ふろむ播州山麓

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若冲の謎 第13回 <年齢加算 後編>

2017-02-22 | Weblog
<歌川広重>

「東海道五十三次」で有名な浮世絵師・歌川広重(1797~1858)は幕府定火消同心の安藤源右衛門の長男であった。父は下級武士で三十俵二人扶持という微禄。安藤家は代々、幕府の定火消役人をつとめる。
 広重十三歳の文化六年(1809)、彼は母をそして父を相ついで亡くした。やむなく年齢を四歳加算する。急ぎ元服を終え、家督を相続した。士分の家を守るための急な成人式、年齢加算であった。
 そして実年齢十五歳にして、幕臣のまま浮世絵師の歌川豊広に入門した。翌年にはその腕を認められ、十六歳で早くも歌川広重の名を許される。司馬江漢も十代、まったく同様に浮世絵師を経験している。ふたりはともに家計を支えるための売画、そして浮世絵画の修行であった。
 その後、広重は定火消の役を親戚の安藤仲次郎にゆずり、自身は画業に専念する。なお広重は歌川だが、本名から安藤広重ともよばれたようだ。
 ところで広重の没年齢は六十二歳だが、六十五歳と六十六歳説がある。これは十代にして、やむなく家督相続のために四歳を加算し、そのまま年齢をかさ上げした歳を引きずっていたためと思う。役人としての彼は、四歳加えた年齢を称さざるを得なかった。家督断絶を防ぐために少年が年齢を四歳も足す。年齢加算にはいろいろなケースがあるものだ。


 参考までに江戸火消の組織を記す。
 三組織があった。まず大名火消。なかでも加賀藩前田家の加賀火消と、播州赤穂浅野家の大名火消が有名である。赤穂義士の討ち入りの姿は火消装束だったそうだが、おそらく浅野家の誇るべき火消役の誇示、あるいは火消装束がために夜間に大路を自由に行進できたからであろうか。
 そして二つ目の組織が、いろは組。五十に近い組で有名な町火消である。江戸の華と呼ばれた。
 三番目が定火消(じょうびけし)。幕府直轄の火消組織である。広重のころ、定火消隊は江戸に十組あり、各組の長は旗本で五千石級。江戸城内の菊の間敷居外詰で、一万から二万石の城なし大名同等の待遇であった。火事出動のさいには、組の長の定火消役は銀筋星兜の火事頭巾と火事装束をつけて騎馬で駆けつけ、現場の床几に腰をかけた。
 各定火消役・組旗本の配下にあったのが、下級旗本の与力である。騎乗することが許された与力が、一組に六人ついた。その下に広重らの徒歩同心三十人がいる。同心は御家人で、旗本とちがって将軍お目見えも許されない。身分の低い下級武士である。幕臣とは名ばかりで、生活困窮者が多かった。
 定火消部隊の出動時、一隊の構成は、上番十人、下番五人、水番十人、残番十人、纏番十二人、玄蕃桶持ち六人、梯子番十六人、ポンプの竜吐水持ち八人、鳶口持ち十人、籠長持ち二人、用箱持ち一人、部屋頭三人、役割二人の合計九十四人。彼ら隊員は「臥煙」(がえん)と呼ばれたが、日勤常時だいたい百人くらい。定火消屋敷に詰める彼らは三交代制なので、一組で総定員約三百人の組織になる。江戸全体では十組計三千人以上。
 これらの臥煙たちを実質、直接指揮していたのは、薄給の広重ら御火消御役同心であった。一組に三十人所属した同心は、三十俵三人扶持から十五表二人扶持まであり六人いた上司旗本の定火消御役与力の八十俵高よりもずっと低かった。


<木喰行道上人>

 木彫仏で有名な木喰行道上人、明満仙人(1728~1810)は、遊行僧として北海道から九州薩摩まで巡った。そして各地にたくさんの微笑仏を残したが、彼は六十六歳のときに一気に十歳を加算し、それ以降ずっと十歳上の年齢を押し通す。そのため実享年は八十三歳だが、どの古記録にも九十三歳と記されている。
 木喰は六十六歳の年に念願の五智如来像を完成させたが、自らの名を「五行菩薩」に改名し年齢も十歳加算した。小島梯次氏は「大きな懸案事項を成し遂げた充実感の中での心機一転のために改名に連動して改年齢が行われたと思われる」


<狩野永岳>

 狩野永岳(1790~1867)は六十五歳のときに六十七歳と款記し、その後もずっと二歳の加算を通している。彼も改元とは無縁である。京から江戸に出向いた折り、天気晴朗のなかで不二の山を往復で二度拝んだからではないかとも言われているが、理由は不明である。
 狩野永岳は、幕末期に京を中心に活躍した画家。京狩野家第九代として、激動する幕末期に京狩野派を再興した人物である。生年寛政二年(1790)は、若冲没の十年前。亡くなったのは慶応三年一月二日、同一八六七年は明治改元の前年、坂本龍馬や中岡慎太郎たちが非業の死をとげた動乱の同じ年である。
 永岳は朝廷禁裏、摂家九条家、東本願寺、紀州徳川家、譜代筆頭彦根伊井家、臨済や真言の本末寺などの御用絵師をつとめる。また近江長浜や飛騨高山などの豪商富農たちとも深い絆をもっていた。狩野派の絵描き集団、工房の連中を養うことは九代当主として、かなりの重荷であったろうと推察する。

  永岳は、慶応三年(1867)正月二日に没した。享年七十八歳であった。高木文恵氏によると、京狩野派の菩提寺は真宗大谷派の浄慶寺で、墓所は東山の泉涌寺の裏山にある。永岳の年齢については、ひとつの謎がある。六十四歳までは実年齢を称しているのに、六十五歳からは二歳加えた年齢を称していることである。年紀はないが、七十八歳で亡くなったはずなのに七十九歳と記す作品があり、京狩野派に伝わる資料では、永岳が八十歳まで存命したことになっている。これらはいずれも二歳加齢したためと考えられる。どのような理由からなのか、今後の検討を必要とする。(高木著『伝統と革新―京都画壇の華 狩野永岳―』)

 また脇坂淳氏は「狩野永岳の年齢加算問題」に記しておられる。
 狩野永岳の作品は今日、相当数が知られるようになり、彼の作品の中には制作時期を示す年紀、あるいは制作した時の年齢を記した作品が存在する。…一八五三年三月までは通年の数え年を表記し、翌年の一八五四年二月になると急に年齢を増す。永岳は六十四歳から新年を迎えると六十五歳になるのが普通であるが、[そのうえにニ歳を加算して]一気に六十七歳という年齢を標榜するのである。そして以降は年が変わるたびに六十七歳に一歳ずつを加えて八十歳の年に没する。実年齢は七十八歳であった。

 嘉永七年十一月二十七日、安政に改元された。しかし彼の年齢加算は、改元の九ヶ月も前である。また嘉永以降の改元は永楽没の慶応三年までに、安政、万延、文久、元治、慶応と五度もあった。しかし永岳の加齢は、嘉永六年から七年にかけての一年足らず間の、実年一歳プラス二歳のみで、度々の改元とは無縁である。両年加算の後、永岳はただ単に一歳をふつうに足しただけである。
 狩野家資料には「禁裏御内、狩野縫殿助(永岳)、八十歳」。ボストン美術館蔵「雪景山水図」には「金門(禁裏)畫史狩野永岳八十翁筆」とあるという。

 狩野永岳の近年発見された「郭子儀図」が興味深い。箱書きには自筆で「一百五十歳半翁」とある。百五十歳の半分、すなわち七十五歳である。七十五歳が長寿の大きな節目と考えられていたようだ。ところが箱に収められた「郭子儀図」には「七十有二」すなわち七十二歳の年齢書きである。箱に七十五歳と記したのは、作画の三年後だったのか。


<年齢加算のむすび>

 若冲の年齢書きは、七十五歳からはじまった。それ以前に年齢を記した作品はない。狩野永岳と同じ「一百五十歳半翁」の「七十五」であろうか。若冲も七十五歳にかなりのこだわりを持っていたことは確かであろう。

 七十三歳の正月晦日には、驚愕の天明の大火があった。京の市街地は焼き尽くされてしまった。彼は年齢を画に記すにあって、実年齢七十三歳時から開始したであろうが、あまりにも不幸であった天明の大火の七十三歳を嫌ったのではないか。
 昔は大きな不幸があると、家族や集落をあげて餅を搗き、いち早く年を越してしまうという歳違えの習俗があった。伊藤家だけではなく、たくさんの京のひとたちも歳違えを実行し、どん底のこの凶年をやり過ごしたのではないだろうか。
翌年の七十四歳について辻惟雄氏は、若冲は死に通ずる四を忌避したのではないかとされる。 
 実年齢七十五歳の夏、若冲は大病を患った。相国寺の記録では寛政二年六月、寺からの見舞いが若冲の自宅を訪れている。実年七十五歳の年、特に後半は大作を描くことは困難であったろう。七十三歳と七十四歳のときにも、「七十五歳画」は制作されたのではなかろうか。

 通説「還暦すぎては年はなし」は、確かのように思う。還暦を過ぎてしまえば、何歳からでも、数は好きなだけ加えてもよい。そのような習俗があったのではなかろうか。

 しかし改元ごとに一歳加算するという説には、納得しかねる。
 川上不白について岡田秀之氏は年齢書きのある遺墨を調査した結果、どの作も「実年齢に一歳加算しているだけで、不白が改元ごとに一歳ずつ加算したような事実は確認できなかった」としておられる。
 数え還暦の六十一歳までは正確に数えるが、それを過ぎれば年齢加算は個々人の勝手で、自由だったように思う。改元年に加算した人物は、いまだに誰ひとりも確認されていない。

 ところで上記のどの人物も江戸後期の生まれだ。そのころ画家文人や宗教者などには、還暦後の加算は特殊なことではなかったのではないだろうか。
生年は若冲1716年、川上不白1719年、木喰上人1728年、司馬江漢1747年、狩野永岳1790年、富岡鐵斎1837年など。紹介できた実例はこの程度だが、大悟散人も含め圧倒的に十八世紀の生まれが多い。
 これからもっとたくさんの人物の加算例が発見報告されることであろう。それらによっていつかは解明されるだろうが、年齢加算にはさまざまの個人の事情がありそうだ。若冲の年齢問題も、きっと近い内に解決し確定するという予感がある。
<2017年2月22日 南浦邦仁>


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若冲の謎 第12回 <年齢加算 前編>

2017-02-03 | Weblog
若冲はいまだに謎の多い人物である。謎のひとつに年齢加算の難問がある。享年は数え年齢で八十五歳であった。ところが八十六、八十七とか八十八歳と自ら記した作品が残っている。実年齢に最大三歳を加算している。
 
 狩野博幸氏は、還暦以降の改元に際してその都度一歳を加算したという「改元一歳加算説」をとなえておられる。例としてあげられるのが茶人の川上不白(1719~1807)で、二歳か三歳を加算しているが、どうも改元ごとに一歳ずつを足したようだ。
「昔は還暦の後は年なしとし、改元ごとに一年ずつ加算した」。狩野氏のこの解釈がいまではほぼ定説になっている。確かに説得力のある加齢説であるが、はたしてそうであろうか。
 
 若冲が還暦以降に迎えた改元は二度。安永から天明へ、天明から寛政へ、二回の改元であった。二度の改元では八十七歳止まりであり、三年上乗せの八十八歳には届かない。
 
 もうひとつの説を辻惟雄氏が提唱しておられる。若冲は「四」という数字が「死」に通じるため、還暦以降は四のつく年を忌避し、四を五に変えてしまったという説である。六十五、七十五、八十五歳。この三度の一歳加算で享年は八十八歳になったとする。
 
 岡田秀之氏は「伊藤若冲の年齢加算について」(「國華」1408号)でより詳しく論じておられる。
 まず民俗学による戦前の調査から、年増し、年違え、耳ふさぎの風習を紹介する。身近な同年齢者が亡くなると、「同齢感覚」という不安畏怖の民間信仰心から、歳をひとつあわてて加えた事実が数多く報告されている。
 また文献史学からは平山敏治郎氏が中世から近世にかけて、年違え、耳ふさぎの加齢があったことを、史料からたくさんの例をあげている。
 耳ふさぎ・耳ふたぎとは、家族のなかのだれかと同年齢者が亡くなったことを知ると、家人は同年の本人にはその死を知らせずに、あわててモチをつく。そして正月をいち早く迎え、一歳加齢してしまう。そして搗いたばかりの餅を当人の耳に当て、亡者が同年の生者を呼ぶ声をふさぐ。
 また凶作の年にはその年を早く終えるために地域あげて餅をつき、今年におさらばし夏や秋に正月を迎えてしまう。豊作の兆候でも台風などの被害を恐れて、いち早く門松をたてて正月を迎えてしまうこともあった。ただこの風習では地域共同体の全員が早めの加齢を迎えるので、終生の加算が続くとは考えにくい。ただ年に二度正月祝いをすれば年齢加算になってしまう。
 民俗学や文献史学にみえる「年違」(としたがえ)の記述をみていると、改元と年齢加算は無関係といえそうである。
 
 さてつぎに歴史上の人物で、明らかに年齢を加算しているいくつかの例を、年代をかまわずランダムに紹介してみよう。
 
 
<富岡鐵斎と常煕興燄>
 
 画家の富岡鐵斎(1837~1924)は、大正十三年大晦日、数え八十九歳で亡くなった。後一日たてば元旦であり、目出度く卆寿九十歳を迎えるはずだった。ところが彼は生前にいち早く九十歳と年記している。実は八十九歳の夏ころに予祝を行い、一足早く卒寿の祝いを済ませて九十歳にしていたのである。
 
 予祝では常煕興燄(じょうきこうえん/1582~1660)も同様である。彼は中国の黄檗僧だが、日本で黄檗禅をひろめた隠元を助けた人物である。七十九歳の七月ころ、病のために起きることあたわず。九月早々、傘寿八十歳を予祝。九月二十九日に示寂。
 
 
<司馬江漢>
 
 司馬江漢(1747~1818)は還暦を期して、実年齢に九歳を一気に加算している。そのため享年は七十二歳説と八十一歳説がうまれてしまい、研究者の間ではいまも混乱している。
 江漢の一気加算は文化五年(1809)、六十二歳になった正月である。その後、没年までこの九歳の下駄履き上げ底を通した。以降は毎年、ふつうに一歳ずつ加算している。実享年は七十二歳だが、彼が称した年齢では、没年は八十一歳であった。彼もまた改元加算には無縁だ。
 昔は数えで歳を数える。還暦は六十一歳。江漢は還暦を過ぎた直後、翌正月元旦に通常の一歳にプラス九歳も加齢した。「還暦過ぎれば年知らず」、どうもこの文言は正しいのかもしれない。ただ、改元ごとに一歳加算したという説には、まだ納得がいかない。
 
 江漢の人生をざっとみてみよう。画作はまず幼くして狩野派に習う。これは若冲も同様のようである。そして父を亡くした十代なかばの江漢は、生活のために浮世絵師となる。そして二十歳ほどの彼は師匠、天才絵師の鈴木春信に並ぶほどの力量をみせる。錦絵美人画で高名な春信急逝ののち、困惑した遺族や関係者に請われ、春信の贋作を数多く描いたといわれている。売れっ子絵師を失ってしまった版元、彫師、摺師など、関係者の失職困窮を救うためであった。また彼はのちに鈴木春重を名のり、美人画を数多く描いている。
 その後、宋紫石(楠本幸八郎雪渓)について、中国清の南蘋画を習得し、師友の平賀源内を通じて西洋絵画に傾斜する。そして日本ではじめて銅版画エッチングを創始した。独自の油画も生み出す。
 蘭学仲間にも加わり、天文地理学に通じ、天動説の一般普及にも貢献している。精巧な銅版画、江漢作「地球全図」「天球図」も有名である。蘭学では、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢などの学者に交わる。彼の兄貴分であった平賀源内のつながりであろう。
 文人としても多く書き残しているが、自由平等の思想を説く。封建時代人としては珍しい先進のひとであった。「人間はこれ世界虫、上下をとわず、すべて同一の人間」「上天子将軍より、下士農工商非人乞食に至るまで、皆以て人間なり」「人間が牛馬ではなく、人間が人間らしく生きて、人間を尊ぶ」など、幕末前の同時代を超えた「市井の哲人」、畸才であった。
 また事業として江漢は多くの品々を制作したが、驚くべきものに補聴器やコーヒーミル(オランダ茶臼)もある。阿蘭陀茶臼は写真でみたが、デザインも優れ、現代に「江漢ミル」複製を製作発売しても、かなり売れそうなほどの優品。エレキテルで知られる「非常の人」、平賀源内の弟分だけのことはある。
 
 さて司馬江漢の九歳加算について、成瀬不二雄氏が紹介する細野正信氏の二説がある。
 まず崎陽隠士輯『巷説集』(天明2年刊 元長崎県立図書館蔵)の記載。この本は、長崎のオランダ語通訳、日本人通詞にかかわる百余話を記したものだそうだ。江漢は親しく接した通詞の吉雄幸作らを通じて話しを知ったであろうという。
「養老山人とて一畸人ありて、或時己の齢に一時に九歳を加えて大悟散人と称すと云、何謂か分明ならずと雖、俄に世を欺くは佯老散人とも可称歟」
著者の崎陽隠士は、行文から推して後に松平定信に属した通詞、石井恒右衛門と考えられる。
 
 そしてもうひとつの説は江漢が晩年、老荘思想に傾斜したことから、『荘子』寓言篇(雑篇第二七)の「九年而大妙」に細野氏は注目された。
「顔成子游はいった。わたしは先生の話しを聞くようになりましてから、…八年たつと生と死の区別を意識しなくなり、九年たつとすべてを一体とする絶妙の境地に達することができるようになりました」
 『荘子』原文では「一年而野、二年而従、三年而通、四年而物、五年而来、六年而鬼、七年而天成。八年而不知死、不知生。九年而大妙。」
細野氏は、江漢は九年を加え、大悟の心境を装ったとされる。大妙は「すなわち大悟の意である。九歳年齢を加えて、一足とびに自らにいいきかせるように悟りに入ったつもりになったのである」
 
 いずれも説得力のある見解だ。しかし、わたしはあえて追加したいと思う考えがある。江漢は晩年、「ただ老荘のごときものを楽しむ」としているが、禅寺の鎌倉円覚寺の住持、誠拙和尚の弟子であると記している。江漢は、老荘思想と禅に親しんだ。
 彼の伯父、父の兄は、絵心の達者なひとであった。江漢「六歳のとき、焼き物の器に雀の模様のあるのを見て、その雀を紙に写し描いて伯父にみせた。また十歳のころ、達磨を描くことを好み、数々画いては伯父に見てもらった」と自ら記している。
 幼いころから江漢は、達磨に惹かれていたようだ。達磨・菩提多羅は天竺より六世紀、中国の北魏の少林寺に到る。同寺の岩窟で面壁端坐、面壁九年という。
 江漢は達磨の大悟九年を、還暦を過ぎたとたん、一気に達する、あるいは到達しようと考えたのであろうか。
 
 
<鈴木春信>
 
 
 
 
 司馬江漢の画師、錦絵創始の浮世絵師・鈴木春信(~明和7年6月14日か15日 1770年)だが、彼も享年が定まらない。出身も身分も家族のことも、何もわからない謎の人物である。ただ司馬江漢のもうひとりの師であった平賀源内が長屋住まいのころ、その長屋の家主は春信であった。当時、三人はみな非常に近い関係だったのである。
 春信の没年齢については、四十六歳、五十三歳、六十七歳などと実にさまざま。ただ司馬江漢が記した「そのころ、鈴木春信という浮世絵師、当世の女の風俗を描くことを妙とした。四十余にしてにわかに病死」
 享年を推定する史料はこの江漢の記載「四十歳余」しかない。現在では四十六歳没という説に落ち着いているそうだが、確たる根拠はなさそうだ。
 春信はおそらく年齢加算とは関係なく、単に生年が不明であるというのが結論ではないか。昔のひとは生年不詳、あるいは不明という方があまりに多い。われわれ現代人とは、生年月日の感覚意識がおおいに異なるように思う。また正月元旦に歳を加える時代、生誕月日にはあまりこだわる必要がない。
 確然と存したのは、過去帳や墓表などに記された記録である。逝ってはじめて記載される記録だけといってもいいようだ。江戸期以前の彼らには、出生届も戸籍もなかった。亡くなると、過去帳や墓に没年月日は書き込まれるが、享年記載がなければ年齢不詳になってしまう。また享年の歳を記されてもその年齢は、加算や偽年かもしれない。当時の没年齢は、簡単に信用してはいけないようだ。
<2017年2月3日 南浦邦仁>
 
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