ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲の年齢加算 №8 <東洲斎写楽と「東海道五十三次」広重> 若冲連載59

2010-05-30 | Weblog
役者浮世絵で有名な東洲斎写楽。彼は謎の浮世絵師、正体不明な写楽と呼ばれ、長いあいだ疑問だらけの人物でした。ところが13年前のこと、越谷市の法光寺で彼の過去帳が発見されました。この寺はかつて築地にあった。おそらく写楽の墓は築地にだったのでしょうが、いまはない。法光寺過去帳をみてみましょう。
 
 辰三月七日、釈大乗院覚雲居士、八丁堀地蔵橋、阿波殿御内、斎藤十良兵衛事、行年五十八歳、千住にて火葬
 
 この記載から写楽の生年は逆算で宝暦13年1763。没したのは文政3年庚辰3月7日1820と、ついに確定されました。享年は58歳。彼は八丁堀地蔵橋に住み、阿波徳島藩・蜂須賀家に仕えた。
 ほかの史料と総合すると、姓は斎藤だが、名は十郎兵衛か十良兵衛。蜂須賀家の能役者であったと思われる。号は東洲斎写楽。
 やはり過去帳の発見は、延々と続いてきた謎の人物の秘密を解明してくれます。
 
 もうひとりの浮世絵師をみてみます。歌川広重(1797~1858・9・6)です。広重は傑作「東海道五十三次」で有名ですが、江戸で生まれました。幕府定火消同心の安藤源右衛門の長男。父は下級武士、30俵2人扶持という微禄です。代々、幕府の定火消役人をつとめています。
 広重13歳の文化6年1809、彼は母をそして父を、相ついで亡くしました。やむなく年齢を4歳加算。急ぎ元服を終え、家督を相続しました。士分の家を守るための急な成人式、年齢加算であったのです。当時、国家公務員の採用基準は、数え17歳以上が必須であったのでしょうか。ご存じの方があれば、ぜひご教示ください。
 そして実年齢15歳にして、幕臣のまま浮世絵師の歌川豊広に入門。翌年にはその腕を認められ、16歳で早くも歌川広重の名を許される。司馬江漢も10代、まったく同様に浮世絵師を経験しています。ふたりは家計を支えるための売画、そして浮世絵の修行であったのでしょう。
 その後、広重は定火消の役を親戚の安藤仲次郎にゆずり、自身は画業に専念する。なお広重は歌川ですが、本名から安藤広重ともよばれたようです。
 広重の没年齢は62歳ですが、65歳とか66歳説もあります。これは10代にして、やむなく家督相続のために4歳を加算し、そのまま年齢をかさ上げした歳を引きずっていたためと思います。役人としての彼は、4歳加えた年齢を称さざるを得なかったはずですから。
 家督断絶を防ぐために少年が年齢を4歳も足す。年齢加算にはいろいろなケースがあるものですね。
 
 ところで江戸の火消組織ですが、三組織がありました。まず大名火消。なかでも加賀藩前田家の加賀火消と、播州赤穂浅野家の大名火消が有名です。
 そしていろは組、五十に近い組で有名な町火消。江戸の華と呼ばれました。江戸と京の火消については、いつか調べ書きたいと思ってはおります。しかし、いつのことになるやも知れません…。
 もうひとつは定火消じょうびけし。幕府直轄の火消組織です。広重のころ、定火消隊は江戸に十組あり、各組の長は旗本で五千石級。江戸城内の菊の間敷居外詰で、一万から二万石の城なし大名同等の待遇であった。火事出動のさいには、定火消役は銀筋星兜の火事頭巾と火事装束をつけて騎馬で駆けつけ、現場の床几に腰をかけた。
 各定火消役・組旗本の配下にあったのが、下級旗本の与力である。騎乗することが許された与力が、1組に六人ついた。その下に広重らの徒歩同心30人がいる。同心は御家人で、旗本とちがって将軍お目見えも許されない。身分の低い下級武士である。幕臣とは名ばかりで、生活困窮者が多かった。
 定火消部隊の出動時、1隊の構成は、上番10人、下番5人、水番10人、残番10人、纏番12人、玄蕃桶持ち6人、梯子番16人、ポンプの竜吐水持ち8人、鳶口持ち10人、籠長持ち2人、用箱持ち1人、部屋頭3人、役割2人の合計94人。彼ら隊員は「臥煙」がえんと呼ばれたが、日勤常時だいたい100人くらい。定火消屋敷に詰める彼らは3交代制なので、1組で総定員約300人の組織になる。江戸全体では10組計3000人以上。
 これらの臥煙たちを実質、直接指揮していたのは、広重らの御火消御役同心。同心は将軍には目通りできない御家人である。1組に30人所属した同心は、30俵3人扶持から15表2人扶持まであり、6人いた上司旗本の定火消御役与力の80俵高よりもずっと低かった。<山本純美著『江戸の火事と火消』1993 河出書房新社>
<2010年5月30日 南浦邦仁> [ 234]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平賀源内と鰻蒲焼

2010-05-29 | Weblog
 いつもコメントをくださる奇特な方、「na-ga」さんから鰻蒲焼についての便りが届きました。

 「うろ覚えなので原典調べてほしいのですが、丑の日の薬食いは もともと「う」のつくものなら何でもよく、うどんが主流だったけど 、源内はコピーでうなぎに誘導した。 そんな話だったのでは 。
 なまずは「う」がないので、丑の日には食べないと思います。
 うなぎと丑の日は縁はあったけど、 源内はそれをコピーで主流にした点で、貢献したとは思います。」

 『万葉集』に大伴家持の鰻歌が二首あります。現代語訳で
 痩せた石麻呂さんに、申し上げます。夏痩せに、よいものだそうです。鰻を捕って食べてごらんなさい。<16-3853>
 痩せながらも、生きていたら結構だろうに。ひょっとして、鰻を捕ろうとして、川に流されるなよ。<16-3854>

 石麻呂は吉田連老のこと。彼は生まれつき身体がたいへん痩せていた。大伴家持はこの歌をつくって、からかったとされています。
 夏バテや虚弱体質にウナギは効果があると、このころには認識されていたのでしょうね。
また土用の丑の日に川で水浴すると病気にならないとする俗信は、いまも各地に残っているそうです。家持は石麻呂に水浴をすすめながら、「あの細い体では流されてしまうかも」と心配したのでしょうね。
 少し気になるのは当時、鰻を「むなぎ」といっていました。「うなぎ」ではなく。丑の「う」音とは異なるのです。
 「う」のつく、ウリ、ウドン、ウシ肉などを食べるとよい、などと風習が広がったのは、だいぶ後の時代、夏土用のウナギが定着してからのことかと思ったりします。戦前にモロゾフが仕掛けた2月14日のバレンタインデー。昭和40年代になって、やっとチョコレート業界は盛況成功期をむかえる。そしてだいぶ遅れてホワイトデーが便乗しました。「ウ」のつく食べ物もそのたぐいではないかしら。

 食い合わせ、食べ合わせという言葉風習があります。わたしが祖母に聞かされたのが「ウナギと梅干」。同時に食べると腹痛になるという。科学的には何の根拠もないらしい。しかし注目すべきは「うめぼし」です。「う」がつきます。なぜか、一緒に食べてはいけないのです。ともに夏バテ防止の食べ物とされていたはずですのに、磁石ではないですが正と正、プラス同士の反発を嫌ったのかもしれないとも思います。
 
 夏土用の丑の日にはさまざまの祭りがあります。この日は新暦7月下旬にあたりますから、病気退散祈念が多い。京都をみますと、下賀茂神社ではこの日、子どものひきつけ除けの石を三宝にのせて参拝者にわかつ。
 梅宮神社では神供として、桂川のアユを供える儀式がある。結構、油が乗っていますか?
 東寺弁天堂では池のドロ「東寺の泥」を授ける。これを皮膚に塗ると霜焼けにかからないという。夏に霜焼け除けとはずいぶん気が早いです。
 そして日蓮宗各寺では、夏土用丑の日の灸には格別の効果があるとする。焙烙灸(ほうろくきゅう)とよぶそうです。

 「ウナギを食べてはいけない」とタブーを守っている地も、国内には多々あったそうです。丑寅年の生まれのひとは、生涯の守護本尊が虚空蔵菩薩で、一生ウナギを食べないという風習もある。ウナギは虚空蔵の使いともいうらしい。
 禁忌の地では薬として、ウナギをどうしても食べざるを得ないときには、神社に絵馬を奉納する。神仏の秘薬鰻は本人の信心から、本当によく効くそうです。
 京都市馬町小松谷では、土地の三島神社に参ってからウナギを食べると万病に効くという。

 いずれにしろ、脂肪に富んだ魚類を夏バテ防止に食する。またこの日には、黒いものを食べるという風習も、どうもあったようです。何で読んだのかはさだかではありませんが…。 皮が黒くこげたウナギ蒲焼は、ぴったりでしょう。ナマズも可かもしれません。赤い梅干を嫌うのも、黒色志向からかもしれません。
 源内は当然、『万葉集』石麻呂を読んでいたのでしょう。また黒い食べ物でもある。滋養に富んでいる。民間で信じられていた鰻信仰もある。さらには知りあいの鰻屋が、売れずに困っている。蒲焼ウナギ売り出しキャンペーンに成功すれば、ウナギ好きの源内は恩人として、その店でいくらでも堂々と無銭飲食ができる…。「本日、土用丑。蒲焼鰻を食おう。夏バテ退散。万病絶効!」。名キャッチコピーですね?

 ところが、柳田國男は「江戸で鰻蒲焼の大流行をみたのは、天明5年1785よりはそう古くからではないらしい」(俳諧評釈)。天明5年は、源内没1779の6年後です。そんなはずはない! この記述には、あっと驚く片瀬為五郎です。 
 『耳袋』には「浜町河岸に大黒屋といえる鰻屋の名物ありというは天明のころのことにや、御府内・江戸にて鰻屋のはじめなるべし」。柳田は『耳袋』説をとったのでしょう。

 ところが、南方熊楠は寛延4年1751、江戸のこととして「深川鰻名産なり、八幡宮門前にて多く売る…このころまで、いまだ江戸前鰻という名をいわず、深川には安永ころ(1771~1781)「いてう屋」といえるが高名なり」(日本及日本人)。これは『新増江戸鹿子』からの引用です。
「いてふ」いちょうは銀杏ぎんなんですが「胃腸」かしら、そのようにも思ってしまいます。
 蒲焼の江戸での流行は、源内在世中のことであったと、わたしは確信します。もしかしたら夏土用丑の鰻蒲焼導入1号店は、源内推薦「銀杏屋」鰻蒲焼「胃腸屋」かもしれません。 なお京の鰻蒲焼は江戸よりいくらか早く、元禄期から増えだしたようです。また江戸にも18世紀初半ころに「軽少」な商いの蒲焼屋がはじまったとあり、軽少というからには、固定した店を構えぬ、おそらく天秤棒肩担ぎの移動式蒲焼屋から、鰻蒲焼商人が出現したようです。
<2010年5月29日> [ 233 ]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲の年齢加算 №7 <平賀源内と鈴木春信> 若冲連載58

2010-05-23 | Weblog
江戸で活躍した司馬江漢の師で、親友でもあった平賀源内(1728?~1779)。本草博物学、物産学、オランダ蘭学を修め、殖産興業や鉱山開発にもつとめた。さらには小説や戯作でも売れっ子作家になる。また医者・蘭画家であり、エレキテル・静電気発生仕掛見世物兼医療機など、技術機械にもたけた発明家の「非常の人」常ならざる天才、あるいは詐欺師・大山師とも称された。
 
 ところでウナギの蒲焼を夏の土用丑の日に食べれば夏バテしない、この風習を広めたのは平賀源内であるとか、ないとか確証がないらしい。『放屁論』という彼の著作があります。オナラ話しばかりの本ですが、読むと笑いが止まらない。実に愉快な傑作です。この本の後編に、自虐の文があります。現代文意訳で、
 この男、何ひとつ覚えた芸もなく、また無芸でもないけれど、どっちつかずの「筑羅ちくらが沖」(朝鮮と日本九州のあいだの洋)、磯にも波にもつかず、流れ渡りのヒョウタンで、ナマズの蒲焼ウナギを欺き、見識は吉原の天水桶よりも高く、智恵は品川の厠かわやよりも深しと…。

 さてナマズを焼いて、鰻の蒲焼と偽るとの表現ですが、どうも鯰ナマズ蒲焼は身が白く厚い。ふっくらしており、あっさりと柔らかいものらしい。味は淡白で旨く、鰻ウナギとはだいぶ異なる。食感は「肉を食べたという感じ」だそうです。香ばしいかおりもするという。聞きかじりの範囲でみますと、ナマズ蒲焼をウナギとだまし偽ることは、なさそうです。「鯰の蒲焼と鰻を欺き…」と、素直に読むべきかと思います。
 ヒョウタンは禅語「瓢箪鯰」にかけているのでしょう。一度、鯰蒲焼を食してみたいと思います。

 このウナギ・ナマズ文から思うに、「ウナギやナマズの蒲焼を夏土用の丑日に食べれば云々」と適当なことをいって、庶人を偽りという風にとれるのではないでしょうか。ですから、やはり平賀源内こそ、夏に鰻屋を儲けさせた張本人・仕掛け人だったのでしょう。そのように、わたしは思っています。

 ところで、源内の享年には三説があります。親友の杉田玄白、『解体新書』訳で有名な蘭医学者ですが、彼は源内の享年を51歳と記しています。しかし郷里の四国讃岐の位牌・過去帳では没年命日は同じですが、享年52歳となっています。
 48歳と記した記録もありますが、これは寺請証文写の誤記であろうといわれています。ならば、51歳か52歳か? 還暦前に亡くなった彼は、一歳加算していたとは考えにくい。
 源内は安永8年11月、ささいな誤解から門人を殺傷してしまいます。そして翌月18日、獄中で逝きました。天才平賀源内の、あまりに非業な最期でした。親友の杉田玄白は記しています。「ああ非情のひと、非常の事を好み、行ないこれ非常、何ぞ非常の死なる」

 ところで司馬江漢のもうひとりの師、錦絵創始の浮世絵師・鈴木春信(?~明和7年6月14日か15日 1770)ですが、彼も享年が定まらない。出身も身分も家族のことも、何もわからない謎の人物です。ただ平賀源内が長屋住まいのころ、その長屋の家主は春信でした。当時、三人はみな非常に近い関係だったのです。
 春信の没年齢については、46歳、53歳、67歳などと実にさまざま。ただ司馬江漢が記した「そのころ、鈴木春信という浮世絵師、当世の女の風俗を描くことを妙とした。40余にしてにわかに病死」
 享年を推定する史料はこの江漢の記載「四十歳余」しかない。現在では46歳没という説に落ち着いているそうですが、確たる根拠はなさそうです。
 春信はおそらく年齢加算とは関係なく、単に生年が不明であるというのが結論でしょう。昔のひとは生年不詳、あるいは不明という方があまりに多い。われわれ現代人とは、生年月日の感覚意識がおおいに異なるようです。また正月元旦に歳を加える時代、生誕月日にはあまりこだわる必要がないようです。
 確然と存したのは、過去帳や墓表などに記された記録。逝ってはじめて記載される記録だけといってもいいようです。江戸期以前の彼らには、出生届も戸籍もなかったのです。亡くなると、過去帳や墓に没年月日は書き込まれますが、享年記載がなければ年齢不詳になってしまいます。また享年の歳を書かれてもその年齢は、加算や偽年かもしれないのです。当時の没年齢は、簡単に信用してはいけないのでしょうね。
<2010年5月23日 南浦邦仁> [ 232 ]
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲の年齢加算 №6 <予祝> 若冲連載57

2010-05-22 | Weblog
18世紀の京都の画家、伊藤若冲は伏見深草の石峰寺門前の居宅で亡くなった。寛政12年9月10日1800年。実享年85歳であったが、彼は88歳と作品に記し米寿年齢を残している。まわりのひとたちもみな「若冲88歳」米寿とした。この3歳加算はなぜだったのか。また何歳のときに加算したのか?
 ずいぶんマイナーなテーマに深入りしてしまったものです。このブログのアクセス数も低減するばかり。このまま進めていいのかしらと、自問自答したりもしますが、走り出したら止まらない…。誰も深く追及しなかった話題です。もう少しやってみようかと思っています。

 これまでいわれてきたのは「還暦後は年なし」、改元のたびに一歳加算したとする説。それだと若冲の享年は87歳になってしまう。還暦数え61歳以降の改元は二度でした。
 わたしは「還暦過ぎれば歳知らず」などと勝手に呼んでいます。そして加算のタイミングや意図は、改元とは無関係であるようだと、考えています。また若冲は、1歳ずつ加算したのか? あるいは3歳を一気に足した? それとも一気2歳と後に1歳か? 逆に1歳と後の2歳か?

 今回はまず、還暦を過ぎてからの節目の歳、祝いの年をみてみます。
66歳 禄寿 六(ロク)禄より。日本百貨店協会が商売のために勝手に決めた祝寿年。
70歳 古稀(古希) 杜甫・曲江詩「人生七十古来稀」。現代では決してマレではないですが。
77歳 㐂寿(喜寿) 七七七
80歳 傘寿 八十の「傘」略字から(マイPCでは字が出ません。嗚呼…)
88歳 米寿 八十八の「米」字。
90歳 卆寿(卒寿) 卆字の九十から。
99歳 白寿 百引く一は「白」。若冲の弟の号は「白歳」だった。彼は俳句が好きで絵も描いたが、兄より先に逝った。家業の青物問屋にちなんでの白菜ハクサイであったのでしょうか。九十九は「つくも」。若冲画に「付喪神図」がありますが、ゲゲゲの鬼太郎も顔負けのお化け図です。
100歳 百寿(ももじゅ) 一世紀から「紀寿」とも。
111歳 皇寿 白一十一の組み合わせ。
120歳 大還暦 かつての長寿世界一記録者だった泉重千代さんのためにつくられた祝歳語。
250歳 天寿。該当者なし。
1001歳 王寿。平安時代に生まれたひと。

 新旧とりまぜ、まだまだいろいろあります。江戸期の祝いの記録をみていますと、古稀、㐂寿、傘寿、米寿がよく出てきます。またこれらの長寿記念年を迎える前年、予祝をやっています。その予祝の日に、いきなり一歳、加算するのです。下駄ばき底上げです。

 画家の富岡鉄斎(1836・1・25~1924・12・31)は、大正13年12月31日に89歳で没した。わずかあと1日生きていれば数え卆寿90歳。しかし彼は89歳の夏ころから、すでに90歳落款の作品を描いている。家族や仲間友人や弟子による予祝があったのであろう。[1]
 中国近代の文人画家・斎白石(1863~1957)は数え年75歳のとき、77歳と称している。㐂寿の祝いを2年早く行ったのであろうか。彼は95歳で没したのだが、97歳と落款しており、研究者のあいだで混乱が生じているという。[1]
 常煕興燄(じょうきこうえん 1582~1660)は中国の黄檗僧だが、日本で黄檗禅をひろめた隠元を助けた人物。79歳の7月ころ、病のために起きることあたわず。9月早々、傘寿80歳を予祝。9月29日に示寂。[2]
 『黄檗文化人名辞典』には、米寿88歳の予祝の記載があったはずですが、だれだったのか再度、調べてもわからなくなってしまいました…。

参考
[1]成瀬不二雄著『司馬江漢 生涯と画業 本文篇』1995 八坂書房
[2]大槻幹郎・加藤正俊・林雪光共著『黄檗文化人名辞典』1988 思文閣出版
<2010年5月22日 南浦邦仁> [ 231 ]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流星雨

2010-05-16 | Weblog
語り紹介の達人というべきプロフェッショナルがおられる。映画なら浜村淳さん、本の紹介解説なら児玉清さん。おふたりの熱い語りを聞いていると、観たい読みたいという気についなってしまう。
 児玉さんはNHKラジオ、朝の「ラジオビタミン」にもときどき出演され、名調子で本を紹介される。偶然聞いた一冊が、津村節子著『流星雨』(岩波書店1990)。
 描かれた時代は、慶応4年すなわち明治元年から、戊申戦争が終わり会津藩が斗南に転封になった直後の明治5年まで。主人公の姉妹は10代です。
 このブログ連載の4月18日に「容保桜」かたもりざくらのことを紹介しましたが、京都府庁中庭に咲く容保桜、かつて幕末に京都守護職であった会津藩主・松平容保にちなんでつけられた桜の名である。この地には、守護職屋敷があったことによります。

 容保の会津藩は幕府を、そして天皇を守るため、全力をあげて京を守護しました。しかし時代の流れに抗せず、賊軍・朝敵とされ追討令をうける。会津若松の鶴ヶ城籠城戦、一般人をも巻き込んだ市街での激戦。会津は徹底した非情な攻撃をあびる。「賊軍の死体は埋葬してはならぬということで、あちらこちらに散らばっている戦死された方々の御遺体は、腐ってひどい臭いを放ち、新しいものは野犬や狐、狸が餌にして食いちぎっており、まるで地獄でございます」

 籠城に間に合わず、郊外に逃げる主人公の上田あきたち。上田家は、父とふたりの兄が激戦で戦死。祖母は厳寒中の逃避行の途次に死去。祖父儀右衛門と、母しづ、妹かよ。会津降伏のあと、多くの人たちとともに徒歩で、本州最北の地、下北の斗南(となみ)に向かう。
 斗南は政府から与えられた転封地であるが、表向きは3万石だが、実質の石高はわずか7千石。会津藩は、28万5千石であった。この不毛な厳寒の地に、旧会津藩士の家族が1万数千人も押し寄せる。耕作もかなわぬ、生き抜くことは至難で会った。たいていの住まいが掘立小屋で、真冬には風が莚で覆った小屋内を吹き抜け、炉の横に置いた鍋水も凍る。
 新藩名「斗南」は、移住を機に命名された地名です。中国の詩文「北斗以南背帝州」からとったそうです。陸奥国もまた天皇の領土。われら朝敵・賊軍にあらず。ともに北斗七星を仰ぐ帝州の民である。いまは北の果てで忍従の日々を送っていても、いつかは南に帰り隆盛を図る。薩長藩閥政府に対する反骨を秘めての命名という。
 
 妹かよは「母さま、殿さまは将軍さまのご命令で、天子さまのおられる京都をお守りする役目をしておられたのでしょう。それなのになぜ、会津は賊軍になって討たれることになったとですか」
 母しづは「殿さまは騙されなさったのじゃよ。将軍さまも、殿さまを見捨てなさったのじゃ。殿さまほど忠義の心篤いお方はおられぬのに…」
 姉のあきがいう。「私は承服しかねます。なぜ会津だけ犠牲にならねばならなかったのですか。なぜ会津をあれほどまで、いためつけねばならなかったのですか。たかが会津一藩を叩き潰さねば、維新は成らなかったのでございますか」。あきの眼から、涙が溢れた。

 言葉であらわせないほどの厳寒の小屋のなかで、祖父儀右衛門の病が重くなる。かよは母のしづに「お医者さまをお呼びしようと思います」。しかし彼女たちには、医者に支払う費えもない。
 母しづは「そなたの考えていることはわかる。そんなことをして、もし命が助かったとしても、おじじさまが喜ばれると思いますか。生きるために他人さまがしたことを批難することは出来ぬが、戦死されたそなたの父上や兄上たちの名を汚すようなことをするくらいならば、一家揃って餓死したほうがよい」
 「おじじさまを見殺しにしてもよいと…」
 「そうです。見殺しにしても、自分を汚すようなことはなりませぬ」
 あきは、商人の妾になって家族を救おうと、ふと思ったのでした。母はあきのこころを見抜いていたのです。

 紹介は以上です。「読んでみようかな?」そんな気持ちになられましたか? やはり、児玉清さんの語りにはかないませんね。
 ところで、児玉さんの年齢ですが、一年ずれておられます。戸籍上は、昭和9年(1934)1月1日だそうです。しかし本当の出生日は前年の、1933年12月26日。親御さんは、1週間ほど遅らせての出生届けをされた。
 理由は「生まれたばかりの赤子が、数日で数え年2歳になってしまうのは不憫だから」ということだそうです。数えでは、生まれた途端に一歳、つぎの正月で二歳になってしまいます。
 満年齢採用の法的決定は、1902年のことだそうですが、児玉さんより少し年上のわたしの母は、いまでも正月元旦に歳をとり、誕生日でも加算しています。年齢には、満と数えのふたつが共存しています。
 わたしの記憶では、昭和30年代ころまで、年配者は年齢を数えでいうことが多かったと思います。お葬式の享年・没年齢は、いまだに踏襲しているのでしょうね。

※この本『流星雨』はまず岩波書店から刊行。そして文春文庫でも出ていたのですが、どうも品切れのようです。わたしは図書館で岩波版を借りました。書籍流通については、考え思うことが多々あります。ところで最近、調べているのが「本のシルクロード」。深い探索ではありませんが、近いうちにお披露目しようと思っています。乞う、ご期待?
<2010年5月16日 南浦邦仁> [230]
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲の年齢加算 №5  <続・司馬江漢> 若冲連載56

2010-05-15 | Weblog
司馬江漢(1747~1818)のことをこれまで、わたしはほとんど知りませんでした。せいぜい江戸時代後期に油絵を描いた江戸の画家、その程度の理解でした。今回いくらかの本を読み、江漢が驚くべき多才な畸人であったことを、十二分に堪能しました。以下、にわか勉強ですが。
 江漢の画作は、まず幼くして狩野派に習う。これは若冲も同様です。そして父を亡くした10代なかばの江漢は、生活のために浮世絵師となる。そして20歳ほどの彼は師匠、天才絵師の鈴木春信に近づくほどの力量をみせる。錦絵美人画で高名な春信急逝ののち、困惑した遺族や関係者に請われ、春信の贋作を数多く描いたといわれています。売れっ子絵師を失ってしまった版元、彫師、摺師など、関係者の失職困窮を救うためです。また彼はのちに鈴木春重を名のり、美人画を数多く描いています。
 その後、宋紫石(楠本幸八郎雪渓)について、中国清の南蘋画を習得し、平賀源内を通じて西洋絵画に傾斜する。そして日本ではじめて銅版画エッチングを創始。独自の油画も生み出す。
 蘭学仲間にも加わり、天文地理学に通じ、天動説の一般普及にも貢献しています。精巧な銅版画、江漢作「地球全図」「天球図」も有名です。蘭学では、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢などの学者に交わる。平賀源内のつながりでしょう。
 文人としても多く書き残しています。そして自由平等の思想を説く。封建時代人としては珍しい先進のひとです。「人間はこれ世界虫、上下をとわず、すべて同一の人間」「上天子将軍より、下士農工商非人乞食に至るまで、皆以て人間なり」「人間が牛馬ではなく、人間が人間らしく生きて、人間を尊ぶ」など、幕末前の同時代を超えた「市井の哲人」、奇才でした。
 また事業として江漢は多くの品々を制作したが、驚くべきものに補聴器やコーヒーミル(オランダ茶臼)もある。阿蘭陀茶臼は写真でみましたが、デザインも優れ、現代に「江漢ミル」複製を製作発売しても、かなり売れそうなほどの優品です。エレキテルで知られる「非常の人」、平賀源内の弟分だけのことはあります。

 さて司馬江漢は、還暦明けの文化5年正月(1808)を期して、年齢を一気に加算。実年齢62歳を71歳とした理由をみてみましょう。なぜ突然、9歳も加算したのか?
 細野正信氏の説として、成瀬不二雄氏がふたつの見解を紹介しておられる。[1]
 両説を確認する時間がなく孫引きしますが、いつかは原文を拝読したいと思っています。[2]

 まず『巷説集』(崎陽隠士輯 天明2年刊1782 長崎県立図書館蔵)の記載です。この本は、長崎のオランダ語通訳、日本人通詞にかかわる百余話を記したものだそうです。江漢は親しく接した通詞の吉雄幸作らを通じて知ったであろうという。
「養老山人とて一畸人ありて、或時己の齢に一時に九歳を加えて大悟散人と称すと云、何謂か分明ならずと雖、俄に世を欺くは佯老散人とも可称歟」

 そして江漢が晩年、老荘思想に傾斜したことから、『荘子』寓言篇(雑篇第27)の「九年而大妙」に注目された。
 顔成子游はいった。わたしは先生の話しを聞くようになりましてから、…八年たつと生と死の区別を意識しなくなり、九年たつとすべてを一体とする絶妙の境地に達することができるようになりました。
 原文では「一年而野、二年而従、三年而通、四年而物、五年而来、六年而鬼、七年而天成。八年而不知死、不知生。九年而大妙。」

 いずれも説得力のある見解です。しかし、わたしはあえて追加したいと思う考えがあります。江漢は晩年、「ただ老荘のごときものを楽しむ」としていますが、禅寺の鎌倉円覚寺の住持、誠拙和尚の弟子であると記しています。江漢は、老荘思想と禅に親しんだのです。
 彼の伯父、父の兄は、絵心の達者なひとでした。江漢「六歳のとき、焼き物の器に雀の模様のあるのを見て、その雀を紙に写し描いて伯父にみせた。また十歳のころ、達磨を描くことを好み、数々画いては伯父に見てもらった」と、自ら記しています。
 幼いころから江漢は、達磨に惹かれていたようです。達磨・菩提多羅は天竺より六世紀、中国の北魏の少林寺に到る。同寺の岩窟で面壁端坐。面壁九年という。
 江漢は達磨の大悟九年を、還暦を過ぎたとたん、一気に達する、あるいは到達しようと考えたのでしょうか。

参考資料
[1] 成瀬不二雄著『司馬江漢 生涯と画業 本文篇』八坂書房 1995年刊
 「江漢の生没年について」「文化五年の年齢加算とその理由」所載
[2] 確認しました。細野氏は、江漢は九年を加え、大悟の心境を装ったとされる。大妙は「すなわち大悟の意である。九歳年齢を加えて、一足とびに自らにいいきかせるように悟りに入ったつもりになったのである」。また『巷説集』はいまはなぜか、長崎の図書館にはない。崎陽隠士は、行文から推して後に松平定信に属した通詞、石井恒右衛門と考えられる、としておられる。
 細野正信著『司馬江漢ー江戸洋風画の悲劇的先駆者ー」読売新聞社 昭和49年刊
 細野正信編『日本の美術 232 江漢と田善』至文堂 昭和60年刊
<2010年5月15日 南浦邦仁> [229]

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲の年齢加算 №4  <司馬江漢> 若冲連載55

2010-05-08 | Weblog
司馬江漢のことを、年齢加算連載の今回で取り上げようと思っていました。彼は若冲とほぼ同時代人(1747生~1818没)ですが、何と年齢を九歳も加算、サバ読みしているのです。
 何冊か江漢関係の本に目を通し、だいたいのことはわかった積りでしたが、愛機PCで公共図書館の蔵書を調べましたら、あれもある、これもある…。
 それらの本を予約したところ、五冊が近所の図書館分館に届いてしまった。明日、受け取りに行くのですが、当然ながら一日では目を通す、すなわち観るのが追いつきません。
 PC、通信、データベース、検索、ITサービスなどなど、それらの進化にはただ頭を垂れ、感謝するしかありません。しかし困ったことに、あまりにも膨大な情報が集まりすぎます。
 このような状態になると、本は読むものではなく、目を通し観るものになってしまいます。速読斜め読みでは、大切な部分を見落とすのではないか? いつも恐怖心?にかられます。
 日曜日の明日、図書館に行って受け取る司馬江漢本は計七冊。全四巻の大冊『司馬江漢全集』など、揃えて買えば〆て五万円也。江漢の師匠、平賀源内の本も五冊を引きとります。一体どうやって、明日から本たちと格闘すべきか…。困ったものです。

 わたしの読書時間の配分ですが、「平日の昼間も読書ですか?」。それは不可能です。わたしは通勤電車と休日、あとはせいぜい夜明け前の自宅、出勤前早朝のマクドナルドと終業後の餃子の王将など、そのときくらいにしか、頭は仕事バージョンから読書スタンバイに、切りかわりません。だれでもそれぞれ、二十四時間の小刻み利用法があることでしょう。
 司馬江漢の年齢加算の考察は、一週間遅延しようと思っています。ただ結論でいえば、彼は文化五年(1809)、六十二歳になった正月に、突然年齢を一気に九歳も加算します。その後、没年までこの九歳の下駄履き上げ底を通しました。以降は毎年、ふつうに一歳ずつ加算しています。実享年は七十二歳ですが、彼が称した年齢では、没年は八十一歳でした。彼もまた改元加算には無縁です。
 昔は数えで歳を数えます。還暦は六十一歳でした。江漢は還暦を過ぎた直後、翌正月に通常の一歳にプラス九歳も加齢したのです。「還暦過ぎれば年知らず」、どうもこの語は正しいようです。ただ、改元ごとに一歳加算したという説には、まだ納得がいきません。
<2010年5月8日 南浦邦仁> [228]
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲の年齢加算 №3 <狩野永岳の年齢加算> 若冲連載54

2010-05-05 | Weblog
狩野永岳<かのう・えいがく>は、幕末期に京を中心に活躍した画家です。京狩野家第九代として、激動する幕末期に京狩野派を再興した人物です。生年寛政2年(1790年)は、若冲没の10年前。亡くなったのは慶応3年1月2日、同1867年は明治改元の前年、坂本龍馬や中岡慎太郎たちが非業の死をとげた動乱の同じ年です。永岳享年78歳。
 永岳は朝廷禁裏、摂家九条家、東本願寺、紀州徳川家、譜代筆頭彦根伊井家、臨済や真言の本末寺などの御用絵師。また近江長浜や飛騨高山などの豪商富農たちとも深い絆をもっていました。狩野派の絵描き集団、工房の連中を養うことは九代当主として、かなりの重荷であったろうと推察します。

 彼も若冲同様に晩年、実年齢を加算しています。以下は、高木文恵氏の記述。[1]
 永岳は、慶応三年(1867)正月二日に没した。享年七十八歳であった。京狩野派の菩提寺は、真宗大谷派の浄慶寺で、墓所は東山の泉涌寺の裏山にある。永岳の年齢については、ひとつの謎がある。六十四歳までは実年齢を称しているのに、六十五歳からは二歳加えた年齢を称していることである。年紀はないが、七十八歳で亡くなったはずなのに七十九歳と記す作品があり、京狩野派に伝わる資料では、永岳が八十歳まで存命したことになっている。これらはいずれも二歳加齢したためと考えられる。どのような理由からなのか、今後の検討を必要とする。

 また脇坂淳氏は「狩野永岳の年齢加算問題」と題して記しておられる。[2]
 狩野永岳(1790~1867)の作品は今日、相当数が知られるようになり、彼の作品の中には制作時期を示す年紀、あるいは制作した時の年齢を記した作品が存在する。…1853年3月までは通年の数え年を表記し、翌年の1854年2月になると急に年齢を増す。永岳は64歳から新年を迎えると65歳になるのが普通であるが、[そのうえに2歳を加算して]一気に67歳という年齢を標榜するのである。そして以降は年が変わるたびに67歳に1歳ずつを加えて80歳の年に没する。実年齢は78歳であった。

 永岳は嘉永6年3月(1853)までは、通年の数え年64歳を記している。ところが翌年の嘉永7年2月には65歳ではなく、2歳加算の67歳との年齢を書している。嘉永6年3月(1853)から翌嘉永7年2月までの1年足らずの間に、3歳加齢しているのである。一気の加算であるか、二度三度にわけての加齢であるか。それは不明ですが。
 嘉永7年11月27日、安政に改元された。しかし彼の年齢加算は、改元の9カ月も前である。また嘉永以降の改元は永楽没の慶応3年までに、安政、万延、文久、元治、慶応と五度もあった。しかし永岳の加齢は、嘉永6年から7年にかけての1年足らず間の、実1歳プラス2歳のみで、度々の改元とは無縁である。両年加算の後、永岳はただ単に1歳をふつうに足しただけである。
 狩野家資料には「禁裏御内、狩野縫殿助(永岳)、八十歳」。ボストン美術館「雪景山水図」には「金門(禁裏)畫史狩野永岳八十翁筆」とあるという。
 通説「還暦すぎては年はなし」は、確かのように思う。しかし改元ごとに一歳加算するという説には、納得しかねる。これは川上不白の略記載の推測でしかない。わたしも還暦が近いだけに、考えるところが多い…。

[ 参考資料 ]
[1] 高木文恵著『伝統と革新―京都画壇の華 狩野永岳―』
 彦根城博物館編発行 2002年10月刊
[2] 脇坂淳著「狩野永岳の年齢加算問題」
 「京都教育大学紀要」№102 2003年3月刊 所収
<2010年5月5日 南浦邦仁> [ 227 ]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲の年齢加算 №2 <若冲の命日と享年> 若冲連載53

2010-05-03 | Weblog
伊藤若冲は八十五年の生涯、三カ寺に深く関わりました。まず伊藤家の菩提寺である宝蔵寺。錦市場から徒歩数分の位置にある浄土宗西山派、裏寺通六角下ルの同寺境内には、若冲の父母と弟たちの墓があります。しかし若冲の墓は宝蔵寺にはありません。しかし、おそらく四十歳までは、彼もこの寺の信徒であったろうと思います。

 つぎに親密になったのが、御所の北にある臨済宗の相国寺です。三十歳代後半、売茶翁との出会いから相国寺の大典和尚を知ったのでしょう。本山相国寺には「動植綵絵」「釈迦三尊像」三十三幅、金閣寺で有名な鹿苑寺大書院には水墨障壁画五十面を寄進している。若冲と大典、ふたりの関係は非常に深いものがあった。なお鹿苑寺は相国寺の末寺です。
 相国寺墓所には、若冲の墓もあります。ただ生前に建てた寿蔵であり、彼の亡き骸は埋められてはいません。

 そして最後の第三寺は、伏見深草の黄檗の寺、百丈山「石峰寺」です。還暦を迎える数年前から、亡くなる八十五歳まで、四半世紀を超える歳月を、彼はこの寺にすべての力を注ぎ込みました。通称「五百羅漢」の石造物群、観音堂天井画など、若冲が完成を目指したのは、現代のことばであらわせば、釈尊一代記パノラマ「佛伝テーマパーク」でした。

 つぎに三カ寺に残る記録から、若冲の命日と享年をみてみましょう。まず宝蔵寺の過去帳。二冊ありますが、安永の表紙で、文化九年八月記之と記された冊の十日の項には、
「寛政十二庚申九月/米斗翁若冲居士/四代目源左衛門茂衛右門也/八十七才ニテ死享保元丙申年ノ生」
 また享保年代からはじまる宝蔵寺過去帳の別冊には、
「伊藤若冲祥月命日/寛政十二年庚申九月十日/米斗翁若冲居士/右伏見石峯禅寺ニ葬。土。/玉屋伊右衛門ヨリ志。諷経ニ行」
 若冲の誕生日は正徳六年二月八日(1716)とされています。しかしこの記載によると「享保元年」です。正徳六年は同年六月二十二日に享保元年に改元されました。彼の誕生日は年の後半、改元以降の生まれであろうか。
 相国寺の若冲居士壽藏・寿蔵の大典の記、読み下し文では「父、名は源、母は近江の武藤氏、享保元祀二月八日を以って居士を城中(京)の錦街に生めり」とあります。享保元年ではなく、正徳六年とすべきはずですが…。
 若冲の実享年は八十五歳ですが、ここでは八十七歳と記され、命日は十日である。若冲は伏見深草の禅寺、百丈山「石峰寺」に土葬された。墓はいまも石峰寺にあります。
 彼は、浄土宗宝蔵寺でも臨済宗相国寺でもなく、臨済黄檗に帰依していたのです。黄檗山万福寺の末寺である若冲ゆかりの寺、石峰寺での葬儀には、伊藤家の菩提寺である宝蔵寺からも読経に僧が行った。その費用は玉屋伊右衛門が負担した。玉屋のことは不明ですが、伊右衛門の妻の墓は宝蔵寺にあります。
 なお石峰寺の表記ですが、石峯寺とも記す。まぎらわしいので、わたしは峰で通します。

 伊藤家は慶応三年ころに断絶します。後を引き継ぎ宝蔵寺の同家菩提も弔ったのが、親戚筋である錦市場の安井家でした。大正末年ころに当主の安井源六氏が書き残した「伊藤家系図」によると、
「四代/源左ヱ門/後茂右ヱ門/(米斗翁若冲)/寛政十二年九月十日没/行年八十七才」
 若冲は二十三歳のときに父を失い、若くして錦市場の家業を引き継ぐ。青物大問屋「桝屋」の当主として、四代目源左衛門を襲名しました。その後、四十歳にして「桝源」を弟に譲り、伊藤茂右衛門を名乗る。画号「若冲」は、四十歳で隠居する数年前、三十歳代なかば過ぎからの雅号のようです。

 相国寺の記録をみてみましょう。「祖塔過去帳・侍眞寮蔵」には、「斗米庵若冲居士/寛政十二年庚申九月十日」
 「参暇寮日記七十二・玉岡中館筆録」では「但し居士九月十日、寂。」
 「参暇寮日記」寛政十二年十月二十七日欄に「但し居士九月八日寂、例年以今月今日諷経可在候事」。ここに唯一、九月八日を命日とする記載がみられますが、誤記です。

 そして晩年、若冲が三十年近い歳月、全力を注ぎ込んだ石峰寺の過去帳の十日欄をみてみます。
「壽八十八歳/寛政十二年庚申/斗米翁若沖居士/九月入祠堂」
 この旧冊には「寛政十一歳次己未初冬再改之」と記されている。若冲が亡くなる寛政十二年の前年から記載のはじまった過去帳である。
 なおこの記載で興味をひくのは、「八十八歳」「十日」「居士」、そしてサンズイの「沖」「斗米翁―米斗翁」などである。彼が門前に住み、長い歳月を捧げつくした石峰寺である。この寺の記載、若冲が親密であった住職住持の密山和尚が記したであろう記述である。もっとも信頼度の高い史料とみることができます。命日は九月八日ではなく、十日に違いありません。
 若冲は、寛政十二年九月十日に亡くなり、在家の「居士」であり、出家はしていないと判断できる。また享年は、八十五歳であるが、自称八十八歳であり、石峰寺観音堂を飾った天井画には「米斗翁八十八歳画」と記している。また同様の八十八歳款記は鹿苑寺「亀図」にもある。若冲は最晩年「八十八歳」を自称し、回りのみなも彼を米斗翁「米寿」であると、そのように認識していたのでしょう。なぜか若冲は三歳、実年齢に加算しています。
 余談ですが「亀図」の賛は、黄檗僧の聞中が記しています。若冲没後、二十五年もたってからの後賛で「八十七翁聞中題」とあります。彼は若きとき、若冲から絵を習い芦雁図を描くことを楽しみとした弟子でした。聞中浄復、彼が亡くなったのは若冲逝去の二十九年後、実に九十一歳でした。みな長生きですね。だれもかれも、年齢加算をしていたのでしょうか?
<2010年5月3日 南浦邦仁>何箇所か、旧字を新字にかえています。

2012年9月10日追記。今日は若冲忌です。伏見深草の石峰寺に行ってきました。阪田良介和尚の読経のあと、「石峰寺伊藤若冲顕彰会」発足の話がありました。若冲の墓と筆塚、五百羅漢の保存。そして寺の歴史や若冲の功績などを後世に伝えることを顕彰会は目指しています。若冲ファンはぜひご入会ください。詳しくは同寺ホームページまで。
 昨日の読売新聞が伝えました。石峰寺筆塚の建立者は清坊ですが、彼は若冲の弟の白歳の孫であることが判明しました。滋賀県信楽のミホミュージアム学芸員・岡田秀之さんの調査結果です。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする