路ハワイに寄港したとき、東海岸フェアヘブンに手紙を送りました。かつての教師役だったJane Allen の姉Charityにあてた返信です。サンフランシスコに上陸した日本人一行の中に万次郎がおるのがアメリカの新聞に載った。アレンたちが記事を見、ハワイの友人経由で帰国する万次郎に手紙を送った。その返信です。上記同様に乾隆訳『ジョン万次郎の英会話』Jリサーチ出版・2010年からの引用です。
 なお福沢諭吉も咸臨丸に乗船しており、サンフランシスコではふたり連れだって、ウェブスター辞書を求めて本屋に向かいました。その本屋は二重に驚いた。未開の国から来た異人ふたりが「Webster's Dictionary」を買いたいという。またジョン・マンの話す英語は完璧だった。地元紙は「excellent English!」だったと書きました。以下はCharityあて、万次郎のハワイからの手紙抜粋です。
 
 I take pen with pleasure this day to inform you that I am in good health and spirits, and hope most sincerely that these few lines will find you and all your friends enjoying health and happiness.
 (今日自分が元気であることをお伝えするため喜びと共にペンをとっております。そして貴女様とお友達がご壮健でご多幸でいらっしゃることを衷心より願っております。)

 よく似た文ですが、ふたつの手紙には「enjoying health and happiness」が登場します。「壮健と多幸を喜ぶ」のがどうも中浜万次郎のサイワイのようです。元気とよき仕合を喜ぶことが、ジョン・マンの幸福なのでしょう。
<2012年11月5日>

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字「幸福」の誕生 (13) HAPPINESS

2012-11-03 | Weblog
文明開化とともにたくさんの英語辞書が発行されました。明治初期に「HAPPINESS」がどう訳されるか、変化をみてみます。やはり幕末同様にまず「さいわい」からはじまり、次に幸福の字が使われ出しますが、読みは「さいわい」が多い。そして10年代後半から「こうふく」と振カナが確認できます。


1871年(明治4年)『浅解英和辞林』内田晋斎編<ラク・タノシミ・サイハヒ・アンラク>

1872年(明治5年)『英和対訳辞書』荒井郁之助 <幸ヒ>

1873年(明治6年)『附音挿図 英和字彙』 <幸福(サイハヒ)>
 『英和掌中字典』 青木輔清 著 <サイハヒ・カウウン>

1876年(明治9年)『AN ENGLISH-JAPANESE DICTIONARY』 ERNEST MASON SATOW&ISHIBASHI MASAKATA <tanoshimi,ureshii koto> ※1979年2版も同文。
  

1884年(明治17年)『明治 英和字典』 尺 振八譯 <幸・幸・・吉> ※読み不明。

1885年(明治18年)『学校用英和字典』 小山篤叙 編 <幸> ※読み不明。

1886年(明治19年)『英和雙解字典』棚橋一郎 再版 <幸(カウフク)・(フクシヤウ)>
 『龢譯英文熟語叢』斎藤恒太郎纂述 <> ※龢は和
 『新撰英和字典』井波他次郎 他編 <・幸>

1888年(明治21年)『附音挿図 和譯英字彙』 曲直愛校訂 島田豊纂譯 <幸・幸・吉・福祉・好運> ※読み不明。祉は示偏。

1888年(明治21年)『和譯字彙』 F.Eastlake 棚橋一郎 共譯 <幸・吉・好運>

<2012年11月3日 南浦邦仁>

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