ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

2009-06-28 | Weblog
 ふたつの坪庭を相次いで作ったことを、以前にこの欄で書きました。まず東山三条東入ル、古川町商店街の居酒屋「ふくしま」の裏庭。
 つぎは祇園新橋東山西入ル一筋目下ル、コリアンハウス「梨花苑」の店先、路地に面した坪庭です。
 つい先日、「ふくしま」の女将から携帯に電話がありました。「この土曜日でもって、廃業します」。「えっ!」、わたしは絶句してしまいました。閉店の理由は、赤字でやっていけないということ。週一回ほどですが、庭のメンテナンスをかねてお店に通っていたのですが、たしかに繁盛しているなと感じる日は少なかった。
 彼女が電話してきたその日、突然に廃業を決断したそうです。「わたしはいつも突然、大事なものごとを決めてしまいます」。
 昨日の土曜日、営業最終日ですが客として店に行ってきました。見なれた顔ぶれ、常連さんが十人ほど来ておられました。みなの思いは同じ。実に残念・・・。
 店をはやらすための方法を、女将と娘さんと、いつも話し合っていました。たとえば外国人の観光客が、一見さんですが時々来られるので、英語版のメニューを作る約束もしていました。しかしこれも中断。さみしい限りです。
 ふくしまさんは「二,三ヶ月ほどゆっくりして、秋には別の場所で新しい店を開店します。どんな店がいいのか、これからいろんな飲み屋を調べてまわります」
 そして日曜日の今日、店内の片付け、大掃除でした。わたしも昼過ぎに、「ふくしま」にでかけました。手作りカレーをいただき、片付け手伝いに集まった常連さんたちと、最後の午餐。
 庭の木や草、すべてを移植させるのがわたしの役目です。陽の当たらないこの庭では、強い照明を当てなければ、植物はすべて枯れてしまいます。
 木はナンテン数本、マンリョウ三本、ヤブコウジ一本。リュウノヒゲ十数株。シダ、オモト、バラン、トクサなど各数株。
 数本は自宅ベランダに持ち帰りましたが、狭いスペースにはすべてを収容し切れません。ほとんどを二軒目の庭、「梨花苑」に移植しました。
 九月か十月、新「ふくしま」の再起を期待しています。もしもつぎの店に、狭くとも木や草を植えるスペースがあれば、仮移住したこれらの草木を再結集してみましょう。福島さん、新店を楽しみにしています。
<2009年6月28日>











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若冲百話―五百羅漢編 №15 <若冲連載34>  

2009-06-21 | Weblog
「江戸時代の石峰寺五百羅漢」<天明の大火>

 皆川淇園や応挙たちが石峰寺を訪れた三日後、応仁の乱以来の大災が京の都を襲う。天明の大火である。正月三十日未明、鴨川の東岸、四条大橋の南の宮川町団栗辻子(どんぐりのづし)新道角、某両替店より失火した。折りからの強風で、火は鴨川を越えて寺町四条近辺に飛び火する。それより三方北西南に広がり、二昼夜焼け続けた。禁裏御所、二条城はじめ三十七社、二百寺、町数千四百余、町家三万七千軒、罹災世帯六万五千余戸と、京の五分の四以上を焼き尽くした。
 この大火の記録は数多く残るが、例えば「東風小、大変、京洛中、不残大火、不残、未聞之事とも、筆紙難尽次第」。若冲の師友であった相国寺の大典和尚は幕府公務のために江戸に赴いていたが、三月三日に帰京し「燃亡する者、十が九、実に未曾有の大変異と謂ふ可し」。後に述べる俳僧、蝶夢和尚は「火災など申にては無之、応仁後の大変にて候」「宗長法師が紀行に、粟田口より見れば上下の家、むかし見し十が一も見えず」と手紙に書いている。
 当然だが、若冲も錦街の家屋敷を失った。それまで京都有数の青物問屋「枡源」の若隠居として、弟に商売を任せきり、自由気ままに絵ばかり描いていた暮らしも一変する。錦市場に二軒あった大きな屋敷を人に貸し、その家賃で生活していた若冲だが、収入も途絶える。また弟の八百屋業も危機に瀕したが、若冲は京を去り、知己を頼り大坂そして豊中の西福寺に仮寓する。七十三歳の年であった。石峰寺の石像造営の事業は当然、中断したであろう。
<2009年6月21日 南浦邦仁>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陶磁器

2009-06-14 | Weblog
 興味が転々とするわたしですが、ちかごろは焼き物に向いて来た。ずいぶん昔には、丹波や備前に興味があった。すっかり陶器のことを忘れていたのだが、行きつけの居酒屋で、古美術商のかたに会ったのがきっかけのようだ。
 話の楽しい方で、骨董の裏話をあれこれ聞かせていただいた。例えばわたしの住まい近所の豪邸。車で十分足らずの距離だが、ひとりで住んでいた老人の痴呆がすすみだしたころ、突然あらわれた詐欺師のような若い男にどうもだまされ、遺言状にサインしてしまったという。子どもも奥さんもなく、死後、財産はすべてその男に譲られるという。老人はいまは病院にはいっておられるそうだが、今年か来年か、近いうちに近所の豪邸はその男のものになってしまう。
 老人には妹さんがおられるのだが、相続の権利はない。いま彼女は兄の骨董を、その古美術商に売り払っておられる。そんな話も彼は教えてくれる。財産があるばかりに、悲惨な骨肉の争いや諍い、欺瞞や詐欺が生じる。たいしてなくともまた諍う。人間の性は、つらい。
<2009年6月14日>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カラス

2009-06-06 | Weblog
 近ごろ、カラスに異変が起きている。空を飛ぶ彼らをみると、元気がない。鳴き声も弱々しい。数も減ったようだ。
 またこれまで圧倒的に多かった口ばしの大きく太いハシブトガラスにかわり、ハシボソガラスが徐々に増えているように思う。一体、彼らの世界にどのような異変が生じたのであろうか。
 嫌われもののカラスだが、これほどしぶとく賢い鳥も珍しい。環境が激変しても、ふてぶてしく生き延びていくはずと信じていたカラスが、弱り果て、減っていくのは、あまりにも悲しく、また危険な兆候のようにも思う。
 やはりいちばんの原因は、ゴミネットであろう。家庭などが出す生ゴミ満載のゴミ袋が、これまで彼らの主食であった。京都では昨年からであろうか、集結したゴミ袋にネットをかけ出した。以来、カラスによる生ゴミの散乱は、一気になくなってしまった。カラスたちは足の爪に網がからむことを恐れ、残飯あさりを一切しなくなってしまった。
 ♪カラスなぜなくの、カラスは山に、かわいい七つの子があるからよ~。などと歌ってはおれない。彼らは自分自身が食べていくのが精一杯。子育てはむずかしい。少子高齢化は、カラスの世界にも及んだようである。
 カラスは賢い。これから彼らはどのように、環境適応していくのであろうか? おそらく、都会では凶暴化。また一方では、自然の豊富な農村地帯で、質朴な生活に浸る。二者択一を迫られているのが、カラス族ではなかろうか。
<2009年6月6日 習い事はじめの日>
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする