旧木場村の初代三木宗栄のことは、前回に記しました。ところで村名は、すべて旧名です。たとえば「木場村」「的形村」などは、現在ではすべて「木場」「的形」です。ここでは、あえて村付きで呼びます。
さて木場は「木庭」(きにわ)と昔は呼ばれていたようです。木場村のすぐ東は木庭山で、小高い丘のような山ですが、山頂には木庭神社があります。
今回は木庭を取り上げてみます。まず「兵庫県神社庁」等から「木庭神社」を紹介します。
「木庭神社は元和元年1615年、木場開発の長者である三木久左衛門宗栄が創建した。寛保元年1741年に4代後の三木魚泰が改造した。風雨で大破したための再建で、魚泰は木場三木家4代後。医師の三木寸斗のことで、木庭神社の宮司を兼ねたようだ。一説では三木家は三木城別所氏の子孫といわれている。木庭山の前、南面の小赤壁の沖寄りは水深が深い。大きな船は沖合に船を止め、船頭一人の上荷舟が、陸と大船の間を往復して、荷物や船客を運んだ。木場港は中世より海運の発達により栄え、塩田業や廻船問屋などで三木家などの長者を輩出した。」
奇岩の並ぶ木庭山南面海岸線を「小赤壁」と名付けたのは頼山陽。河合寸翁が近くに設立した仁寿山校にたびたび講義に訪れています。山陽は沖合から眺めたのでしょう。ここは景勝の名所になっています。中国三国志の赤壁が有名ですが、赤壁はレッドクリフです。
ところで『木庭記』という名著が残っています。近世中期の木場村と付近の地誌を記す。元文3年1738年、白井長左衛門元貞著。白井は木場村の名士のようです。
彼は木場の港について、次のように記しています。
「さてまた、中播磨は遠干潟(とおあさ)にはべるに、この木庭山より東、地蔵の沖まで十町あまりのほどは水深も深く、山に添いて大船の浮かぶ地なり。惜しむらくは、木庭山、棲神(やか)の小島を四、五町ばかりも沖に出して、(この工事は不可能ですが、もし実行できれば)…おそらくは良港成るべし。」
八家川河口の木場港は、たびたび浚渫や増築工事を行っていますが、なかなか成功しない。小赤壁沖から隣村的形村の福泊沖合に船を停めて、小舟の上荷舟で木場港を往復するしかない。
『姫路市史』第4巻に、文化4・5年にこの沖に来航した客船の数が、掲載されています。船籍をみると中部から西日本各地、さまざまの地から、たくさんの船が訪れています。
客船と表示されていますが、積んでいるのは客よりも荷物が多いように思いますが。
「船は各地の商品を購入して姫路の外港に運び、そこからまた藩特産の皮革・木綿・塩などを買い積みして、阪神間方面または船籍地に運んだ。」別に、塩の運搬を業とする塩廻船も往来した。天保9年、姫路藩4か村~宇佐崎・木場・的形・大塩。近隣の村ばかりだが、年間の塩生産量は80万俵、うち40万俵は江戸に積みだした。小壁壁沖に停泊する大型帆船に、小型の上荷舟が何度も積み込み、活躍したことでしょうね。
<文化4・5年に小赤壁沖に来航した客船数>
尾張 船数5
紀伊 4
和泉 11
播磨 6
淡路 2
備前 13
安芸 10
周防 6
阿波 4
讃岐 15
伊予 27
土佐 20
豊前 3
豊後 8
日向 1
出雲 3
長門 1
2年で合計139隻。年平均70回来航。当時の日本人客の船便多用には驚きます。陸路の街道を行くより、よほど楽です。特に瀬戸内海は安心な航路です。
追記 このような文章がありました。木場沖の本格的改修についてです。「文政元年、河合寸翁をして検分せしめ、港の東西に波止坪数457坪(1510㎡)。長180間、幅25間、深5尺。」翌年12月には木場港河口に灯台も築造し、大工事は、無事完成しました。
文政2年2月17日着工。同年12月26日東西波止場を完成。波止場と川堀工事費合計 銀33貫。その後、文政9年に追加工事。明治27年にも改修工事。この工事には県からの補助金獲得に、村長の神澤松次郎の尽力が大きかったといいます。神澤一族については後日紹介します。なおその後も木場港はどんどん姿を変えていきます。
<2025年4月19日>
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