ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

河合寸翁と酒井抱一(3)サギ山

2024-07-27 | Weblog

 「鷺山」に続いて、今回は「サギ山」を取り上げてみます。姫山の西はサギ山だった時期がかつてあったのではないか。そんな思いです。なお、鷺山、さぎ山、サギ山を区別したく、鳥サギのコロニーは「サギ山」と表示します。

 シラサギは小さい順に、コサギ、チュウサギ、ダイサギ、大中小三種がこの国に住んでいます。

サギの仲間は、シラサギ以外のサギもいくらか含んで、多種混合のコロニー・集住生活共同体・集団繁殖地を構えます。この集団の樹林は「サギ山」と呼ばれます。この森ではシラサギが圧倒的に多いのですが、混住して一緒に生活する真っ白ではないサギは、アマサギ、アオサギ、ゴイサギ……。多種同居を許すシラサギは、偏見がなく、結構こころが広いのでは。

 たくさんのサギで真っ白になったサギ山を、遠目に見て美しいと思う。樹上は雪が積もったようです。しかしサギ山周辺に住んでいる人々はたいへんです。住まいの山に向かうサギたちは、途中、糞を落としたり、山の中からは魚類の腐った臭いが風にのって住宅地に漂ってくる。

 

 埼玉県の浦和に有名な「野田のサギ山」がありました。壮大なサギの集団営巣地、コロニーでした。江戸時代、サギ山一帯は紀州徳川家の鷹場で、地区広域は特別に保護された。またここは、歴代将軍の日光参拝の経路であり、見事に白一色に群生するサギをめでている。

 保護は明治期以降も続く。明治20年には御陵場指定。明治31年には禁漁区に。大正期には禁猟期間の延長。昭和5年、鳥獣保護区。昭和13年に天然記念物。昭和27年、国の特別天然記念物に指定。昭和32年が最盛期だが、調査では営巣数6000、親鳥1万羽、ヒナ合わせて総数3万羽。なんともすごい数です。しかし数年後からサギは減少し、昭和47年から営巣を確認できなくなってしまった。サギ山は消滅してしまう。昭和59年、特別天然記念物指定解除。消滅の原因はさまざまいわれていますが、いくつもの要素が、複層しているのでしょうね。

 

 実は、わたしはサギのコロニーに踏み入ったことがあります。野生サギの樹上生活を写真に撮るため。当時は高校生1年生で、写真に夢中だったのです。しかし無謀でした。サギたちは侵入者のわたしを警戒し、ギャーギャーと大きな声で泣き叫ぶ。それだけなら我慢もできるが、かれらの武器は糞。下痢のような糞を、中空から次々と降り落としてくる。すごい臭気です。

 彼らは巣を営んでおり、雛も含めれば、おそらく数百羽のコロニーだったのでは、と思います。平地の共同体で、丘や山ではなかったのですが、当時この一画を地元民も「サギ山」と呼んでいたと思います。ところで撮影した写真ですが、実は1枚がある展覧会に、最年少入選しました。せめてもの救いです。多少の冒険はやるべし、か。えへん。

 

 それから、「鶴山」と呼ばれた松林がかつて存在しました。生息する鳥はツルではなく、かつて全国にたくさんいたコウノトリです。ツルは脚では、木の上に立てません。彼らはいつも地上で生活しています。江戸期の絵をみると、松樹にたくさんの白い鳥が止まっています。ツルと錯覚しているようですが、鳥はサギでもなく、コウノトリです。

「松に鶴」をめでたいとする風習信仰が、似非タンチョウヅルをあえて松の樹上、図上に無理やり載せたのだろう。

 いずれにしろ、コウノトリもサギ同様に、樹上の集団営巣地に住む。遠目には「鷺山」も「鶴山」も、似たようなものかもしれません。コロニーの規模は、だいぶ異なりますが。

 害鳥と益鳥の区分けですが、ツルとツバメは保護鳥。コウノトリは田を荒らす害鳥とされ、狩猟対象になり駆除されました。またツルだと誤解され、食肉用にも捕獲されたのではないでしょうか。ちなみに害鳥のスズメも嫌われました。

 1986年には保護飼育されていた最後のコウノトリが死去。日本在来種は絶滅してしまいました。しかしその後、ロシアから譲り受けた個体を豊岡市で飼育。その子孫たちは、いまでは二百羽以上が、本州各地を自在に飛び回っています。

 

 余談ですが、スズメのために、害鳥指定の名誉回復をしておきます。1950年代、中国では毛沢東が命令した国民運動で、ほぼすべてのスズメが捕獲されてしまったのです。スズメは大切な穀物を食べる害鳥とみなされて、捕獲されてしまいました。しかし彼らは昆虫を好んで食する、実は益鳥だったのです。スズメの益は害を上回るといいます。

 スズメたちがほとんどいなくなった中国ではイナゴの害、大蝗害(こうがい)が起こりました。凶作から飢饉に襲われ、数千万の国民が餓死したと伝えられています。中国はこの政策の失敗を認め、なんとソ連から25万羽の元気なスズメを輸入したそうです。生態系を軽くみると失敗する、見本のようです。

 日本のコウノトリ復活も、ロシアからの輸入鳥。助けてもらいました。さらに、佐渡ヶ島のトキは絶滅しましたが、中国から贈られた鳥が増え、20数年がたったいまでは500羽以上が野生化しています。感謝。

 

『日本の野鳥100』叶内拓哉 新潮文庫 1986

『鳥と人間の文化誌』奥野卓司 筑摩書房 2019

<2024年7月27日 南浦邦仁>

 

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河合寸翁と酒井抱一(2)白鷺城

2024-07-24 | Weblog

 姫路城は別名「白鷺城」。ともによく聞く名前です。しかしなぜ「シラサギ」城なのでしょうか。わたしなど、子どものころから見慣れているこの郷土の宝を、白いシラサギの姿のように、清楚で美しいお城と自慢でした。日本国中探しても、これほど美しく優雅なお城はないに違いない。少年の確信でした。

 姫路城の本をあれこれ読みました。その美について、白漆喰総塗りごめ造りの白壁におおわれ、その姿は白鷺の名にふさわしいとの意見にはうっとりします。

 壁はすべて、さらには垂木、ひさし、窓、窓枠、石落とし……、外から見える姿で、瓦以外すべてを真っ白に塗り上げた美しさは、徹底している。

 この城の美は、連立式天守群と低く長くのびる西の丸。この絶妙な組み合わせによって完成した。池田輝政がまず天守群を築き、つぎに本田忠政が西の丸や三の丸などを完成させた。

 三の丸本城は大手門を入って西側。現在は東側も同様に、芝生を張った広大な広場です。ここあたりには、かつては、いくつもの館が並んでいました。贅を尽くした桃山風の居館、武蔵野御殿(菱の門に行く道の南側)。また三の丸本城の東には迎賓館の向屋敷があった。広い庭園もあった。

 また城主の下屋敷としての東屋敷、いまの護国神社あたりにあった家老ら重臣たちの御用場、すなわち執務場があった。しかし明治になって、陸軍がこれら用地をすべて接収してしまい、建物の痕跡はなくなってしまいました。

 池田輝政の後、本多忠政が造った第2期工事の事績は、西の丸以外、すべては陸軍に完全征服されてしまった、といえる。本多忠政は、池田輝政のし残した造営を、自らの縄張りで完成したのだが。

 ところで白鷺城の呼び名は、鳥のシラサギの姿からか。わたしは少年時からそう思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。研究者の見解をみると、

 城の立つ小山全体を姫山と呼ぶ。あるいは鷺山ともいうようだ。別の見解では、鷺山の呼称は姫山の西半分を指すという。そして白鷺城の呼称は、この「鷺山」から来たのであり、鳥のシラサギからではない。

 さて、このような見解をいくらか目にすると、「鷺山」のことを調べたくなりました。先達の「鷺山」記述例を、<近世>から<近代><現代>へと時系列で列挙してみます。

 

<鷺山 近世>

 

姫山の地は住古、富姫の館舎であって、この山の地を姫山という。…姫山は古記によると、刑部社、富姫の社、角岳国社の社等、なお姫山の鎮守たり。/[「姫路古図」に、姫山の隣に「鷺山ト云フ」。後世の制作ともいう]『府中めぐり』芦屋道海 天正4年1576

 

姫山の頂下、西ノ脇を鷺山と号す。/『播磨鑑』平野庸脩 宝暦13年1763/[姫山に最初に城を築いたのは、赤松貞範だという説があります。それも鷺山に、貞和2年1346年。真偽について意見は分れています]

 

富姫君播磨へ、マヨヒ下され、鷺山の本館に御入り……刑部親王を姫山にまつる説實とすべし。(姫山小刑部社)

富姫は播磨に下り、鷺山に居たまう。ここを姫山という。(姫山大明神)

姫山 鷺山城という 桜本重俊(姫路名所歌)/『播州姫路考略記』天川友親 宝暦10年1760

 

姫山 鷺山の城という、往古富姫の舎地。播磨なるここ、富姫の山の名は永き代々にも残りけるかな(梅本重俊)/『播州姫路考略記』の桜本重俊と同一人物か。『播陽万宝智恵袋』天川友親 宝暦10年1760

 

[西の丸と三の丸居城との中間の登り口の門を「鷺山口門」と称した。位置は西の丸南西部、ほぼ角地。この門は、いまはない]。/酒井家蔵『姫路侍屋敷図』文化年間1804~1818

 

鷺山へ女坂御通云々/『姫路藩集書』

 

<鷺山 近現代>

 

姫山の一名を鷺山と呼ぶ。古来この城を呼んで姫山の城、または鷺山の城という。今、白鷺城と称するのは、この鷺山に出たもの。……鷺山の呼称は、姫山の一部分にして、その西部の称ではないかとも考えられる。この件を、にわかに断定することはできぬ。/『姫路城史』上巻 橋本政次著 昭和27年 臨川書店

 

慶長6年、池田輝政による地形の造成がまず始められた。そして本丸・二の丸が築かれる「姫山」と、(後に本田忠政によって)西の丸が設けられる「鷺山」の造成工事(元和4年1618~)……/『日本城郭大系』第12巻(姫路城)昭和56年。

 

姫山と鷺山のふたつの小山の上にそびえる。/『ひめじ』市教委編発行/昭和54年

 

本多忠政から見て、鷺山が無防備なまま放置されていた。池田輝政はなぜか、この小山には防備の施設を構えなかった。/『姫路城を彩る人たち』「本田忠政」寺林峻 神戸新聞総合出版センター2000年

 

姫山の高さが45.6メートル。ピーナツ型に姫山と鷺山がつらなる/『姫路城を彩る人たち』「本田忠政」寺林峻 神戸新聞総合出版センター2000年

 

千姫の化粧料として10万石を加えられた本多家は、鷺山と呼ばれていた西の丸の高台整備に取り掛かった。武蔵野御殿に加え、忠刻・千姫夫妻、その取り巻きたちの櫓や居室を増築した。/中元孝廸『姫路城 永遠の天守閣』2001年 神戸新聞総合出版センター

 

天守閣の建つ姫山。それと連なっている丘が鷺山で西の丸の所だ。/『たゆらぎ山に鷺群れて』市川宏三2007年 北星社

 

「♪ 鷺山に秋の夜は更けて 城楼照らす松の月…」(鷺山に秋 栗山粛夫詩)/『旧制姫路中学校歌』

 

 鷺山についていくらか見ましたが、鷺山は姫山の西半分、現在の西の丸あたりをいう。かつて、この広い西の一帯を「鷺山」と呼んでいた。そのように判断して、間違いはないはずです。

 説得力のある記録のひとつは、酒井家蔵『姫路侍屋敷図』です。城を中心に作成された、本来極秘の精密な平面図です。「鷺山口門」は小さな門ですが、はっきり描かれています。

 この地図の制作は文化年間(1804~1818)。家老河合寸翁が、藩主酒井忠道から全権を任されたのが、文化5年でした。このような門外不出の貴重な図面は、河合寸翁の指示で作成されたのではないでしょうか。

 なお酒井家蔵複製図は、いまも見ることができます。『姫路市史』第14巻付図。現在、門はありません。

 

 姫路城を「白鷺城」と呼ぶのは、ひとつには「鷺山」という名の記憶が、延々と水面下で継続し定着していたからではないか。そして池田輝政と本田忠政の築城以降、シラサギの優美な姿が白い城郭に重なったのでは。そのように思っています。

 池田輝政と同じ場所に、天守閣をまず築いたのは、豊臣秀吉でした。天守は三重四階建て、工期は天正8年4月より翌9年3月。わずかちょうど1年で終わったという。この頃は毎日が戦戦戦の時期です。工事は急ぎます。外壁を白壁にするなどという余裕はなかったはずです。秀吉の城は、「姫山城」と呼ばれても、「白鷺城」はありえない。呼称「鷺山城」もないはずです。

<2024年7月24日 南浦邦仁>

 

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河合寸翁と酒井抱一(1)連峰の麓

2024-07-15 | Weblog

 連載をひさびさに再開しようと思います。ただ例によって、書籍や資料を読みながら進めます。ほぼ知識ゼロからのスタートだけに、牛の歩みのごとくになる覚悟。

 まずこのブログのタイトル、播州の山麓から開始します。姫路城の南東4キロメートルほどの位置に、三山の小さなかたまりがあります。至ってローカルな話題ですが。

 

 この低山のひとつが、姫路酒井藩家老の河合寸翁(すんのう)と密接なつながりがあります。

 そして江戸で活躍した画家・文人の酒井抱一は、姫路藩城主・酒井忠似(ただざね)の弟でした。また抱一と寸翁は同じ姫路酒井藩に属し、ほとんど同じ時代を生きたのです。

 河合寸翁:明和4年~天保12年(1767~1841 75歳)

 酒井抱一:宝暦11年~文政11年(1761~1828 68歳)

 

 『播磨国風土記』は奈良時代、いまから1300年ほど前に編纂された。ここに「継の潮」(つぎのみなと)があったと記しています。近ごろ周辺部で、大規模な発掘調査がありました。しかし肝心の港が推定される地帯は、すでに住宅が立ち並び、想像で判断するしかない。だが倉庫の痕跡は数多く発掘され、かつて継の港では、しきりと荷の積み下ろしがあったとみなされます。

 この地域、継地区の背後には、東の峰「船橋山」122mがあります。想像ですが、麓の川や港に、船を連ねて橋とした。この推察にわたしは賛成です。船橋山には海と関係の深い住吉神社もあります。

 

 三連峰の中央は「麻生山」(あさおさん)172m。

 均整の取れた姿から、「播磨小富士山」の愛称があります。播磨灘を航行する船からは、小さな富士のかわいい姿は愛されたことでしょう。

 この山には神功皇后や大己貴命(おおなむちのみこと)、別名、葦原醜男・大国主命などの神話伝説が、たくさん残っています。麻生の語源は、葦男山からか。

 また急峻な岩場もあり、修験道の山でもありました。山伏の山岳信仰もかつては強固な山です。山頂には行者堂「華厳寺」もあります。しかし、行者の高齢化のため、無住寺であり宗教行事も休止になってしまった。ちなみに急峻な岩場は登攀禁止だが、山道はハイキングコースです。

 

 そして西の峰が「仁寿山」(じんじゅさん)175mです。旧名「幡下山」(はたしたやま)。

 酒井家の姫路藩は膨大な負債を抱えていました。文化5年時点で73万両に達した。それを家老河合寸翁は、十数年にして奇跡的に解決してしまいました。

 そして藩主酒井忠実より幡下山を拝領。寸翁は山名を「仁寿山」に改めます。仁寿は『論語』によります。「知者は楽しみ仁者は寿し」。寿し、いのちながし。

 寸翁は、私学「仁寿山校(黌)」を山麓に開学します。校舎は数十棟もあり、収容は原則2人1部屋の全寮制で、150名ほどが寄宿できたといいます。晩年の寸翁は教育に全力を注いだのです。

 なおこの仁寿山は、姫路でいちばん有名な山のようです。理由は山頂。テレビ電波塔が、10基ほどもそびえ立っています。塔は姫路平野の四方八方から目撃できます。ちなみに仁寿山校は、南麓にありました。

<2024年7月15日>

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