ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲生誕会

2014-01-22 | Weblog
伊藤若冲は八十五年の生涯、三カ寺に深く関わりました。宝蔵寺、相国寺、石峰寺です。まず伊藤家の菩提寺である宝蔵寺。若冲生家のあった錦市場から徒歩数分の位置にある浄土宗西山派。裏寺通六角下ルの同寺境内には、若冲の父母と弟たちの墓、四基があります。いずれも若冲が建立しました。しかし若冲の墓は宝蔵寺にはありません。おそらく四十歳までは、彼もこの寺の信徒であったろうと思います。なお生前墓の寿蔵が相国寺に、そして土葬された墓と塚は伏見深草の石峰寺に現存しています。

 若冲の誕生日は正徳六年二月八日。来年が生誕300年に当たります。伊藤家の菩提寺だった宝蔵寺では「若冲応援団」を結成されます。若冲の両親とふたりの弟、四古墓の保存。若冲作品はじめ寺宝の特別展観、若冲誕生会などを今年から毎年開催されます。若冲ファンに応援団加入をお勧めします。
詳しくは下記アドレス、宝蔵寺のホームページをご覧ください。取りあえず本年2月の同寺企画は
2月6日~2月12日 宝蔵寺寺宝特別公開。
2月8日 若冲生誕会
http://www.houzou-ji.jp/p019.html


 京都新聞1月18日夕刊が宝蔵寺と若冲を紹介していました。転載します。
見出し<若冲、40代の躍動感 中京の宝蔵寺所蔵、本人作と確認>
 宝蔵寺(京都市中京区裏寺町通蛸薬師上ル)所蔵の水墨画が、江戸中期の画家、伊藤若冲(1716~1800年)の初期の作であることが18日までに確認された。画業に専念し始めた頃の30代後半から40代前半のものとみられる。2月6~12日に初公開する。
 若冲は「奇想の画家」と呼ばれ、「動植綵絵(さいえ)」をはじめとする精密な筆致と華麗な色彩で知られる。
 今回確認された水墨画「竹に雄鶏(ゆうけい)図」は縦102センチ、横29・8センチ。背景に竹を描き、片脚を上げたニワトリは墨の濃淡を生かすことで立体感を出している。若冲作と伝わってはいたが、真偽は確認されていなかった。
 鑑定したミホ・ミュージアム学芸員の岡田秀之さん(38)によると、遠近法を用いずに立体感を醸し、躍動感あふれる「竹に雄鶏図」の作風は、多数残っている若冲の作品に共通するという。制作年を記す「年記」がないことから40代前半の作品と推定され、40代後半の作品から見られる「若冲居士」の印影の一部分の「欠け」もない。加えて、絵に「にじみ」があり、つたなさも感じられることから、初期の作品と断定した。
 宝蔵寺は伊藤家の菩提寺で、伊藤家から贈られた若冲の「髑髏(どくろ)図」を所蔵している。1751(寛延4)年に両親、65(明和2)年に弟の墓石が建立された。若冲の墓石はないため、同寺が若冲生誕から300年目にあたる2015年に向けて墓を整備する計画を進めている。若冲の誕生日の2月8日に「若冲応援団」を設立し、寄付を募って傷みが著しい伊藤家の墓石の維持費用も賄う意向だ。小島英裕住職(46)は「みなさんに拝んでいただき、若冲の足跡をたどってほしい」と話す。拝観料が必要。
<2014年1月22日>
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アクリフーズとPB商品

2014-01-13 | Weblog
マルハニチロの子会社、アクリフーズの農薬混入事件がいまだに原因究明できないのは不思議ですが、今回クローズアップされるべきなのは、PBプライベートブランド商品の表示の問題にもあるでしょう。
 以前にもこのブログでPB品のメーカー名明示のことを取り上げたことがあります。製造者名を必ず表示しているのが、セブン&アイ、ローソン、ファミリーマートなど。一方で、メーカー名を一切記さず、販売社名のみを記載している典型がイオンです。

 今回のアクリフーズ群馬工場事件でも、同工場の製造したPB冷凍商品は数多くありますが、アクリフーズ名を印刷記載していないのはスーパー3社。イオン、西友、バローです。
 問題が発覚したとき、全国のスーパーやコンビニなどの対応はふたつに分かれたはずです。冷凍食品のパッケージに印刷されたメーカー名を確認して撤去するセブン型。もうひとつは、印刷された「製造所固有記号」を見ながら撤去するイオン型です。
 販売者は確かに記号数字で判別できるでしょう。しかしマスコミ報道の前、店頭から撤去される以前に購入していた客は、アクリフーズと印刷されていなければ、問題の食品なのかどうかまったく判断できません。
 食品衛生法にもとづく内閣府令では、製造委託する場合、アルファベットと数字で製造者を表す「製造所固有記号」を表示すれば、製造者名の記載は省略できると規定しているそうです。

 イオンなど、記号方式をとっている販売業者は、記号を変えるだけで同じ包装デザインで、まったく同じレシピの食品をほかのメーカーに委託生産させることができる。同じ商品なのに複数のメーカーに競合させ、より安価に仕入れることも可能なのです。また記号のみが異なるパッケージデザインなので大量に印刷包装資材も手当てできます。

 セブン&アイHDのPB戦略のことは以前に書きましたが、セブンはPB商品の開発に当たって、メーカー1社と入念に時間をかけ、双方が納得のいく商品をつくりあげる。製販共同で責任をもって、市場に提案するという姿勢です。
 イオンとセブン、好対照の小売業界の両雄。さて軍配はどちらに上がるのでしょうか。4月からの消費税増税も両社を比較する試金石かもしれません。安ければよいとするのか、それとも信用と信頼を購入するのか。
<2014年1月13日 南浦邦仁>
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伊藤若冲の生涯 (4)

2014-01-04 | Weblog
 若冲寺として有名な伏見深草の石峰寺。同寺「石峰寺伊藤若冲顕彰会」会報に連載中の年譜です。4月26日~30日には若冲作品の特別観賞会も開催されます。詳しくは石峰寺ホームページをご覧ください。


一七六〇年 宝暦一〇年 庚辰 四十五歳
○大典が「藤景和画記」を、宝暦九年秋からこの年末まで記したと思われる。安永四年刊行の『小雲棲稿』に収録。記述の内容から『動植綵絵』十五幅が年末までに完成していたことがわかる(一説では翌年三月まで)。内三幅は墨画であったが現存しない。更に制作が完了していたのは『老松孔雀図』『老松白鶏図』『梅花皓月図』『老松鸚鵡図』『芙蓉双鶏図』
○八月 『花鳥蔬菜図押絵貼屏風』六曲一双<宝暦庚辰中秋藤若冲/画於心遠館>
○若冲のアトリエは錦高倉と、『動植綵絵』制作開始以前から鴨川べりに構えた「心遠館」画室があった。『動植綵絵』の「心遠館」款記はこの年までに制作の『芙蓉双鶏図』<心遠館若冲居士>。宝暦十一年作の『老松鸚鵡図』<心遠館主人若冲写>。その後の制作『薔薇小禽図』<心遠館若冲画>。大典は「心遠ければ地自ら偏なり」、宝暦八年と翌年ころの詩をまとめた『昨非集』(宝暦十一年刊)に「藤景和寓/居洛西涯/訪之」とある。洛は洛水で鴨川のこと、西涯は西岸。「心遠館」は鴨川の西岸にあり、清水寺や大仏殿が望めたとあるので、アトリエの位置は五条から六条にかけての鴨川西岸沿いと考えられる。錦高倉から徒歩で三十分ほどの距離である。
○一一月冬至 制作中の『動植綵絵』に感銘を受けた売茶翁高遊外から、「丹青活手妙通神」の一行書を贈られた。感動した若冲は同文の朱文長方印を作った。その印章を捺す作品は『動植綵絵』に三点がある。いずれも遊印で、ひとつは『牡丹小禽図』<若冲>。あとふたつは『池辺群虫図』<斗米菴若冲>、『蓮池遊魚図』<斗米菴主若冲>。「斗米」と売茶翁とのつながりをわたしは感じる。『動植綵絵』の「斗米」款記はこの二幅だけである。「斗米庵」「米斗翁」は、若冲が尊敬する売茶翁の象徴であろう。この日、川井桂山が同行か。
○一二月 寒梅に仲間が集った。顔ぶれは大典、池大雅、黄檗僧無住、若冲たち。彼らは翌春の観桜会にも再会を約す。

一七六一年 宝暦一一年 辛巳 四十六歳
○春 連作『動植綵絵』の『蘆鵞図』を制作。
○大坂の医者、川井桂山が京の若冲室で『動植綵絵』十五幅を観覧。前年の冬至か。桂山は若冲が「ある朝写し出す天地万物の真の姿。世の絵描きたちはそれを見て絵筆を投げ出しみな逡巡。貴族や権力者は争って画を求め、白い絵絹が底をついて死装束用の絹も無くなるほど」(詩集『大橘集』「丹青歌 若冲山人に寄す」)
○九月 大典が詩集『昨非集』を刊行したが序は聞中、大坂の蒹葭堂からの出版。売茶翁や大典に師事する木村兼葭堂は、文人ネットワーカーの版元。本草物産学に通じた画家書家で茶人。内外の書籍や地図、さまざまな標本類のコレクターとして海外にも知られた人物である。若冲とも交流があった。蒹葭は芦の意味だが、氏は木村、字は世蕭、名は孔恭、通称は吉右衛門。巽斎、蒹霞堂と号す。蒹霞堂は本来、彼の書斎名だが木村蒹霞堂が通り名として有名。彼の最初の画の師は大岡春卜、その後は柳沢淇園、鶴亭、池大雅に学んだ。

一七六三年 宝暦一三年 癸未 四十八歳
○七月 高遊外を慕う仲間たちが出版した『売茶翁偈語』に若冲画「高遊外像」。同書に「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」と記されている。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(一七四三)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、翁の友人の龜田窮策が米銭を携え、高遊外の窮乏を救ったことによるという。当時の売茶翁は、茶無く飯無く竹筒は空であった。若冲の「斗米菴」「米斗翁」は高遊外の困窮の故事「斗米」によるのかも知れない。明和三年建立の若冲寿蔵、大典碣銘(けちめい)に「斗米ニ易(かえ)テ給ヲ取」は、石峰寺五百羅漢建像の勧進として、若冲の還暦後の晩年にはありえても五十歳のころには考えにくい。碣銘の意味は画作の報酬を一切要求しない若冲を比喩しているのだろう。「給金はいりません。何とか食べていければそれで十分です」と若冲は言ったはずだ。相国寺さらには鹿苑寺を飾った作品はすべて彼の喜捨であり寺への寄進である。翌年作の金刀比羅宮も同様であろう。
○七月 病床の翁は岡崎から東山大仏と蓮王院南の幻々庵に移された。
○七月一六日 売茶翁高遊外示寂。荼毘にふされ遺骨は擦葬(さつそう)された。翁を慕うみなの手で細かく砕かれ、粉になった遺骨はすべて鴨川に流された。享年八十九歳。
<2014年1月4日 賀正>
コメント (4)
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