ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

石峰寺過去帳 <若冲連載49>

2009-11-29 | Weblog
 ところで若冲の過去帳のことは、伊藤家の菩提寺である宝蔵寺のものがよく知られているが、石峰寺にも新旧二冊がある。古い冊には、寛政十一歳次己未初冬再[改]之と記されている。若冲没の前年である。十日の欄に「壽八十八歳/寛政十二庚申/斗米翁若沖[居]士/九月入祠堂」とある。なお[改]と[居]字は旧字。
 若冲の命日には、十日と八日の二説があるが、彼が住み土葬された石峰寺、また前年に新帳なった過去帳の記載であることをみても、やはり十日に入寂したに違いない。なお当時の住持は、密山和尚である。「八十八歳」は若冲が最晩年に度々、款記している。
 新冊には「昭和二十四巳丑年九月再改/百丈十二代龍潭誌」と記され、「寛政十二/斗米翁若沖[居]士/庚申九月/十日/八十八才/長澤ゆき」と書かれている。これまで、長澤ゆきという女性について語られることが、ほとんどなかった。不思議な女性である。彼女はかつて同居していた妹か妻らしき、心寂あるいは眞寂であろうか。寺にはもう一冊、この記載のもとになった古い過去帳があったはずである。しかし石峰寺は昭和五十四年に再度の火難に遭い、本堂を焼失した。たぶんその時に、失われたのであろう。
 ところで若冲の妹であるが、いたとする証拠は、平賀白山の記述以外、何も残っていない。若冲は二十三歳のときに父を喪っている。そのとき母は三十九歳であった。この翌年に妹が生まれていたと仮定すれば、年齢は若冲よりも二十四歳若いということになる。しかし蕉斎平賀白山が石峰寺に若冲を訪ねたとき、若冲七十九歳であった。妹は五十五歳以上の年齢である。彼女に小さな子がいるのは不思議だ。清房は五歳であった。
 長澤という姓であるが、若冲が生きた時代を追ってみて、ただひとりだけ、気になる同姓の人物がいる。画家の長沢芦雪である。『平安人物誌』天明二年(一七八二)版に名がある。「長澤/字/御幸町御池下ル町/長沢芦雪」と記されている。正確に書けば長澤蘆雪であろうが、ゆきとの関係は一切、不明である。芦雪は若冲より三十八歳年少であったが、寛政十一年(一七九九)、若冲没の前年にわずか四十六歳で急逝する。法名は南舟院澤誉長山蘆雪居士。本名は上杉政勝、幼名を魚といったようである。

 石峰寺過去帳の記載をみて思うのは、まず「斗米翁」であるが、若冲は斗米庵、米斗翁と書くのを常とした。また若冲の「冲」字であるが、墓も過去帳もともにサンズイを使っている。石峰寺墓表は「斗米菴若沖[居」士墓]とサンズイであり、若冲生前に相国寺に建てた墓碑・寿蔵も同様である。ニスイとサンズイの考察も面白いテーマだがいまは措いて、結論だけをいえば、冲は沖の俗字である。この世の俗を離れて、正すなわち聖に帰ったということであろうか。仲字なども散見するが、それらはいずれも誤記である。それから相国寺と石峰寺の墓石の筆跡は、まったく同じ大典筆である。
 なお「若中」印の作品がこれまで2点発見された。驚くべきことに、いずれも真筆である。中字の画、売茶翁を描いた一幅はいま信楽のミホミュージアムに展示されている。彼は若冲を名乗る前、おそらく三十歳代前半の一時期、最初は「若中」と称したようである。多分、売茶翁からニスイが正しいと指摘され、あらためたのであろう。
 いずれにしろ、若冲は「居士」すなわち在家者として葬られた。禅僧の墓碑に記される、和尚、大和尚、禅師などではない。

 これまでみてきたように、彼は世間からは、釈若冲あるいは僧若冲師、画禅師とみなされ、出家者として扱われてきた。しかし若冲にとって、寺の雑務や行事儀式、複雑な上下左右の人間関係など、とても手に負えるものではない。気ままな世界で、自由に画を描き続ける創造活動こそが、彼にとって唯一望むところの生きる道であった。市井で茶を売った売茶翁・高遊外のように、晩年の彼も、勧進のためとはいえ、売画を蔑むことはなかった。画を無心に描くことは、若冲にとっては座禅と同一であり、参禅であったろう。画禅一致の境地であろう。また石峰寺像園への勧進であった。
 伯の蓮の例えを再考してみよう。蓮は俗の泥から芽を出し、水中を伸びる。そして水面から空中に抜け、美しい蓮華を咲かす。しかし当然ではあるが、根はあくまで俗泥のなかにある。また蓮の根は、レンコンである。青物問屋の倅だった若冲には、こころに響く何かがあったのではなかろうか。晩年、大火以降の作品には、蓮の絵が極端に増える。豊中の西福寺屏風絵は「蓮池図」。売茶翁の出身地も、肥前蓮池である。

 黄檗山に正式に認知登録された僧の名を記す「黄檗宗鑑録」に、革叟若冲の名はない。結局のところ、彼は売茶翁と同じく、非僧非俗こそ最上の生き方としたのであろう。ちなみに売茶翁こと元黄檗僧・月海元昭は、昭和三十三年に追贈され、はじめて「宗鑑録」に名が載る。高遊外没後、実に百九十五年が経っていた。
<2009年11月29日> [191]
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唐のポロ <古代球技と大化の改新 8>

2009-11-28 | Weblog
中国唐代、ペルシアからチベット経由で伝えられた馬打球が盛んだった。馬打球は、ポロ・撃毬・馬球・打球・撃毬とも記されたが、わたしは「馬打球」とよぶ。
 騎乗で激しく走り、球を追って擬似戦闘を行う。このスポーツは唐代の皇帝や貴族、将校たちに好まれた。本来は武技としての騎馬訓練である。
 1956年のこと、西安の唐代大明宮遺跡から石碑が出土した。「含光殿および球場など、大唐大和辛亥の年乙未月に建つ」と記されている。大和辛亥は西暦831年である。この球場は宮殿の敷地内にあった。馬打球専用の宮廷競技場である。
 当時の球場は、砥石の平らなるごとし、油をひいて毬場を造る、とか記載されている。風塵防止のためであろうか。しかしこのような地面では、馬が滑って転ぶのではと、心配になる。

 近年発掘された章懐太子李賢墓の壁画、西暦706年ころの画には、競技者が馬に乗り、球を追う姿が活写されている。騎手の数は20数名にのぼる。文献記録は各種あるが、壁画として中国最古の馬打球像である。なお章懐太子李賢は、唐皇帝・高宗と則天武后の次男。若くして30歳で亡くなった。
 この壁画の騎手は、それぞれ色とりどりの筒袖の袍を身に着け、黒い靴をはき、頭巾をかぶっている。中央部分には騎手が懸命に毬を追っている場面が描かれ、その内5名が馬を走らせて毬を争っている。前端の者はマレット(打球杖)を手に、身をそらして毬を打とうとしている。そのフォームはみるからに見事で、美しい形をみせている。先頭のプレイヤーは、おそらく墓主である章懐太子の姿であろう。

 692年に亡くなった韋洞の墓からは、88点の騎馬俑が発掘された。その多くに撃毬図がある。韋洞は唐の中宗韋后の弟。彼はかなりの撃毬狂であったのだろう。現代日本のゴルフ狂のようなものか。

 また唐代以降、女性も馬打球を楽しんだ。「唐代撃毬図銅鏡」では、4人の女性騎手が馬を駆って毬を打っている。10世紀の記載には「宮女に毬あそびを教えたが、はじめて鞍にまたがる宮女の柳腰のしなやかさ。貴賓席には天子が観戦しておられ、たまたま彼女が打った毬はみごとに得点した」。また『新唐書』巻133には「ロバに乗る撃毬技を舞伎に教える」とある。

 唐の宣宗のころ、来訪した日本の王子が囲碁の対局を、国手の顧師言と行ったという言い伝えがある。もしかしたら、馬打球でも、また歩打球でも遣唐使たちは、唐人らと競ったのではないか。日本でも盛んであったからである。

参考:邵文良編著『中国古代のスポーツ』ベースボールマガジン社 1985
   守屋美都雄訳注『荊楚歳時記』平凡社 東洋文庫 1978

<2009年11月28日 南浦邦仁> [190]
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「あれれっ?!」 若冲とマイクロソフト <若冲連載48>

2009-11-23 | Weblog
 若冲連載は終盤に入っているのですが、先日ふと「おかしい」と気づきました。かつて一昨年に萬福寺刊『黄檗文華』126号に「若冲逸話」として掲載していただいたときの文と、最近このブログに連載している文章とは、なぜか大幅に異なるのです。
 活字版の方が、ブログ版よりかなり長く、見出しも多いのです。抜け落ちている見出しは「天恩山五百羅漢寺」「霊鷲山」「蝶夢と九鬼隆一」など。ハードディスクに残っている項目はあと、「石峰寺過去帳」と「もうひとりの蝶夢―雨森菊太郎」のみ。
 なぜパソコン文が、このように短くなってしまったのでしょうか。原因のひとつは、活字になるとき、校正を三度までやったということ。それも手書きで、ゲラにどんどん書き足したのです。編集者の和尚から「好きなようにやってください。いくら文字数が増えても大丈夫ですから」。この言葉に甘えて、かなり書き加えて行ったのです。初稿、再校そして三稿。ゲラの余白が足りず、次頁に別紙を付けたほどでした。当然、すべて手書きです。
 それとパソコンの識字能力の限界です。古い漢字が出てこないという大きな問題です。江戸期以前や中国のことなどを書くとき、キーボードに頼らずに、手で書くのが便利で気楽なのです。マイクロソフト「ワード」と漢字、大きな問題だと思います。パソコンはあまりにも字を識らな過ぎます。

 諸橋『大漢和辞典』の収録字数は約5万字。最もたくさん収めているのは字書『集韻』で5万6千字ほど。しかしいずれも特殊な異体字を相当数含んでいます。諸橋大漢和をみていると、複雑な漢字の説明に「この字は○○書にのみ記載されている。□字の書き誤りであろう」などと出てきます。
 白川静先生は「社会生活に必要なものとしては、まず7千か8千字ほどあれば十分で、今喧しく言われております情報機構(PC)に組み込む場合は、1万字くらいが限度のようですけれど、1万なら必要な字を網羅できると思います。ただ、非常に特殊な文字だけは、また何か考えなければなりませんけれども」
 常用漢字はわずか1945字。パソコンは一体、いくつの字を覚えているのでしょうか。4千か5千? その程度ほどに感じます。
 それにしても、白川先生の卓見は見事としか、いいようがありません。

 さてこれからの若冲連載ですが、短文のままで終了させようと思っています。追加入力作業と、漢字問題のクリアのことを考えると、正直なところ気後れしてしまうのです。それと近ごろ、古代の球戯史をやり、また中途半端になっている千秋萬歳のこと、「ぎっちょう」から左義長に行くはずだったのが腰折れ状態。また「バンザイ」の詰めもおろそか。また萬歳(まんざい)から入った門付け・民俗芸能そして声聞師のことも放置しています。……。
 若冲に終止符を打たないことには、次の一歩二歩が困難になってきたように思えます。若冲談義はあと二話か三話ほどで、ひとまず休業にしようと思っています。ただ還暦を前にした若冲が、錦市場存亡の危機を救ったという、新しく発見発表された驚愕すべき事実があります。この件だけは解明したく、宿題として暖めておこうと考えています。興味ある方は、近江信楽で開催中の若冲展図録「若冲ワンダーランド」解説をご覧ください。
<2009年11月24日> [189]
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日本の「蚩尤」と、世界のブランコ <古代球技と大化の改新 7>

2009-11-23 | Weblog
中国古代の王・黄帝がその頭骸骨を足蹴し、棒で打った宿敵「蚩尤」(しゆう)球のことは、日本では『源平盛衰記』や古伝承に残っています。
 まず『源平盛衰記』24巻では、憎き平氏のことを「法師の首をつくって、打毬の玉を打つがごとく、杖をもってあち打ち、こち打ち蹴りたり。踏んだりさまざまにしけり。大衆児とも態に、この玉は何物ぞと問えば、これは当時、世に聞こえたまう太政入道の首なりと答う」。南都の大衆が、打毬を平清盛の首に擬えて打った。黄帝の蚩尤故事に習っての打球・蹴球です。
 『義経記』でも、牛若丸が毬を作って、これを清盛、重盛の首に擬して打つ。
 『袖中抄』に漢文での記載がありますが、読み下してみます。「彼の例(蚩尤)を以って、漢土(中国)は年始の件事に用いる。よって国中、凶事無し。すなわち日本国もその例を学び、年始に毬杖を行う」
 江戸時代『絵本束わらべ』では、「唐土黄帝のとき、蚩尤というもの悪行ありければ、これを退治したまうに、その悪霊疫鬼となりて、人民を害す。黄帝おおいに怒り、毬をつくり蚩尤が頭になぞらえ、あるいは蹴り、または地に投げて、はずかしめたまう。疫鬼恐れて逃げ去りし吉例なり」「黄帝は逆臣の蚩尤を滅ぼし、その眼を抜き、眼玉を的(まと)として、諸臣に命じて射させたまう…破魔とは鬼を破るの文字にて、いとも目出度き吉例なれば、男子の初正月には必ず破魔弓を贈りものとし、祝いたまうべきなり」
 ここでは話は少し変化しています。それにしても、賢帝の代表人物かと思っていた黄帝ですが、ずいぶん執念深く残虐だったようですね。

 中国では六世紀の『荊楚歳時記』にはじめて「歩打球」と「ブランコ」が記載されました。正月立春に「打毬とシュウセンの戯を為す」。シュウセンは秋遷ですが、両字は正確には、左に革偏がつきます。字がPCで出ませんので、これからは「秋遷」と略字で表記します。
 ところで、1998年のことでしたが、仲間と韓国東岸の江陵に旅しました。有名な端午祭を見学するためです。日本にもかつて残っていたであろう民俗芸能や、さまざまの行事に感動したものでした。その内のひとつに、ブランコがあります。
 現代の日本では、ブランコといえば近くの公園や小学校の校庭にある、子どもの遊戯具ほどに思われています。しかし本来は、太陽と響感しあう、神聖な行為であったようです。
 まず二本の高い柱を南北に建て、上に梁を渡し門型に構える。二本のロープの下に座板を結び置く。本来は娘がこれに乗り、大きな半円弧を東西に描く。乗り手は当然ですが、東面する。これが典型的なブランコ[秋遷]シュウセンの形です。
 ブランコ運動のそもそもの意義は、太陽の軌道軌跡を象徴することです。東西の軌跡は太陽の軌道で欠落している、下半分の円弧を意味しているはずです。太陽は東から出、大きな半円形の軌跡を周り、西に沈む。ですからブランコの半円弧は、沈んでから日の出までの、欠けている軌跡を描いているわけです。
 天空の太陽の半円弧、そしてブランコの下半分の円弧。ふたつが合体することによって、太陽の完全なる円弧が完成すると考えるべきです。
 また乗る女性は、座板の太陽男神と交接し大地に繋ぐ。この行為によって、完全なる太陽は大地と交り、作物食糧の豊穣が約束される。古代のひとたちは、世界中のいたるところで、そのように考えたとわたしは信じています。本来は冬至や夏至、また初春などの節々に演じられた、神事聖婚遊戯です。
 古代インドでは、4000年前から記録がある。座板は太陽男神を象徴した。祭官は顔を東に向けて乗り込む。その折、すばやく地面と座板に触れ「太陽男神は大地女神と交わりたもうた」と宣言した。天父地母聖婚儀礼である。
 ヨーロッパ地中海域でも古くから冬至祭(後の聖誕祭)には、必ず女性がブランコをした。バルト海域では、夏至にのみ娘が行っている。ヨーロッパ内陸部では、スラブ系住民は春の復活祭を、ブランコ祭とよぶ。アメリカ大陸の原住民たちも古くから行っている。

 ところで「踏」トウの正字は、足の右上に日を書き、その下に羽。足・日・羽の構造は、実に象徴的です。また踏トウは、蹴字と同じく、「踏む」「蹴る」の意味です。
 打毬・打球にも、大地とぶつかりあう、地を叩き打つという、ブランコの足先蹴り、あるいは手による座板と大地の交接と同様、豊穣を祈る神的効果を認めたことに違いないと、わたしは信じています。初春の候、まだ眠っている大地を刺激し、目覚めさせる運動であると、解釈できるのです。
 『荊楚歳時記』が、初春に「打毬と秋遷の戯を為す」と、ふたつを併記した理由は、ここにあると確信しています。
<2009年11月23日 南浦邦仁> [188]
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古代中国の球技 <古代球技と大化の改新 6>

2009-11-22 | Weblog
唐代では打毬といえばふつう、ポロを指す。ポロはペルシャに発祥し、東西に伝播した馬打球です。七世紀のはじめころ、西域から唐、あるいは隋に伝来した競技。唐の球技には歩打毬・騎打毬(馬打球)・驢打毬(ロバ打球)、そして踏毬(とうきく)すなわちフットボールの別があったようです。打毬競技は寒食の日に、いちばん盛んに行なわれたという。
 寒食とは、冬至から105日目にあたる日。この日には煮炊きをしないで、冷たいものを食べる。晋の介子推が山で焼け死んだ日を、後の世のひとたちが悲しんで、この日は火を用いないという。
 この行事は本来、太陽がもっとも弱る冬至に想いをいたし、家々の竈の火を消す。そして新しく、神聖な火種を翌日に起こす。太陽再生を願う、火改めの風習であろうといわれています。また大地を棒と球で叩き打ち、その豊穣の力を揺るがし目覚めさせるとも考えられます。
 また『人勝』の710年正月7日の項に、唐の中宋皇帝が打毬を観る記事があるそうです。これが正月人日・七日の年中行事として定着したものであるかどうか、専門家の意見はわかれています。

 向達氏(1957)と羅香林氏(1955)の研究によれば、馬打毬の源流はペルシアのポロであり、これが西はコンスタンチノープルへ、東はトルキスタンからチベット・インド・唐・高麗、そしてわが国ヤマトあるいは日本国へ伝来した。
 馬打毬と、中国固有の蹴鞠とは別のもの。両氏は蹴球を歩打足【足易】(テキ:足偏に易・蹴るの意味・ほだそくてき)とし、打毬は馬に乗って杖撃するものであるとする。かつ打毬が中国に伝わったのは、唐の太宗のときであるという。その証拠に封演『封氏聞見記』の打毬の条に「太宗かつて安福門に御して、侍臣にいった。西蕃(チベット)人は好んで打毬をなすと聞く。このごろまた習わせて、一度これを観んとす。さきごろ昇仙楼、群蕃街裏で打毬あり。朕をして見せしめんと欲す」。これはポロ・ポーロの馬打球です。
 また後の『金史』では「毬を撃つ。おのおの習うところの馬に乗り、鞠杖を持ち、杖の長さ数尺、その端は弓張り月のごとし。その衆を分かち二隊となし、ともに争って一毬を撃つ。まず毬場の南に雙桓を立て、板を置き、下に一穴を開いて門をつくり、網を加えて袋とし、よく奪いて鞠するをえて、撃ちて網袋に入れる者を勝ちとする。あるいはいう。両端に二門を対立させて、互いに相排撃し、おのおの門より出すをもって、勝ちとなす。毬は小さきこと拳のごとし。軽籾木をもってそのなかを空しくし、これを朱にす」

 唐以前にも、中国には実は打球・蹴球があった。古くから行われていた「歩打球」と、フットボール型の「蹴球」と、唐代から大流行したポロ「馬打球」と、この三者を区別しないがために、古代球技の解釈に混乱が起きたようです。
 唐より数百年も前の『史記』によると、漢代・衛青伝には「【踏】鞠(とうきく)す」(【踏】トウ:正しくは足偏の右に日、その下に羽。踏の正字。以下[踏]と記します)
 また衛青伝の索隠に引く蹴鞠(しゅうきく)書域説篇には「杖を以て打つ」。これは打球に違いないはずです。ただ「杖毬」とは記されていないようですが。唐代の正義の解釈によると、衛青の記したルールは「蹴鞠書に域説篇あり。すなわちいま(唐代)の打毬なり」。これは歩打球と思います。

 古くは『史記』蘇秦伝に「踏鞠せざる者なし」。紀元前の戦国期には、ボールを蹴っていた。激しく走行するフットボールです。
 『漢書』東方朔伝には、「郡国の狗馬・蹴鞠・剣客…蹴鞠の会を観…上、おおいにこれを歓楽す」。同書芸文誌・兵家条には蹴鞠流行を反映して、「蹴鞠二十五篇」が記載されているそうです。これも「ケマリ」ではなく、激しいスポーツ・フットボールでしょう。馬術と剣術に並んでの兵家の記述です。
 『西京雑記』に、「成帝、蹴鞠を好む。群臣、蹴鞠をもって体を労するは至尊のよろしくするところに非ずと為す」。体を労するとは、疾走と考えるべきです。これも激しいフットボールのはずです。
 『十節録』では、伝説上の王「黄帝」は宿敵だった蚩尤(しゆう)を倒し、「蚩尤が頭を取りて之を毬とし、眼を取りて之を射る」。『別録』では、「蹴鞠は黄帝のつくるところ、もと兵勢なり」。球を蹴って走り回るフットボールは、二千年以上前から軍事教練のひとつでした。

 六世紀の『荊楚歳時記』では「又た打毬・秋【遷】の戯を為す」。「蹴鞠」の語は中国に古くからありますが、ここでは明らかに「打毬」と記されています。
 また[秋遷](シュウセン)はブランコのことです。正確には【遷】は革偏に遷の字。ブランコも「打毬」も、これが文献上初記載です。シュウセンと日本の蚩尤のことは、次回に書こうと思っています。
 さて、騎乗打球・ポロは唐代にはじまるスポーツですが、歩打球と歩蹴球は、その数百年、あるいは千年ほどの昔から、中国では盛んだったのです。
 唐においても歩打球と歩蹴球は、馬打球盛況のなか、決して衰退はしておりません。
 蹴球(蹴鞠)表記ばかりですが以下、参考まで。王維『王右丞集』では「蹴鞠屡々過ぐ飛鳥の上、秋【遷】(ブランコ)競い出づ垂楊のうち」。李白『李太白集』には「鶏を闘わす金宮の裏、蹴鞠す遥台のほとり」。白楽天『白氏文集』で、「蹴鞠塵起らず、発火雨あらたに晴る」

 今後は、ポロ型騎乗打球を「馬打球」、棒を使う歩行打球を「歩打球」、杖を使わないフットボール型を「歩蹴球」、また本来の蹴鞠(けまり)を「ケマリ」とよびます。四者を言葉で区別しないと、混乱が起きてしまうからです。
<2009年11月22日 南浦邦仁> [187]
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♪ 西に連なる東山~

2009-11-21 | Weblog
東山三十六峰は有名ですが、東山は洛中からみての東の山。連峰を越えた地域、山科区住民にすれば、西山のはずです。ところが山科でも東山とよびます。どう考えても、変な話です。
 山科区内のどこかの学校の校歌に「♪西にみえるは東山~」という歌詞があるらしい、と片瀬ブログで書きました。そして一年半ほど後に、「のりっく」さんからコメントが寄せられました。
 「わたしの母校・花山中学校の校歌です。♪西につらなる東山~。中学生のわたしは校歌合唱のたびに、西か東かいったい、どっちやねん!! いつも思っていました。」
 大きな謎のひとつ「校歌東西山疑問」がこれで解け、本当にわたしは胸をなでおろしたものです。ところで同じ問題について、京都新聞に大提案が載りました。いつも楽しみに拝読している連載「中村武生さんと歩く洛中洛外」。2009年11月20日朝刊、見出しは「東山、山科からは西野山」。要約でご紹介します。

 「東山」という表現には、ちょっと待って、という思いがあります。以前、親しくしている山科区の小学校教員に、「『なぜ西の方向にある山を西山ではなく、東山というのか』と児童から質問されたことがある。が、答えることができなかった。残念だ」といわれたことがあります。
 気持ちはわかりますが、答えは簡単です。「東山」という名称は、いうまでもなく洛中からの視点によります。山科が京都市に編入されたため、そんないい方が押しつけられているだけです。当然のことですが、山科からは「西山」というべきです。
 児童に対し、「君のいうことは正しい」といってほしかった。そんないい方はない? いえいえ、ほとんど意識されていないようですが、類する地名があります。「西野山」です。
 地名はただの記号ではありません。意味があって存在するのです。いま平気で「東山」といっている山を、過去の山科住民は「西野山」といっていたわけです。
 山科のアイデンティティーを維持したい方は、本日より東山というのをやめて、西野山とよぶべきです。

 パチパチパチ! 拍手です! 大賛成です。山や川などの名称は、生活者の呼称であって行政地名は無視すべきです。たとえば桂川は南で淀川。上流では大堰川、その上流では保津川、さらにたどると桂川。丹波で桂川とよぶのもいかがなものでしょう。桂離宮の近くのみが桂川でいいと、わたしは思います。
 いずれにしろ、山科住民の方たちが、歴史的に意味をもつ「西野山」と、東山をよぶことに、この山の西に住むひとりとして、大賛成です。稜線の西が東山、東は西野山。わかりよい理屈です。
 呼称変更の運動を起こされるなら、喜んで署名簿にサインします。また花山中学校の校歌も「♪西につらなる西野山~」に変更をお願いしたいです。在校する生徒たちのためにも。

 さて片瀬のブログでは、東西の山問題を二度書いています。
「東川と東山」2008年1月20日
「西にみえるは東山」2009年7月25日
 東西問題解決のためにご笑覧まで。
<2009年11月21日 南浦邦仁> [186]
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坂本龍馬の受難

2009-11-15 | Weblog
11月15日は龍馬の命日です。慶応3年のきょう、河原町通に面す土佐藩用達の醤油商「近江屋」の二階で、同志の中岡慎太郎、従者の山田藤吉とともに、刺客に襲われました。龍馬はほとんど即死。もと相撲取りの藤吉は翌日、慎太郎は翌々日に絶命しました。
 この日は新暦換算表でみると、1867年12月10日火曜日にあたります。ずいぶん凍てついた、言葉通り京の底冷えの夜でした。
 ところで、近江屋のあった位置をみてみましょう。石碑が立っています。「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地」。京都市が建立したものです。京都いちばんの繁華街、四条河原町の交差点を50米ほど北に行ったところ、コンビニ・サークルKの玄関左脇に立派な説明板とともに立っています。
 このコンビニは、近江屋跡地であることを宣伝材料として使っておられるようです。チラシ「幕末・維新マップー龍馬が駆けた河原町」も店内で無料配布しておられる。商魂たくましいのですが、「日本一有名な龍馬のサークルK」で、いいのだと思います。
 ただ、この石碑は昨年まで、数米南に立っていました。いまはもうない京阪交通社と、南に隣接するパチンコ・キングの北境にあったのです。旅行社が閉店され、間口の広かった跡地の北側にコンビニができ、南側に宝飾店「I-PRIMO GINZA」が開店。それに伴い、石碑は北に移動してしまったのです。本来は宝石屋さんの玄関左脇にあるべきなのですが、お店の間口とショウウィンドウの設計の加減で、北に移さざるを得なかったのだろうと思います。
 しかしもともとの石碑の位置が受難の地点であったのか、これも疑問です。河原町通は大正15年、市電開通のために大幅に拡幅したのです。もとの道幅はわずか二間。4米足らずしかなかったのです。それも道路の西側、すなわち近江屋のあった側を軒並み削り取ったのです。ですので龍馬たちが急襲された近江屋二階、奥の八畳間は、サークルKから数米ほど南に下がった、歩道の上なのです。歩行者は、龍馬が倒れた位置の真下を行き来しているわけです。
 それと、宝石屋のすぐ前の歩道上かというと、これも少しずれています。近江屋は、実はパチンコ・キングの位置にあったのです。最初に石碑を建立するとき、本来の地点に立てたのか、あるいは元京阪交通社のあった地に建てたのか。また二度移動した可能性も捨て切れません。
 この謎は、来年の命日までには調べてみようと思っています。蛇足ですが、京都河原町通あたりをご存知ない方にとって、言葉で位置を知ることは、きっとしんどいと思います。矢印で記してみます。左が南で、右が北にあたります。
 四条河原町交差点→40㍍ほど→パチンコキング→隣接:宝飾屋→隣接:サークルK
 一層、混乱されたかもしれませんが…。老婆心でしょうか。

 さて、このブログで龍馬絡みの作文をかつて三度、書いています。いずれも2007年。
「坂本龍馬とノロウィルス」 11月3日 
「幕末の<金玉>三話」 11月11日 
「金玉余話」 12月2日
 どれも結構おもしろい噺ですので、ご笑覧ください。自画自賛そのものですが。
<2009年11月15日 南浦邦仁>

追記:四条河原町交差点から、パチンコ・キングまでの距離ですが、どうも気になるので、つい先ほど歩いて足幅で測ってみました。ざっと200歩。おおよそ100mです。訂正します。それと、サークルK玄関先の石碑と高札風案内板は、木組垣に囲まれ、両側には石作りの花生けと供具置きがしつらえられていました。ごく最近の造作です。活けられた花は、何かを語っているような風に感じました。その風は一体、何なのでしょうかね。<2009年11月18日 南浦邦仁>

追記:サークルKはその後閉店し、建物は取り壊されてしまいました。宝石屋も閉まっています。来月12月21日からコンビニ跡に回転寿司屋がオープンするそうです。どのお店も受難の地のようですが、今度こそ繁盛を祈ります。碑は健在です。<2013年11月22日>



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唐・長安の春 <古代球技と大化の改新 5>

2009-11-14 | Weblog
古代から、日本で盛んに遊ばれた球技の多くは、主に唐から伝わったものといわれています。『長安の春』(石田幹之助著・昭和16年初版)から、当時の唐での流行振りをまずみてみましょう。

 漢・魏・六朝を通じて、徐々にシナに入ってきたイラン方面の文化は、隋(581~618)と唐(618~907)の時代におよんで、一層いちじるしい流伝をみるにいたった。外国文化との関係史をみると、この国の隋唐期、まさにイラン文化全盛の時代といえる。
 ただ後年、13世紀から14世紀にかけて、蒙古支配の元朝時代には、イスラムの陰に隠れ、イラン文化の東漸はかなり盛んであった。隋唐時代だけが絶後の全盛期ということはできないけれど。
 隋唐時代の興隆の原因は、中央アジアや近東地方との交通がますます盛んとなり、北は陸路により、南は海路により、イラン系統の諸民族が、前代よりはさらに多く、シナ各地に入ってきたこと。またアラビア人など、セム系の民族が、商人・貿易商として、イスラム教の伝道師とともに多数が、隋唐にはるばる遠来したこともある。
 ペルシャないしアラビア方面の商人が来住、あるいは往復して、貿易に従事するものはすこぶる多かった。また西方諸国より、その国使に随伴して入朝するもの、長安や洛陽の大学に来たり学ぶものなども、相当の数にのぼった。
 隋唐時代に西域の文物、特にイラン地方のそれが、シナに盛行するにいたったのは、まったくそれらの事情によるものと思われる。
 伝来したスポーツ遊戯に打毬(だきゅう)<注:騎乗打球・馬打球>がある。これはペルシアの国技ともみるべきもので、もっともイラン的な遊戯である。原名を何と伝えたかはよく分からぬが、いま広く東西の世界でこれを、ポーロ(Polo ポウロウ)とよぶのはチベット語らしいので、シナへは唐のはじめに吐蕃(とばん・チベット)から伝わっており、太宗(たいそう)皇帝のごときはおおいにこれをたしなんだという。最初は武人のあいだでとうとばれ、後に文官や女子のあいだにも行われ、その流風は、宋・元・明の時代にもおよび、海をこえて高麗(こうらい)に伝わり、日本へも平安朝に伝わっている。
 ただし近ごろ、打毬(注:馬打球)は「大化の改新」以前に伝わっているという新説もあるが、平安期なのかあるいはもっと前の時代なのか、いまはしばらく深く触れぬこととする。
 その唐代にポーロが盛んであったことはよく詩文に残っており、遊戯法は宋代の文献からさかのぼって知ることができる。

 当然ですが、唐にはスポーツだけでなく、さまざまな文物が遠来のひとびとによってもたらされた。宗教では、ゾロアスター教(ケン教:ケンは示偏に夭)、マニ教(摩尼教)、ネストリウス派キリスト教(景教)、イスラム教(回教)…。
 弘法大師・空海は804年、31歳のときに遣唐使に従って、伝教大師・最澄らとともに入唐した。
 学者の馬総ははじめて逢って空海の才能に驚愕し、詩を寄せた。意訳ですが「驚くほどの大秀才のあなたが、なぜ万里の波濤をものともせず、わざわざ大唐国にいらしたのですか。まさか自己の傑出した学識才能をみせびらかすためでは、決してないでしょうが。折角唐まで来られたのですから、どうかより研究して唐国の学問を深めてください。世界をみわたしてもわたしの知る限り、本当にあなたのような秀才はめずらしい…」
 781年には長安のキリスト教寺院・大秦寺に石碑「大唐景教流行中国碑」が建立された。碑銘の撰者はアダム・スミス、唐名を景浄という。後に空海が師事した般若三蔵が胡本『大乗理趣六波羅蜜経』を翻訳したとき、アダム・スミスは三蔵の助手をつとめている。大秦寺は東ローマ教会系ネストリウス派の教会であって、長安に波斯胡寺として677年にまず建立された。そして745年に大秦寺と改称されたものである。
 空海は9世紀早々の都・長安で、師の般若三蔵から、景教すなわちキリスト教のことなども、きっと教えられたに違いない。そう思う。

参考資料
『長安の春』石田幹之助著 講談社 学術文庫
『空海入唐』趙樸初ほか編著 美乃美 
<2009年11月14日>  [184]
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若冲と相国寺、萬福寺と石峰寺 №4 <若冲連載47>

2009-11-11 | Weblog
伯と聞中と若冲

 若冲がはじめて、黄檗山萬福寺第二十世住持・伯照浩(はくじゅんこうしょう)に会ったのは、安永二年(一七七三)夏のことである。若冲五十八歳。大典が十三年間の自由気ままな文筆生活に終止符を打ち、相国寺に戻り激務を開始した翌年のことである。
 聞中は明和九年(一七七二)、萬福寺で隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻された。翌安永二年には、伯結制の冬安居の知浴をつとめる。そしておそらく聞中の手引きで、若冲は伯浩照に会うことになる。若冲はその時、道号「革叟」(かくそう)と、伯が着ていた僧衣を与えられた。若冲の喜びはいかばかりであっただろう。
 禅僧は道号が決まると、師と仰ぐ人物からその意味付けを記した書をもらうと聞く。若冲より三百年も前の雪舟も、相国寺の画僧であった。彼の名・雪舟について鹿苑寺の竜崗真圭は記している。大意は、雪の純浄を心の本体に、舟の動・静を心の作用にたとえ、これを体得して画道に励むことと。しかし雪舟に対する評価は、寺では低かった。後に相国寺を去り、大内氏の山口へ、そして大内船の遣明使に従って明に渡航する。そして大成した。
 若冲も伯から同様の書「偈頌」(げじゅ)を贈られたのである。一部を意訳するが、内容には大典が若冲の寿蔵に記した文と共通するところが多い。やはり聞中がかかわった文なのだろうか。
 「これまでの事を若冲自ら言う、絵の事業はすでに成り終わったと。また我はあえて久しく世俗に混じってきたことかと。…顧みるにその身において、世俗を脱し、心を禅道に留め、…お前が画を描くことの刻苦勉励はこの上なく巧みで、神に通ずるまでに達した。過去はよし。いまは古き道の轍(わだち)を革(あらため)よ。水より出る蓮は古い体を脱し、まったく新しいものとなる。黄檗賜紫八十翁伯書」
 若冲の出家を意味しているのであろう。多分このころに、若冲画「猿猴摘桃図」に伯の賛も得ている。「聯肱擬摘蟠桃果。任汝延年伴鶴仙」。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになろう、といった意味である。この言葉にも、若冲は感動したであろう。彼が石峰寺門前に居を構え、妹か妻らしき女性と、その息子らしき子どもと三人、仲睦まじく暮らしていたことが思い出される。
 「動植綵絵」の完成後から、五年以上の長きに亘って彼を苦しめ続けた気鬱も、やっとこのときに晴れたであろう。
 石峰寺は、黄檗山第六代住持・千呆禅師が開創した寺である。萬福寺の末寺・石峰寺の後山を画布にみたてて、五百羅漢石像を構築することの提案が、千呆の法系を嗣ぐ伯から出されたのではないかと想像する。若冲が自分勝手な思いつきの喜捨作善で、寺境内を自由に造営することは許されることではない。石峰寺住持も勝手に、一市井人との話し合いでやれる事業ではない。本山からの提案であろう。そうであれば、聞中、俊岳、密山らの打ち合わせが事前にあったことは、想像に難くない。
 当時、十六あるいは十八羅漢、また五百羅漢なりは、時代の流行でもあったようだ。萬福寺には范道生作の十八羅漢像や、王振鵬の五百羅漢図巻が古くからある。また池大雅の「五百羅漢図」も有名である。大雅の大作屏風画は明和九年(一七七二)、隠元百回忌に制作されたという。大雅の友人でもある聞中が、萬福寺に久しぶりに戻った年である。
 そして江戸黄檗山の寺、天恩山羅漢寺も木像五百羅漢で知られる。同寺は松雲元慶の実質開創であるが、彼は京仏師の子である。画禅一致、自ら五百三十余体の仏像や羅漢像を造りあげた。
 伯が石像五百羅漢造営を、それも石峰寺に望んだとしても不思議ではない。 <2009年11月11日 南浦邦仁> [183]


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円空と木喰 <えんくう・もくじき>

2009-11-09 | Weblog
 11月8日の日曜日、昨日のことですが、JR京都駅のうえにある伊勢丹七階の美術館「えきKYOTO」に行ってきました。
 7日から当月29日まで「―庶民の信仰―円空・木喰展」が開催されています。あまりに見事な200点ほどの木彫像に飲み込まれ、決して広くはないミュージアムに、二時間あまりも釘付けになってしまいました。
 どっと疲れ、途中で立ったまま眼を閉じ、数分間休憩したほど、迫力に圧倒されてしまいました。凄い。
 円空のことはかつて、若冲の連載「義仲寺」の項で書きました。再録ですが、
 江戸時代初期の仏師、円空の伝記は『近世畸人伝』にのみ記されているといってもよいほど、円空のことを書いた文書は少ない。畸人伝の記述は伴蒿蹊(ばんこうけい)の親友であった三熊花顛(みくまかてん)が天明八年(1788)春、天明大火の直後に飛騨高山に取材したものである。全国の俳諧仲間を尋ねて各地を巡った蝶夢(京の俳僧・売茶翁や大典らの友人)だが、飛騨高山の高弟・加藤歩蕭をかつて訪れたときに、円空の事跡を聞いた。花顛はそれを受け、蝶夢和尚の紹介状を手に、この年の春秋二度、高山に取材し貴重な円空伝が残されたのである。

 大火の後、住居や生活の糧を失ったたくさんの京のひとたちが、地方の縁故を頼り、仮寓したり、また永住したりした。三熊花顛もその意味では同様です。都の文化が全国の都市や片田舎に拡散した画期である。また地方の情報が、畸人伝のように、収集されもした。
 これより以前では、やはり応仁の乱のときに、同様いやそれ以上にたくさんのひとが流動し、文化の大伝播現象を起こしている。一種の文化革命に等しい出来事といえます。

 まず円空について記してみましょう。会場でいただいたチラシから、
<円空美術館―岐阜市―案内パンフレット>江戸時代におびただしい数の飄逸洒脱な神や仏像を造顕した円空は、寛永9年(1632)、美濃の国に生まれ、生涯を修行と庶民の救済に全国を遍歴し、貧しい農民や漁民の信仰と委託にこたえて、多くの神仏像を作りました。/円空の造顕は、寛文3年(1663・32歳)より全国を巡り、元禄5年(1692)61歳までの、おおよそ30年間続き、その数は12万体を超えました。そして元禄8年7月15日盂蘭盆、長良川河畔で入定の素懐を遂げました。時に円空64歳。/いったい彼は何のために、こんなにたくさんの円空仏を造顕したのでしょうか。それは円空が厳しい修行から悟りえた釈尊の偉大な教え「仏教」を、苦しんでいる多くの人々に伝えようと、その教えの根本である“慈悲の心”を円空仏に彫りこんでみなに与えて回るためだったのです。

<関市円空館―案内パンフレット>円空は江戸時代のはじめ、寛永9年(1632)に美濃国(岐阜県)で生まれました。このことがわかったのは昭和45年(1970)のことです。円空50歳(1681)の時、群馬県富岡市の貫前(ぬきさし)神社で大般若経を見終え、その奥書にみずからの筆で「壬申年生美濃国円空」と書き残したのです。円空没後100年余りのち(1790)に書かれた『近世畸人伝』には、関市にゆかりの深い人物として…取り上げられています。そのなかで「僧円空は、美濃の国竹ヶ鼻(羽島)という所の人なりけり。…池尻にかへりて終をとれり」と書いておりますが、誕生地については諸説あり、決着しておりません。円空は若くして出家し、岐阜県を中心に北海道から近畿地方の諸国を遊行し、各地の霊山で修行を重ねながら、誓願を胸に秘め、おびただしい数の仏像を、人々の幸を願い彫り続けました。現在知られている像は5300体ほど。円空は作仏のほか、和歌を詠み、絵を描いており、これらの作品も円空のこころを理解するのに貴重なものとして注目されています。…元禄8年(1695)7月15日、長良川の河畔で入定し、64年の生涯を終えました。

 円空の美術館は、どうも岐阜市と関市、ふたつあるようですが、木喰はまだ館がない。本人はそのようなことに、決してこだわらないと思いますが。
 ところで展覧会の図録は入手しましたが、まだ読んでいません。同展チラシから紹介しますと、
<「―庶民の信仰―円空・木喰展」チラシ>17世紀、18世紀にそれぞれ活動した造仏聖・円空と木喰は故郷を離れ、全国を巡る行脚僧として布教活動をしながら、独創的な仏像や神像を彫り歩きました。庶民との交流を通して彼らが彫った木像の多くは、庶民の信仰の対象として守り伝えられてきました。/円空(1632~1695)は、荒々しくも自由奔放で力強い鑿(のみ)あとに、よりデフォルメされた仏像を数多く彫り残しました。32歳で仏像を彫りはじめてから64歳で入寂するまでの30余年の間に、12万体造像したともいわれ、いままでに確認された円空仏は5340体にのぼります。/一方、木喰(1718~1810)は、表情豊かな「微笑仏」と呼ばれるやわらかな笑みをたたえた丸みのある像を彫り、62歳に初めて造像して以来、80歳で1000体、90歳に2000体の造像を誓願し、93歳で生涯を閉じました。現在710体あまりが確認されています。

<京都新聞2009年11月4日朝刊/荒削りなノミ跡、笑みたたえた仏 庶民の信仰 「円空・木喰展」 作仏聖(ひじり)2人の木彫・資料200点 11月7日~29日 美術館「えき」KYOTOで開催>荒削りで奔放なノミ遣いの円空。笑みをたたえた表情豊かな仏を彫った木喰。ふたりの作仏聖が木彫の神仏に託した素朴な庶民の信仰の世界を紹介する「円空・木喰展」が7日、京都市下京区の美術館「えき」KYOTOで始まる。(川村亮)/円空(1632~1695)は美濃(岐阜県)で出生。32歳で神仏像制作を始め、30年余りで12万体を彫りあげたと伝えられ、これまで約5340体が確認されている。/一方、甲斐(山梨県)出身の木喰(1718~1810)は62歳で造像を始め、93歳で没するまでに2000体の像を彫る願を立て、710体の残存が確認されている。/ふたりの遊行僧は北海道から四国、または九州の草深い村里を遍歴。その足跡をたどるように残る彫像は、ひとびとが身近に愛し、子どもが手に取って遊んだがために、表面が欠けて光沢があったり、親しみにあふれる。本展は、民衆のなかに生きた信仰の力強さと優しさが宿るふたりの彫像と資料計約200点を全国の寺社や美術館から集めた。…/「微笑仏」とよばれる木喰像は丸い顔に、丸い額と頬と鼻、ゆるやかに弧をなす眉。愛嬌のある表情がこころに安らぎをもたらす。「不動明王」や「閻魔王」ですら、どこかユーモラス。愛媛・光明寺の「子安観音菩薩」は立木に彫り込み、おおらかな生命の喜びを伝える。

 長々と引用しましたが、木喰明満上人と伊藤若冲は同時代人です。若冲の生まれたのは正徳6年(1716)。木喰誕生は、その2年後の享保3年です。若冲没は寛政12年(1800)、85歳。もっと長寿だった上人は文化7年(1810)、享年実に93歳。ふたりの人生は、数年のずれだけで、完璧に重なるのです。
 全国を行脚した木喰ですが、京や丹波にも度々、立ち寄っています。もう一度確認してみますが、彼の作風は晩年にかなり変化しています。わたしは上人の後期作の微笑仏や、ただ笑ってしまうしかない彼の自像をみていますと、若冲の石峰寺五百羅漢との類似を思います。ふたりには、何らかの接点があったのではないか。もしかしたら、ふたりは対面対話をし、笑みを交し合ったのではないか。そのような白日夢にわたしは、京都駅の美術館で襲われたのです。
 最後に、木喰上人を発見評価され、さらには彼の足跡を確定された柳宗悦先生に、心底から敬意を表します。
<2009年11月9日早朝深夜> [182]
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プロ・バスケットボール <古代球技と大化の改新 4>

2009-11-08 | Weblog
平日は毎朝、阪急電車で通勤しています。桂駅か隣りの洛西口駅から河原町に向かいます。ところで洛西口駅ですが、京都人でも知る方は少ない。「ラクサイグチ? 丹波口とは違うのですか?」
 この駅は、オープンしてから六年になります。駅裏はいまだに広大な空き地。もとはキリンビールの工場だったのですが、取り壊してしまい大草原になりました。そのペンペン草地帯の開発を見越して開業した新駅でしたが、一向に客足は伸びません。
 JRも同様に、新しく桂川駅をつくったのですが、草原には住宅の一軒も見当たりません。この駅の利用者も少なく、草原と同じく閑古鳥が鳴いています。
 開発頓挫の原因は、中核になるはずだったショッピングセンター計画が、胡散霧消してしまったからだそうです。消費景気の低迷で、スーパーはどこも苦戦。核が決まらないために、住宅地用の道路も線引きできない。さらには小学校建設のために土地を購入した洛南中高等学校も、キツネの出そうな大草原に、先行して建設をはじめる勇気もない。すべての計画が、それこそ頓挫してしまったのです。
 それはさて置き、早朝に洛西口駅改札に向かって歩いていたら、女性がひとり、チラシを通学勤客に配っているのです。ポケットティッシュ以外、いただくことの少ないわたしですが、あまりに素人ぽい方なので「ください」と手を出しました。その紙には「プロバスケ 始まります。bjリーグ プロバスケットボールチーム 京都ハンナリーズ出陣!」。そして年内の京都地区での試合スケジュールが列記されています。対戦相手は、ライジング福岡、滋賀レイクスターズ、高松ファイブアローズ、大分ヒートデビルズ。
 ハンナーリーズとは、いかにも京都らしい、いい名ですね。「はんなり」から取ったのでしょうが、説明のむずかしい京言葉です。「はんなり」は「華なり」の転じたものといいます。渋みや控えめを秘めた華やか、おとなしさを含んだ静かな豪華、そういった感じです。大分のデビルに対抗するには、激しさが足りないような気もしますが。
 プロ野球、プロサッカー、プロゴルフ、プロレス、プロ相撲、パチプロ、プロサーファー(自称)…。スポーツ音痴のわたしですが、プロスポーツにいろいろあることは、少しは知っています。しかしプロバスケは初耳でした。これからは、プロゲートボール、プロドッジボール、プロ羽子板…、そのようなプロチームもいつかは誕生するかもしれません。
 長々と前置きを書き連ねましたが最近、興味があるのは蹴鞠(けまり)と打球戯です。西暦645年の大化の改新、前年の打球・打毬試合がきっかけとなって起こったクーデターです。この「打毬」は、フットボールの蹴鞠なのか、それともホッケー型の地上歩行型打球なのか、研究者間でも意見がわかれ、激論交戦?が続いています。
 球技の歴史を調べていて気づいたのですが、この問題を解決するためには、関係する球技を明確に区分しなければならない、ということです。混ぜて考えると頭のなかが混乱してしまいます。ざっと分ければ以下の通り。ハンドボール型やゴルフ型などもありますが今回、除外しています。

① フットボール平和型:蹴鞠
  原則八人制。四方の懸(かかり)とよばれる四本の木の間にふたりずつ立つ。
  チーム連携で地面に落とさず、何回蹴り続けられるか、その回数を競う。
  蹴り姿の美しさも大きなポイントです。
② 無棒歩行戦闘型:古代中国で行われた軍隊調練用地上球技。
  現在のラグビーやサッカー、アメフトなどに似ているようです。前漢で盛ん。
③ ホッケー型:地上歩行・棒打球技
  毬杖・毬打(ぎっちょう)など。「左ぎっちょ」の「ぎっちょう」です。
  フィールドホッケーやゲートボール、ラクロス型。
  毬杖・毬打では、チームは左右に分かれ、プレイヤーは入り乱れません。
  アイスホッケーは今回、考慮外とします。
④ ポロ型:馬上騎乗・棒打球技
  この競技は右打ちしかできません。
  左を認めると、後ろから追いついて先行者の球を奪うという、
  卑怯な戦法を使えるからかと思います。
  スティックは右利き用にしか作られていません。
  左利きには不利。左ぎっちょうは、もしかしたらここから?
⑤ バトミントン型:平板・羽子板
  ③が変形し、地面に落とさないという①型ルールを取り込んだ。
  女子中心の小正月までの球技。
  本来は毬杖同様、左義長(さぎちょう・とんど)で燃やしたようだ。
  皇族や公家の娘たちは度々、豪華な板のプレゼントを脅迫強要した。
  平安時代以降にはじまった新しいスポーツ。大化の改新には無縁。

 これらを踏まえて、大化の改新のボールゲームを、これから考えていきます。なお大化の改新を描いたコミックが出ていました。長岡良子著『暁の回廊』(秋田書店・全4冊)。画もストーリーもすばらしい。感動しました。おすすめです。
<2009年11月8日 南浦邦仁> [181]
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若冲と相国寺、萬福寺と石峰寺 №3 <若冲連載46>

2009-11-04 | Weblog
聞中浄福
 黄檗僧の聞中浄福(もんちゅうじょうふく)は宝暦八年(一七五八)、二十歳のときに相國寺の塔頭・慶雲院に掛錫(かしゃく)する。掛錫とは、僧がほかの寺に留まることだそうだが、彼の滞留は長期にわたる。そして聞中はその才を大典に愛され、門人中第一位を占める。
 ある時、聞中は若冲に雁の画を学び、毎日一紙を写し描くのことを日課とした。いつのことか不明だが、おそらく明和八年(一七七一)、若冲畢生の大作「動植綵絵」全幅寄進の終わった翌年のことではないかと思う。聞中三十三歳、大典五十二歳、若冲五十六歳の年である。若冲は全精魂を込めた「動植綵絵」の制作を終え、脱力虚脱感と画作や生きることへの迷いから、画に精を出せなかった時期であると思う。
 この不安定な精神状態は、錦市場存亡の危機を迎えるころまで続く。そして錦事件の後には、何枚も脱皮した新「若冲」がそれこそ誕生する。錦市場が危機に直面したとき、若冲は意外な面をみせる。信じがたいと、現代の若冲ファンや研究者はみな驚いた。この件は、追って記載します。

 明和九年(一七七二)四月、大典は本山の勧告で、十三年ぶりに相国寺に復帰する。聞中も同じ年に登檗する。四月開催の開山隠元百回忌の書記をつとめるために呼び帰されたのである。久しぶりに萬福寺に帰った。

 ところで室町時代中期以降、参禅の風はすたれ、五山僧は詩文に浸るを善しとしていた。文学の安きへの潮流を禅林各寺が連携して、本来の宗教禅に復帰しようとする禅宗の改革運動が起きる。活発化した参禅学道の「連環結制」が、大典の芸術感も変えてしまったのであろうか。
 聞中は毎日絵を書くことの許可を、大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって、「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に關する訳では、決してない……」
 若冲は聞中からこの話を聞いて、あるいは大典の書状をみせられて、どのように感じたであろう。おそらく涙を流し、号泣したのではないか。若冲は、純粋に僧になりたかった、それも画僧に。学門、教養のかけらも持ち合わせないけれど、売茶翁に人生の本当の生き方を学び、宗教の何たるかは理解していた。
 若冲に対する世間の評価は、円山応挙と並んだ。ふたりは京都を代表する双璧の一流画家と認知されていた。しかし若冲は、あくまで市井の画工でしかない。筆を捨てても僧として、大典はまだしも、ほかの相國寺の僧たちは認知しなかったのではなかろうか。そもそも若冲から筆を奪えば、ただの人でしかない。詩文も解せず、書も下手、人付き合いは苦手、話も駄目な、並にも及ばぬ畸人である。
 後のことであるが大火の二年後、若冲は大病を患う。相国寺の六月の日記によると、本山より見舞いを遣わす相談があり、金百疋くらいの菓子箱を贈ろうということになった。役僧が見舞いに行ってはどうかということで、瓊林座元がその任を言いつかる。だが彼は「若冲は寺に寄附物(動植綵絵)があるといっても、“畢竟町人之事故”。役僧が見舞いに行くのはさしさわりがある」と異議を唱えたという。市井の画人に対する扱いは、軽いものであった。

追伸:聞中の描いた「蘆雁図」がはじめて発見され、ミホミュージアムで開催中の「若冲ワンダーランド」展に出品されています。実は、わたしがお披露目の仲介役をつとめました。感慨深いものがあります。それと大典が聞中に呈した苦言『小雲棲手簡』二編下の原本も展示されています。
<2009年11月4日 南浦邦仁> [180]
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「屁こき虫」と異常寒波

2009-11-03 | Weblog
 突然、寒波が襲ってきました。10月末まで、あれほど暖秋というか晩夏で、日中気温が25度をこす夏日が続いていたのに、今朝より一気に冬です。
 近畿地方では、京都も滋賀も、三重や兵庫でも、平年より二週間も早く初雪が降りました。湖西・比良の降雪量は10センチ。
 比良山系の最高峰、武奈ヶ岳の雪のことはつい先日に書きましたが、この冬は豪雪かもしれないという、信じがたい雪予報が現実のものになるかもしれません。
 わたしはショックを受けました。暖冬に違いないと信じていたからです。ただ豪雪を予報するというカメムシ、別名「屁こき虫」が比良山麓で大発生していることには、ほんの少しですが、気にはなっていましたが…。まさか今冬が彼らカメムシの予言する通りになるとは、正直なところ信じてはいなかったのです。
 どうもわたしの、雪予報は負けかもしれません。彼らの超能力には、恐れ入ります。
 ところで本日、書く予定だった蹴鞠・打球のことですが、本を読めば読むほど、考えれば考えるほど、頭のなかが混乱してしまいます。おでこを少し冷気に当ててから書こうと思っています。
 これもカメムシ「屁こき虫」ショックかもしれません。彼らは、知識や書籍に頼らず、どうも本質を識り抜いているからです。
<2009年11月3日> [179]
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「大化の改新」と打球 <古代球技と大化の改新 3>

2009-11-01 | Weblog
このブログで、10月25日に大化の改新のことを書きました。このクーデターは、前年正月の「打毬」大会をきっかけに起こるのです。
 読んでくださった方からコメントが寄せられました。「すいた」さんか、「すいたん」さんというお名前ですが、この「打毬」がゲートボール型の打球「毬打・毬杖」(ぎっちょう)なのか、それともフットボールの蹴鞠(けまり)なのかというお問い合わせ、ご意見です。
 このように熱心に考究しておられる方からコメントが届いたことに、まず驚きました。非常にマイナーなテーマですから、日本国中どなたも関心がないだろうと、正直なところ実は思っていたのです。
 すいたんさんは、本もよく読んでおられ、わたしもあわてて教えていただいた本、小学館版『日本書紀』に、本日はじめて目を通しました。解説註の「ぎっちょう」説にうなずいてしまったような次第。
 それともう一冊、ご教示いただいた長岡良子著『暁の回廊』(秋田書店・全4冊)も探したのですが、図書館にもブックオフにもなく、先ほどインターネットで取り寄せ手配をしました。
 わたしはこの打毬を、文字通り地上「打球」、木製球を打つ毬杖(ぎっちょう)遊戯、すなわちバット棒を振り回す野球にすこし似た、ホッケー型の正月行事であろうと確信しています。おそらく遊んだのは、正月14日までだと思っています。しかし即断は禁物。『暁の回廊』が到着したら、再考します。
 11月3日は文化の日。この日か、8日日曜日の掲載を目標に、あれこれ調べてみます。「すいたん」さん、掲載の節にはぜひまた、ご意見をお寄せください。
 昨日は「蚊と屁こき虫」を書き、また打球・毬杖(ぎっちょう)のことばかりにこだわっていては、先日に連載をはじめたばかりの、若冲「相國寺・萬福寺・石峰寺」篇が進みません。
 わたしは仕事が休みの日にだけ、この片瀬五郎のブログを書いています。平日の終業後からの作文は、疲れていてつらい。しかし若冲連載は、仕事が早く終わった日に、週一回のペースで続けてみようかと思っています。これなど、読んでくださる奇特な方はもっと少なく、あるいは存在せず、単なる自己満足なのかもしれませんが。

PS 若冲の連載原稿は実は2007年、黄檗山萬福寺・文華殿発行『黄檗文華』126号に掲載していただいた駄文「若冲逸話」の再録なのです。若干手を加えてはいますけれど。しかし、この萬福寺年報を読まれた方はごく少数のはず。この際、手の内をさらけ出しておきます。もしも全文を通して読みたいという、奇特な方がおられましたら、文華殿までお問い合わせください。入手できるはずです。ブログ連載と違って図版が多く、引用参考資史料の出典をあきらかにしています。ですので、平日の掲載は難なしのはずですね。今回の再々録、というのは以前に再録した「ジャーナリストネット」。あまりの横着加減に笑っています。柳の下に泥鰌が○○匹…。
<2009年11月1日朔 南浦邦仁> [178]
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