ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

日曜日

2008-09-29 | Weblog
 今日は早朝から深夜まで、ずっと外出でした。こころに鈍感なわたしですが今日一日、友人仲間の思いやり、あたたかさには、感謝しかありません。本日駄文休載。
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若冲 天井画 №8 最終回 <若冲連載18>

2008-09-21 | Weblog
 鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。「魚屋」は鮮魚問屋と料亭を商っていた。琵琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から、雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から、琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだであろう。冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南のみでなく、京の街にも逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。魚屋は京の錦市場とも繋がりをもっていた。
 さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一歳。おそらく彼の没後であろう。

 そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。
「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/
 大津柴屋町/魚屋通六」
 花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年(一八五九)夏のことであった。寄進者は魚屋の通六である。

 それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もはめ込まれている。
 「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。
いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと考えることには無理があろう。

それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろう。観音堂が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣ではないかと思う。観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収められたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六が、新築する翁堂のために同家から譲り受けた。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。
 ちなみに若冲の次弟・白歳は家業にちなみ「白菜」のもじりであろうといわれているが、描画のすきな俳人でもあった。ただ絵は兄に似ず、うまくはない。また白は百から一を引いた九十九で、ツクモでもある。ユーモアのある、楽しいひとだったのだろう。
<2008年9月21日 「天井画」連載は終わります>
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温暖化? 寒冷化?

2008-09-20 | Weblog
 地球は温暖化しつつある、とは現代の常識でしょう。しかし、寒冷化に向かうかもしれないという記事を前回、紹介しました。

 ネットサーフィンをやってみました。本に頼らず、インターネットの中だけを泳ぎました。キーワードは「温暖化 寒冷化」、これだけです。グーグルで探すと、読みきれないほどの記載が出てきました。
 いまの学生がレポートを書くのに、本に頼らずインターネットの記述ばかりをつなぎ合わせ、似たような文を作る学生が多いと聞きます。しかし彼らがズルをしているとはいいがたい。わたしも本から結構引用したものです。ただどの本を参考にするか、みなさまざまでしたから、学生がそっくりなレポートを提出することは、あまりなかったように思います。レベルはさて置いて…。

 ところで「温暖化?寒冷化?」の記載を読んでみて、結論は「わからない…」ということ。地球はどっちを向いているのか、さっぱり分からなくなってしまいました。
 確かにこの40年近く、地表温度は急上昇していることは間違いありません。しかしそれが、権威あるIPCCの主張する「CO2の増加がいちばんの原因」と決め付けることができるかどうか、疑問に思えてきました。二酸化炭素が原因の温暖化は、まだ科学的に証明されていないといいます。

 この数日、台風13号の影響で雲の多い日が続きました。湿度こそ高いのですが、気温はだいぶ低下しました。雲の増減が温暖化に関係するという説があります。
 太陽の活動が低下すると、宇宙を飛来している微粒子の宇宙線が数多く地球に突入する。それら粒子は大気圏で核となって、周りの水蒸気がくっつき水滴になり雲をつくる。太陽活動が低下し、降り注ぐ宇宙線が多いほど雲は増える。
 
 前の氷河期は1万年ほど前に終わりましたが、過去2万年間の気温グラフが興味深い。この間でもっと気温の高かったのは7000年ほど前。いまよりも暑かったのです。その後、暖期と寒期を繰り返していますが、気温はその間、低下傾向にあります。

 寒冷化説には、ほかにもいろいろあるようです。しかし素人が説明するには、無理がありますので止めておきます。ただいちばん思ったのが、地球寒冷化を唱える学者が冷遇され、研究費の確保にも難儀しておられること。また温暖化を主張する主流グループから無視されています。
 相反する見解ですが、真実を究明するために、異論であろうとも相手を認めることこそ大切なことではないでしょうか。

 京都国際会館で、地球温室効果ガス削減の取り決めを決定したのが「京都議定書」です。1997年12月のことでした。この地球温暖化防止会議COP3の議決を、当時は快挙だと多くの市民国民、そして世界中のひとたちが拍手を送ったと思います。
 しかし温暖化・寒冷化のことは、まだ決定的な結論が出ていない面があると、いくらか留保する柔軟さも必要かもしれませんね。
<2008年9月20日>
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京の底冷え

2008-09-14 | Weblog
 「小氷河期 来る?」、今朝の毎日新聞社会面記事の見出しです。二酸化炭素など温室効果ガスによる地球温暖化が進んでいることは、間違いないでしょう。ところが記事によると、太陽黒点の減少が著しく、これが原因で太陽が不活発化して、寒冷期がはじまるかもしれないと記しています。
 太陽も黒点のことも、何も知りませんが、記事によると11年周期で増減を繰り返す黒点ですが、12年目を迎えた今年、一向に増えずに減少したままとのこと。黒点は太陽表面で温度の低い部分ですから、増えれば太陽の温度が下がるのかと思ったら、太陽活動が活発な時期に黒点は増加するのだそうです。
 黒点がほとんど現れない時期、極小期は50年から100年も続き、小氷河期に突入する可能性があるという。専門家は、いまの状態があと1年も続けば、「小氷河期が来る!」と大騒ぎになるかもしれないと語っています。

 温暖化で北極圏あたりの氷が融け、冷水が大洋の海流に異変をおこす。そのため一気に北半球一帯が氷河期を迎えるというSF映画「デイ・アフター・トゥモロウ」もあります。
 地球の複雑系を思うと、温暖化の方向を向きつつ、冷海流など関連した現象と、太陽という無関係の現象、それらがからまって、寒冷化に行きつくのでしょうか。

 京都は盆地で、もともと夏は蒸し暑い。今年は最たるものでした。そして冬の底冷えに、かつては定評がありました。ところが冬に冷え込むことは、長年さっぱりありません。
 しかし予想に反して、猛烈な世界的な底冷えが近年中に到来する? 自然も人生も、複雑です。
<2008年9月14日>



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若冲 天井画 №7 <若冲連載17>

2008-09-08 | Weblog
かつて蝶夢和尚が再興した義仲寺だが、幕末に炎上する。安政三年(一八五六)二月七日、寺の軒下に隠棲していた乞食の失火で、義仲寺無名庵と翁堂ともに焼失してしまった。
 大津町と膳所城下の俳人たち、義仲寺社中、湖南蕉門の主だった連中は協力し、再建を企てる。いまも寺に残る文書がある。『長等の櫻』に抄文が紹介されているが、参考までに全文を記載する。
  右/翁堂之額/寄付人 江州大津升屋町 中村孝造 号鍵屋 俳名花渓/
  紹介 江州大津 桶屋町 目片善六 号鳥屋 俳名通六 
  清六作 外ニ 青磁香炉 
  天井板卉花 若冲居士画 極着色 右 通六寄進/
  春慶塗 松之木卓 右 花渓寄進/
  再建 大工棟梁 大津石川町 浅井屋藤兵衛/
  翁堂類燃 安政三丙辰年二月七日/
  同 再建 安政五戊午年十月十二日 遷座/
  義仲寺 執事 三好馬原 小島其桃 中村花渓 加藤歌濤/

 これによると、芭蕉堂の再建は安政五年、和宮降嫁決定の二年前ということになる。また同文書には、若冲花卉図のおさめられた年の記述がない。それ以外にも気になる点が多い。
 まず中村孝造は号花渓だが、大津町の豪商、米問屋・両替屋の八代目鍵屋中村五兵衛、「鍵五」孝蔵である。孝造ではなく、孝蔵である。彼は湖南蕉門の若手リーダーとして当時、義仲寺を拠点に活躍した俳人であり、また茶もよくした。鍵屋は代々、各藩の藩米を一手に扱う御用達として、大津でもいちばんの豪商であった。また各藩に膨大な額の金を貸付けていた。
 維新後、この大名貸しのために鍵屋は破綻してしまうのだが、中村花渓は明治二年、四十七歳にして還暦と称し隠棲してしまった。彼は繊細でやさしさに溢れる人柄であった。俳諧の仲間からの信頼も厚かった。中村花渓の一句を紹介する。
 鶯のはつかしそうな初音かな
<2008年9月8日 南浦邦仁>
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2008-09-07 | Weblog
 海から遠く離れた京都市ですが、食生活は昔から豊かです。なかでも「京野菜」は、長年この地で育まれた伝統の産品です。わが家ではスーパーで安い野菜を買っていますが、京産は少なく、だいたいが各地国産のようです…。

 堀川ゴボウも代表的な京野菜です。400年ほど昔、徳川家の台頭とともに、豊臣家の名建築、聚楽第[じゅらくだい]の堀は、付近住民のゴミ捨て場になってしまいました。たまたまこの地でゴボウが巨大に育ちます。それが堀川ゴボウのルーツです。
 当時のゴミは有機物に富んでいました。プラスチックもレジ袋もありません。金属を捨てることもまれです。生ゴミ、落葉、木灰、貝ガラ…。せいぜい割れた瀬戸物が混じるほどといいます。
 堆積物は豊かな堆肥になりました。保水・排水・通気にすぐれ、ミミズの多い、いい土壌です。この土が堀川ゴボウを産んだのです。

 ゴミ捨て場といえば、二十世紀梨も同様です。千葉県松戸市のゴミ捨て場で当時、高等小学校の生徒だった松戸覚之助が偶然、発見しました。明治21年(1888)のことです。この苗木は10年後、覚之助の自宅庭で結実します。多汁で甘く、口にしたひとはみな絶賛し、1904年に「二十世紀梨」と命名。
 わたしはてっきり、鳥取県で誕生したナシだと思っていました。千葉県生まれだったのです。19世紀末の結実から百年以上が過ぎ、もう21世紀です。

 堀川ゴボウも二十世紀梨も、ともに豊かな土のゴミ捨て場で発見され普及したのです。
 現代では道端に、プラスチックや金属類ばかりがいつまでも積み重なり、野の草しか育たないのが残念です。リサイクルの時代、有機物を豊かな土に返す手立てはないものでしょうか。落ち葉ですら、有料のゴミ袋に詰め込まれてしまいます。
<2008年9月7日>
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