ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

アリの散歩

2011-08-30 | Weblog
 「働き者の代表はだれ?」と聞かれて、「それはわたしです」と答えるのはむずかしい。しかし、かつては世界中から驚嘆の目で見られた日本人。「アリのように働き過ぎだ」「電車のなかでも本や新聞を読んで、勉強している」「家族も顧みず、身を粉にして働く日本人は、ワーカホリックの異常人種だ」…
 バブルの前までは、そのような国際評価が一般的だったように思います。ところがバブル期、「額に汗せずして濡れ手にアワ」。日本の労働観は一変してしまいました。バブルは泡沫の泡ですが、崩壊喪失してしまったのは粟で、みなアワテてしまったのかもしれません。
 その後の失われた20年、勤労を失い、バブル踊の祭の後、わたしたちは働くことの本当の意味を見失ったのかもしれないと思います。
 近ごろの外国人の日本人観は「夜遅くまで会社に残っているけれど、集中力に乏しく、ただ時間だけがずるずる過ぎている。時間浪費型労働としかいいようがない」。辛辣な評価を受けているようです。

 先週、南米から現地のネイティブ3人が京都に来られました。チリとアルゼンチンとコロンビア。女性ふたりと男性ひとりです。京での歓迎会はスペイン語でのやりとりでした。わたしはチンプンカンプン。幸い参加の日本人10人ほどがほぼ全員、スペイン語が達者で翻訳してくださいました。
 メンバーの多くがJICA青年海外協力隊で南米にボランティアで駐在したひとです。といってもシニアバージョンで、年齢はほとんどが60歳を過ぎておられる。
 コロンビアとアルゼンチンのおふたりの挨拶は「日本にJICAの招きで来て1ヶ月になりますが、日本人はみな几帳面でまじめ。ルールに縛られ、息苦しさなどを感じていましたが、京の日本人のみなさんはみな自由奔放で明るく元気。日本を見直しました」。爆笑になりましたが、京の町衆はみな自由な遊び人を自負している元気な連中ばかりです。

 小笠原信さんの詩集『遊べ、蕩児』をみていますと、「働きアリでも ヘンリ・ファーブルによれば 彼の虫生の5分の4は 散歩を楽しんでいるのだ」。これには驚きました。
 あわててアリ本を求めて読みました。長谷川英祐著『働かないアリに意義がある』です。本の帯には「7割は休んでいて、1割は一生働かない」と、ショッキングなコピーが記されています。
 
 地下の巣のなかでは、勤労アリが忙しそうに働いています。卵の管理、幼児には餌を与え、巣がこわれないように修繕もしています。ところが巣内の仲間の圧倒的多数は、働かないでのんびりしている。
 不思議だ。サボりが半数以上も占める集団が、なぜ滅びないのか? 長谷川氏によると、「反応閾値(いきち)モデル」理論で説明できるそうです。
 アリにもそれなりに個性があり、仕事に敏感な連中がまず忙しく働く。しかし彼らが疲れて来ると、幼児たちが空腹を訴える。するとこれまで家のなかでのんびりしていた第2陣グループが働きだす。それでも手が足りなければ、昼行燈の鈍い連中が重い腰を上げて労働にいそしむ。このように閾値(反応レベル)が異なる連中を数多くかかえることによって、集団メンバーは共倒れすることなく、組織は永続が可能となる。これが反応閾値モデルだそうです。
 また巣外の地上を歩きまわるアリたちは、いっしょ懸命に働いているのでしょうか? わたしには散歩をしているようにみえます。犬も歩けば棒に当たる。アリも「今日は雨だから森に行って落ち葉の絨毯のうえを歩こう」とか、「久しぶりに小川沿いの散歩もいいなあ」。そのように新地にチャレンジすることによって、大きな獲物を発見することができるのではないでしょうか?
 もしもショートケーキ1個を見つければ、たいへんな成果です。重量はアリ1匹の数千倍かもしれない。短時間で家に運び込まないと、ライバルのアリ集団に横取りされてしまう。発見者は大至急で巣に帰り、ボヤっとしている鈍い連中に動員をかける。待機アリがたくさんいるから、速攻の動員作戦が可能になる。
 そして食糧庫の在庫が増えれば、熱中症を避けてのんびりすればよい。しかし食糧が減れば、散歩組を増員する。むだな食糧やエネルギーの消費、肉体の疲労などは極力減らした方が、集団にとってプラスが大きい。
 ムキになって一目散に働く人間ばかりの会社組織より、多様性のあるアリ社会の方がよほど高いレベルに達しているのかもしれない。均質の金太郎飴の組織はもろい。

 ところで、セブン&アイ・ホールディングは、「社員の散歩制度」をはじめられた。「ぶらぶら社員」制度というそうだ。流行を察知し、新しい商品やサービスを発見開発するのが狙い。若手社員が何人か、毎日ぶらぶらと街を歩いている。
 しかし真面目社員はつい結果を求めすぎます。早く成果を得ようとすると、つい平凡な結末に行き着いてしまうのではないでしょうか。
 わたしなら住宅地の公園に通って、散歩アリを観察しながら、若い母親と幼い子どもたちを毎日ながめたい。アリと人間の子育て行動の比較研究から、新しい発見にたどり着きそうな気がするからです。
 しかし新発見の前に、不審人物として通報され、職務質問を受けるのが関の山でしょうか。

○参考書
小笠原信著『遊べ、蕩児』編集工房ノア 2001年刊
長谷川英祐著『働かないアリに意義がある』メディアファクトリー新書2010年刊
<2011年8月30日>

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津波の歴史 27 「福島第1原発の津波」

2011-08-27 | Weblog
 福島第1を襲った津波の高さ、また事前に想定されていた波高。この連載でこれまでに何度も書いて来ました。ところがつい最近、8月24日25日のアサヒ・コムが、下記の記事を報じました。何を今さらと思いますが、新聞各紙では報じていないようです。あえて記します。
 東電は表向きの想定津波高を5.7mまでとしていましたが、10m以上の津波が襲う可能性を、3年も前から危惧懸念していたのです。あらためて、信用できない会社だと思います。


①見出し「震災前に10メートル超の津波試算 東電、福島第一で」
 東京電力が東日本大震災前に、福島第一原発が想定を超える津波に見舞われる恐れがあると、経済産業省原子力安全・保安院に説明していたことがわかった。保安院の森山善範・原子力災害対策監が24日の会見で明らかにした。震災4日前には10メートルを超える可能性も文書で伝えていたが、対策には生かされなかった。東電の経営陣も把握していた。
 保安院や東電によると、2002年の政府の地震調査研究推進本部の評価に基づき、大地震が三陸沖から房総沖にかけてのどこかで発生する想定で、東電がマグニチュード(M)8.3級の地震で福島第一、第二原発に来る津波の高さを08年春に試算した。
 その結果、福島第一5、6号機の海側で10.2メートルで、1~4号機も8.4~9.3メートルとなり、いずれも最大5.7メートルの設計での想定を上回った。場所によって15.7メートルまで津波が駆け上がると見積もられた。
 福島第一原発では海面からの高さ4メートルの所に冷却に必要な海水ポンプ、高さ10メートルの所に原子炉建屋などがある。今回の震災の津波の高さは海岸付近で13メートル、建屋付近では11.5~15.5メートルに達した。<アサヒ・コム>8月24日23時1分

②見出し「福島第一原発、震災前の津波予想検証へ 枝野長官が方針」
 枝野幸男官房長官は25日の記者会見で、福島第一原発が想定を超える津波に見舞われる恐れがあることを東日本大震災前に東京電力と経済産業省原子力安全・保安院が把握していた問題について、「大変遺憾だ」と述べ、内閣として事実関係を検証する方針を明らかにした。
 枝野氏は「大規模な津波の到来の可能性を東電は2008年に認識しており、十分に対応する時間的余裕があった」と指摘。東電から報告を受けながら公表しなかった保安院についても「(政府の事故調査・検証委員会が)調査しなければ出てこなかったというのも遺憾だ」として、対応を批判した。 <アサヒ・コム>8月25日12時58分

③見出し「10メートル超の津波想定、東電副社長が把握」
 福島第一原発が想定を超える高さ10メートル超の津波に見舞われる恐れがあると東京電力が東日本大震災前に試算していた問題で、東電は25日、原子力担当の副社長が当時、試算結果を把握していたと発表した。
 担当部局が津波の試算のやり方を土木学会で審議するよう求めることを決め、2008年6月に原子力・立地本部の武藤栄副本部長(当時)に試算結果を伝えたという。10月に学会に要請した後、武黒一郎副社長(当時)にも伝えた。
 同年12月、東電は再度、試算を実施。その結果は今回の震災4日前の今年3月7日に経済産業省原子力安全・保安院に伝えたが、公表していなかった。 <アサヒ・コム>8月25日20時9分

< 2011年8月27日 >

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GHQ占領下の京都 第2回 「日本占領」

2011-08-21 | Weblog
敗戦から2週間後の8月28日、日本人が鬼畜と信じていた米兵が、厚木飛行場に到着した。第11空挺師団部隊の先遣隊200人近い面々である。はじめて米軍を目にした日本国民の感想は「小柄で痩せた日本兵が、こんな大男に勝てるはずがない…。彼らの腕の太さはわたしの太ももほどもある…」
 そして8月30日には、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が、愛用のコーンパイプを手に、専用機「バターン」から厚木に降り立つ。連合国軍、実質はアメリカ軍による日本占領がはじまった。
 マッカーサーは皇居の堀に面した第一生命ビルを本部とした。泣く子も黙る、と恐れられたGHQ進駐軍、彼はその最高指揮官であり、その絶大な権力は戦前戦中の天皇をもしのぐといわれた。なお皇居とその周辺部の空爆を、米軍はあえて控えていた。天皇の宮殿への攻撃は禁止されていたのである。また占領時の米軍統治用施設として、まわりのビルやホテルなどを無傷で残していた。
 GHQとわたしも呼んでるが、正確には「GHQ/SCAP」連合国軍最高司令官総司令部。General Headquarters/Supreme Commander for the Allied Powers。GHQにはSCAPを付すべきですが、連合国軍総司令部「GHQ」と記します。
 占領軍は当初、東日本は第8軍、西日本を第6軍、両軍が日本本土を制圧した。第6軍は司令部を京都、烏丸四条の大建ビル(現在の古今烏丸)に決定した。
 進駐軍はその後、続々と追加派遣され、年末には45万人にものぼる連合軍将兵が日本各地に進駐する。

 昭和20年9月(1945)の京都進駐史をみてみよう。
○9月21日 ハイライン大佐率いる進駐軍調査団15名が先遣隊として京都に到着した。蹴上の都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)で日米による受け入れ実行本部の会議が開かれ、米軍は入洛する進駐軍を収容するための接収建物の確保を指示した。
○9月24日 正午をもって、都ホテル全館が占領軍に引き渡される。星条旗が本館入り口、屋上、ロビー、大食堂正面に掲げられた。なお全館接収の内示は、同月7日に外務省終戦連絡局京都事務所の中村豊一公使が来館して告げていた。
○9月25日 米第6軍が京都進駐開始。部隊は京都駅前広場に集結したのち、大久保村(宇治市広野町/現・陸上自衛隊大久保駐屯地)に駐留。27日には第6軍主力部隊約3千人が奈良線新田駅に続々と到着。
○9月27日 司令部を大建ビル(現・古今烏丸)に置き、星条旗が玄関・屋上ほかに立てられた。
○9月28日 第6軍司令官クルーガー大将が赴任。接収された下村邸が司令官宿舎にあてられた。現在の大丸ビラ、烏丸通丸太町上ル。
○将兵宿舎のため、下記など多数の施設が接収された。
 都ホテル:高級将官宿舎として約200人収容。
 勧業館:下士官兵員500人。岡崎公園、現・京都市勧業館みやこめっせ。
 旧日本陸軍京都第16師団兵舎:約1300名収容。伏見深草。
 旧陸軍工兵隊兵舎:通信隊150名。伏見桃山、現・市営住宅と市公園。
 市美術館:兵舎、後に軍病院。岡崎公園。
 公会堂:兵舎100人収容。岡崎公園、現・京都会館別館。
 ステーションホテル:将校50名宿舎。京都駅前。
 京都ホテル:当初は大建ビルに通う将校用ホテル。植物園住宅完成後は家族連れは引っ越し、単身独身の将校ばかりになってしまう。現・京都ホテルオークラ。
 日本電池寮:黒人兵専用宿舎200名、西七条。

 そして12月、年末に45万人にも達していた駐留米軍だが、日本国民の軍事抵抗も受けず、予想以上に順調な占領支配を展開することができた。マッカーサーは半数以下の20万人での日本占領体制に切りかえることを決定した。第6軍は朝鮮に移動が決定する。第6軍は第1軍団だけを日本に残し、1軍団は第8軍に統合される。
 1946年1月1日、GHQ京都司令部は第6軍から、第8軍第1軍団に引き継がれる。第1軍団京都司令官にはウッドラフ少将がついた。そして46年初頭より、進駐軍は続々と復員を開始する。
 なお接収だが、米軍が施設を指定し日本の官民が米軍に提供する。使用料は持ち主に支払われた。しかし占拠した米軍からではなく、日本政府の終戦処理費から施設使用料が毎月交付された。

 昭和20年8月15日(1945)以降の占領略史を、京都から上記のようにみてみた。翌年にかけて一応の落ち着きをみせるかごときの京都だが、庶民は特に食生活には難渋した。空地はどこもイモや野菜の畑になってしまった。1946年秋の収穫までは、特に苦しかった。45年秋は大凶作で、かつ復員兵と引揚者の帰国で、人口が膨れ上がったためである。また大空襲がなく建物が残った京都には、住処を求め縁者を頼ってたくさんの被災民が流入した。
 空襲を受けた街には、焼け跡に粗製のバラックが立つばかりで、都市住民の住まいは住宅などとよべる状態ではなかった。京都はさいわい、住む所にはあまり不自由な思いをすることがなかったが…

 GHQ京都司令部は翌21年7月に、難題を持ち出す。「将校家族住宅DHを数十戸建設するため、京都御所外苑を接収する」。これには京都府市民のみならず、府庁も宮内省も仰天してしまった。東京のGHQ本部にも陳情し、なんとか京都御苑を回避することができた。
 このころになるとアメリカ本土から軍将校のたくさんの家族たちが、日本に駐在している夫や父と同居するために押し寄せてきた。日本軍では占領地で家族と暮らす軍人はまずいないであろう。しかしアメリカでは一般の兵卒は別にして、少尉以上の将校は家族とともに暮らすのが当然であり常識であった。子どもたちには幼稚園から小学校まで、アメリカンスクールが住居地内に併設さる。当然、グラウンドもテニスコートもプールも付いている。

 御苑をあきらめた司令部は代替地を要求した。府は淀競馬場を提案したが「水害の心配がある」と断られてしまう。そして米軍が下した結論は、京都植物園である。同園の広大な敷地すべてがDH将校家族用住宅(デペンデントハウス)数十戸建設のために、接収されてしまった。御所御苑の身代わりに、京都が誇る日本最大最高の公立植物園が取り上げられてしまったのである。
 1946年8月28日、正式に全敷地接収が決まり、10月1日よりブルドーザーやクレーンで突貫工事が開始される。たくさんの樹木が電動ノコギリで伐られ、また重機でなぎ倒され、草花や貴重な山野草などが埋め立てられていった。
 第1期工事は翌47年4月に完了し、第2期は同年6月から11月。1947年暮れ近くにDH工事は終わった。2万5千本以上もあった樹木は、周辺部を主にわずか6千本あまりになってしまった。

 広大なDH敷地内には、GHQ発行のパスポートを持っていなければ、日本人は立ち入ることができない。ミリタリーポリスMPに所属するセキュリティポリスSPふたりがケヤキ並木の向こう、旧植物園の正門前に歩哨として立っていた。横にはSP何人もが待機する詰所もあった。なお大建ビル玄関に立っているのはMPである。白いヘルメットと腕章には黒い「MP」2文字が鮮やかであった。

○参考
『占領下の京都』 立命館大学産業社会学部鈴木良ゼミ編著 1991年刊 文理閣
「花と緑の記録―府立植物園の五十年―」 駒敏郎著 京都『府政だより』資料版連載 №185~197 昭和46年5月~47年5月
<2011年8月21日 南浦邦仁>
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「京五山送り火」と「放射能リテラシー」

2011-08-16 | Weblog
 8月16日夜、京伝統行事の五山送り火が20時からはじまります。まず如意ヶ嶽「大」の薪(まき)が点火され、次に松ヶ崎「妙法」、西賀茂「舟形」、左「大文字」、最後は20時20分に嵯峨鳥居本「鳥居」の薪に火がつきます。あの世から帰って来た霊、あるいは初めて彼岸に旅立つ霊魂を送る、京古来の宗教行事です。

 今年の送り火では東北の被災地、陸前高田市で津波になぎ倒された松原の木からつくられた薪(護摩木)約350本を燃やす予定でした。護摩木には亡くした家族や縁者への鎮魂の思いが記され、また復興の願いが刻むがごとくに書き込まれていました。ちなみに陸前高田市の松林は、福島第1原発から200キロも離れています。
 京都市民もみな、この企画に賛同しました。東北から遠く離れた京の地で、わたしたちもささやかながら応援しよう。そのような気持でした。
 ところが事態は急転する。「被災松の薪を燃やすことはまかりならん」。送り火保存会は放射能汚染を危惧して、自制してしまったのです。検査を行っても放射能は検出されなかったのですが。
 京都市役所や保存会には京都市民などからの抗議が殺到しました。わたしの周りでも、全員が「恥ずかしいでしょ。京都市民として情けない。東北被災地のみなさんには、本当に申し訳ないです」
 そして京都では一転して、護摩木五百本をあらたに受け入れ、送り火で燃やすことが決定しました。「よかった」とわたしたちは胸をなでおろしました。
 ところが念のために放射性セシウムを検査したところ、薪1キロ当たりから約1000ベクレル超量が検出された。「まさか?!」。京都市役所などでは大混乱が起きてしまいました。検出されるはずがないとみなが信じていた松の木片から…。今夜の送り火では結局、汚染薪は使われない。

 放射線防護学が専門の安斎育郎(立命館大学名誉教授)は「木に触ったり、燃やして拡散した灰を吸い込んだりしても、影響は計算する気にもならないほど低レベル。京都市は風評被害を広めないよう、健康に問題がないレベルであることを、正しく情報発信するべきだ」(読売新聞8月13日)。安斎先生は反原発学者として、原子力ムラから長年阻害された方です。いまその彼が安心の太鼓判を押しておられるのです。

 安斎先生は「放射能リテラシー」の必要を訴えておられる(京都新聞連載「3・11後を生きる」8月4日5日付)。以下抜粋。
 放射能汚染の健康への影響を極力抑えることを最優先としたうえで、社会全体が汚染の現実を直視し、リスクを公平に受け入れる判断力「放射能リテラシー」を身につけることが必要である。それは原子力の恩恵に浴した世代が、子や孫に負の遺産を残さないための「新しい生き方」でもある。
 官民、特に国内の関連各学会は専門家を動員し、信頼に足る情報を数多く発信すべきである。それらの情報をもとに、国民ひとりひとりが自らの安全性を判断し、食の素材を選び口にする。3・11以降、日本はそういう国になったのだと、私たちは自覚しなければならない。今後少なくとも数年、長ければ数十年間、放射能と付き合うための「放射能リテラシー」をひとりひとりが身につける覚悟が必要な国になったのだ。
 リテラシーを持たないままだと、誤った不買行動や風評被害が広がりかねず、農林漁業への打撃は一層深刻になる。放射能を過度に恐れず、しかし事態を軽視せず、正しく付き合うというリテラシーが必要になる。
 福島で何が起こっているのかを、しっかり把握し、次世代のために「こうやってリスクを低減した」というノウハウを世界に示すことが、取り返しのつかない事故を起こした国の人類史的な役割、責務だと思う。わたしたちは全員が、社会全体で「自分たちでやる」と決意せねばならない。
<2011年8月16日 五山送り火の朝に記す>
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「GHQ占領下の京都」 連載第1回

2011-08-12 | Weblog
1945年8月15日、長く苦しかった戦争がついに終わった。66年前のことである。
 「ああ、これで空襲の心配をすることもなくなった…」。しかし天皇はどうなる? 間もなく日本を占領する連合国軍、米軍はどのような振る舞いをするのか? 婦女子たちは大丈夫か? 海外在住の仲間たちは無事に引き揚げられるのか? 出征した親や夫や兄たちは、無事に帰国復員できるのだろうか? 日本刀を振りかざす侍決死隊は、全国で対米テロを続発させるのか?
 生き残った日本国民の大多数は複雑な心境ながら、内地外地の焼け野原や荒涼たる大地のなかで立ちあがった。食べなければ死ぬ。家族と自分を餓死させてはならない。日本の地で「食べ、生き抜くのだ」

 京都のKさん、大正14年(1925)8月20日生まれの85歳。ふたまわりほども歳の離れたわたし以上に、お元気な人生の大先達である。
 66年前のお盆を、彼は知多半島古布の河和海軍航空隊基地で迎えた。本来なら特攻隊員としてコクピットで死ぬべき運命であった。しかし数奇な運命が彼の命を残した。基地の軍医が偶然、京都の同じ町内の出身者であった。Kの両親のこともよく知っていた。
 「君の体調は最悪だ。しばらくの療養を経て、基地内作業に従事する必要がある」。彼は体のどこにも異常はなかったという。敗戦の近いことを確信していたKは、戦後のあたらしい仕事のための自己訓練として、食堂調理場の勤務を希望した。手に職をつけたかった。基地の作業を見渡して、唯一役に立ちそうだったのが、調理師であったという。そして敗戦後、基地での残務処理を手伝い、翌々年の昭和22年に中京区の親宅に復員した。
 京都も空襲被害を受けていた。京都女子大近くの馬町や、繊維産業の西陣、右京の三菱重工工場など。死傷者も300人を超えた。
 しかし幸いなことに、京の街の中心部のほとんどは被害をまぬがれた。理由は、米軍が広島、長崎につぐ原爆投下地として京都を温存していたためという。

 今年の1月から、わたしは月に1度はKさんにお会いしている。いつも彼から90年近い人生の体験を聞き、そしてメモをとっている。少年時代から米寿に近い現在まで、波乱万丈の人生を歩んでこられたKさんの足跡の語りは、哲学であり貴重な現代史の証言である。なかでも日本本土が占領されていた昭和20年から27年まで、この間のお話しを聞くと、わたしが生まれたころの時代が、鮮明な自己体験のごとくに像を結ぶ。

 Kさんは復員後、京都の松竹映画撮影所に勤めた。そして伊藤大輔監督傘下の伊藤組に属す。しかしいくら一所懸命やったところで、助監督になって雑用に追われるのが精いっぱいだと思った。自分には監督になる才能はない。昭和23年には映画を見切った。
 そして従業員を募集していたGHQ(連合国軍総司令部)京都司令部に勤務することにした。Kの実家は錦通西洞院、蟷螂山町。祇園祭の山鉾「蟷螂山」(とうろうやま)はユニークな機械仕掛けのカマキリで有名である。自宅からGHQ司令部が置かれた大建ビルまで、歩いて10分たらずの距離である。接収されてビルごと司令部になった大建ビルはその後、丸紅ビル、そしていまでは「COCON KARASUMA」古今烏丸ビルと名をかえている。
 彼のGHQでの仕事は、地階の厨房での調理が主であった。航空基地での調理師体験、海軍の洋食コックに励んだ経験がやはり役立った。そして1階のレストランと2階のPX(米人向けスーパーマーケット・購買部)も手伝った。

 また府立京都植物園は接収されてDH(デペンデントハウス)、米軍将校家族用住宅地になっていた。同地敷地内のホールでのパーティ運営をKは手伝うことになり、広大な植物園跡地のDH地区に度々通った。土曜日夜には米軍家族が集まり、またあたらしく赴任した家族の歓迎会や、転出する将校の送別会、誕生日会などなど。そして暇をもてあます奥さん方数人の集まりは、毎日のように開かれた。大きなパーティは月に3度はあった。
 なおこの建物は昭和館という立派な和風建築物であった。オフィシャルクラブとして将校とその家族たち専用のホールになっていた。昭和館ホール食堂は広く、みなダンスしバンドステージもあった。ジャズで有名な中沢寿士が人気で、よくステージで演奏した。バンド「スターダスターズ」のトロンボーンプレイヤーとして東京で活躍したが、京都でも美松ダンスホールで「美松ジャズ・オーケストラ」を結成し度々、京都にも来ていた。植物園ホール食堂の運営は、Kらの大建日本人チームの担当であった。
 館内のバーは都ホテルが担当し、いつも詰めていたのは服部さんと久保さんだった。色黒の久保さんは少し肥満体なので、ニックネームはコロチャン。服部さんは2008年に亡くなった。バーのカウンターはU字型、馬蹄形だったが席数は15ほど。

 そして1950年に勃発した朝鮮戦争。Kさんは米軍の意向を受け、滋賀県大津市、米軍基地に近い浜大津に米兵向けのキャバレーを開く。本業のかたわら兵隊相手の両替やオートバイ修理販売業、質屋や古物商など、何でも扱う万屋業も始めた。米軍の将兵たちは、何か困ると彼に相談を持ちかけた。
 米軍と接点を持ちたい日本の商人たちも同様である。ホテルを京都市内で開業したいという日本人は、Kに米兵が使用するベッドを入手するように依頼した。Kが手に入れたベッドにはすべて、「故障のため廃棄」と英語で記されていた。
 米軍軍属の日系2世に、通訳のジョージ上村がいた。年齢はKより少し上だったが、ふたりは実の兄弟のように親しくなった。上村は彼にいった。「日本人の名は米兵にはなじみがなく、覚えにくい。わたしたちは兄弟同然だから、君も上村を名乗り、ファーストネームはマイクにしたらいい」
 Kさんのことはこれからマイクと記す。マイクは日本人からは日系2世と錯覚され、1952年の連合国軍の占領終了まで、日本人とアメリカ人、2足のわらじを履き通す。Kの日本の実名は熊井隆一である。ジョージは、クマイをマイクに並べ替えたのである。
 「米軍占領期の京都」、不定期の連載を開始します。
<2011年8月12日 南浦邦仁> この連載は何度も修正加筆します。
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続 「立て! 奴隷を望まぬ人民よ!」

2011-08-06 | Weblog
 中国の高速鉄道事故、驚くべき手抜き工事、そして鉄道省高官たちによる巨額収賄…。
 前鉄道相だった劉志軍は事故前の2月に更迭されたが、20億元(250億円)のわいろを得ていたとされています。劉の弟の劉志祥は、武漢市交通分局副局長だったときに4千万元(4.8億円)の収賄罪と傷害罪で、なんと執行猶予付きの死刑判決を受けています。
 鉄道省技術部門トップだった前運輸局長の張曙光は28億ドル(2200億円)を不正蓄財したといわれています。また同省管轄の情報技術センターの幹部たちは何人もが、鉄道関連企業の会長職を無断で兼務していた。
 
 しかしこのような醜悪な汚職不正情報を中国マスコミが熱心に伝えたのは、どうしてでしょうか? 秘密主義で臭いものにはフタをし、知らしむべからずを決め込む中国政府です。情報にオープンな中国には、何か裏があると考えてしまいます。

 鉄道相だった劉志軍の後ろ盾は、前国家主席の江沢民です。運輸局長だった張曙光も同様、彼らは江沢民グループ、すなわち上海閥につながっています。そして次に上海閥を率いるのは、胡錦濤のあとの中国のリーダーに確定している周近平です。
 胡錦濤が退陣する2012年以降、周たちの上海閥によって窮地に追いやられるのを恐れる胡錦濤派が仕掛けたのが、今回の鉄道省叩きという見方があります。
 しかし近ごろ、中国高速鉄道事故と収賄について、あれほどオープンだったマスコミが、また沈黙しだしました。胡錦濤の仲間、温家宝首相の秘書ふたりも高速鉄道わいろ収賄の疑いで処分されてしまいました。
 これまで江沢民と次期トップの周近平、彼らの上海閥の力を削ぐためのわいろスキャンダル暴露の作戦が、切って返して胡錦濤や温家宝の現体制派に及んで来たわけです。
 おそらく上海閥と胡錦濤派(共青団派)は、手打ちをしたのでしょう。これ以上、泥試合を続けることは互いにとって、何の得もない。
 胡錦濤派は、これまでの江沢民のやりかた同様、政治局常務委員の過半数を制したのであろうと思います。国家首席・党書記・党中央軍事委員会主席に周近平が来年ついても、胡錦濤派は安泰です。パワーゲームを日々闘っているのが中国共産党中枢部です。いや、どこの国でも権力の構造は同じかも知れませんが。

 さて、今回は中国通の情報をもとに畑違いのことなどを記しました。もともとは中国国歌が気になるのが、書くことの原因です。
 ♪立て!
  奴隷を望まぬ人民よ!

 中国版新幹線は事故前から「怖くて乗れない」と、手抜き工事や試験運転を無視した無謀を知るひとたちからいわれていました。ある鉄道技術者は「自分は絶対に乗らない。友人にも乗るなといっている」。事故前の声です。
 いま中国では、いたるところで治安が乱れているそうです。たくさんの警察官や公安職員が殺され、ほとんど政府の手に負えない「反乱前夜の様相」だそうです。
 中国が近いうちに人民革命に突入することは、ほぼ間違いがないであろうと思います。その時、中国人民は国歌を歌います。
 立て! 奴隷を望まぬ人民よ!
 国歌、すなわち革命歌…。これまでの世界史で、これほど皮肉な反体制の国歌があったでしょうか? まもなく始まる自由を希求し、不正を断固糾弾する正義の革命。貧困を恨む根底の心理以上に、自由と正義のための戦いが、まことの命を惜しまぬ革命であろう。隣国のこれからを注視し応援します。
<2011年8月6日>

○追記8月7日 「アサヒ・コム」8月6日付によると、中国高速鉄道事故報道で、当局を批判したTVプロデューサーが停職処分を受けた。
 中国国営中央TVのニュース番組担当の王青雷氏。事故3日後の放送で「人の安全が確保されていないような速度を、我々は求めているのか。人の魂を置き去りにしたスピードアップなどいらない」
 そして放送翌日の7月27日、王は自身のブログに「権力に屈しない記者がいれば、国の魂は失われない」と記した。
 朝日記者は「今回の事故では国内メディアも当局批判を展開したが、こうした措置は現場の記者らへの大きな圧力となりそうだ」
 おそらく、中国のジャーナリストや穏健を装う志士たちは、いまエネルギーをためつつあるのでしょう。この膨大なパワーが結集し大爆発を起こせば、一気に革命へと全土を捲き込むことになるはずです。
(王青雷氏停職のことは、7月30日に香港メディアが伝えていました)



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