役者浮世絵で有名な東洲斎写楽。彼は謎の浮世絵師、正体不明な写楽と呼ばれ、長いあいだ疑問だらけの人物でした。ところが13年前のこと、越谷市の法光寺で彼の過去帳が発見されました。この寺はかつて築地にあった。おそらく写楽の墓は築地にだったのでしょうが、いまはない。法光寺過去帳をみてみましょう。
辰三月七日、釈大乗院覚雲居士、八丁堀地蔵橋、阿波殿御内、斎藤十良兵衛事、行年五十八歳、千住にて火葬
この記載から写楽の生年は逆算で宝暦13年1763。没したのは文政3年庚辰3月7日1820と、ついに確定されました。享年は58歳。彼は八丁堀地蔵橋に住み、阿波徳島藩・蜂須賀家に仕えた。
ほかの史料と総合すると、姓は斎藤だが、名は十郎兵衛か十良兵衛。蜂須賀家の能役者であったと思われる。号は東洲斎写楽。
やはり過去帳の発見は、延々と続いてきた謎の人物の秘密を解明してくれます。
もうひとりの浮世絵師をみてみます。歌川広重(1797~1858・9・6)です。広重は傑作「東海道五十三次」で有名ですが、江戸で生まれました。幕府定火消同心の安藤源右衛門の長男。父は下級武士、30俵2人扶持という微禄です。代々、幕府の定火消役人をつとめています。
広重13歳の文化6年1809、彼は母をそして父を、相ついで亡くしました。やむなく年齢を4歳加算。急ぎ元服を終え、家督を相続しました。士分の家を守るための急な成人式、年齢加算であったのです。当時、国家公務員の採用基準は、数え17歳以上が必須であったのでしょうか。ご存じの方があれば、ぜひご教示ください。
そして実年齢15歳にして、幕臣のまま浮世絵師の歌川豊広に入門。翌年にはその腕を認められ、16歳で早くも歌川広重の名を許される。司馬江漢も10代、まったく同様に浮世絵師を経験しています。ふたりは家計を支えるための売画、そして浮世絵の修行であったのでしょう。
その後、広重は定火消の役を親戚の安藤仲次郎にゆずり、自身は画業に専念する。なお広重は歌川ですが、本名から安藤広重ともよばれたようです。
広重の没年齢は62歳ですが、65歳とか66歳説もあります。これは10代にして、やむなく家督相続のために4歳を加算し、そのまま年齢をかさ上げした歳を引きずっていたためと思います。役人としての彼は、4歳加えた年齢を称さざるを得なかったはずですから。
家督断絶を防ぐために少年が年齢を4歳も足す。年齢加算にはいろいろなケースがあるものですね。
ところで江戸の火消組織ですが、三組織がありました。まず大名火消。なかでも加賀藩前田家の加賀火消と、播州赤穂浅野家の大名火消が有名です。
そしていろは組、五十に近い組で有名な町火消。江戸の華と呼ばれました。江戸と京の火消については、いつか調べ書きたいと思ってはおります。しかし、いつのことになるやも知れません…。
もうひとつは定火消じょうびけし。幕府直轄の火消組織です。広重のころ、定火消隊は江戸に十組あり、各組の長は旗本で五千石級。江戸城内の菊の間敷居外詰で、一万から二万石の城なし大名同等の待遇であった。火事出動のさいには、定火消役は銀筋星兜の火事頭巾と火事装束をつけて騎馬で駆けつけ、現場の床几に腰をかけた。
各定火消役・組旗本の配下にあったのが、下級旗本の与力である。騎乗することが許された与力が、1組に六人ついた。その下に広重らの徒歩同心30人がいる。同心は御家人で、旗本とちがって将軍お目見えも許されない。身分の低い下級武士である。幕臣とは名ばかりで、生活困窮者が多かった。
定火消部隊の出動時、1隊の構成は、上番10人、下番5人、水番10人、残番10人、纏番12人、玄蕃桶持ち6人、梯子番16人、ポンプの竜吐水持ち8人、鳶口持ち10人、籠長持ち2人、用箱持ち1人、部屋頭3人、役割2人の合計94人。彼ら隊員は「臥煙」がえんと呼ばれたが、日勤常時だいたい100人くらい。定火消屋敷に詰める彼らは3交代制なので、1組で総定員約300人の組織になる。江戸全体では10組計3000人以上。
これらの臥煙たちを実質、直接指揮していたのは、広重らの御火消御役同心。同心は将軍には目通りできない御家人である。1組に30人所属した同心は、30俵3人扶持から15表2人扶持まであり、6人いた上司旗本の定火消御役与力の80俵高よりもずっと低かった。<山本純美著『江戸の火事と火消』1993 河出書房新社>
<2010年5月30日 南浦邦仁> [ 234]